国民の不満が募っていたということのようです。
旧来のワシントン政治は、十分な治癒をしてこなかった。
アメリカをもう一度偉大にすると訴えたトランプ氏が、会えてうれしいぞ。
江。
はい。
平幹二朗佐久間良子を両親に持つまさに俳優界のサラブレッドだ。
かつてはアメリカ留学を経て外資系の企業に勤めるエリートサラリーマンだった。
そんな岳大さんが役者を目指したのは26歳の時。
父の稽古姿に自分の中の何かが沸き立つのを感じた。
両親の離婚後疎遠になっていた父。
役者として目標にする父のルーツを知りたいと思った。
番組では岳大さんに代わり家族の歴史を取材した。
浮かび上がったのはカナダヘ移民として渡った曽祖父が体験した差別。
そして時代を先取った挑戦。
原爆で廃虚と化した広島。
取材の結果を伝える時が来た。
岳大さんは父幹二朗さんと共に初めて家族の歴史を知る事になる。
なんかドキドキしますね。
知らない事がいっぱいですので「暴かれる過去!」みたいな感じで。
ほんとに全然知らないんですよ。
特に僕は。
物語は今からおよそ130年前岳大の曽祖父池田福吉の時代に遡ります。
明治15年福吉は農家の長男として生まれました。
しかし一家の暮らしは決して楽ではありませんでした。
またそれ見とるんかね。
兄ちゃん行くんじゃろ?のう行くんじゃろ?福吉が考えていたのはハワイへの出稼ぎ。
3年働けば家が建つと言われていました。
ほいじゃけどハワイってどんなとこなんじゃろ。
わしも兄ちゃんと行くんじゃ!よし!見ちょれ。
兄ちゃんが一足先に行ってようけ稼いでくるけ。
きょうだいたちの期待を背負い明治32年17歳の福吉はハワイへと渡ります。
たどりついたのはマウイ島西岸の町ラハイナ。
サトウキビの大農園が広がっていました。
そこで待っていたのは灼熱の太陽の下での過酷な労働。
連日早朝から10時間以上サトウキビを刈り続けました。
その上日本人は名前ではなく番号で呼ばれるほどのひどい扱いを受けていました。
そんな中福吉に出会いが訪れます。
同じ広島から出稼ぎに来ていた…おなかすいたじゃろう。
おぉ!うまそうじゃね。
わしゃここを出ようか思うとるんよ。
あんたもな?次はもっとでっかい事するんじゃ。
それにはあんたが一緒じゃないといけん。
次に福吉が目指した新天地はカナダ。
明治40年福吉25歳の時でした。
カナダ南西部バンクーバー。
市内の中心部から程近い…ここにはかつて日本人街がありました。
この街で生まれ育った日系2世の男性が昔の様子を覚えていました。
(取材者)何屋さんだったんですか?裏の方で。
(取材者)家は何屋さんですか?福吉が渡った頃カナダには1万8,000人を超える日系人が暮らしていました。
当時の日系人の資料が残っているという場所があります。
福吉の手がかりがないか探してもらいました。
日系人の店を写した写真の資料に福吉の名がありました。
(取材者)イケダフクキチ?「池田商店」と書かれた店の前福吉が従業員と一緒に写っています。
肉屋と雑貨屋2軒の店を営んでいたようです。
(ガラスの割れる音)何でじゃ。
わしらが何をしたっちゅうんじゃ。
当時バンクーバーでは日系人排斥の暴動が頻繁に起こっていました。
「日本人に職を奪われる」。
そんな不安に駆られた白人労働者たちが暴徒と化し押し寄せてきました。
福吉たち日系人は団結を強めます。
県人会などを作り集まっては支え合いました。
日系人たちのために何かできないか福吉は考えました。
事業を始めるため提出された記録に福吉の名が記されていました。
福吉は大正11年40歳の時に日系人のための下宿屋を始めました。
部屋数は55。
福吉が始めたのは賄い付きの下宿屋。
妻のトキが振る舞う日本食が評判でした。
トキさんのみそ汁はたまらんもんね!ようけ食べて明日も頑張りんさいよ!客のほとんどが日本から数か月の間出稼ぎにやって来た労働者たち。
日本的な雰囲気は異国で働く人たちの心を癒やしました。
記録を頼りに福吉の下宿屋があった場所を探してみます。
そににあったのは一軒の古そうな建物。
ここで間違いないのか尋ねてみる事にしました。
オーナーによればこの建物は福吉が下宿屋を営んでいた90年前のままだといいます。
今も下宿屋として使われていました。
製材所などで働く日本人労働者たちがここで体を休めていました。
窓枠は当時のまま使われています。
更に福吉に関する意外な記録が見つかりました。
仲間と共同である発明をし特許を取得していたのです。
それは汚水タンクの中で発生するガスを暖房や明かりに利用するという現代のエコ技術につながるものでした。
実業家として成功していた福吉は日本から弟峯松を呼び寄せます。
わしも兄ちゃんと行くんじゃ!新たに果物屋などを開き峯松に手伝わせたのです。
(岳大)2人とも濃いね。
そしてこの地で福吉の一人娘久代が生まれます。
彼女こそ後の岳大の祖母となる女性です。
雪降りそうじゃねぇ。
久代は詩や文章を書くのが大好きな利発な少女でした。
久代。
書いてばっかりおらんと炭も足しちょいてね。
はい。
えらい冷えるもんね。
みんな風邪ひかんようにせんと。
学校へ通いながら両親を助け忙しい宿を手伝う日々を送っていました。
ここは久代が通っていた小学校です。
屋根裏になった部分だけが当時の教室の面影を残していました。
久代は白人の子供たちに交ざって学んでいました。
当時久代がつづった詩が見つかりました。
題名は「冬」。
移民の両親のもとに生まれ努力を続けてきた久代。
バンクーバーの厳しい冬の寒さを厭わずむしろ好きだというたくましさを兼ね備えた少女でした。
そんな久代が14歳になって間もなくの事でした。
お母さん!?母トキが病に倒れます。
お父さん!お母さん!肺結核でした。
お母さん!久代の1年余りの看病もむなしくトキは亡くなりました。
追い打ちをかけるように時代の暗い影が忍び寄っていました。
世界恐慌の波がバンクーバーにも襲い街には失業者が急増。
更に満州事変が起こってからは反日感情は一層高まります。
日本人街の治安はますます悪くなっていきました。
「娘だけは守らなくては」。
福吉は久代を日本に帰す決断をします。
しかし久代は一人カナダに残していく父の事を心配していました。
その時の様子を教会の牧師が日記に記していました。
娘のグレースさんが父親の日記に久代の名を見つけました。
「池田久代さんの所へ行き祈る。
父が寂しくなると泣いていた」。
元気でな。
久代はカナダで商売を続ける父を残し一人日本へと向かいました。
その行く手にはいくつもの厳しい冬が待っていたのです。
すごいな…。
(幹二朗)顔を初めて見たから。
濃い感じ。
俺より濃い顔してるな。
僕はなんか福吉さんの人生に…。
僕もアメリカにいた事が長かったんでそこに僕はすごい親近感を覚えましたね。
民宿のあれが出てきたじゃないですか。
古い木造のあれもほんとそっくりでああいうふうに僕もね本を置いて窓を開けてたりしてましたよ。
なんか不思議な感じ。
昭和8年広島に戻った久代は福吉の姉平ショウを訪ねます。
久代。
久しぶりじゃね。
お久しぶりです。
覚えちょるじゃろ?文雄さん…?久しぶりじゃね。
うん。
ショウの息子文雄は幼い頃養子として引き取られました。
23歳の時久代は文雄と結婚します。
間もなく長男幹二朗が誕生しました。
しかしその僅か9か月後。
文雄がチフスを患い亡くなります。
久代は女手一つで幹二朗を育てる事になりました。
時代は戦争の渦へ巻き込まれていきます。
昭和19年久代は11歳の幹二朗を福吉の故郷上下へ疎開させました。
こんにちは。
よう来たのう。
さあ早う荷物置いて上がりんさい。
今日からここがお前の家じゃけえのう。
上下にはカナダから帰国した福吉の弟峯松が家を建て暮らしていました。
(岳大)えっ残ってるの?
(幹二朗)うん。
この部屋で幹二朗は初めて母と離れて暮らしたのです。
(岳大)覚えてる?
(幹二朗)覚えてる。
この部屋は。
久代は広島市内に残り郵便局で働いていました。
おはようございます。
おはようさん。
今日も蒸しそうじゃね。
そうじゃねぇ。
お勤めかね?郵便局も忙しゅうてね。
いってきます。
いってらっしゃい。
えらい事じゃ!広島がえらい事になった!向こうは火の海で全部燃えてしもうたげな!母さん…!原子爆弾の投下によって広島は死の町と化しました。
市内にいた久代の生存は分からぬままでした。
上下には負傷した人々が次々に引き揚げてきましたがそこに久代の姿はありませんでした。
お母さん…。
(泣き声)お母さん…。
幹二朗は一人でこの日を迎えていました。
その数日後。
幹ちゃん!お母さん…?幹ちゃん…!幹ちゃん!お母さ〜ん!幹ちゃん。
帰ってきたよ。
お母さん。
久代が生きて戻ってきたのは奇跡そのものでした。
あの日久代は爆心地から僅か600mの辺りを歩いていました。
靴ひもを直そうとかがみ込んだ瞬間爆発が起こりました。
偶然にもそこはコンクリートのビルのすぐそば。
久代の体は建物の影に隠れ直接の閃光を浴びず助かったのです。
しかし帰宅した久代はすぐに起き上がれなくなりました。
黒い雨に当たっていたのです。
また血が出ちょる…!歯茎からの出血。
そして髪が抜け始めました。
ちょっと休ませておいてあげんさい。
危篤に陥ります。
お母さん…?幹ちゃん…。
幹ちゃん。
久代は目を覚ましました。
回復した久代は幹二朗と2人新しい暮らしを始めました。
しかし久代の髪は完全に抜け落ちてしまいました。
それでも生活のためにじっとしているわけにはいきませんでした。
(子供たち)あっ!ぴかどんつるてんしゃん!つるてんしゃん!当時「放射能はうつる」などと被爆者たちが奇異な目を向けられ差別される事も少なくありませんでした。
更に久代は収入もままならず幹二朗を抱え不安に駆られていました。
峯松の養女芳子さんは久代がふと漏らした言葉が印象に残っていました。
「下を向いて歩く時は…」。
あっ言うていいんかどうか知らんけど「お金が落ちておらんかと思うような感じに歩きよったよ」って言いよったけどね。
久代さん。
(取材者)それぐらい大変だったんだ。
大変だったんだわと思う。
それでも久代は息子の前では明るさを失いませんでした。
ごちそうさまでした。
はい。
そうそう制服作り始めたんよ。
ちょっと寸法確認しとかんと。
これおばあちゃんの?そう。
おばあちゃんが大事に着てなさったお着物なんよ。
任せてね!これですてきな制服作るけね。
うん!「何としてもこの子を立派に育ててみせる」。
その一念が久代を支えていました。
久代がようやく見つけたのは高校の事務員の仕事。
ある日…。
進駐軍の兵士が久代の働く高校にやって来ました。
何ですって?オーケーオーケー。
プリーズ…待って下さい。
ああ…誰かちゃんと分かる者おらんかいね。
幼い頃からカナダで身につけた英語が久代に新たなチャンスを与えてくれました。
進駐軍から通訳の仕事を頼まれるようになったのです。
昭和24年幹二朗は高校に入学していました。
(岳大)俺かと思った。
自分で言うのはなんだけど。
おぉ〜。
「息子の将来のためにもっと稼がなければ…」。
久代は幹二朗と離れて一人東京で働く事を決意します。
当時アメリカ軍の将校とその家族が暮らす住居が東京・代々木にありました。
久代は住み込みのメイドとして働き始めます。
「あの子のために頑張らなくては…」。
そのころ広島で高校に通う幹二朗。
先輩の女生徒から声を掛けられます。
演劇部への誘いでした。
(幹二朗)フフフッ。
(岳大)ちょっとこんなメーク…。
美男子だったし背が高くてかっこよかったからね。
「演劇しない?」と言ったら「いいよ」と入ってきた。
フフフ。
これが幹二朗の演劇との出会いでした。
高校卒業後は俳優座の養成学校を目指す事にしたのです。
初めて飛び込む演劇の世界と東京での暮らし。
不安を抱える中母から手紙が届きました。
「男だもの好きな道を精いっぱい進みなさい。
どんな苦労があっても戦争を生き抜いたありがたさを思えば乗り切れるはずです。
2人で乗り切っていきましょう」。
上京した幹二朗は1人暮らしをしながら演劇の勉強を始めました。
入るよ。
久代は稼いだお金のほとんど全てを息子のために注ぎました。
卵買ってきたけぇ食べんさいよ。
これ今月分。
ほんとにちゃんと食べんさいよ。
そして3年後幹二朗は役者デビューを果たします。
なるほど。
毒をもって毒を制するわけですな。
30歳の時時代劇「三匹の侍」に出演。
若手俳優として注目を集め始めます。
俳優として成長する息子の姿を追い続ける事が久代の生きがいとなっていました。
頑張りよるねぇ。
久代が54歳の時ようやく幹二朗と暮らす事ができたのです。
それは久代が思い描いた理想の生活。
久代は仕事を辞め幹二朗の世話に専念する事になりました。
野菜もたっぷり食べんさいよ。
(久代)今週も撮影がたくさんあるけぇね。
いただきます。
ここまで…長かったね。
役者として活躍し始めた息子を見て久代はこれまでの歳月を振り返っていたのです。
そして幹二朗は37歳の時女優の佐久間良子と結婚。
3年後には岳大と朋子双子の子供に恵まれます。
しかし久代は年を取るにつれて原爆症による貧血がひどくなります。
幹二朗は大阪公演の舞台に立っていました。
しなくっちゃ…支度…。
奥様なあに?幹ちゃんの支度しなくっちゃ…。
しなくっちゃね…幹ちゃんの…。
それが久代の最後の言葉となりました。
久代は80歳の生涯を閉じます。
カナダ移民の子として生まれ差別と闘い広島で被爆。
後遺症に負けず幹二朗のためにと試練を乗り越え続けた人生でした。
ちょっとティッシュ貸して…。
フフフッ。
絶対泣くまいと思ってたのに泣いちゃった。
母一人子一人だとどうしてもそうなりますけどもあの「幹ちゃん」って呼ばれた…。
何にもあの人は他の事に…向かうものがなくてただ僕を育てる事に一生懸命だったし…。
そういう母の姿を見てると僕も頑張らざるをえなかったし。
だから2人で…平久代と平幹二朗で「平幹二朗」っていう俳優をつくったような気がしましたね。
今見てて。
泣くつもりじゃなかったんだけどな。
フフッ。
やっぱまあなんかいろんな偶然が重なり合って自分がいるっていうのはすごい感じますけど。
なんかその…おばあちゃんが原爆が落ちる瞬間に建物の裏にいたっていうのもそうだし靴ひもを結んだっていうのもなんか…。
偶然がこう後から見るとなんか必然のようにも感じるし。
だから…その重みを感じてちゃんと生きなきゃいけないんだなと思いますけどね。
岳大さんは父幹二朗さんの公演がある度に必ず劇場に足を運んでいます。
随分前だな。
残忍な腐敗しきったものだとは誰にも分からなかった〜!役者の道を進もうと決断したのは父の稽古姿に強く打たれたからでした。
18歳の時アメリカに留学し一流企業に勤め順調な人生を歩んでいた岳大さん。
30近くなって役者になろうとした時周囲は驚きました。
俳優座出身の樋田慶子さんは岳大さんの決断にうれしそうな表情を浮かべる幹二朗さんの姿を覚えています。
本当はね岳君はねお医者さんになるとこだったの。
それで「岳君に脈をとられて俺は死にたい」と…ハハハ!それがあの方のね希望だったんですよ。
「医者はどうなったんだね?」って私が言ったら「アハハハ」なんて笑ってまた「やっぱり血だね」って言って笑ってましたけどね。
平成14年27歳の時岳大さんは役者としてデビューを果たしました。
今年でデビューして12年。
新たな役に次々と挑んでいます。
そんな息子を幹二朗さんは見守っています。
外国で…一人で行って自分の生き方を探したんですから耐える事には強いと思いますね。
自分の進みたい道なりたい俳優という事を目指して努力してもらいたいと思ってますね。
106年前この地に渡った岳大さんの曽祖父福吉。
日系移民として幾多の苦難と闘いました。
かつて福吉が営んでいた下宿屋の建物です。
今暮らしているのはアーティストや映画スタッフデザイナーたち。
豊かではないけれど夢を追いかける人々です。
この住民は窓の装飾デザイナー。
1階の住民は映画の制作をしています。
いつの日かヒット作を生み出す事を夢みています。
じゃあバンクーバー行かないと。
今度行ってみますか。
2016/11/10(木) 00:25〜01:13
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「平岳大〜父の背を追って、海を越えた一族の絆〜」[字][再]
父は平幹二朗、母は佐久間良子。両親の離婚後、父とは疎遠に。父のルーツも知らない。カナダ移民である父の一族。日本に戻り広島で被爆した祖母。強く生きた姿が明らかに。
詳細情報
番組内容
父は平幹二朗、母は佐久間良子。両親が離婚すると、岳大は父と疎遠になった。父の生い立ちを知らずにいた。浮かび上がったのは、ハワイからカナダに渡った移民である父の一族。差別にあいながらもビジネスで成功する。第二次大戦の混乱の中で、祖母は日本に戻ると広島で原爆にあった。夫に先立たれ、さらに原爆症に苦しみながら、女手ひとつで息子・幹二朗を育てる。そこには、困難に立ち向かって生きる女の覚悟があった。
出演者
【ゲスト】平岳大,平幹二朗,【語り】余貴美子,大江戸よし々