日ロ首脳会談直前の安倍総理大臣の控え室です。
外交のかじ取りを大きく左右する決断の瞬間が迫っていました。
何を勝ち取り、何を譲るのか。
政府内では、ぎりぎりまでしれつな議論が巻き起こっていたのです。
最後の戦後処理とも呼ばれる北方領土交渉。
おととい、その困難な道のりに一歩、踏み出しました。
安倍総理大臣とプーチン大統領は北方領土での共同経済活動について交渉を開始することで合意。
元島民の島への自由な往来についても検討することで一致しました。
7か月間に4度という異例の頻度で進められた両首脳の交渉。
核心部分は通訳のみを交えた2人だけで行われ内容は明かされてきませんでした。
極秘会談で何が話し合われたのか。
その一端が今回NHKの取材から明らかになりました。
見えてきたのは国益をかけてせめぎ合う日ロ両国の激しい駆け引きでした。
強硬な姿勢を崩さないロシアとの交渉に日本は、どう臨んだのか。
今回の領土交渉で日本は何をつかもうとしたのか。
そして、その選択はこの国をどこへ導くのか。
7か月に及んだ極秘交渉の舞台裏に迫ります。
北海道東部羅臼町の沖合25km。
日本固有の領土、北方領土です。
戦後71年たった今なお自由に立ち入ることができません。
今月、NHKのロシア人スタッフを派遣し取材しました。
およそ2900人のロシア人が住んでいる色丹島。
今、ロシア政府による開発がかつてないスピードで進められています。
去年、完成した島内初の総合病院。
13億円あまりをかけて建設されました。
医療施設の充実を図り安心して暮らせる環境を整備。
島への移住を促し、人口を増加させることが狙いです。
子どもたちには島の主権は日本から当時のソビエトに移ったと教えています。
第二次世界大戦末期ソビエトは日ソ中立条約を一方的に破棄。
日本が降伏したあと北方領土を次々と占領しました。
その後、日ソ共同宣言では平和条約を結んだあと歯舞・色丹の二島を日本に引き渡すとされました。
しかし条約締結と返還の見通しは今もたっていません。
島の外れにある日本人墓地。
かつて1000人の日本人が暮らしていた面影は年を追うごとに消えつつあります。
7か月に及んだ日本とロシアの北方領土交渉。
出発点となったのは、5月。
ロシアのソチで行われた首脳会談でした。
長年行き詰まっていた領土交渉を再始動させられるかが最大の課題だった、この会談。
両首脳は、議論を加速させていくことで一致したのです。
この日の会談で何が話し合われたのか。
今回の取材でおよそ3時間に及んだ極秘交渉でのやり取りが明らかになってきました。
安倍総理大臣が切った外交カード。
これまでの日本の領土交渉は四島が日本に帰属することを法的・歴史的に認めさせ返還につなげようというものでした。
しかし、この会談で示した新しいアプローチでは立場が食い違う帰属の議論をいったん、脇に置きます。
そのうえで日ロが共同で行う経済活動や人の自由な往来など双方にメリットがある分野から議論を進めます。
信頼を深めることが将来、帰属について交渉する第一歩になると考えたのです。
さらに、ロシアを交渉に引き込むためにロシア極東地域を中心とした大規模な経済協力も併せて提案しました。
プーチン大統領への説明に使われた極秘資料。
エネルギー開発やインフラの整備など8項目にわたり、日本がロシアに協力できると記されていました。
駐日ロシア大使のアファナシエフ氏です。
プーチン大統領は安倍総理大臣をファーストネームで呼び打ち解けた様子で交渉に応じていたと証言します。
日本政府が新しいアプローチを持ち出した背景には領土交渉を一刻も早く前に進めなければならない事情がありました。
元島民で作る団体の代表脇紀美夫さん、75歳です。
脇さんは北方領土の国後島で生まれました。
7歳のころに島を追われ以来、生まれ故郷に自由に行くことすらかないません。
脇さんの周りでは、ここ数年同じ北方領土出身者が相次いで亡くなっています。
元島民の平均年齢が80歳を超える今僅かでも返還に近づけるための成果を出してほしいと考えていました。
一方のロシア。
日本の提案に前向きな姿勢を見せた背景にはプーチン政権が進めてきた壮大な国家戦略がありました。
プーチン大統領が強く打ち出しているのはアジア太平洋地域の国々との連携です。
ロシアはこれまでエネルギーの最大の輸出先であるヨーロッパとの関係を重視してきました。
新たな戦略は、成長著しいアジア太平洋地域に軸足を移し関与を強めていこうというものです。
東方シフトと呼ばれています。
プーチン大統領がこの戦略を加速させるのはロシアが今、厳しい国際情勢に直面しているためです。
おととし3月。
ロシアは、ウクライナで起きた政変を機にクリミアを併合。
国際社会から強い批判にさらされました。
欧米による経済制裁とエネルギー価格の大幅な下落で苦しい経済状況に追い込まれています。
プーチン大統領に外交政策を助言している国際政治学者のルキヤノフ氏です。
東方シフトを推し進めるロシアにとって日本が持つ経済力や技術は大きな魅力だといいます。
両国の思惑が重なり合って動き出した日ロ交渉。
ところが首脳会談から僅か1か月で決裂の危機にあったことが今回の取材で分かりました。
6月に行われた事務レベルの協議。
議論の進め方をめぐって日ロの認識が真っ向から対立していたのです。
ロシアのモルグロフ外務次官は日本が提案していた北方領土での共同経済活動などについて議論を進めたいと考えていました。
しかし、日本の原田政府代表は帰属に関わる問題も並行して進めようとしてロシアの強い反発を招いたのです。
なぜ、こうした事態が起きたのか。
実は新しいアプローチに対して日本政府内からさまざまな意見が出ていたことが取材から明らかになりました。
ソチでの首脳会談の1か月前。
安倍総理大臣は原田政府代表など交渉を担当する外務省や官邸の中核メンバーを集めました。
新しいアプローチについて説明をしたところ領土問題が置き去りにされるのではないかといった強い懸念の声が上がったのです。
会議に出席していた外務省の杉山事務次官です。
懸念の背景には外務省がこれまで平和条約の締結に必要な帰属の問題の解決を最優先してきた経緯があったといいます。
一方で、安倍総理大臣には帰属を主張するだけではロシアから譲歩を引き出せないという問題意識がありました。
その最たる例が、1998年の橋本総理大臣とエリツィン大統領の首脳会談です。
当時、ロシア経済は混迷を深め北方領土返還の大きなチャンスだったといわれています。
このとき、日本は択捉島とウルップ島の間に国境線を引くことを認めるよう提案しました。
四島の帰属を事実上、認めればすぐに返還を求めないとまで譲歩。
さらに経済協力も約束したのです。
今回の取材で初めて明らかになった会談の記録には帰属以外では最大限、譲ろうとする当時の外交姿勢が記されています。
それでもロシアは帰属の問題で譲ろうとはせずその後、提案を拒否。
交渉は再び停滞していったのです。
事務レベル協議で浮き彫りになった日本政府内の意見のずれ。
報告を受けたプーチン大統領はこう発言しました。
日本の考え方が従来と変わらず経済協力も見せかけではないかと不信感を抱いていました。
交渉の仕切り直しを迫られた日本。
9月、ロシア極東のウラジオストクで開かれた首脳会談では議論を再び軌道に乗せられるかが問われました。
経済協力への日本の本気度を確かめるプーチン大統領に対し安倍総理大臣は切り返しました。
プーチン大統領から好感触を得た安倍総理大臣。
改めて、新しいアプローチの考え方を説明しました。
帰属の問題は避け四島での共同経済活動の範囲や人の自由な往来のためのルール作りについて議論を持ちかけました。
この会談の中でプーチン大統領は安倍総理大臣にある贈り物を手渡しました。
贈られたのは長年、日本から海外に渡っていたひとふりの刀でした。
プーチン大統領の「祖国に帰るべきだ」ということば。
日本政府の中には何かのメッセージではないかという見方が広がりました。
この首脳会談のころからロシアは日本から、より多くの経済協力を引き出そうと攻勢を強めていました。
経済協力を担当する世耕大臣のもとにはロシア側からの要望が相次いで寄せられるようになっていました。
ロシア側が提案してきたプロジェクトのリストです。
日本が示した8項目の経済協力に対して最終的に70近くに上りました。
中には、プーチン大統領に最も近いビジネスマンの一人ミヘリソン氏が率いる巨大プロジェクトもあります。
ロシア最北端の北極圏。
ミヘリソン氏が率いる大手ガス開発会社ノバテクはここで世界最大級の液化天然ガスのプロジェクトを進めています。
この地域で日本の年間消費量の4割近くに相当するガスを生産する計画です。
生産した天然ガスを新たに開拓された北極海航路を使って日本など、アジア各国に輸出。
東方シフトの要となるプロジェクトです。
ノバテクが日本に狙いを定める背景にはアメリカによる経済制裁があります。
この影響で、海外からのドル建てによる資金調達が厳しく制限されているのです。
この日、ミヘリソン氏が資金の確保に向けて訪れたのは日本の政府系金融機関でした。
国が出資する金融機関から融資を取りつけ日本企業からの信頼を高めるのが狙いです。
さらにミヘリソン氏は大手商社やエネルギー関連企業が集まる国際会議に出席。
民間からも投資を呼び込もうとプロジェクトへの参加を呼びかけました。
急速に接近する日本とロシア。
この状況を同盟国アメリカが注視していました。
ロシアへの制裁を主導するオバマ大統領。
安倍総理大臣に対し制裁の足並みが乱れることへの懸念をかねてから伝えてきました。
ウラジオストクでの首脳会談のあとも政府高官を日本に派遣し慎重な対応を求めていたことが日米外交筋への取材から分かりました。
アメリカのロシア政策に長年、携わってきたタルボット元国務副長官です。
オバマ政権は領土返還を求める日本の立場を理解しつつもロシア包囲網が切り崩されるのではないかと懸念していたといいます。
同盟国アメリカの懸念が伝えられる中でロシアとの向き合い方が問われた日本。
岸田外務大臣は日本を取り巻く厳しい国際情勢を説明しアメリカに理解を求めたといいます。
日本政府はアメリカに対し説明を重ねる一方でロシアには経済協力を担当する世耕大臣を派遣しました。
ノバテクのミヘリソン氏や経済協力に関わる閣僚らと相次いで会談。
ロシアとの関係を深めていったのです。
経済協力の議論が進み信頼関係が深まってきたと考えた日本政府。
ロシアに対し、領土交渉でも前進を図ろうとしていました。
10月、外務省の杉山事務次官がモスクワを訪問。
プーチン大統領訪日の際に合意文書を取りまとめようとその素案をクレムリンに届けました。
このとき日本は平和条約締結に道筋をつけるための文言を盛り込みたいと働きかけていました。
四島の帰属の問題を解決したうえで平和条約を締結するという意志をロシアと共有しようと考えたのです。
ところが、その2週間後プーチン大統領は平和条約締結を急ぐつもりはないという考えを示しました。
プーチン大統領が厳しい姿勢を見せる中次の一手をどう打つのか。
11月、交渉は正念場を迎えていました。
首脳会談の直前。
日本政府内では交渉方針をめぐりぎりぎりまで議論が交わされていました。
これは政府幹部の打ち合わせを撮影した映像です。
外交機密が含まれるため音声は使用できません。
安倍総理大臣を囲んでいるのは総理大臣秘書官や国家安全保障局長外務審議官など極秘交渉を中核となって進めてきたメンバーです。
白熱する議論。
山口での首脳会談でどこまでの成果を目指すのか意見が分かれました。
共同経済活動などで着実に前進を図り帰属の問題はあくまで脇に置くべきだ。
平和条約締結に道筋をつけるよう求め帰属の問題から逃げない姿勢を打ち出すべきだ。
安倍総理大臣は判断を迫られていました。
迎えた首脳会談。
安倍総理大臣が選んだのはあることばでした。
「私とウラジーミル」ということば。
つまり、お互いの任期中に平和条約を締結したいという表現で帰属の問題の早期解決に向けた両首脳の意志を確認しようとしたのです。
ところが、首脳会談の3日後。
ロシア国防省が択捉島と国後島に新型ミサイルを配備したと伝えられました。
太平洋ににらみをきかす軍事拠点としてロシアが北方領土を安全保障上も重視していることが改めて、浮き彫りになったのです。
一方、新しいアプローチをめぐる交渉でも積み残された論点をめぐりせめぎ合いが続いていました。
焦点は、北方領土で共同経済活動を行う際に適用する法律の問題でした。
現在、ロシアの法律が使われている北方領土。
仮に日本企業がロシアの法律に従えば島がロシアに帰属していると認めることになり日本にとって受け入れられません。
しかし日本への帰属を認めないロシアはあくまで自国の法律を適用する姿勢を崩しませんでした。
山口での首脳会談まで4日。
北方領土の元島民たちは問題の解決を求める声を伝えるためプーチン大統領に手紙を届けようとしていました。
「生きているうちに故郷に戻りたい」。
切実な願いが記されていました。
北方領土をめぐるさまざまな思いが交錯する中プーチン大統領とどんな決着を目指すのか。
首脳会談の2日前安倍総理大臣に問いました。
そして、先週プーチン大統領が日本を訪問。
7か月の交渉に一つの結論を出す日がやってきました。
2人だけの会談は95分に及びました。
何を手に入れ何が課題として積み残されたのか。
法律の問題が焦点となっていた共同経済活動。
どちらの国の立場も害することのない特別な制度作りに向けて交渉を始めることで合意しました。
しかし、両国が島の帰属を主張し合う中今後の協議は難航が予想されます。
私とウラジーミルの手で締結したいと呼びかけていた平和条約。
最後まで調整が続き声明では「問題を解決する自らの真摯な決意を表明した」とされました。
さらに、プーチン大統領は北方領土をめぐる安全保障の問題を新たに突きつけました。
領土交渉の難しさに改めて直面する一方経済協力では総額3000億円規模の合意が成立しました。
プーチン大統領の国家プロジェクトを担うミヘリソン氏も日本側から融資を確保。
大手商社との提携を手にしました。
今回の会談に期待を寄せていた元島民たち。
領土返還の道筋が見えなかったと失望の声も上がりました。
「生きているうちに故郷に戻りたい」と手紙を書いた脇紀美夫さん。
島への自由な往来の検討など今回の合意を次につなげてほしいと願っています。
首脳会談を終えた翌日。
交渉結果をどう受け止めるのか。
いまだ返還の道筋が見えない北方領土。
交渉から浮き彫りになった厳しい現実にどう向き合えばよいのか。
次の一歩が問われています。
2016/12/18(日) 21:15〜22:05
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「スクープドキュメント 北方領土交渉」[字]
北方領土問題を巡り、首脳会談で新たな一歩を踏み出した日本とロシア。秘密裏に進んだ交渉で何が話し合われたのか。関係者の証言などから交渉の一端を浮かび上がらせます。
詳細情報
番組内容
北方領土問題を巡り、首脳会談で新たな一歩を踏み出した日本とロシア。ことし5月以降、議論を本格化させてきました。一連の交渉は秘密裏に進められ、情報が極めて限られています。番組では、関係者の証言などから、交渉の一端とその裏側にある両国の思惑を浮かび上がらせていきます。「最後の戦後処理」とも呼ばれる北方領土問題を含めた日ロ交渉。その舞台裏に独自取材で迫ります。