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字幕書き起こし 明日へ つなげよう「拝啓 10年後のあなたへ〜震災前の飯舘村から〜」 2016.11.13

今から10年前。
荒川静香が金メダルを取りハンカチ王子が大活躍。
号外いかがですか?号外です。
ライブドア事件が起きた2006年。
福島県の山あいの村では村をあげてあるものを募集していました。
飯舘村は村ができて50年を記念して今10年後2016年に配達される手紙の受け付けというのを行っているんですね。
10年後に配達される手紙。
大切な人に宛てた手紙を未来に届けようという企画です。
恋人でもいいしいつもお世話になってる方でもいいだろうと思いますしどなたでも書けば心がほんとに潤う温まるひとときが必ず来るだろうというふうに思っています。
しかし思い描いていた未来はやって来ませんでした。
2011年に起きた福島第一原子力発電所の事故。
全ての住民が村から離れなければなりませんでした。
うわ〜すごい緊張しますね。
この秋手紙が届きました。
いやバカですね。

 

 

 

 


村を駆け回っていた頃の自分からの手紙。
やばい。
やばいですよ。
やばいですよこれ。
その当時に戻れる事があったらひっぱたいてやりますよ。
国語ちゃんとやれって。
交際中の二人が手紙で交わした約束。
結婚後すぐに避難生活となりました。
感激だ〜。
うれしいっていうか…10年前の思いが伝わってくる手紙。
10年前を思い出してもう一回スタートした方がいいなと思うくらい感じましたね。
いつもと変わらぬ日々を思いつづった手紙。
10年を経て何を語りかけるのでしょうか。
ここからが飯舘村ですよね。
この飯舘に入ると急に景色がパーッと広がるんですよね。
私は10年前飯舘村の手紙の取り組みをニュースで紹介しました。
しかし村の姿はかつては想像もしなかったものに変わっています。
至る所で目にする放射性物質に汚染された土などの廃棄物。
住民のいなくなった村は息を潜めているかのようです。
そんな中10年の年月を経て手紙が配達されます。
その数1,842通。
切手が貼られているのに更に切手を貼る不思議な作業。
郵便料金の値上がりによる差額分です。
(取材者)このラベルは飯舘村役場の住所が書いてありますね。
宛先も仮設住宅や県外の避難先に変更しなければなりません。
あらゆる事が変わりました。
10年前から届いた手紙。
普段は聞く事ができなかった言葉を受け取った人がいます。
飯舘村の隣にある伊達市。
この仮設住宅にはおよそ80世帯の村の人たちが暮らしています。
夫と二人ここで暮らしていました。
しかし夫の元一さんは震災の2年後亡くなりました。
60年近く連れ添いそばで見ていた夫はいつも地域の中心にいました。
元一さんは門松作りや炭焼きなど地域で助け合ってきた暮らしを残そうと仲間たちと取り組んできました。
にぎやかでしたね。
しょっちゅう友達連れてきてやっぱし酒飲みしてたからね。
うちに集まってよく酒飲みして。
夜遅くまでやってたみたいです。
(取材者)「みたい」っていうのはアキノさんはその中には入ってないんですか?何だろうおじいさんに引き回されたみたいな感じだかもしれないけど。
(エンジン音)アキノさんのもとに手紙が届きました。
(取材者)この字を見た瞬間元一さんからだっていうのは?分かります。
癖ある字で。
手紙を前にしてなかなか封を開けようとしません。
何て書いたか読みたいけども多分こんなんなって届くとは思ってなかったから…。
元一さんが手紙を書いていた事をアキノさんは知りませんでした。
初めて「ありがとう」って言われたような気がします。
(アキノ)10年後は82になっから平均寿命5年越えっから自分もいなくなると思ってたのかな。
(取材者)「中身見せて」って私たちが言ったら?それはいいわ。
おじいさんと二人だけの手紙にしておきます。
長い時間をかけて大切な気持ちは届けられました。
阿武隈高地に抱かれた飯舘村。
冷涼な気候冬場は雪に閉ざされる中村の人たちは僅かな平地を耕し共に支え合ってきました。
10年後への手紙は実は村の自立を守るための試みでした。
(場内アナウンス)「よいしょ」。
よいしょ!
(場内アナウンス)「おめでとうございます」。
当時はいわゆる平成の大合併の時期。
全国3,000以上あった自治体がおよそ半減しました。
飯舘村でも周辺3つの自治体とで一つになる計画が進んでいました。
しかし他の市や町が合併によって活気を得ようと意気込む中飯舘村が下した決断は。
南相馬合併協議会から離脱を申し上げる事につきましてお許しを頂きたいと思います。
自立の道でした。
効率を求めるっていうのも正しい事ではありますがそこに住んでる人が自分たちのふるさとをやっぱり熱く思い汗を流すというのがきっとその…何て言うんですかね周辺部が寂れないという方法があるんではないか。
小さいけれど豊かな暮らしを目指した飯舘村。
そのスローガンは「までい」。
…という意味のこの地域の言葉です。
その象徴が大切な人への手紙でした。
書く時には必ず相手の事を思う。
までいの心そのものだからです。
仲間からの手紙で夢の実現に背中を押された人がいます。
福島市。
飯舘村から西に20キロ村民が最も多く避難しています。
そっち行ってもいいですか?はいはい。
村から避難してきた農家が土地を借りて野菜を作っています。
ああなってますね。
ごろっと。
ああすごいすごい。
ああ立派。
今年はすごいいっぱいなりました。
村の特産品研究会のリーダー…村の名を冠した…村の自立を支えてきたブランドカボチャです。
度々凶作に苦しんできた飯舘村。
冷涼な土地でも育つカボチャで村おこしをしようと仲間たちと研究を続けてきました。
原発事故で大量の放射性物質が降り注ぎ村の畑でカボチャの栽培はできなくなりました。
とみ子さんは村のカボチャを途絶えさせたくないと種を持ち出し避難先の休耕地にまきました。
耕うん機を止めてしまうほどの硬い土。
研究会の仲間と手作業で耕してきました。
(とみ子)あんな土の中でよく芽が出たなっていう思い。
どうしてここに種まいてどうやって芽出るのっていう感じの土だったね。
育つ様子を見るとほんとに自分も頑張んなきゃなって。
ほんと励まされた。
とみ子さんに手紙が届きました。
差し出し人はカボチャ作りで共に試行錯誤を重ねた仲間でした。
カボチャの品種改良に取り組み畑仕事の素人だったとみ子さんを研究会のリーダーに鍛え上げました。
かなり研究会が有名となり客が増えるだろうと。
で私が62歳。
加工品30種ぐらい完成して式やお土産に人気となる。
努力をたたえここまでの成功を見越した言葉でした。
研修旅行が定番となりよくも10年やってこれたと永年会長が涙して挨拶。
これ永年会長私。
村は合併なしの自立選択したからこそこの発展あると。
…っていう事書いてありました。
なってるねなってるね。
10年前に描いた夢の実現に着実に近づいている事を感じる手紙でした。
はいお疲れさまです。
はいお疲れさま。
一方でとみ子さんには気がかりな事があります。
夫の福男さんが震災の2年後がんを患ったのです。
肺へ転移し病状は軽くありません。
大工の福男さんは家を空けがちなとみ子さんに不満一つ言わず作業場をしつらえるなどして支え続けてきました。
(とみ子)カボチャはやりたいと思うけどやっぱり病気になっちゃったし。
自分自分とも言ってられないなまずね。
おとうさんいたからここまでこれたし。
あんまり本人の前では言わないけど申し訳ないって気持ちやっぱりあるじゃない。
夢の実現を支えてくれた夫の体調の悪化。
この10年の大きな変化です。
これ悩んでんだわおとうさん。
えっ?結構悩んでんだ私。
(とみ子)「はいここが川俣町と飯舘村の境です」。
手紙が届いた1週間後とみ子さんは飯舘村に向かいました。
被災地見学のガイドを引き受けているのです。
「あそこの右手の方にシートがかぶさってると思うんですが現在160万袋あるそうです。
農地の再生はあとどのぐらいかかんだろうという想像を絶すると思うんですが」。
必ず案内するのがとみ子さんの自宅です。
ここでカボチャを作ってました。
放射性物質を取り除く除染によって畑の軟らかな土は剥ぎ取られ雑草が生い茂っています。
とみ子さんは62歳になった今夢の実現に向けまた一歩踏み出そうとしています。
この飯舘の畑を再び耕し種をまく事にしたのです。
本来であれば飯舘の名前の付いたものだから飯舘村から発信してもらいたいっていうずっとそういう思いでやってきたから。
これからの10年は夫の体調を気遣いながらゆっくりと歩いていく事にしています。
(とみ子)今はほんとに夫にかける時間を少しはやっぱり多くしないといけないなって自分では思っています。
うちの夫が言ってほんとにありがたいと思ったのが「人が何と言おうとお前がやってきた事は俺がそばで見てっからそれでいいんじゃないか」って。
励まされた時はほんとにやっぱりありがたかったし。
だからやっぱり時間大事にしたいなって思う。
飯舘村は来年春住民が村に戻る事を目指しています。
その準備のため今年7月から村内での業務を再開した村役場。
ここに10年前手紙を書いた人がいます。
恥ずかしいっすね。
高校2年生の時に被災し今年村役場に就職しました。
戻る気しかなかったですね。
何でかって言われるとちょっと何でだろうってなるんですけど。
義務でもないですし「絶対働け」って誰かに言われたわけでもないですし。
何でかって言われると分からないですけど。
来たかったからじゃないですか。
手紙を書いた時大谷さんは中学1年生。
部活に精を出し勉強はほとんどしないわんぱく者でした。
村の至る所が大谷さんの遊び場。
(大谷)自由でしたね村全体が。
自由に誰かが話しかけてきて。
誰かれかまわず怒られるし。
住民同士が隔てなく声をかけ合う。
当たり前だったまでいの心の尊さを村から離れた避難生活で気付かされました。
大谷さんが書いた手紙。
それは自分に宛てたものでした。
10年前に書いた場所で読みたいと中学校を訪れました。
いやバカですね。
いやくだらないです。
何も面白さがなかったですね。
バカですねバカ。
漢字めっちゃ間違ってるし。
(取材者)見せて下さいよ。
いやいやいや。
やばい。
やばいですよ。
やばいですよこれ。
文章力がなさすぎるんですよ。
「この時僕は働いていると思います。
この時俺は無事成人式を終えているのでしょうか?そして成人式の日に小6の時の卒業式の時にタイムカプセルを埋めたの忘れるなよ。
大谷暁永より」です。
とりあえずもうその当時に戻れる事があったらひっぱたいてやりますよ。
国語ちゃんとやれって。
部活に汗を流したテニスコートはさら地になり走り回った学校の敷地や裏山は除染で削り取られかつての風景とは様変わりしています。
ゆったりと時間が流れていたあのころの手紙を読み返しながら今大谷さんは村の未来の一端を担いたいと感じています。
(大谷)どっかの企業に勤めて村のためにとか村に支援をするっていうのもまあ形としてはありますけど村に入るというのが一番近いですからね。
どうなっていくのかはすごい興味もあるし大変ですけどうん。
そうですね楽しみですね。
そのうち村民のためとかそういうふうに動けるような人になれたら一番いいですね。
余裕ができてあの人んち大変だからとかあそこの部落大変だからって考えられるような先輩たちみたいな人間になれたら一番…うん。
10年前の私もうれしいんじゃないですかね多分。
成長した孫に伝えたいとつづった手紙もあります。
飯舘村の小中学校が移転している川俣町です。
高校1年生の…いっぱい届いてる10年後の手紙。
当時4人で暮らしていた橋さん一家。
全員が虹歩さんに手紙を出していました。
(取材者)お母さん。
(世津子)じいちゃん2つばあちゃんが1つ。
お父さんは単身赴任でいなかった。
(取材者)お父さん書かれてないんですね。
その時いわきにいましたね。
虹歩さんは母親の世津子さんが43歳の時に生まれた一人娘です。
震災の直前に亡くなった祖母のスズエさんは世話好きで口うるさく幼かった虹歩さんにはあまりいい印象が残っていないといいます。
雑。
すごい雑な…。
(取材者)どんな時にそれを感じたのかな?何か一緒にお風呂とか入っても自分の…おばあちゃんが体拭いたやつで私の顔を拭いたり嫌な思い出しかない。
そのスズエさんから届いた手紙です。
何か「ばあやの事は嫌いだと言う虹歩ですが」って書いてある。
(世津子)ばあちゃんも分かってたんだ。
そんな分かってたんだ。
(取材者)手紙読む前のおばあちゃんのイメージと読んでからって何か変わったかな?何かあんまりおばあちゃんの事覚えてない。
記憶が何かだんだん薄れてきててちょっと不思議な感じがしました。
スズエさんの手紙は虹歩さんにはあまり響いていない様子でした。
しかし母の世津子さんは違いました。
私母の事もう本当に…。
(世津子)結構厳しかったんですよ母は。
教育熱心だし厳しかったし。
だから虹歩ぐらいの年の時は私もあんまり母の事は好きじゃなかった感じはありますね。
そんなスズエさんの優しさを知ったのは虹歩さんの出産の時でした。
孫をずっと待ち望んでいる事を世津子さんを気遣い決して口にしなかったのです。
もう孫なんか顔は見られねえと思って諦めていたったんだ。
そのうちぽこっとできるようになったからいや〜その時の喜びはまあ口には出されねえな。
(世津子)「虹歩へ。
平成19年1月4日に書く。
虹歩が生まれてきた時は何よりうれしくてたまりませんでした。
この手紙を読む時は高校生です。
ばあやは83歳です。
いつもばあやの事は嫌いだって言う虹歩ですがばあやは大好きです。
虹歩は我が家の太陽です。
じいやとばあやはいつも虹歩の事を思って暮らしてきました。
優しく思いやりのある人になってね。
虹歩のお嫁さんの姿が見たいと思っていますがそれは無理です」。
「お父さんお母さんを大事にしてね。
ばあやじいやを忘れずに。
さようなら。
ばいばい」。

(世津子)今は多分15歳だから分かんないよね。
まだ15歳ですもん。
私もそうでしたけど自分で結婚して子供ができてそういう時に分かるんじゃないですかね。
親のありがたさとか。
本当に大切なものが自分のとこにできた時に分かると思いますよね。
もう少し大人になるまで世津子さんは手紙を大切に預かっておく事にしています。
未来への約束を手紙で交わした人もいました。
飯舘村と隣り合った南相馬市。
ここで避難生活を送っている飯舘村出身の今野雅彦さんと沿岸部生まれのスイ子さんです。
10年前つきあっていた二人は互いに宛てて手紙を書く事にしました。
スイ子さんたっての希望でした。
10年後はいるっていうもう前提っていうか結婚してるっていう前提で。
だから「今野スイ子」で出してもらったんです。
(取材者)ご自身の当時の名字じゃなくて。
(スイ子)はい。
2010年11月スイ子さんは結婚。
飯舘村で暮らし始めます。
(スイ子)きれいだわ〜。
女優さんだわ。
雅彦さんの家は飯舘村の中でも山深い蕨平という地区。
スイ子さんが結婚した年の冬深い雪に閉ざされて近所づきあいもままなりませんでした。
(スイ子)行った事ない山奥に行くわけだから最初はびっくり。
寒かった。
空気が違う。
吸うと寒い。
痛いっていうか。
結婚して4か月後原発事故が発生。
そこでスイ子さんは蕨平の魅力に思いがけず気付く事になります。
避難所で寝食を共にし住民同士が思いやり気遣うまでいな姿に初めて触れたのです。
避難先でのスイ子さんの映像が残っています。
留守にしている飯舘村を見回りに行く有志。
その中に村の人たちと笑顔で言葉を交わす姿が写っていました。
(スイ子)この何か月かしかいない私なんだけどみんなから声かけられてすごいこの部落の人たちすごいいい人だっていうのを感じて。
すごいあったかいものを感じましたね。
この日二人は飯舘村に向かいました。
スイ子さんが住みたいと言った蕨平。
そこで手紙を読もうという雅彦さんの提案でした。
(スイ子)え〜!?自宅のすぐ近くでまた一軒地域を離れる家が解体されていました。
(雅彦)残すのはそこの車庫だったとこだけなんでねえの。
地区の外れにかつて二人が暮らした家があります。
(取材者)すごく湿った匂いが。
5年7か月ほとんど手入れのできなかった家の中は動物のフンや死骸であふれていました。
原発事故後二人は先の見えない生活に時にいらだちけんかをするようにもなりました。
当初二人はすぐに蕨平に戻れると思っていました。
震災前は本当きれいにこの草も何も刈ってやってたんだけど。
しかし避難生活は長引きここで暮らした日々の思いはいつしか薄れていきました。
そうした中届いた手紙には10年前のお互いへの気持ちがそのまま詰まっていました。
(雅彦)「雅彦さんは10年後も優しい人でいるでしょうか?」。
いや〜ほんと10年前にこれ書いてもらったと思うとほんと何か感慨深いところがありますね。
だからこの思いやる優しさ。
これからも一生懸命思いやって優しくしなくちゃ駄目だなって思いました。
(スイ子)「初めて会ったスイ子の優しい言葉で声をかけて頂いた事は毎日思い出したりして一人笑いをしていた事を10年後に伝えたいです」。
すごいうれしいっていうか10年前の思いが伝わってくる手紙。
けんかしたりイライラして怒ったりけんかしたりという事は避難後最初の頃ありました。
今の生活しててましてこの手紙を読んでまたって。
またって感じ。
また初心だぞみたいなの感じてます。
(雅彦)10年前を思い出してもう一回スタートした方がいいなと思うくらい感じましたね。
二人は当時の思いを大切にしようと家は壊さず少しずつ手を入れていきたいと考えています。
10年前飯舘村が募った大切な人への手紙。
寄せられたのは1,842通でした。
配達できずに役場に戻ってきた手紙が200通に上っています。
お亡くなりになった方からお亡くなりになった方に書いている手紙も中にはあると思われるので。
10年という時間が何気ない約束を重たいものにしてしまう事もあります。
までいの名が付いた民宿。
ここを経営していた夫婦が特別な申請をして村に戻っています。
「大切な人へ」だっけか。
そうなの?そうなの。
そうやって…。
あの…大切な人だったの?
(ハツノ)父ちゃん大切な人だったんだわよ。
ハハハハ!手紙を書いた佐野ハツノさんと受け取った幸正さんです。
皿に取ったら。
写されんだから。
いつも皿さなんかやんねえど。
(ハツノ)今日はちょっと見栄張って。
いいって。
違う見た目が。
「あのうちで奥さんは籠のまま出してんだ」って見られっから。
7代続く農家として村の暮らしに誇りを持っていた二人。
当時は民宿経営を始めたばかりでした。
お客さんと一緒に朝早く牛小屋の掃除をしたり採れたての山菜で料理を作ったり農村の日々の暮らしを伝えていたのです。
しかし原発事故で民宿は廃業。
避難生活が長引く中3年前にハツノさんは病を患います。
直腸がんでした。
手術を5回受けましたが今年再発。
これからの時間を生まれ育った所で過ごしたいと村に戻ってきたのです。
おお「大切な人に」だってよ。
「大切な人に」。
「これからも仲良く力をあわせて体に気をつけながら10年後20年後もっと長く元気で生きましょうね」。
手紙に書いた何気ない約束。
今二人の胸に刺さります。
「大好きなこの飯舘村で悔いのない人生を送りましょう」。
大丈夫?お約束してっけんども。
フフフフ…何だか…。
(取材者)お二人はこれからどうされていくんだと…。
話題がこれからの事に及ぶと二人は言葉をはぐらかします。
「天国のあなたへ」ってか。
この!まったくな。
元気だったらずっとあれだよねここで住んでいきたいよね。
いや…うんまあ元気でいれば二人でほんと旅行でもしてみたいなと思ってますよ。
でもねこれ難しいよな。
うん…。
手紙を読んだあとハツノさんは一つのお願いをしました。
家の裏手にある山にケヤキの苗を植えたいというのです。
私たちここに住んでいた証しを後世に残したいってそれが目的です。
(ハツノ)ケヤキって100年から150年200年ってなるじゃないですか。
その時にその木を見てねああ先祖は飯舘をこんなに大切に思ってたんだなって。
だったら自分たちも飯舘に住んで誇りを持ってやっていこうよってそう思えるじゃないですか。
ええ。
これでいいんだか?いいわい。
大丈夫だ。
ああいけるね。
木が根を張るまでもう少し共に育てようと約束しました。
丁寧につつましく生きる事を望んだ飯舘村の人々。
村はまた10年後に届ける手紙を募っています。
大切な人を思ってつづる手紙。
その思いは時間をかけて育まれていきます。
2016/11/13(日) 10:05〜10:53
NHK総合1・神戸
明日へ つなげよう「拝啓 10年後のあなたへ〜震災前の飯舘村から〜」[字]

福島県飯舘村で集められた「大切な人への手紙」。10年後に配られるという村の企画でした。しかし原発事故で日常は一変。手紙は10年の歳月を経て何を語りかけるのか。

詳細情報
番組内容
2006年、福島県飯舘村で集められた「大切な人への手紙」。10年間保管された後、未来に配られるという村の企画でした。しかし、東日本大震災と原発事故が発生。今も村民は故郷に暮らすことが出来ずにいます。かつて、牛を飼い、野菜を育て、家族とともに穏やかに暮らしていた日々。それぞれの大切な友人や家族、未来の自分へあてた手紙は、10年の歳月を経て何を語りかけるのでしょうか。
出演者
【語り】吾妻謙