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書き起こし 団塊スタイル「いつまでも“未完の自分”で〜横尾忠則(80)〜」 2016.12.02

せきにんをちゃんと持たないといけないよって。
あとで読み返した時にはずかしくなるよって。
LINEでのやりとりをいじめにつなげないために気をつけるべきことは何だろう?作品ごとに全く違うスタイルで見る者を引きつける独特の世界。
かつて団塊の世代の若者たちから新しいアートのヒーローとして支持され時代の寵児となった横尾忠則さん。
80歳の今も精力的に創作活動を続けています。
海外での個展も相次いで開かれ世界から注目を集めている日本を代表するアーティストです。
御年80歳ながら絵画以外の仕事も精力的にこなす毎日。
講演会にも引っ張りだこ。
新聞の連載や著作も数多く発表。
そんなマルチな活躍をする横尾さんのアトリエに密着。
創作現場を取材させて頂きました。
いつまでも無邪気でみずみずしい感覚を持つ横尾忠則さんの魅力に迫ります。
今回の「D’sスタイル」は美術家の横尾忠則さんです。
風吹さんは横尾さんとどこか何か接点がありますか?山田洋次監督作品の顔合わせというのがあるんですけどその時にフワーっと現れたのが初めてだったんです。
我々のね団塊の世代にとっては兄貴分ですかね。
ちょうど学生時代の学生運動があってね新しい何て言うの芸術じゃなくて「アート」という言葉が出始め最先端で何かねキラキラキラキラこう輝いている人でいつまでも若いなという感じが私のイメージではします。
そうですよね。
横尾忠則さんです。
よろしくお願いします。
どうも。
キャーすてき。
よろしくお願いしますどうも。

 

 

 

 


少年のようにお若いですよね。
本当にいつまでもファッションも。
この若さの何か保つ秘けつみたいなものはあるんですか?そんなもんないですよ。
でもやっぱり70年代から何かファッションリーダーのようなイメージがあってやっぱりずっとオシャレはお好きなんですよねでもやっぱり。
いやもう…好き嫌いというのかな。
もう最近は一切そういう事には興味ないです。
昔買ったものをそのまま着込んで来るという感じです。
でもこの履物からやっぱり…。
いや本当に若いですよね。
若々しいですよね。
これね革靴でね足のかかとを痛めてしまったのでそれで今日はスニーカー履いてきたんです。
え〜でもさりげなくオシャレという本当に。
まずはそんな横尾さんの今の活動を追いました。
ご覧下さい。
4年前にオープンした兵庫県神戸市にある横尾忠則現代美術館。
中には横尾さんの世界観が広がる作品が数多く展示されています。
スタイルなどに縛られずその時自分の描きたいものをキャンバスにぶつける。
奔放な横尾さんの世界が広がっています。
こうした横尾ワールドに多くの人が魅せられています。
その作品の数々は都内にあるこのアトリエで生まれています。
中には大きな本棚に並ぶ数々の資料本。
そして制作途中の作品。
そんな空間の中に横尾さんの姿がありました。
この日は全身真っ赤なコーディネート。
平日は毎日このアトリエに足を運ぶという横尾さん。
しかしのんびりと画集をめくっています。
この日は午前中にやってきましたが一向にキャンバスに向かう気配がありません。
途中でスタッフとの打ち合わせが始まりました。
映画ポスター制作の打ち合わせです。
打ち合わせも終わりいよいよ創作…と思いきや。
また本を読み始めました。
何でかな。
(取材者)そういう時っていつも何してるんですか?実はこうした時間も「創作意欲が湧くのを待つ」という大切な時間なのです。
今度はお出かけの様子。
どこへ行くのでしょうか。
横尾さんが日課のように行っている近所の緑道の散歩でした。
かなりの早足。
こうした散歩を行うのが横尾さんの健康法。
(取材者)どれぐらい歩かれるんですか?ずっと一巡してそれでアトリエに戻ればちょうど30分ぐらい。
80歳とは思えないしっかりとした足取りで散歩を楽しむ横尾さん。
四季折々移ろう自然を眺めて気分転換。
さあこれで創作の意欲も湧いてきたでしょうか?30分の散歩を終えアトリエに戻りました。
そろそろキャンバスへ…向かう気配はまだありません。
マイペースな横尾さんです。
描くのを待つ間にアトリエを拝見していると目についたのがたくさんの猫の絵。
さまざまな表情をしたかわいい猫がたくさん描かれていました。
あれはね別に…レクイエムでもあるしオマージュでもあるので。
これはタマを抱く横尾さんの絵。
横尾さんにとって猫は特別な存在だといいます。
猫のように自由で気ままでいたい。
そんな横尾さんの価値観は作品にも表れています。
画家は自らの描くべきテーマやスタイルなど画家としてのアイデンティティーにこだわるのが普通ですが横尾さんはそれを壊すかのように作品ごとに世界を変えています。
さらにアトリエで目につくのは未完成の作品が数多く置かれている事。
いつ完成させるのか予定はいつも未定なんだといいます。
そして夕方まで描き始めるのを待ってみましたが…。
(取材者)分かりました。
はい。
横尾さんには絵を描く以外にもさまざまな仕事が舞い込んできます。
友人の映画監督山田洋次さんとともに東京・港区にある美術館へ。
この日はスペインの芸術家ダリについてのトークショー。
横尾さんはダリと出会った事がある貴重な日本人として呼ばれ2時間の対談のパネリストを務めました。
そんな講演を見にきた山田監督。
横尾さんに新作映画のポスターを依頼するなど公私ともに親密なつきあいがあります。
あるいは僕のようなタイプの作品を作っている人間にとっては…そんなイメージもあるなとか…日本を代表する天才たちは職業の枠組みを超えお互いを刺激し合っているのです。
その数日後アトリエに行ってみると…。
そこには筆を握る横尾さんの姿がありました。
今向き合っているこの作品は故郷の兵庫県西脇をイメージしているのだそうです。
西脇は繊維産業の町です。
商品の反物に付けられていたラベルに描かれていた女性。
子どもの頃見たその記憶をモチーフにして故郷への思いを描いているのです。
横尾さん今拝見してますとなかなか仕事をするまでゴソゴソゴソゴソが長いですね。
長いですね。
何か自分でもったいつけてるところもあるのかなと思うんですよね。
描く時は例えば3か月ぐらいで百数十点描いた事もあるんですよ。
去年ぐらい去年だったですけれどもね。
それちょっと体壊しましたね。
その時はこのままいくと倒れるかなという気持ちはあるんですけれども健康といえば健康なんです。
猫のようですよね。
猫になりたいですね。
あ〜そうですか。
ええ。
でも何かその自由…。
わがままで。
ええ。
気ままで。
気ままで。
妥協しない。
妥協しない。
もうアーティストの見本ですよね。
じゃあ人の迷惑なんて事は頭で考えちゃものは創れない?まあそれは考えないですね。
そんなに迷惑かけてないと思いますけどね。
そうだと思いますよ。
もの創る人は大なり小なり何らかの形でわがままで。
まあ妥協してしまうともうそれは敗北ですよね。
今郷里をテーマにした仕事をやろうと思ってるんですよね。
もうやっぱり年齢的な事考えるとやっぱり最後は郷里に戻っていくんですよね。
不思議に。
だから発想がね10代の頃の記憶とか体験そういったものの中からしかある意味で浮かばないというのか。
やっぱり10代までのね時代は僕にとっての想像力の宝庫でもあるし原点でもあるという。
だから大人になれないんですよね。
いつもそこにいるんですよね。
そんな横尾忠則さんの原点がどこにあるのか人生も含めて振り返ってみたいと思います。
兵庫県西脇市。
1936年横尾さんはこの町で生まれました。
呉服商を営んでいた家の一人息子として大切に育てられました。
5歳の時に横尾さんが描いたという絵を母親が大切にとっておいてくれました。
それがこの武蔵と小次郎巌流島の決闘。
5歳児が描いたとは思えないクオリティー。
実はこれは絵本を模写したもの。
幼い頃は絵を模写する事が大好きでした。
決して裕福ではありませんでしたが年老いた両親の一人息子として溺愛され欲しいものは何でも与えられました。
自分の意思が通らない事がないと思っていた横尾少年。
食卓のおかずが気に入らないといってぶちまけても両親は文句一つ言わなかったといいます。
ところが両親が自分を溺愛した訳を高校生になって知りました。
きっかけは市役所の戸籍係のアルバイト。
横尾さんはそこで自分が両親の子どもではない事を知ります。
父の弟の子ども養子としてもらわれていたのです。
勝手気ままだった横尾さんですがその頃から周りに言われるがまま自己主張をしない青年になっていました。
高校2年生の時将来の進路を決める時の事。
切手の収集が好きだった横尾さんは郵便局員になろうと考えていました。
ところが美術教師から絵がうまいからと油絵をすすめられます。
言われたまま始めてみるとめきめきと腕を上げ作品は多くの展覧会で入賞しました。
すると先生から「郵便局員にならず画家になるために東京の美術学校を目指しなさい」と言われ今度はそちらに進路を変更。
受験のために上京し絵の先生の家に下宿しながらデッサンの勉強に励みました。
しかし受験前夜こんな言葉を投げかけられ再び揺らぎます。
なんとまた言われるがまま翌日西脇へと帰ってしまいました。
その後も人にすすめられ地元の印刷所を経て神戸新聞でデザイナーの仕事に就いた横尾さん。
ここである運命の出会いが訪れます。
同僚だった一つ年上の女性と結婚。
告白したのも彼女だったといいます。
まさに流れに身を任せる生き方でした。
ところがこの結婚が人の言うままだった青年時代に終わりを告げます。
再び横尾さんの幼少時代のような自由なパワーが息を吹き返します。
そんな気持ちが芽生えたのです。
神戸新聞を辞め自らの意思で東京に進出。
このあと世間に名の知られる横尾忠則が誕生していくのです。
すばらしい才能ですね。
最初からこう観察力が。
あの5歳の時の模写って…。
並みじゃないですよね。
ただその当時は暴君みたいに…。
わがままだった。
それちょっと聞いてみよう。
随分溺愛されてご両親から。
わがままな子どもだったようですね。
そうですね。
叱られた事が一度もないんですよ。
一度もない。
いくら思い出そうとしても叱られた事はないんです。
叱られたり呼びつけされた事もないんですよね。
気に入らないものがお膳の上に載っかってると僕は覚えてないんですけど遠くから走ってきてそこへば〜っと滑り込むらしいです。
それは困るわね。
だから慌ててこう下ろしたり気に入らないものがあるとそうしてたらしいです。
何度もしてたらしいです。
そんな子が思春期になってから周りが言うとおりになぜそんなフラフラフラフラする子になっちゃったんですか?何かあったんですかね?それは。
いや何もないです。
何もなくて。
ええ。
性格が変わったのかしらね?性格は変わってませんね今も。
思春期ってある訳じゃないですか。
普通そこでみんな自我に男性は芽生えて反抗期に入ったりする訳ですけど。
それはなかったですね。
反抗期はなかったって事ですよね。
だから「右に行きなさい」って言ったら右。
そしたら「あっ間違った左だよ」って言ったら左行くみたいな。
それがちょうど結婚するまでそういう感じで。
これは楽といえば楽なんですよ。
自分で努力する必要もないし考える必要もないのでね。
だからそれはあの生き方はあの10代の後半の生き方は僕は自分で言うのは変ですけれどもあの生き方が今できるとすばらしいなと。
そうですか。
周りから何か言われたら行っちゃう方がいいんですかやっぱり何でも。
そうです。
それでそこでそれなりの何かと出会いますよね。
大げさに言うと運命と出会う訳ですよね。
それに従ってこうやってればまたある時期が来るとまた別の所に今度は自分が移されていく。
そうするとそこでまたそれなりの運命に従っていくという。
それをずっと繰り返して。
まあ今もわりかしそれに近い。
でも結婚されて変わっていきますよね?ご結婚されて以降。
そうですね。
それは何が変わったんでしょう?自分の意思が通せなくなったかなというのがありますよね。
結婚するとそれが同じ屋根の下にありながら住みながらどうして自分の意思が通りにくいのか。
それはそうですよね。
当然の事ですよ。
当然の事ですよねそれはね。
だからそれをその時やっぱり初めて自我が目覚めたのかな。
さてその後横尾さんは人生の一大転機を迎えます。
28歳で東京のデザイン事務所から独立。
その後横尾さんは世間があっと驚く奇抜なモチーフが登場するポスターなどを次々と制作。
このポスターは単なる広告の枠を超え一つのアート作品として認められるようになり時代の最先端を行くアーティストとして注目されていきました。
このころ文豪・三島由紀夫も横尾さんの作品を高く評価。
三島をはじめその時代を代表する文化人たちと親交を深めていきます。
若者向けの雑誌も横尾さんを特集。
当時最もかっこいい男として仕事やプライベートを紹介していました。
まさに「時の人」となったのです。
しかしこのころから横尾さんの心に「このままでいいのか?」という不安が芽生え始めます。
すると横尾さんは自分にふさわしい表現の器を模索し始め精神世界に傾倒。
アメリカのサイケデリックムーブメントに刺激を受けたり日本では禅寺で座禅を組み自分が何を求めているのか探し続けました。
44歳の時そんな横尾さんの人生に運命を変える出会いが訪れます。
ニューヨークの美術館で開かれていたピカソ展です。
ピカソは何ものにも縛られないで自分の思いに忠実に従い求めるままに描いている。
間近に見たその作品に衝撃を受けたのです。
「自分は本当に自分の思いに忠実にやっているのか」と問うた横尾さん。
企業から頼まれて仕事をするグラフィックデザイナーではなく自分の世界を表現したいと画家宣言します。
しかしそこから画家としての苦しみが始まりました。
20年も続いたというその苦しみとは一体何だったのでしょうか?そしてそこからどんな境地にたどり着く事ができたのでしょうか?ほとんど見えない。
画家としての横尾さんが見えましたね横顔が。
でも画家になられて自分で画家になろうって気持ちが変わってから一番苦労した点ってどんな?やっぱりデザイナーとしてのキャリアが20年ぐらいのキャリアをどういうふうにそこから脱出脱却するかという事に一番苦労しましたね。
自分らしいものが描けないという事ですよね。
何が自分かというのは分からないんですけれども達成感のようなものが何をやっても不満なんですよね。
こんなはずじゃないという。
こんなはずというのかそういう予定してたものがある訳じゃないんですけれども何かこう自分にとっての喜びがねもう一つないんですよね。
好きな事をやってるはずなんだけれどももしかしたら好きでないのかなというふうに思いましたね。
絵というのは僕に自分に合ってないのかなと思って。
グラフィックは合ってたかもしれないけれども絵は合ってないんじゃないかなというそういう不安が時々襲ってくるんですよね。
逆に言うとピカソに会わなけりゃよかったのかなという事ですよね。
そうですね。
でも引っ込みつかない場所に出てしまったという事もあるのでもうやるよりしょうがないかなと思って。
でも結局その苦しい期間からたどり着いた答えって何かあるんですか?たどり着いてないんですよね。
いまだにたどり着いてない。
それが今の横尾さんというふうに思っていいでしょうか?ゴールのないコースを走り出した訳ですよね。
いまだにゴールは見えてこない。
え〜何か信じられない。
やっぱりねある種の狂気の世界を見ないとダメだと思うんですよね。
そのためには自分もやっぱり狂気の存在にならないとその僕が求めてる世界には到達しないなというのはそれはずっとありますね。
へえ〜。
あの当時いろんな方が横尾さんと交流してますが三島由紀夫さん三島さんが自死されますよね。
あの当時何か連絡を取ってらっしゃったって事ですけれども。
三島さんとはね4〜5年の短い交流しかないんですよ。
で僕がある時に僕の方から電話をしたんですよ。
その日が三島さんが割腹の自殺するそのリハーサルというと変ですけどもそれをやってらした日なんですよね。
あとで分かったんですけど。
3日ほど前だったんですけどね。
どんな話をされたんですか?その時は…僕は日記を書いてましてある雑誌に。
その日記を三島さんが読んでらしてて。
それで面白いのはね僕が病院にずっと入ってたんですよ。
足が悪くて。
それで三島さん見舞いに来てくれたんですけれども「あの日記を読むと高倉健と浅丘ルリ子の2人が見舞いに来てうれしかったってお前は書いてるけども俺だって行ってるんだよ。
俺の名前はひと言もどこにも出てないじゃないか」って。
汗がたら〜っと。
でもね僕は三島さんが来られたというのを書きたかったんですけれども怖かったんですよ。
三島さんがだんだんだんだん政治的に右翼的な方向に行かれるのを感じてましたからね。
三島さんと距離を置くべきだと思ったんですよ。
だからなるべく三島さんの言葉は僕の中から非常に失礼だと思うんですけどもそれは外そうと思って書かなかったんですよ。
そしたら三島さんが亡くなる3日前に「俺の名前が日記に出てないんだよこれ一体どうした事か」。
すごい話ですね。
さて横尾さんの活躍の場ですけれども日本だけにはとどまりません。
ご覧下さい。
フランスやロシアスイスなどでも個展が開かれ世界的に人気のある横尾さんのアート。
11月初旬横尾さんのアトリエには多くの外国人が集まっていました。
これは一連の60年代1960年代の作品です。
これも同じ時期にペインティングをスタートしたんです。
これはアメリカの美術館関係者たちの視察。
熱心に横尾さんの作品を鑑賞していました。
神戸の横尾忠則現代美術館にも多くの人々が訪れ横尾ワールドを堪能しています。
この日美術館に来ていた人に横尾さんに聞いてみたい事を伺ってみました。
「お好きなものは何ですか?」ですよね。
「今一番ご興味がおありなのは何ですか?」というのはお伺いしたいですね。
そうですね健康法とか。
全然お変わりなくて。
「どうしてそんな不老不死のようなご活躍なんですか?」というのはお伺いしたいですね。
今までいろんな事で変貌しながらここまで来て最終的に横尾さんのたどり着く地点というのはご本人は何か意識されてるのかなと思って。
僕は本当に天才だと思ってますから天才のまとめ方というのはどうなるんだろうと思って。
横尾忠則という人の終わり方画家としてアーティストとして終わり方がどこになるのかな?と思うのがすごい興味あります。
今横尾さんが一番興味のある事って何ですか?一番興味?そうね…何だろうね。
もう早くこの場から立ちたいなという。
出ると思いました。
じゃあ健康法は?健康法?今までねいろいろ考えたけども健康法は健康について考えない事が健康法かなと。
横尾さんらしくて。
そして美術家横尾忠則の終焉って言い方してましたけどたどり着く地点というのかな。
これから先どういうところへ着地するのか。
もういい絵が描けないからもう引退しますとか…っていうんじゃなくていい絵が描けなければいい絵が描けない状態を体験してみたいというのもある訳ですね。
長生きすればするだけ作品はね体力も衰えてくるし作品も衰えてくる。
それは衰えたら衰えた作品を見たいなというのはありますね。
あっそうですか。
ええ。
いいですね。
だからそういう状態の作品の方が実は自分が一番納得するんじゃないかなという。
何か頑張って描いた作品というのは見てて自分でも重苦しいというのかさっきから頑張って描いた作品が映るたびにですね嫌だなという。
じゃあ作品が力がなくなってくるという事が例えばあるとするとそれは決して悲しい事じゃないんですか?その逆だと思いますよ。
作品が力をなくしてくるというのは自分の精神がそれだけ軽くなってるとも考えられる。
すごいなこれ。
すごい話。
今日は横尾さん本当にありがとうございました。
どうもどうもありがとうございました。
長い間ありがとうございました。
今日のお茶は何のお茶ですか?はいトルコチャイです。
何か大きな…。
はい。
トルコの黒海沿岸で作られている紅茶で今日は紅茶を出してますけども。
この2段重ねのポットで長い時間かけて抽出しました。
これ専用の?トルコのそうなんですね。
是非お砂糖を入れて下さい今日は。
はいはいじゃあお砂糖入れましょうか。
かわいいですねこれ。
はい。
世界でも有数のお茶を飲む国なんですけどもね。
何杯も何杯も。
すぐ溶ける。
出てくるんですよね。
最近私もね甘い物もわりといけるようになってきました。
そうですか。
ええ。
最近おいしいなと思うように。
是非。
じゃあ頂きます。
1つでよかったのかな。
いかがでしょう?あっちょうどいいね甘さも。
あっよかった。
本当にいいです。
器もかわいいですね。
やっぱりこれはトルコのですかね?器ですね。
いいですねこうやってお茶を頂くのもあら〜。
いや〜今日はね横尾忠則さんは本当に風吹さん「お会いしていろいろ話を伺いたいわ」ってずっとねおっしゃってましたもんね。
いや〜もうどんなお話をして下さるのかというのをとても楽しみにしてたんですけどとても誠実で素直で私から見ると「あ〜少年のままだったんだな」という事が。
そうなんですよね。
そのあるがまんま生きた結果周りは理解するためにいろんなふうに分析されてますけど横尾さん自身は何も変わってない。
自然を全部受け止め自然に自分の中に起こる事を受け止めて生きてらっしゃるんだなという。
何かね激動の時代をずっと一緒に来ながらあれだけみずみずしく純粋な心というかな精神を持ってらっしゃるのはなかなか難しい事だろうと思うんですけどね。
また是非お話を伺いたいですよね。
はい。
横尾さんの今後の活躍が楽しみですね。
2016/12/02(金) 20:00〜20:45
NHKEテレ1大阪
団塊スタイル「いつまでも“未完の自分”で〜横尾忠則(80)〜」[解][字]

美術家、横尾忠則さん。団塊世代の若者達から、新しいアートの旗手として支持され、その独特の表現は、80歳の今も輝きを放つ。どこか謎めいた少年のような魅力に迫る。

詳細情報
番組内容
美術家、横尾忠則さん。団塊世代の若者達から、新しいアートの旗手として支持され、その独特の表現は、80歳の今も、国内外で輝きを放っている。「猫のように自由で気ままで妥協しない」と、言い放つ一方で、「人に言われるがままだった青年時代の生き方が理想だ」とも言う。「作品に完成を求めない」と言いいながら、カンバスに向かうその創作現場にも密着!どこか謎めいていて、少年のようにむくな横尾さんの素顔の魅力に迫る。
出演者
【出演】画家…横尾忠則,【VTR出演】映画監督…山田洋次,【司会】風吹ジュン,国井雅比古,【語り】バッキー木場