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字幕書き起こし NHKスペシャル「沖縄 空白の1年〜“基地の島”はこうして生まれた〜」 2016.11.05

1945年8月15日終戦の日
沖縄で撮影された映像です。
人々は帽子を振って日本の降伏を祝っているように見えます。
しかしフィルムの中には人々に指示を出すアメリカ軍の兵士の姿がありました。
沖縄はこの時既にアメリカの占領下に置かれ本土と全く違う戦後を歩み始めていたのです。
あの日から71年。
沖縄には在日アメリカ軍専用施設の74%が集中しています。
なぜ沖縄は基地の島となったのか。
なぜ今も変わらないままなのか。
戦後の混乱のため資料が乏しくこれまでほとんど検証が行われてこなかった1945年から1946年にかけての1年。
今回私たちは日本とアメリカでこの時期の未公開映像や機密資料などおよそ2,000点を入手しました。
そこから明らかになってきたのはこの僅か1年の間に今につながる沖縄の原型が出来上がったという事実でした。

 

 

 


私たちは沖縄の占領に携わった当事者たちに取材を重ねました。
アメリカ軍の元将校は速やかに沖縄を日本に返還する事を検討していたと打ち明けました。
しかし終戦から1年の間に国際情勢が激変。
アメリカは沖縄を手放すどころか共産主義に対抗する前線基地としたのです。
「アメリカ軍のあらゆる任務の最重要拠点になる」。
更に日本本土の復興が優先され負担は沖縄に押しつけられていきました。
住民は基地を中心とした社会に組み込まれていったのです。
今につながる構図が生まれた歴史の転換点。
これまで光があてられる事のなかった沖縄空白の1年の記録です。
日本本土を守る最前線とされ凄惨な地上戦が繰り広げられた沖縄。
県民の4人に1人およそ12万人が犠牲となりました。
アメリカ軍が撮影した映像には辛うじて生き延びた人々が連行されていく様子が映し出されています。
民間人の収容所です。
1945年4月。
沖縄本島に上陸したアメリカ軍は南北に分かれて侵攻を開始。
民間人を戦闘から隔離し保護するためとして12の地区の収容所に送り込みました。
空白の1年はここから始まったのです。
1945年5月から1年余りにわたって収容所に入れられていました。
当時この集落一帯が収容所とされ人であふれかえっていたといいます。
アメリカ軍が撮影した収容所の写真です。
沖縄での組織的戦闘が終わった6月の時点で県民の9割30万人近くが入れられていました。
マラリアがまん延深刻な食糧不足にも陥り少なくとも6,400人が命を落としたといわれています。
仲村さんは当時飢えをしのぐためほかの子どもたちと共に収容所を抜け出し近くの海岸に向かったといいます。
アメリカ軍が住民を収容所に入れたのは戦闘から保護するためだけではありませんでした。
今回入手したアメリカ国立公文書館の未公開映像にその理由が映し出されていました。
終戦の1か月前アメリカ海兵隊が撮影した沖縄本島中部読谷村の映像です。
岩を砕きブルドーザーで地面をならして造っていたのは飛行場の滑走路でした。
日本本土の攻撃に向けた出撃の拠点を造っていたのです。
このあとにもう一本こっち側に造ってるはずなんです。
私たちはこの映像を専門家に分析してもらいました。
フィルムに映る読谷村
戦前1万5,000人が暮らしていました。
アメリカ軍は集落や農地があった平野部に滑走路を建設するため住民を収容所に入れておく必要があったのです。
アメリカ軍が計画した滑走路は18本。
人口が集中していた中南部を中心に建設されていきました。
これにアメリカ軍の報告書を基に集計した収容所の人口データを重ね合わせます。
平野部に飛行場が建設されたあと住民たちは山がちな北部の収容所に押し込められていったのです。
8月15日日本が降伏。
戦争は終わり本土攻撃という基地建設の目的はなくなりました。
飛行場建設が行われていた読谷村の映像です。
読書や野球に興じる兵士たちの姿が映し出されています。
兵士たちは目的を失ったにもかかわらずその後も沖縄に駐留し続けていたのです。
実はこの時アメリカ国内で戦後の沖縄を巡る対立が始まっていました。
アメリカ軍の中枢統合参謀本部沖縄戦で多くの犠牲を払ったため占領の継続を主張していました。
一方外交を担う国務省
各国が領土を拡大しようとした事が世界大戦を招いたとして占領に反対しました。
軍との話し合いの場で国務省は沖縄を非武装化した上で日本に返還すべきだと主張していたのです。
この対立の構図が沖縄の占領に持ち込まれました。
本土では統合参謀本部の考えに近いマッカーサー率いる陸軍が主体となって占領を行いました。
それに対し沖縄では権力の二重構造が生まれていたのです。
統合参謀本部の指示を受ける陸軍などの部隊が駐留。
一方住民の統治は国務省の考えに近い海軍のある組織が担ったのです。
琉球列島海軍軍政府です。
メンバーは通常の兵士ではなく政治や歴史を専門とする学者たち。
沖縄に関する知識を身につけ派遣されてきました。
彼らは沖縄をどのように統治しようとしたのか。
海軍軍政府の報告書に意外な一文が記されていました。
海軍軍政府で中心的な役割を果たした人物が健在である事が分かりました。
ハロー!ユーアーミスターマツオカ?イエスアイアム。
ハウドゥユードゥ?ファインサンキュー。
ワーナー・バースオフさん91歳です。
今回初めてカメラの前で証言しました。
当時ハーバード大学で政治学などを専攻していたバースオフさん。
民主的な方法で統治を進めようとしていたといいます。
こうした統治方針には当時のアメリカが沖縄をどう見ていたかが反映されていました。
戦時中のラジオ放送の音声です。
海軍軍政府が沖縄統治のために作成していたハンドブックです。
そこには明治以降沖縄が本土に強制的に支配下に置かれてきたと記されています。
海軍軍政府は本土との潜在的な溝に着目しそこから沖縄を解放する事を考えていたのです。
その第一歩として海軍軍政府が設けたのが沖縄諮詢会です。
戦前の教育者や政治家など15人の有力者が委員に選ばれました。
諮詢会は収容所にいた30万の住民の代表として海軍軍政府に対し意見や要望を伝える役割を担いました。
8月15日日本が降伏した日に行われた会合で海軍軍政府は諮詢会にこう伝えていました。
戦前本土から知事が派遣され中央の考えに翻弄されてきた沖縄。
沖縄の事は沖縄で決める。
初めて自治の可能性が芽生えたのです。
委員たちがこの小さな民家で沖縄の今後の在り方を話し合った時の議事録が残っていました。
元新聞記者の又吉康和。
「アメリカの憲法を調べて沖縄の自由のために憲法を作りたい」。
元県議の仲宗根源和は更に進んだ考えを語っていました。
「人民の有する権限を大きくしアメリカ大統領のごとき制度を作る事も考えてみたい」。
今回仲宗根が当時を語った肉声が40年ぶりに見つかりました。
日本の軍国主義に巻き込まれた反省をもとに沖縄の新たな道を模索していました。
諮詢会は海軍軍政府の指導の下各収容所の代表を選ぶ選挙を実施します。
この時本土の総選挙に先駆けて女性に参政権が与えられたのです。
諮詢会委員又吉康和の娘小島葉子さん80歳です。
選挙は収容所の人々に希望を与えたといいます。
沖縄で住民による自治を推し進めようとしていた…資料をひもとくとこのころ新たな計画に取りかかっていた事が分かります。
選挙の翌月発表した再定住計画。
収容所にいる住民の希望に沿って元の居住地に戻そうというものでした。
計画の完了予定日は1946年1月1日。
しかし1月の収容所の地区の人口データを見てみると依然12万5,000人が留め置かれたままとなっていたのです。
元海軍軍政府のバースオフさんはこの計画を進める責任者でした。
実はこの時統合参謀本部の方針の下沖縄に駐留していた陸軍の部隊にある命令が下されていました。
止まっていた基地建設を再開させる命令でした。
背景にあったのは共産主義勢力の台頭です。
スターリン率いるソビエトは日本の北方領土を実効支配。
中国では共産党が勢力を拡大していました。
統合参謀本部は戦時中日本本土への攻撃拠点だった沖縄を今度は共産主義勢力に対する前線基地にしようと考えたのです。
当時沖縄で基地建設に携わった元兵士に話を聞く事ができました。
コンニチハ。
陸軍工兵隊に所属していたロバート・ロックさん93歳です。
ロックさんが撮影した写真には基地が更に拡大され集落がのみ込まれていく様が記録されていました。
当時GHQの占領下にあった日本政府は基地化されていく沖縄をどう見ていたのか。
GHQとの交渉を担った外務大臣吉田茂のもとであるプロジェクトが立ち上げられていました。
外務省の幹部らが集められ日本が国際社会に復帰していく道筋を検討していました。
メンバーの一人川上健三。
領土問題の専門家でした。
息子の昌明さんです。
川上は沖縄が日本から切り離されないための方策を探っていたといいます。
しかし本土占領の指揮を執っていたダグラス・マッカーサーは沖縄の基地としての価値を重要視していました。
GHQの報告書です。
「沖縄は…」「アメリカ軍のあらゆる任務の最重要拠点になる」。
アメリカが沖縄を容易に手放さないと知った外務省。
現実的な落としどころを探っていた事が明らかになりました。
研究幹事会の討議資料が外務省に残されていました。
沖縄本島の米軍事基地化につきては我が領土として米にこれを認むる事しかるべし」。
アメリカが沖縄を日本の領土と認めるなら基地化には反対しない。
その方針が既に検討されていたのです。
失礼致します。
どうぞ。
戦時中に外務省に入省し戦後沖縄政策に関わった大河原良雄さん97歳です。
当時は日本の国際社会への復帰が何よりも優先されたといいます。
本土から切り離されていく沖縄。
次第に基地を中心とした社会が形づくられていきます。
宜野湾市に暮らす玉那覇祐正さん83歳です。
終戦から1年収容所から戻って目にしたふるさとは普天間基地に変わっていました。
戦前2,500坪の農地で芋や大豆さとうきびなどを栽培していた玉那覇さん一家。
生活の糧を失いました。
今回入手した資料から基地建設を再開した陸軍がこうした人々に目をつけていた事が分かりました。
生活の糧を失った住民を基地の労働力として取り込もうとしていたのです。
「今は…」「住民を元の居住地に戻し…」「そうすれば…」このあと無償で行われていた食糧の配給が有償へと切り替えられました。
同時に新しい通貨が導入され貨幣経済が復活します。
通称B円。
人々は現金収入がなければ生活できない状況に追い込まれていったのです。
田畑を奪われた玉那覇さん。
父を沖縄戦で失い幼い5人のきょうだいを養っていかなければなりませんでした。
現金収入を得るために基地の中でアメリカ兵の身の回りの世話をする仕事に就きました。
かつて豊かな田畑が広がっていた宜野湾は普天間基地を中心とする町に様変わりしました。
滑走路の周りに見える黒い部分が民家の屋根です。
人々は基地で働き基地と隣り合わせで生きていく事を余儀なくされていったのです。
(テレビ)「連合軍の占領下マッカーサー最高司令官のもとに日本の古きものは急速に新しきものと交代しつつあります」。
沖縄が基地化される一方日本本土は民主化の道を歩みだしていました。
小作農に土地を与える農地改革
日本の軍国主義を支えた財閥が解体されるなど次々と改革が進められていきました。
本土占領の指揮を執っていたマッカーサー
実は空白の1年に沖縄への直接的な介入を行っていた事が分かってきました。
本土にいる沖縄の人々の引き揚げ計画です。
戦時中疎開や出稼ぎなどで沖縄から本土に渡っていた人々がおよそ10万人いました。
これらの人々を沖縄に戻そうとしたのです。
今回の取材でこの計画の目的を記した文書が初めて見つかりました。
マッカーサーが陸軍の高官に宛てた文書です。
「本土にいる沖縄人の大多数は女子ども老人で極貧状態にある」。
「食糧住居などで日本人に依存している」。
「本土復興の妨げとなっている」。
当時アメリカは日本の食糧不足を補うため無償の援助を行っていました。
これに対しアメリカ本国でコストがかかり過ぎると不満が高まっていたのです。
アメリカの占領政策を研究する…マッカーサーは本土の復興を急ぐためにその負担となるものを沖縄に押しつけたと指摘します。
これに対し沖縄の住民統治を担っていた海軍軍政府。
引き揚げ計画に激しく反発しました。
「沖縄では飛行場道路などの建設で農地が潰されている」。
「引き揚げによって人口が10万人増えると…」こうした対立を受け本国の統合参謀本部はついに大きな決断を下します。
沖縄の住民統治の主体を海軍軍政府からマッカーサー率いる陸軍に変更する事にしたのです。
沖縄の自治を模索していた諮詢会は基地化を進める陸軍の統治を受ける事に大きく動揺しました。
当初沖縄に新しい憲法を作りたいと訴えていた又吉康和。
自治よりも現実的にアメリカとの関係を円滑にするべきだと主張するようになっていました。
「まだ社会の秩序が出来ていない。
『自治制』は社会をますます混乱に陥らす事になる」。
一方沖縄の独立も考えていた仲宗根源和は自治への思いを捨てていませんでした。
1946年4月諮詢会をもとに戦後初の行政機構沖縄民政府が発足。
アメリカとの関係を重視した又吉が副知事に任命されます。
一方自治を目指した仲宗根は役職を外れました。
住民の自治や収容所からの再定住といった当初の目的を果たせないまま帰国の命令を受けました。
1946年8月沖縄本島中部の海岸に人であふれんばかりの軍艦が到着しました。
本土にいた沖縄県民10万人の引き揚げがマッカーサーによって実行されたのです。
陸軍の将校がこの時の様子を撮影していました。
「子どもも老女も皆大きな荷物を背負いやかんまでぶら下げている。
彼らが住んでいた家は破壊されている。
皆収容所に入るしかないのだ。
なんてかわいそうなんだ」。
(取材者)こんにちは。
お世話になります。
山口県から引き揚げてきた真栄田義晃さん89歳です。
真栄田さんが住む事になったのは那覇港の近くに新たに出来たみなと村。
アメリカ軍は港で軍作業に就く事を条件に人々がここに住む事を許可しました。
本土の民主化改革を目にしたあと沖縄に戻ってきた真栄田さん。
その落差を今も忘れる事ができません。
沖縄空白の1年。
人々はアメリカの思惑に翻弄され基地へと取り込まれていきました。
そして本土の負担が押しつけられる中溝が生まれ深まっていったのです。
1947年マッカーサーは本国にこう打電しています。
その後もアメリカの統治下に置かれた沖縄。
朝鮮戦争ベトナム戦争の出撃拠点とされました。
一方平和の中で高度経済成長を遂げた本土。
沖縄は取り残されていきました。
空白の1年に生まれた溝はなぜ70年たっても埋める事ができないのか。
その問いが今私たちに突きつけられています。
2016/11/05(土) 00:10〜01:00
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「沖縄 空白の1年〜“基地の島”はこうして生まれた〜」[字][再]

なぜ沖縄に基地が集中しているのか。資料が乏しくこれまで「空白」とも言われた1945年から1946年にかけての未公開資料を入手。沖縄が基地化される過程をみつめた

詳細情報
番組内容
なぜ沖縄に基地が集中しているのか。それはどう始まったのか。NHKは、戦後の混乱のため資料が乏しく、「空白の1年」とも呼ばれる1945年から1946年の映像や未公開資料を入手。そこからは、アメリカが日本への返還や住民による自治を模索したにも関わらず、世界情勢の変化によって、沖縄が基地化されていく過程が浮かび上がってきた。本土が復興に向かう一方で、重い負担を背負うことになった沖縄の戦後をみつめる。