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書き起こし NNNドキュメント「ゼロ戦乗りの遺言〜真珠湾出撃 原田要の肖像〜」 2016.12.12

おじいちゃん先生
そう呼ばれ駆け寄って来る子供達を見守って来ました
長野市ひかり幼稚園の園長…
今から75年前
・堂々行進する黒鋼の威容・
1941年12月8日
日本軍はハワイ真珠湾を攻撃しました

 

 

 


敵はアメリカ
おじいちゃん先生は当時25歳
ゼロ戦に乗って憧れていた戦場へと向かいます
私もハワイ行った以上ですねハワイ群島を空襲したいからぜひ俺にもやらせてくれと。
戦場で操縦席から目にしたのは人間が傷つき死んで行くさまでした
戦争の中に巻き込まれれば好むと好まざるとにかかわらず相手を殺さなきゃならないんです。
相手を殺さなければ自分が殺されてしまうんだからこれはしょうがないですよ。
終戦から半世紀近くが過ぎた頃あることをきっかけにそれまで固く心に閉ざしていた戦争の記憶を語り始めます
尊い人命を私くらい殺めた人間はおそらく今この平和の時代にはいないんではないか…。
戦争とは殺し合い
故郷につくった幼稚園では小さな子供達に命の尊さを説いて行きました
今日本がこういう平和憲法でしかも世界に向かって「軍隊は持ちません」。
「戦争はしません」これを次に伝えるためには自分の死ぬまで一生懸命で自分の見た戦争というものの罪深いことをしゃべることが私に与えられた最後の仕事ではないかと。
(鈴の音)
ゼロ戦乗りの遺言です
総飛行時間は8000時間
真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争では19機を撃墜しました
少年時代に憧れていた戦闘機乗り
1933年
その後戦闘機の搭乗員を養成する霞ヶ浦航空隊に入隊し首席で卒業
戦闘機に乗って敵をやっつける
その夢が現実となる日がやって来ます
これは私…。
25歳です。
1941年12月8日
ハワイ真珠湾攻撃
アメリカなど連合国軍との戦争が始まりました
原田さんは空母蒼龍で真珠湾に向かいゼロ戦で出撃します
これに参加するということは日本の国民であり特に軍人であってしかもゼロ戦というパイロットの自分が立場にいる以上はこういって戦って向こうをつぶすということが男冥利に尽きるんだと。
もうこんな名誉なこともないし自分の命なんかみんな差し出して戦う。
ところが上官から命じられたのは真珠湾への攻撃ではなく空母蒼龍を上空で守る任務でした
帰って来た連中は鼻高々で「戦艦を沈めた」。
「格納庫を爆破した」。
「巡洋艦を追っ掛け回した」。
そんな話でみんな船の人達も「いや〜ご苦労ご苦労」でしょ。
我々一日中飛んでた人間は小さくなって聞いてる。
嫌だなぁこんな嫌な思いはもうしたくないなと思っていたところが…。
その4か月後
待ちわびていた空中戦に参加
インド洋セイロン島沖でイギリス空軍5機を撃ち落とします
一番頭に最初来るのは自分が殺されねえでよかったと。
どっちか殺されるんですからね戦争っていうやつは。
だから相手を殺したから自分が殺されねえで済んだ。
その安堵感っていうんですか。
よかったなぁということ。
その次相手を接近してどうやら落とした。
じゃあ俺の腕のほうが良かったんかなぁというちょっとした優越感。
空中戦では敵の背後に回り込み10m5mまで接近して撃ち落とす
喜び勇んで向かった空の戦場
互いの戦闘機が飛び交う中ほんの一瞬見えた操縦席の敵の顔
いや〜…。
つらそうな顔をするわけ。
誰だってそうですよ。
もう撃たれて火だるまになったりだから恨めしそう顔をしてひどいなというふうなことを私のほうでははっきり見えるでしょ。
そうすると自分の境遇をすぐそれに置き換えちゃう。
彼も死にたくなかったんだろう。
それから家族もあったんだろう。
かわいそうだな…。
この時原田さんには結婚したばかりの妻そして生まれて間もない長男がいました
真珠湾攻撃の半年後に始まった…
原田さんもゼロ戦で戦闘に加わります
ところがアメリカ軍の猛攻を受け日本の空母4隻が沈没
帰還する船を失った原田さんのゼロ戦は海に不時着
4時間にわたり漂流します
フカが来てかじってもいいからしょうがねえじっとしてろと。
そうするとあっちのほうではもうダメだ〜って拳銃で自殺をする人もいるしそれからその爆破した木つかまってその木を離して沈んじゃう人もいるしね。
順に自分の体も冷えて意識がなくなって来た。
そしたら夜中にね…。
「やっと助けに来てくれた」
しかしそこで目の当たりにしたのは戦争の現実でした
もうそれこそね地獄みたい。
狭い駆逐艦だけども折り重なるように兵隊負傷した兵隊をもう満載してるんですよ。
焼きただれて手のないの足のない人顔が分かんない人。
しかもそれがみんなまだ生きていてね。
「苦しい」「助けてくれ」「水くれ」「早く殺してくれ」とかねいろんなことを言ってるんですよ。
ミッドウェー海戦の後いったん日本へ戻った原田さん
長野の実家に身を寄せていた妻精さんはある覚悟を決めていました
私上野の駅で待ってたところが…。
小っちゃい赤ん坊を背負って田んぼへ行ったまんまの格好でみすぼらしいしかも背中では赤ん坊が泣いてる。
しかし70年間一緒にいた家内がね一番キレイに見えたのがその時です。
つかの間の再会を果たしてすぐに激戦地ガダルカナル島へ
・いざ行け!成功を祈る・
敵の基地を目前にアメリカ軍の戦闘機と交戦
そして…
左手がぼ〜んと跳ねられて見たら飛行服の上に卵ぐらいの穴が開いてそっから血がバ〜っと噴き出した。
機体の破片とみられる金属が左腕を貫通
原田さんのゼロ戦はヤシの木をなぎ倒しながら不時着します
意識がもうろうとする中脳裏に浮かんだこと…
自分の家内がどうなるんだろう。
子供がどうなるんだろう。
それから自分の家庭がどうなるかな…。
さまよい歩いたジャングルで撃墜された艦上攻撃機の搭乗員と出くわします
今夜ここでひと晩寝ようって。
あばら家の軒先でね寝ましたんだけど寝られたもんじゃないですよやっぱり。
ほんで私もちっとも眠られないしね痛いしね横の寝てる佐藤さんの顔をこう見ると向こうでも寝らんないんですよ。
両方で…。
つらいですね。
それで…ヤシの葉陰にねお月さんがこう出てるのを見てねこれが最期かな…2人でね。
翌日味方に発見され基地に収容されます
帰国後は航空隊の教官に
29歳の時終戦を迎えます
兵舎を爆撃してる。
飛行場の格納庫を爆撃。
銃撃をしてる。
人の命をどのくらい取ってるか分かんない。
何千人の命を撃ったか分からない人間がですね今こうして生きてるということに対する罪悪感それが身を切られるようにつらいんです。
でもそれは戦争だから仕方がない。
だから私は戦争くらい罪深いことはない…。
復員後は職を転々としながら家族を養いました
そしてあることをきっかけに戦争をつぶさに語り始めます
終戦から20年が過ぎた頃当時自治会長だった原田さんは子供を預ける場所をつくってほしいと近所の母親達から頼まれ幼稚園を開園します
(園児)お絵描きし〜よおっと。
ハハハ…。
かつてこの手でゼロ戦を操り多くの人を殺した
平和を大切にする子供達を育てたい
(園児)園長先生おはようございます。
この子達と同じ年の頃自分は軍人に憧れ戦闘機乗りを夢見ていた
(園児)今度5歳になりました。
大きくなったら野球選手になりたいです。
(拍手)
(園児)わっ!コオロギだ!どこにいた?その辺で…いた。
コオロギとカエルさん。
かわいいね大事にして。
(園児)園長先生…。
幼稚園では一貫して命の尊さを説いて来ました
食べもんあげなきゃダメだよ。
自分の体生命を大事にするということを何とか子供達に…伝えてそうすれば自分の体が大事であればひと様の体もお友達のことも大事なんだよ…というふうに思って行くと。
草花を折ったり踏んだり小さい虫アリでも殺しちゃダメだよと。
そんな原田さんは終戦から50年近く戦争の話をしませんでした
長年連れ添った妻精さん以外3人の子供にさえ打ち明けていませんでした
親父から私に戦争の話は絶対ないですね。
今まで一回もなかったですね。
やっぱり話しづらいんじゃないんですか。
やっぱり人とケンカして人の命奪うわけだからね。
半世紀も心に隠していたその残像
ある出来事が原田さんを変えます
(砲撃音)

 

 

 


今から25年前
原田さん74歳の時
最初私は戦争の話するとねこういう仕事ですから「あの男は軍人だ」とか「好戦主義者だ」とかそういうふうに見られるとつらいからなるべくそういうことを一切口にしてなかったんですけども。
人を殺し合う罪の深さと自責の念
戦争の証言者として全国各地で100回以上講演を重ねて来ました
相手が苦しそうに私の顔をギュっとこう見る。
苦しそうにもだえる火だるまになって落ちて行く。
これを何機も見ました。
相手を本当に目の前で刺し殺す。
この行為はホントにいまだにつらいですね。
民間の船を爆撃したことも包み隠さず話しました
尊い人命を私くらい殺めた人間はおそらく今この平和の時代にはいないんではないか…。
でもやっぱり講演の後は苦しいって言ってましたから。
思い出しちゃって。
そういう人殺しとか人と対戦した現場に戻るわけですのでね。
だからもうホントに70年前の現地に戻るわけですから話すってことは。
だから夜は苦しいって言ってましたよ。
この時98歳
ゼロ戦のパイロットとして上空から見ました戦争の実態を真実を皆さんにお伝えしてまいりたいと。
講演では数時間立ったままで話し続けることもありました
(女性)あっでも足上げないほうがいいかな?足上げちゃったほうが楽ですか?
その時は近づいていました
(サイレン)
終戦から70年目の…
原田さんは白寿を迎えました
(拍手)
(男性)イェイイェイ…。
99歳おめでとうございます。
おじいちゃんおめでとう。
ありがとう。
(拍手)今どうやら日本を取り巻く世界が和やかな空気のように見えます。
ただしこれは本当の私は平和の空気とは若干違うように自分の体が覚えているから…。
それを何とか現実に再びああいう嫌な思いをさせない世界のために最後まで自分の信念を貫き通す発言をしなさいと。
この日が私達の最後の取材となりました
今年原田さんは99年の生涯に幕を閉じました
命日は5月3日
憲法記念日
今から75年前真珠湾に出撃したゼロ戦乗りが未来に伝えたいこと…
ゼロ戦乗り原田要の遺言です
野生化した猫や町を荒らすイノシシが住民の帰還を妨げています
原発事故から5年
福島避難区域の現実を見詰めます
2016/12/12(月) 02:05〜02:35
読売テレビ1
NNNドキュメント「ゼロ戦乗りの遺言〜真珠湾出撃 原田要の肖像〜」[字]

憲法記念日に死去した原田要さん(享年99)。ゼロ戦操縦士として戦場の空を転戦する中で、彼の意識は変わっていく。「戦争は人殺し。私ほど人を殺めた者はいない」と。

詳細情報
番組内容
今年の憲法記念日に死去した原田要さん(享年99)は戦時中、ゼロ戦操縦士として各地の戦場の空を転戦した。繰り返す出撃経験の中で、原田さんの意識は徐々に変わっていく。「戦争は人殺し。私ほど人を殺めた者はいない」。長い間口を閉ざし続け、戦後は幼稚園を経営してきた彼が、ある時を境に語り始めた戦争体験と平和への思いとは。ハワイ真珠湾の開戦も体験した元搭乗員が語り遺した最後のメッセージ。
出演者
【ナレーター】
萩原聖人