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字幕書き起こし 100分de名著 道元“正法眼蔵” 第2回「迷いと悟りは一体である」 2016.11.14

え?うん?何だって?仏の真理は人間には分からないと説いた道元。
しかし私たちにもできる事はあります。
それは迷いながらもあるがままを見つめて歩み始める事。
第2回は悩みや苦しみに満ちた現代社会に通じる迷いへの向き合いかたを学びます。

(テーマ音楽)「100分de名著」司会の…前回に引き続き「正法眼蔵」の世界を読み解いてまいりましょう。
指南役は仏教思想家のひろさちやさんです。
今回もよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
さて今回は「生死」の巻から読んでいきたいと思います。
「正法眼蔵」の中でも非常に短いものでして道元が亡くなったずっと後…これはちょっと道元の著作ではないという一部の学者にはそういう異説もあるんですが私は前回読みました「現成公案」と全く同じ事を言ってるので道元の著作に間違いがないと思っております。
巻名の「生死」というのは私たちはふだんだと「せいし」「生き死に」というふうに読みますけれどもその意味合いとは違うんですか?私たちは煩悩を持って生まれて死んでいくこの迷いの世界の中にいるんだというのが生死という意味ですね。
それでは生死の巻を読み進めましょう。
よし頑張ろう!う〜ん…という事は生死と涅槃は同じ。
だから生死を避けちゃいけない。
つまり生死イコール迷いと読むとすれば迷いから逃げず迷えば迷うほど涅槃に近づくという事かな?どうでしょう?「どうでしょう?」と言われましてもなかなか禅問答っぽいですよまた。
ええ。
こちらですね。
先ほどきたろうさんが読んだ部分の一節。
原文からひろさんが現代語訳したものなんですね。
だから迷ってるからといって迷いを気にしちゃいけない嫌ってはいけないと。
迷えばいいんですね。
だから悟りを開こうとあんまり願っても駄目なんだと。
その悟りの世界の中で迷ってるんですよね。
それに気がついたら悟ってるんですよ。
このだから生死であるからといって俺は今生死にいるという事は涅槃に行けてないって事だという。
生死にいる事を忌避しちゃいけない。
では私たちはその生死迷いを克服しようとせずにどんな態度で生きればいいのか。
道元はこのように書いています。
こちらが原文です。
「わが身をも心をもはなちわすれて」というまさに「身心脱落」ですね。
身も心も脱落させてしまう。
そして「仏のいへになげいれて」という。
私は「なりきる」という事だと思っています。
仏に?仏の家の私は子供だと思えばいい。
私は仏様の子供なんだとなりきればいいんです。
これは私の言葉で別に道元の言葉じゃないんで。
ひろさんの読み解きですね。
読み解き。
何ですかこの「なりきる」「なりきる」。
そうすると「仏のかたよりおこなはれ」。
私たちは必ず仏の慈悲にあずかってると。
そしてその世界でじっと仏様の心に沿って「力をも入れず心をも費やさずしてそして迷いを離れて仏となる事ができるんだ」と言ってるんですね。
1回目と総合して言うと少し分かるような気がします。
自分はもともと仏の家の子なんだから自然にしてれば分かるはずだぐらいの事なのかな。
心積もりですね。
道元のこの先生の読み解き「なりきる」について理解するために禅の試験問題である公案を解説した巻の一つ「祖師西来意」という別の巻を読んでみましょう。
ひろさん「祖師西来意」というのはどういう意味なんでしょうか?「祖師」というのは菩提達磨というのがいます。
達磨さんですねいわゆる。
はい達磨大師。
あの達磨さんがインドの西の方からわざわざ中国にやって来たのはどういう意味かと。
これは結局仏教の真理って何なんだ?仏教の根本の教えって一体何なんだという問いだと思って下さい。
はい。
それを分かった上でこちらをご覧下さい。
一人の男が樹の上で口で枝をくわえて宙ぶらりんになっていました。
樹の下に人がやって来て質問します。
これは「仏教の根本の意味は何か」という問いに等しいものです。
男は質問に答えれば樹から落ちて死んでしまい答えなければ仏教の修行者でなくなります。

 

 

 

 


さあどうするか?道元の解釈は独特なものでした。
さすが道元。
質問よりも難解な読み解き…分かりたい!分かりたい。
これはマックスでここまでのところで難解というか難しい。
そうですよね。
無理難題を考える公案らしい問い。
そしてそれに対する道元のこの答え。
これ禅の公案として昔からずっとあるんですが「あなただったらどうするか?」と問われてるんですよね。
私だったら答えませんという答えだっていいし何の答えでもいいんですよ。
は〜まずはそれについて考える。
でいてこれ分かんないなという結論になっていいんですか?いいんですよ。
ただ道元は道元なりに解釈してるんですよ。
お前悩むなと。
答えが分かっていればその答えになりきればいいし問いになりきったらいいんですよね。
これ口で樹をくわえてるからそうすると自分そのものがもう樹の一部だと。
樹になりきってるんですよ。
そういうふうに思えばいいし。
だからなりきっちゃえば。
難しいですかね?相手になりきってる。
相手になりきってもいいし。
自分はあなただからあなたが聞いてる事は別に自分が聞いてる事と一緒だから答えなくていい。
それ分かる?俺分かんないんだけどそこ全然分かんないんだけど。
「俺は聞いてるお前と一緒だから答えなくていい」。
なりきるんですかこれが?なりきってるんでしょ?「お前ばかな事聞くな」と思ってる。
そうすると例えば暑い時ありますね夏の。
はい暑い時。
暑い時にどうしますか?暑さそのものになりきる。
なりきるんです。
夏の暑い時に海水浴行くんですが暑ければ暑いほど楽しいでしょ?はあはあはあ。
スキーに行けば寒い時は寒いほど楽しいんですよ。
それは寒さそのものになりきってるという事。
はあはあはあ。
ちょっと分かってきたかな。
海水浴の時は暑さそのものになりきってるんですよ。
暑い日に「うわ〜夏だな!」という楽しみ方ってあるじゃないですか。
あの感じなのかな?そうするとこの時の口に樹くわえて質問された人は答えようがねえじゃねえかよって思えばいいって事ですか?そうですね。
だからもう無礼者になりきってもいいんですよ。
答えない無礼者に。
何か解決策があると思わなくていい。
解決できますか?そもそも口にくわえて答えられないでしょう。
なるほど。
言われてみれば。
やっと分かってきました。
俺は樹なんだからしょうがないと思ってもいいし俺はお前なんだからしょうがないと思ってもいいし基本的にはどんな形でもいいから何かになりきる事でどうしようもないよというところに落ち着こうというかという事なんですか?そうです。
だから阿呆は阿呆になりきればいいんですよ。
ばかが賢くなろうとするから駄目なんで分かんない時は分かんないんだから。
ところで仏の世界に自分をなげいれてなりきれば悟りの世界へ導かれるという今生死の巻を読んでいますといわゆる「他力」という言葉ありますよね。
その他力にも聞こえてくるんですけれどもそう受け取っていいんでしょうか?いやそれはちょっと誤解なんですよね。
こうですね。
インドのヒンドゥー教に伝わる例え話。
猫の道と猿の道でひろさんは仏教における自力と他力を説明します。
例えば猿がいますね。
なるほど。
子猫は何にもやってないでしょ?そういう他力。
これで言うと道元の教えはどっち寄りですか?こっちですね。
このしがみついて助かるんだぞという信じる力が加わってます。
自力と他力と大きく二つに分ける人が多いんですが…仏様の力の中で問題が解決されていくんだと考えている。
そこが宗教の原点ですね。
何かちょっと分かりました。
ええ。
道元の考え方がこの場合で言う猿だとするとすごく仏の子供になりきるという言葉は入ってきますね。
自分は仏の子供なんだから仏が連れてって下さる事は間違いない。
けれどもちゃんと自分でつかまらなければいけない。
じゃあこれですね私たち。
そうだね。
信じてつかまるという作業は我々はやるべきだという。
ちょっと入ったな。
ちょっと入りましたよ。
では続いて「唯仏与仏」の巻を読んでみたいと思います。
この巻では過去の教典を題材に迷いと悟りについての論を展開しています。
この巻はこのように始まります。
え?うん?何だって?これまた深い深い話ですね。
ねえ。
こちら「唯仏与仏」の文字どおり仏教が教える真理というのはただ仏と仏のみが分かるのだから私たち人間はあれこれ悟る前に思ってもしかたないよって言われてるんでしょうか?そうですね。
人間じゃ分からんよという事ですね。
分からなけりゃ分からないでいいんです。
今の段階において必要なだけ分かりゃいいんですよ。
道元はこの目の前にあるものを大事にするという事をこんな言葉で書いています。
私たち花や月を見る時もう少しね色が鮮やかであればいいのになと。
今日は雨が降って雲がかかってるから月は見れないと。
私たちはすぐ「今ひとつの光色おもひ」。
別の色を加えちゃうんですね。
他人を見てもそうでしょ?あの人もうちょっとこうであればいいのにと自分の願望を加えて光色を思い重ねてるんですね。
そうじゃなしに私たちは嫌な人に会っても嫌なやつだなと思ってしっかり拝めばいいんです。
拝む?拝む。
「拝む」という言葉ね引っ掛かりますか?ええ。
一般的にはね「尊重しなさい」とか「重んじなさい」とかって言えば価値観が伴うんですよ世の中の。
はあはあ。
この人は金持ちだから尊ぶ貧乏人は尊ばないとこういうふうに価値観が伴うでしょ?「拝む」という言葉でしか表現できないと思って私よく使うんですね。
では私たちはどうすればあるものをあるものとして拝み生きる事ができるんでしょうか?道元は魚でなければ魚の心を知らず鳥でなければ鳥の飛んだ跡をたどり難いと言います。
例えば鮭は生まれた川に戻るコースを知っています。
渡り鳥も毎年同じ場所に帰ってきます。
人間には分からない「道」が分かるのです。
魚や鳥を仏に置き換えると悟りについて道元の言いたい事が見えてきます。
仏には仏の歩んだ道が分かる。
つまり仏でない者にはその道は見えません。
では私たちはどうすればよいのでしょう。
道元はこう例えます。
いくら泳いでも魚は水がどこまで続くのか知らずいくら飛んでも鳥は空の果てを知りません。
魚も鳥も世界の限界が分からぬまま泳ぎ飛んでいるのです。
私たちも悟りの世界を完全に理解してから歩もうとするのではなくまず歩み始めればいいのです。
まず歩み始める。
はい。
ええ。
歩み始めると私たちは自然に次の道が見つかってくるんですよ。
歩まないでね地図の上でね何か探ったってしょうがないんですよ。
要するにね私たち「迷い」と「悟り」といって2つ門があって迷いの世界から悟りの世界に入るとそう考えちゃうんですがそうじゃなしに…だから俺は不完全だけどもまあでももう少し上を向いて歩こうとそれが悟りだと思って下さい。
なるほど。
何か迷いがスタートで悟りがゴールでもう戻る事はないみたいなちょっとイメージだったんですけどそうじゃないと。
はい。
それが迷いだと言ってるんですよ。
「唯仏与仏」の巻では道元はこうも言っています。
あのね悟る前にあれこれ迷ったってそんな力は何にもならんよというんですね。
悟りの方から押しかけてくるんだと。
お前が逃げ回ってても悟りがやって来るんですよ。
それを待ってればいいと思いますがね。
ここまで読んできて1回2回とこう通じてるのは向こうから来るんだよっていう。
ただしね向こうからやって来るといって待ってればいいというのもちょっと困る。
しっかり迷ってほしいんです。
はいはい。
今迷いをしっかり深めて迷ってほしいんですね。
一生懸命迷う。
それが悟りです。
一緒にしっかり迷わせて頂きますので。
私も迷ってますから大丈夫です。
あっそうなんですか?じゃあもう迷いの中で…。
はい。
次回もよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
2016/11/14(月) 22:25〜22:50
NHKEテレ1大阪
100分de名著 道元“正法眼蔵” 第2回「迷いと悟りは一体である」[解][字]

「悟り」も「迷い」もコインの裏表のようなもので実は一体だと説く道元。それに気づきさえすれば、悟りを求めてあくせくせず、しっかり迷えばよいという道元の思想に迫る。

詳細情報
番組内容
我々は実は最初から悟りの世界の中にいる。それなのに迷いの中にいると思っている。いわば「悟り」も「迷い」もコインの裏表のようなもので実は一体なのだ。そのことに気づきさえすれば、悟りを求めてあくせくせず、迷ったら迷ったでよく、しっかり迷えばよい。その中にこそ真の悟りがあると道元はいう。第二回は、「生死」「唯仏与仏」の巻を中心に、私たち現代人にも通じる、迷いや不安の捉え方を学んでいく。
出演者
【講師】仏教研究者…ひろさちや,【司会】伊集院光,礒野佑子,【朗読】きたろう,【語り】小口貴子