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書き起こし 先人たちの底力 知恵泉「宇宙開発の父・糸川英夫〜夢を与える技術を生むには〜」 2016.12.13

皆さん最近夢のある話してますか?2010年日本の探査機「はやぶさ」が小惑星からサンプルを持ち帰るという人類初のミッションを成功させ世界を驚かせました。
小惑星の名は「イトカワ」。
今回の主人公はその名前の由来になった人物…日本のロケット開発の父と言われる糸川はもともとは飛行機の設計技師。
太平洋戦争中海軍のゼロ戦と並ぶ陸軍の名機と言われた戦闘機「隼」を設計し日本の航空業界を引っ張っていく技術者の一人と期待された人物です。
ところが敗戦により日本は飛行機の研究や製造を全て禁止される事に…。
技術者は職を失い鍋や釜を作る職人に転身する者もいました。
そんな中糸川が目をつけたのがロケット開発です。

 

 

 


当時ロケットはアメリカやソビエトといった大国が国の威信を懸けて研究する分野でした。
そこに敗戦国日本のしかも一研究者でしかない糸川が挑戦。
日本初の国産ロケットを一からつくり上げます。
それがこちら。
全長23cm重さ200gの「ペンシルロケット」です。
こんなに小さくては宇宙を飛ぶロケットの実験なんてできっこない。
誰もがそう思う中…。
「発射」。
糸川はアッと驚くようなアイデアを次々とひねり出し4か月後には5倍の大きさを持つ「ベビーロケット」。
その1年後に2.4mの「カッパロケット」と着実にロケット開発の歩みを進めていきます。
ペンシルロケットから僅か15年日本は人工衛星を打ち上げ地球の周回軌道に乗せる事に成功。
今や「はやぶさ」や国際宇宙ステーション「きぼう」など世界の人々に夢を与えるような技術を次々と生み出しています。
糸川は一体どのようにして23cmのロケットしか打ち上げられなかった日本の宇宙技術を世界をリードするものへと導く事ができたのでしょうか?今回その知恵を読み解くのはスーパーコンピューターを開発するベンチャー企業のCEO…スーパーコンピューターは中国の「太湖之光」や日本の「京」など国や大企業がばく大な資金と人材を投入し長い時間をかけて開発する大プロジェクトだと考えられていました。
そこにベンチャー企業を立ち上げ挑戦したのが齊藤さんです。
開発当時の従業員数僅か16名。
少数精鋭の部隊を組織し少ない資金をアイデアと熱意でカバー。
これまでテニスコートほどの広さが必要だとされた巨大なスーパーコンピューターを液体につけ冷却するという画期的な方法で僅か2m四方に収める事に成功。
個人の部屋にも設置できるほどの小ささに世界中の研究者が驚がくしました。
スーパーコンピューターが進化する事で…スーパーコンピューターは人類にとってまさに夢をかなえる技術だと語る齊藤さん。
日本の宇宙開発の礎を築いた糸川英夫の知恵をどう読み解くのでしょうか。
今夜はロケット開発からこんな知恵を読み解いていこうと思います。
テーマ。
ロマンを感じませんか。
生きてるうちに一度は宇宙飛んでみたいです。
行ってみたいですよね。
齊藤さんはどうですか宇宙に対して。
宇宙はもうほんとに夢の塊のような所ですから理系の人間や男の子にとっては夢が結集されたそのものみたいな存在だと思いますね。
あっいらっしゃいました!お待ちしておりました。
あのJAXAの名誉教授でいらっしゃいます的川さんです。
先生よろしくお願いします。
空いてますね。
実はねあの糸川の教えを直接受けた事がおありなんですよね。
糸川研究室の出身でしたから。
実際の糸川さんってどんな人だったんですか。
大変独創性にあふれてるというか人がやらないような発想その発想力がねちょっとまねが全くできないような。
発想力がすごかった。
やりたくなると居ても立っても居られなくなるとか世間ではできないだろうと言われる事でも全くそれは顧みないと。
だから常識を逸脱するとよく言われましたよね。
糸川がそもそもどうして宇宙にロケットに目を向けるようになったのかまずそこからひもといていこうと思います。
糸川英夫は明治45年小学校の校長だった父のもと東京で生まれました。
幼い頃から飛行機が大好きで飛行機をつくりたいと東京帝国大学に進学。
卒業後は当時の大手航空機メーカーの一つ中島飛行機に就職し戦闘機の開発に携わる事になります。
ここでの糸川の仕事ぶりは一風変わったものでした。
なぜかパイロットたちが暮らす宿舎に泊まり込み始めた糸川。
「いい戦闘機をつくるにはパイロットの気持ちを知らなくてはいけない」と半年間寝食を共にします。
パイロットの考え方やとっさの反応などを調査した糸川はそれを開発に取り入れパイロットの操縦しやすい戦闘機をつくろうと心を砕きます。
そうしてつくり上げたのが…上昇力と旋回能力に秀で海軍のゼロ戦と並ぶ陸軍の名戦闘機と言われました。
やがて敗戦が濃厚になってきた昭和19年。
糸川はあるニュースに衝撃を受けます。
神風特別攻撃隊の出撃です。
爆弾を積んだまま敵に体当たりするために出撃していく戦闘機。
パイロットの多くは20歳前後の若者たちでした。
その姿を目にした糸川は新しい技術開発に没頭するようになります。
人が操縦しなくても飛行機を目標まで誘導できる技術です。
しかし資材や人材不足などで開発が進まないまま昭和20年8月15日を迎えます。
敗戦は航空業界に関わる人々の運命を大きく変えてしまいました。
連合軍による占領政策により航空機に関する研究や製作など一切の業務が禁止されたのです。
この映像は日本の軍用機を破壊する進駐軍の様子です。
糸川の研究室も閉鎖され同僚や教え子たちもちりぢりになりました。
糸川は考えます。
今まで航空機開発で培ってきた技術をこれからの新しい時代にどう生かせばいいのだろうか。
そして思い当たったのが楽器です。
航空機の開発に欠かせない振動の研究が空気を振動させて音を伝える楽器の仕組みを科学的に解明するのに生かせるのではないかと音響学の研究を始めました。
更に医学の分野にも。
脳内の電気活動を記録する脳波も振動が応用できると日本初の脳波測定器を開発。
これがアメリカの研究者の目に留まり講演の依頼を受ける事に…。
そしてこの事こそが糸川をロケット開発へと導くのです。
齊藤さんいかがでした?非常に多才な先生でいらっしゃったんだなと。
航空機から始まって楽器や脳波の日本初の開発をやられてたんだなというのは大変驚きました。
あの転換が面白いなと思いますけれども齊藤さんはスーパーコンピューターの開発というのはあるきっかけがあったと伺いましたが。
私実はアメリカ・シリコンバレーの方に10年ちょっといさせてもらったんですが2011年3月に東日本大震災があった時に私アメリカでそれをニュースを見ておりましてそろそろこれは日本に帰って日本の復興であるとか再興に何か貢献をさせて頂きたいと一番いいそのための道具は何かなというところで最終的にスーパーコンピューターというところにたどりつく事になりました。
それは糸川先生の動機とよく似てますね。
戦後の敗戦で日本人がもう立ち上がれなくなったと。
その時に糸川先生は何か若者のみんなを巻き込むような大きなプロジェクトを作って頑張ろうという事で立ち上げたのがロケットだったわけで。
似てるなと思って今聞いてたんですけどね。
さあロケットの開発に乗り出す糸川ですけれどもその挑戦を支えた最初の知恵を味わって頂きます。
講演のため渡米した糸川はシカゴ大学の図書館で運命を変える一冊の本に出会います。
宇宙空間が人体に与える影響について書かれた研究書です。
糸川は驚きます。
当時は各国でプロペラ機からようやくジェット旅客機の実用化へと研究が進められていた時期。
そんな中アメリカの目は既に宇宙へ向けられていたのです。
折しもこの同じ年…日本ではロケットも含め全ての航空機研究が解禁されます。
これからは…糸川は帰国すると早速研究者や企業に声をかけ賛同者を集めようとしますが反応はいまひとつ。
というのも日本ではまだ「ロケット」という言葉すら一般的ではなかったのです。
「まずはロケットを世間に知ってもらう事が先決だ」ととった手段がこちらの新聞記事。
この中で糸川はロケットをつくれば日本からアメリカへ20分で行けると夢のような技術を披露。
その上立派なロケットの写真も!こんなにすごいものが日本にもあるんだと見た人は驚きますが実はこれ糸川が教え子に命じて段ボールで作らせた張りぼての模型。
しかしこうした糸川の涙ぐましい努力にもかかわらず研究を支援しようという者は現れませんでした。
しかたなく材料を集めるために戦闘機の廃材をあさり始めます。
特に大変だったのが燃料となる火薬の入手です。
そんなある日の事…。
・はいもしもし。

(研究員)先生ロケットの燃料がありました。
5,000円で売ってくれるそうです。
5,000円ですか。

(研究員)そうです。
は〜…すぐ買いなさい。
思わぬ安さで手に入れる事ができた火薬。
ところが現物を見てあぜん。
なんとそれは長さ10cmほどの小さな棒状のもので数も数十本だけ。
これではロケットをつくるには到底足りないと一同落胆する中糸川はちっともめげません。
大きなロケットはつくるのも大変なうえに何度も実験できないが…その分データもたくさん集まるじゃないか。
糸川がかき集めた材料で最初につくり上げたロケットがこちら。
どうでしょう!立派ですよね。
でも長さ僅か23cm。
万年筆をちょっと大きくしたようなその大きさからペンシルロケットと呼ばれました。
ただこのロケットには大きな問題がありました。
発射実験に不可欠な速度や位置飛行ルートなどを測定するための装置がロケットが小さすぎて載せられないのです。
こんなおもちゃのようなものを打ち上げても全く意味がない。
誰もがそう考えていた中糸川はまたも動じる事なくこう言います。
「ロケットを横に飛ばす」?一体どういう事なんでしょう?糸川が考えた実験の仕組みはこうです。
まず銅線に電流を流したスクリーンを用意しロケットの前に等間隔で並べます。
このスクリーンをロケットが通過すると銅線が切れその時間から速度が計算できます。
更に破れた位置からはロケットが飛んだルートも分かるというわけです。
その上小さなロケットは重心の位置や尾翼の角度を簡単に変えられさまざまな条件で実験データをとる事ができます。
1955年3月ペンシルロケットの発射実験が日本初のコントロールセンターに座った糸川のカウントダウンで行われました。
これは実験の様子を記録した貴重な映像です。
「小型ではありますが未来の宇宙旅行への夢をのせてこのペンシルロケットがいよいよ発射される日が来ました。
発射!」。
実験には高速度撮影が可能なカメラも用意されました。
この水平実験は6日間行われ29機のペンシルロケットが発射されました。
こうして得られたデータはその後の日本のロケット開発の基礎データとなりました。
そんな糸川の知恵が日本の宇宙開発の礎となったのです。
上に飛ばなければ横に飛ばすとか発想が突拍子もないのに周りの人たちがよく付いてったなって。
横に飛ばすという発想はあの発想の切り替えというか転換というのは…。
すごいですね。
そういう知恵もおありな方だったんですね。
それも全てだから欲望をかなえるための方法として考えてるんだと思うんですよね。
絶対楽しんでますよね。
実際は何か開発しようとすると予算はいっぱい欲しい。
それは誰でもそう思いますよね。
そうですね。
ところが貧乏だったら貧乏を逆手に取ってやる。
糸川先生は晩年ねいつも書いてた色紙には…この逆境が最も大切なものだという。
齊藤さんはその足りないところを喜ぶというかプラスに受け取る経験というのはありますか?横に飛ばすというのを聞いてて浮かんだのがですね我々スーパーコンピューターを今液体につけてるんですね。
ドボンとこう全部。
映像でも出てましたね。
あれも本来であれば空気で冷やす方が当たり前ですし人も物もお金も時間もない中で何か突破口を何か実現する方法がないかという事で全部液体に沈めてしまうという方法思い当たったんですがその先にどういうふうにつなげていくのかというのを理解してもらったおかげでチーム全体が一丸となって最初のスーパーコンピューターは実は7か月で作らせて頂いて。
目標をみんなが共有してるというのが強さなんでしょうね。
そういう関係になってるんだろうと思うんですよね。
ここまでペンシルロケット開発までを見てきましたけれども更に宇宙開発を進めていくんですね糸川は。
そこにどんな知恵があったのかを味わっていこうと思います。
1954年春。
イタリア・ローマで世界60か国以上の科学者が共同で行う国際プロジェクトが動き始めます。
1957年7月からの1年半を地球観測年と定め南極観測や高度50km上空の大気の分析など地球の姿を詳しく調べようというものでした。
高度50km成層圏よりも上空の観測にはロケットが不可欠。
会議に出席していたアメリカ代表は日本にある提案を持ちかけます。
まさに「渡りに船」とも思えるこの提案。
ところが日本側は…。
担当窓口になった文部省の岡野澄は困りました。
日本でロケットなどつくれるのだろうか?頭を抱える岡野が思い出したのが新聞に載っていた一つの記事でした。
なんとそこには立派なロケットの写真があったのです。
それこそが糸川が教え子に段ボールで作らせたあのロケットでした。
そんな事とはつゆ知らず岡野は早速糸川を文部省に呼び出します。
高度100kmまで飛ぶロケットを日本でつくれますか?つくりましょう。
それはいずれ日本でもロケットの時代が来ると主張してきた糸川にようやく時代が追いついた瞬間でした。
文部省の後ろ盾で資金を得た糸川はロケット開発を加速させます。
5か月後には…その1年後には全長2.4mのカッパロケット。
観測機を搭載し高高度に打ち上げる実験を開始しました。
ところがここに来て糸川は大きな壁にぶち当たります。
いくらやっても推進力が足りず高度10km以上に上がらないのです。
問題は燃料にありました。
ロケットの燃料には液体燃料と固体燃料の2種類があります。
液体燃料は燃料効率が高くロケットを打ち上げるのに必要な推進力を得やすいうえエンジンに送る燃料の調整も容易な事から欧米では主流の燃料でした。
しかし液体燃料は保存が難しくコストが高い事から資金が少ない糸川は固体燃料を選ぶしかありません。
ところが火薬を強い圧力で固める固体燃料は大きくすると崩れてしまうためどうしても推進力の強い大型の燃料がつくれないのです。
有効な解決策が見つからないまま1957年7月地球観測年が始まってしまいます。
糸川に…研究員たちの間には悲観的な空気が。
しかし糸川は…。
なぜ糸川はかたくなに固体燃料エンジンの開発にこだわったのでしょうか。
糸川が独自開発を諦めなかった訳それは単にコストの問題だけではないある強い信念がありました。
固体燃料を自分たちの手で開発する事は日本の技術の未来をも左右する。
糸川はそう考えていたのです。
解決策が見つからないまま年が明けタイムリミットまで1年を切ったある日の事研究員の一人がこんな提案をしてきました。
早速やってみようとさまざまな素材で実験を開始。
その結果合成ゴムを用いればうまくいく事を発見します。
ついに固体燃料の大型化につながる新しい技術を手に入れたのです。
新たに開発した大型の固体燃料を搭載した全長5.4m重さ260kgの二段ロケットを打ち上げる日がやって来ました。
今回の打ち上げがラストチャンスです。
関係者が見守る中カウントダウンが始まります。
天高く舞い上がったロケットはやがて目標としていた高度60kmに到達。
あとは観測データが送られてくるかどうか…。
息を潜め装置を見守るスタッフ。
その前で計測器が動きだします。
地上は歓喜に包まれました。
地球観測年に自力でロケットを打ち上げたのはアメリカソビエトイギリスそして日本だけ。
宇宙開発の分野で日本が世界を相手に第一歩を踏み出した瞬間でした。
あくまでも自分たちの手で独自開発する事にこだわる。
その糸川英夫の信念こそが世界を驚かせ人々に夢を与え続ける日本の宇宙開発技術を生む原動力となったのです。
最初アメリカからの支援を断るというのもなかなか勇気が要るというか。
日本の当時の社会的な背景があったんでしょうけどね。
若い人たちが自信を失ってる時にまたよそから買ってというのはね。
だから糸川先生に「100kmぐらいまで上がるのできますかね」と言ったら事もなげに「やりましょう」と言ったというところがね。
まあ普通の言葉で言えばはったりですよね。
糸川先生はご自身の中に本当につくるぞできるぞという思いというのは。
同僚の人たちを。
絶対日本の技術はできるはずだと。
それと糸川先生は人のまねをする事が大嫌いという人。
だからこそ切り開いていけたという面もありそうですよね。
でもその独自の考えってやっぱりその分リスクだったりコストもかかるという感じがするんですが。
独自の考えはやっぱりその考え方を理解してもらえたり受け入れてもらえない事から始まりますし実際にそれを一歩一歩開発を進める事自体も当然ながら誰もやってない事をやっていきますのでものすごい苦労が必要なんですけれどもただそれが一歩二歩と進んでいくとやがてこいつははったりみたいな事を言ってるかもしれないんだけどもしかしたらやり遂げるかもしれないできるのかもしれないというところに期待が大きくなるところまでいってしまうと割とそこから先は自分自身もやりやすくなって周りもすばらしい人たちが集まり始めて必要なお金だったり支援も集まってくるようになる。
最初はスパコンをそんなに小さくするなんてとか液体につけるなんてみたいな。
もうできっこないと。
できるわけがないしそんなものを作って何になるんだという。
それができた時って気持ちよかったですよね。
気持ちのよさよりも先に…カッパロケットまで行けるぞという方の気持ちの方が大きいですかね。
糸川先生もよく似てるんだと思いますけど一つの事が終わりますね。
例えば国際地球観測年で60kmまで飛んだと。
普通の日本の指導者はお〜うまくいったな酒でも飲みに行くかになるんですよ。
糸川先生は次の目標を言うんですそういう時にも。
やっぱり心の中にやりたい事が段階的にずっと構想されてて…そうすると仲間はこの人に付いていけばもっともっと先まで行けるという何か希望が出てくるんじゃないでしょうかね。
我々もよく社員からはほんとに大変でしょうがないんだけれども気がつくと何かやらされてて何か物が出来てその先に何かまた面白い事がありそうなのでまたしかたなく付いていくしかないな。
そんな事はよくちょっと言われます。
たまには来ていいですよ。
うちのお店に来て1杯やって下さいよ是非。
ひと晩ぐらいはやって頂きたいなと。
いやでもそれぐらいの発想の速さというか前向きな意思が必要なのかもしれないですね。
いやその糸川が紡いできた夢が現代にどういうふうにつながっていくのかというところを実は今回はなさんがねゆかりの場所に行ってきて下さったんですよね。
はい行ってきました。
鹿児島のJAXA宇宙空間観測所に行ってきました。
それを是非皆さんで味わいましょう。
お願いします。
主人公ゆかりの地から取って置きのネタをお届けする…ここは鹿児島空港から車で2時間ほど走った大隅半島の肝属郡という所です。
向こうに見えるのが太平洋。
田んぼがたくさんあってとってものどかな場所ですよね。
そして山の向こうにはなんと巨大なパラボラアンテナが2基たっています。
あの山にロケット発射場があるんですって。
険しい山の上にこつ然と現れた内之浦宇宙空間観測所。
1962年糸川英夫の主導で建設されたものです。
日本初の人工衛星「おおすみ」をはじめこれまで30機の人工衛星と400機を超えるロケットがここから打ち上げられました
こんにちは。
こんにちは。
はなです。
よろしくお願いします。
内之浦宇宙空間観測所へようこそ。
ここの所長をしております峯杉と申します。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
峯杉さんが最初に案内してくれたのが…
(峯杉)あれが糸川先生の銅像になります。
どうぞどうぞこちら上がって下さい。
実はこの銅像全国の宇宙に憧れる人たちがこの地に糸川先生の像を建ててほしいと寄付を募り贈ってくれたものなんだそうです
ロケットが飛んでいく方向を見ると。
ロケットが飛んでいる…。
(峯杉)ロケットって東に向かって打つんですよ。
(はな)そうなんですか。
(峯杉)はい。
地球の自転の速度を利用するんで東に打つんでそうすると日本だと太平洋の。
ロケットが飛んでいる…向こう?そうです。
こちらに向かってロケットが飛んでいくわけですね。
向こうが東という事ですね。
ええ。
ここ内之浦宇宙空間観測所には敷地内に資料館があり一般に公開されています。
館内ではこれまでここで打ち上げられたロケットの模型や人工衛星の試作機ロケットエンジンなど糸川先生の時代から最新のものまでが展示されています。
こちらは今月打ち上げが予定されている最新型ロケット「イプシロン」の模型です。
一体どの辺りが最新なんでしょうか?
中身が違うんですね。
今までですと発射管制室に80人の人が入って打ち上げ前にこのロケットが正常であるかどうかを確認してたんですね。
それがイプシロンロケットだと8人になりました。
なぜそれができるようになったかといいますと多くの人たちが自分の装置が正しいかをちゃんと動いてるかどうかを確認するというその機能自身をこのロケットの中に組み込んでしまったんですね。
イプシロンロケットを人間に例えると今はまだ小さな子供くらいでこれから実験を繰り返し得られたデータをインプットして大人に成長させるんだそうです。
大人になった暁にはこれまでロケットを発射台にのせて打ち上げるまで40日以上かかっていた準備が僅か7日に短縮!
更にインターネットでつないだ…
このイプシロンロケットが成人になるまで大体何機ぐらい必要になってくると思いますか?それには経験を積まさなきゃいけないんですけど10機ぐらいで大人になってくれればうれしいなと私自身は思ってます。
最後に現在打ち上げに向け作業が進む発射台が見える内之浦一番のビューポイントに案内してくれました
すっごい大きいですね。
へ〜!こんな崖に建っているんだ。
(峯杉)そうです。
ここから東や南に向かってイプシロンロケットが飛んでいくんですね。
こういう感じで。
そうです。
もうこんな感じで飛んでいきます。
これ本当に発射された瞬間見たら感動しますね。
そうですね。
やはりテレビと全然違うんですよ。
やっぱり生で見るのがいいですよね。
あのですね音が体を全体を揺さぶるんですよ。
この日は日本全国から打ち上げを見ようとおよそ2万人が集まり成功すると町じゅうに歓喜の声が響いたそうです
ロケット開発に携わって一番大切にしている事は何ですか?糸川先生がこれからはロケットの時代だと。
そして世界の誰もやっていない事をやろうとしてたのと同様に我々はその糸川先生の精神を引き継いで更にこの時代よりも一つ先を見据えて新しいロケット新しい人工衛星をつくっていくにはどう自分たちが頑張っていけばいいかという事を考えてロケット開発衛星開発をやっています。
そして今月20日。
イプシロンロケット2号機の打ち上げが予定されています。
その日は大勢の人たちが見学に来るんでしょうね。
打ち上げの成功をお祈りしています
はなさん実際に行ってみていかがでした?いやほんとロケットの打ち上げって映像でしか見た事がなかったのでこのロケットを開発されてる方の声をじかにこうやって聞く事ができてすごく興味深かったしお話ししてるとすごく目がキラキラしていてやっぱり大きな夢を持っているこそ今前を向いていられるのかなと思いました。
でも技術が進歩してあれパソコンで少人数で打ち上げが可能になるところまでもう来てるんですね。
日本だけですよねできてるのは。
まだイプシロンって規模の小さなロケットですけども技術そのものは人工知能をフルに活用したという事で世界中大変注目してます。
イプシロンの名付け親的川さんなんですよね。
ハハッ。
いや森田…開発の主任と一緒に種子島の宿で確かお酒を飲みながら一生懸命考えた。
お酒を飲みながらと一生懸命が矛盾しているような感じも…。
じゃあ次はここでもしかして名前が出るかもしれない。
出るかもしれないですよ次なるね新しい世代のロケットの名前が。
森田って彼の発想は鹿児島にあるロケットをロサンゼルスにいる自分が打ち上げると。
遠隔操作で。
そうですよね。
そういうイメージはすばらしいと思いますよね。
今日は糸川さんの知恵からこちら「夢を与える技術を生むには」というテーマで見てきましたけれども齊藤さんのその極意を教えて頂けますか?糸川先生もちろん技術自体にも非常に情熱を注がれてこだわられて開発をされてたと思うんですね。
ただしその技術の開発に自己陶酔してるわけではなくて実はその先にあるものをずっと見据えられてたのではないかなと。
我々もスーパーコンピューターの今開発をやらせて頂いてるのはスーパーコンピューターの開発自体も非常に面白いですし意味があるんですけれどもスーパーコンピューターは次の世の中をつくり出したり日本の優秀な技術者科学者ものづくりの方々に道具と手段を与えさせて頂くそういうものだと思っているので。
夢を与える技術という観点から大事なのではないかなというふうな事を非常に強く感じさせて頂きました。
技術が目的ではなくて。
最終の目的ではないという。
その先にある事が最終的には目標であり夢であるという事ですね。
そうですね。
糸川先生も晩年は非常に人類の未来という事に関心を寄せてらしたんですけど技術が生きるのは何のためかというと人々の幸せという事でしょうから。
世界の平和とか人類の未来とかそういうものに本当に役立つ。
例えばねこんな話がありますがあるおばあちゃんがね「最近は天気予報がよく当たるようになりましたね。
こんなに天気予報が当たるようになれば気象衛星なんて要らないんじゃないですか」と。
これは気象衛星という技術が人々の生活の中にもう立派に生きてるという。
これはだから考えてみると宇宙開発というものの本当に本望だと思うんですね。
知らない間に人々の暮らしに役立ってる。
例えば齊藤さんも齊藤さんが手がけてるスパコンの存在が薄くなってもそこから始まったすばらしい社会があれば。
あっもう全然問題ないというか手段に徹してもいいぐらいだと思っています。
その先に生まれてくる新しい社会や世の中という方がよっぽど大事だろうなと思いますね。
今日お話聞いてきて何かすごい将来が待ってそうな予感を感じません?そうですね何か明るい未来が待っているような気分になってきましたね。
ねえ。
はい。
何かありがたいですね。
皆さんが夢を追求していく事によって私たちの生活が更に豊かになっていくんですもんね。
ねえ。
いやほんとにいろんなこの短時間で我々夢を頂いた感じがしました。
ほんとに今日はありがとうございました。
いいお酒でした。
ありがとうございます。
じゃあ乾杯しましょうか。
じゃ皆さんとの出会いに乾杯でございます。
乾杯。
今日はありがとうございました。
2016/12/13(火) 22:00〜22:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉「宇宙開発の父・糸川英夫〜夢を与える技術を生むには〜」[解][字]

12月20日に予定されている日本の最新ロケット「イプシロン」打ち上げを前に、日本の宇宙開発を世界をリードする存在に導いたロケット開発の父・糸川英夫の知恵に迫る。

詳細情報
番組内容
終戦後の混乱で物もお金も設備もない中、糸川が最初に作ったのは長さわずか23cmの「ペンシルロケット」。そこからわずか3年で、世界トップレベルの観測用ロケットの開発に成功する。そこには人々に夢を与える技術を生むための糸川の信念と知恵が秘められていた!小惑星探査機「はやぶさ」や国際宇宙ステーション「きぼう」など、世界をリードする日本の宇宙開発技術の礎を築いた天才ロケット博士・糸川英夫の生涯を探る。
出演者
【出演】PEZY Computing社長…齊藤元章,モデル…はな,宇宙航空研究開発機構名誉教授…的川泰宣,【司会】近田雄一