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書き起こし ファミリーヒストリー「北野武〜父と母の真実 阿波国徳島に何が!〜」 2016.12.21

 

 

今夜ついに「この人」が登場です。
テレビの前で初めて自らのルーツと向き合います。
コメディアンの枠を飛び越え今や「マエストロ巨匠」と評される世界的映画監督として活躍しています。
今年10月にはフランスの最高勲章…日本人映画監督としては黒澤明に次いで32年ぶりの快挙です。
東京・足立区のペンキ屋に生まれ世界へ。
かつてNHKで放送した武さん原作の自伝的ドラマ「たけしくん、ハイ!」。
戦後復興期の下町を舞台に北野家の日常を描きました。

 

 

 

 


このドラマの中で武さんが特に忠実に描いたのが母親の姿でした。
どうしたらこんな答えが出てくるの?いいよ!「いいよ」じゃないよ!ほらもう一回やってみな。
母ちゃん見ててあげるから。
後でやるよ。
後じゃないの!算数なんて今やっとかないとずっと分かんなくなっちゃうんだよ!口癖は「勉強しろ!とにかく勉強しろ!」。
時にさきは子供たちの友達づきあいにまで口を挟みました。
なぜさきはそこまで「教育」にこだわったのか?そもそも北野家とはどんな家だったのか?「たけしくん、ハイ!」ではそうした背景は描かれていませんでした。
こんばんは。
「ファミリーヒストリー」司会の今田耕司です。
アナウンサーの三輪秀香です。
さあ今夜のゲストは北野武さんです。
どうぞ!さあついにお越し頂きましたね。
ありがとうございます。
北野家のルーツでございますが…。
武さん知らないんですか?先祖がずっとたどったら。
やりましたけどいろんな人入れてる方でしたから。
北野武の「ファミリーヒストリー」。
まずはこの方に話を伺います。
4つ上の兄北野大さん。
環境化学のスペシャリストです。
大学教授として74歳になった今も教壇に立ち続けています。
大さんは北野家の5人きょうだいの三男。
東京・足立区の実家では両親の他父方の祖母も同居していました。
弟の武とは家族のルーツについて話す機会は一度もありませんでした。
きょうだいの中で最後まで実家にいた大さんですが両親からもルーツについてはほとんど聞いていないといいます。
武の祖母北野うしは実際には父の叔母であり養母。
かつて義太夫節の師匠だったといいますがその素性は謎に包まれてきました。
ドラマの中でも自宅で義太夫の稽古をつけるうしが登場しています。
武!
(義太夫節の語り)コラ!どうしてそうなるのよ!
(義太夫節の語り)ちゃんとやってごらん!
(義太夫節の語り)違うだろお前!
(義太夫節の語り)実は今回の取材でうしのルーツに関する手がかりが東京大学に眠っている事が明らかになりました。
明治時代に刊行された新聞や雑誌を幅広く集めている書庫。
特別な許可を得てカメラが入りました。
花柳界や芸能界の情報を扱った雑誌「別世界」です。
明治29年1月号の特集記事で当時の人気娘義太夫が紹介されていました。
「竹本八重子」。
当時23歳だった北野うしの芸名です。
「現今妙齢の娘義太夫真打の中でも容貌美にして技芸の巧みなるもの。
嬢は本名を北野うしと言い明治6年9月をもって阿波国徳島通町2丁目に生まれる」。
すげぇな…。
祖母うしのルーツ阿波国徳島。
うしの生まれた通町は今も使われている町名でした。
徳島城があった場所のすぐ近くです。
徳島城博物館の根津寿夫さんが案内してくれました。
かつて通町は徳島有数の中心街として栄えました。
明治の頃うしの実家があった2丁目には金物問屋やお茶問屋更に舶来品の時計や自転車を扱う店などが建っていました。
人気娘義太夫としてうしが紹介された雑誌です。
通町で父親が商売をしていた事も記されています。
「父を鶴蔵と言い粉名屋をもって生業とす」。
北野家はうどん粉を扱う粉問屋を営んでいました。
店主はうしの父北野鶴蔵。
武の父方の曽祖父にあたります。
多くの顧客を持ち鶴蔵の商売は上々でした。
(義太夫節の語り)鶴蔵には大きな楽しみがありました。
店の奥自宅の居間から聞こえてくるのは義太夫節の語り。
8歳になったばかりの次女うしは猛烈にのめり込んでいました。
「義太夫節」とは浄瑠璃の流派の一つ。
太ざおの三味線にのせて独特の節回しで物語を語ります。
特に徳島は大阪淡路と並んで「人形浄瑠璃」の本場。
江戸時代初期より民衆の最大の娯楽でした。
徳島に生まれた人々にとって義太夫節の語り手は憧れの的。
うしもその一人でした。
うしの非凡さを裏付ける資料が徳島に残されていました。
(取材者)こちらですか?はい。
明治17年徳島で開かれた浄瑠璃の審査会の番付表です。
既に師匠から竹本八重子という芸名をもらっていたうし。
当時徳島には200人を超す女義太夫がいました。
その中で八重子の番付は僅か11歳ながら上位に位置する東前頭22枚目。
異例のスピード出世でした。
順風満帆だった粉問屋を営む北野家。
ところが暗雲が立ちこめます。
維新後の資本主義黎明期。
鉄道や紡績など会社の設立が過熱し金融迫が起きました。
全国的に倒産が相次ぎ日本経済は危機的状況に陥ります。
当時全国第2位の規模だった民間の銀行徳島久次米銀行。
恐慌から1年後持ちこたえられず休業に追い込まれました。
鶴蔵は一気に資金繰りに行き詰まったのです。
うしを紹介した記事によれば久次米銀行休業の翌年明治25年に上京している事が分かります。
実家を助けるため東京にチャンスを求めたうし。
その後日本橋や新宿の寄席に積極的に出演していました。
明治30年に東京で発表された番付表です。
並み居る女義太夫を抑えうし竹本八重子は東前頭の6枚目まで上昇。
そしてうしは徳島の実家へ仕送りを続けました。
現在の通町2丁目です。
北野家や粉問屋の形跡はありません。
その後の鶴蔵の足跡や親戚などこれ以上追跡する事はできませんでした。
もうだから…その中で勉強してみんながエリートになるってすごいですね。
明治37年傾いた徳島の実家を救うため東京の寄席で孤軍奮闘するうし。
この年一人の少女が千葉の農家に生まれました。
後の武の母さきです。
「ファミリーヒストリー」続いてはさきの生い立ちに迫ります。
向かったのは…さきの母校です。
大正7年の卒業生名簿からさきの旧姓と実家の住所が分かりました。
当時の土地台帳と附属の地図を見ると870番地はほとんどが田畑で宅地は1軒あるのみ。
しかも土地の所有者は小宮家ではありませんでした。
小宮家はこの土地に住み米や麦大豆を作る小作人だったと言われています。
父の名は寅吉。
武の母方の祖父です。
この家の次女として生まれたのが後の武の母さきでした。
さきの戸籍をひもとくと驚くべき事実が分かりました。
両親以外に3人の姉や兄も若くして全員亡くなっていたのです。
長女きわは12歳長男常吉は13歳次男巌は僅か1歳で伝染病に倒れていました。
大正7年跡取りも働き手もいない小宮家は農家をやめます。
一人残されたさきは当時14歳。
頼る当てもなく東京へ仕事を求めました。
今回の取材でさきが奉公していた山家が明らかになりました。
佐代子さんの祖父山市平は男爵ではなく実業家。
陸軍に衣服や毛布を卸しばく大な富を築きました。
東京・本郷区に構えた屋敷は600坪。
庭においなりさんを構えるほどの大邸宅でした。
佐代子さんはさきと面識はありませんが幼少期に暮らした屋敷の様子は覚えていました。
そんな事一番先に言ってバカみたいだけど。
それで…14歳のさきは職業あっせん所の紹介で山家の奉公人になったといいます。
与えられた仕事は屋敷中の便所掃除などの下働きでした。
先輩の奉公人たちは当たり前のように裁縫や料理ができました。
しかし母やきょうだいたちと早くに死別したさきには教えてくれる人は誰もいませんでした。
さきはこの状況とどう立ち向かったのか?晩年自分の娘には語っていました。
武の姉安子さん80歳。
今回テレビカメラの前に初登場です。
いきなり話題はこの取材前日に安子さんが行ったコンサートの事に及びました。
さきにとって唯一の娘安子さん。
奉公時代の苦労話を最も話せる相手でした。
さきがどうやって裁縫を身につけたのか聞いていました。
(取材者)ああそうなんですか。
意地。
意地。
負けず嫌いのさきが目を付けたのは休憩時間に配られる今川焼。
自分の分は全て奉公人頭に渡し裁縫のいろはを教えてほしいと懇願したのです。
更に僅かな睡眠時間を削りその日習った縫い方の復習も欠かしませんでした。
「このままでは終わりたくない」。
さきの意地でした。
そんなある日の事…。
奉公人の部屋に山家夫人が主人のはかまを持って現れました。
裁縫が得意な奉公人頭は不在。
主人のはかまと聞いて他の者たちは尻込みしていました。
そこへ便所掃除に向かうため偶然通りかかったさき。
思い切って言います。
しかし「裁縫ができるはずもない」と夫人は聞く耳を持ちませんでした。
「できると言っても信じてもらえないむなしさ」。
この時味わった悔しさをさきは生涯忘れませんでした。
山家が一人の女性を屋敷に招きました。
娘たちに義太夫節を習わせる事にしたのです。

(義太夫節)稽古をつけるのはかつて活躍した女義太夫…徳島の実家を救うため上京したあの北野うしでした。
実家はその後粉問屋を畳みましたがうしは東京に残り弟子をとって義太夫節の指導に当たっていたのです。
この時稽古部屋の世話係になった奉公人。
それが19歳に成長したさきでした。
「お互い実家が没落し食べていくために上京した境遇」。
2人が打ち解けるのに時間はかかりませんでした。
後に家族となるうしとさき。
2人を結び付けた運命の出会いです。
う〜ん…。
う〜ん…。
いやぁ〜…。
ただ…ちょっと…意地ですね。
さきさんの意地ですね。
あ〜ありがとうございます。
母さきが大切に保管していた一枚の写真があります。
(取材者)洋品屋?「暫新帽子製造正木屋北野」。
え〜すごい。
うしとさきは帽子や洋服を製造販売する洋品店を営んでいた事が分かりました。
2人が山家で出会った大正12年。
実は当時うしは恋人との間に20代になる一人息子がいました。
さきの逆境に負けない心の強さがすっかり気に入ったうし。
身寄りのないさきには願ってもない誘い。
しかも裁縫の腕を生かしたいさきにとってはうしの洋品店で働ける事は何よりの喜びでした。
さきは奉公を卒業。
大正13年1月うしの息子北野徳次郎と結婚しました。
ところがその僅か7か月後徳次郎は急死。
盲腸炎をこじらせた事が原因でした。
しかしさきにふさぎ込んでいる時間はありませんでした。
時代は和装から洋装への転換期。
男性はおよそ9割が外出時に帽子をかぶるほど。
女性も「モダンガール」という言葉が流行するほどの洋装ブームでした。
さきの作る帽子や洋服は飛ぶように売れます。
それから2年後…。
いらっしゃいませ。
うしが一人の男性を店に連れてきました。
見るからに職人風情の男。
うしのおいっ子で漆職人の正端菊次郎。
後の武の父です。
(取材者)珍しいお名前ですね正端って。
自らのルーツを一切語らなかった菊次郎。
番組で追いかけてみました。
まず明治32年生まれの菊次郎の戸籍をひもときます。
菊次郎の父つまり武の祖父にあたるのは正端友八。
祖母はエツ。
菊次郎は次男として浅草に生まれました。
ところが父友八は菊次郎が生まれる直前に死亡。
その後エツは別の男性との間に3人の子供を授かります。
そこでこの3人の子供の行方を追い菊次郎に関する手がかりを見つけようと試みました。
菊次郎の異父兄弟正春の小学校の作文が墨田区の資料館で見つかりました。
テーマは「関東大震災からの復興」。
しかし家族に関する記述はなく手がかりはつかめませんでした。
その下の弟春之烝が暮らしたアパートも板橋区で捜し出しました。
晩年まで1人暮らし。
10年ほど前に亡くなったといいます。
残りの兄弟の消息も不明。
結果新たな手がかりを見つけだす事はできませんでした。
次に着目したのは「正端」という珍しい名字。
日本の名字研究の第一人者信幸男さんはルーツをこう分析します。
(取材者)同じ字で?「正端」という名前のルーツも徳島にあると思われます。
うしの実家北野家があった徳島市中心部から北へおよそ10キロ。
室町時代勝瑞城が建ち阿波国の政治文化の中心地として栄えました。
ところが天正10年土佐長宗我部元親によって城は落とされます。
勝瑞の名字を名乗ってきた武士たちはこの地を追われたのです。
その後全国を調べたところ徳島県阿南市に「正しい」の字を使う正瑞家が多く集まっている事が分かりました。
現在も阿南市に10世帯ほどが暮らす正瑞家。
ルーツは勝瑞城にある事を伝え聞いてきました。
先祖への誇りを持ちつつ字を変える事で正瑞家は生き長らえてきたと考えられています。
いやぁ〜。
「菊次郎の正端家がいつの時代に徳島から上京したのか?」。
その謎は最後まで分かりませんでした。
また「ずい」の字の部首の違いについては明治の戸籍登録の際誤って登録した可能性が高いと専門家は言います。
明治32年浅草で生まれた正端菊次郎。
父親は早くに亡くなり母親も再婚。
幼少期より奉公に出されたといいます。
漆職人になり生計を立てていました。
そんな菊次郎を連れてきたのが北野うしでした。
うしは菊次郎がおいにあたると晩年まで家族に話しています。
うしに手を引かれ洋品店に連れてこられたのは27歳の時。
寡黙で人のよさそうな菊次郎にさきも好印象を抱きました。
大正15年5月17日北野家を残したいといううしの願いを受けて…その4日後菊次郎はさきと結婚しました。
2人の運命の糸をうしが手繰り寄せたのです。
ところがこの菊次郎…。
(三輪)ウフフフフフフ…。
お姉さん…!
(三輪)困りますねぇ。
なんと結婚から僅か5年で洋品店を潰してしまった菊次郎。
店の売り上げも自分の財布。
持ち前の人のよさに加えてばくちに手を出し借金を抱えた事が倒産につながりました。
昭和6年うしは店を手放し1人暮らし。
菊次郎とさきは幼い長男と次男を連れて足立区の平屋へ。
菊次郎によって家族は厳しい生活に追い込まれたのです。
(取材者)あの…娘さんだからいいんじゃないでしょうか?という事ですが…。
ああ商品を…。
ハセガワ?全然違いますね。
全然違いますよ!いやぁ〜…!東京・足立区にある…武の父菊次郎がペンキを塗った部分。
仕事の跡が残されています。
それは神輿蔵の扉部分。
昭和30年代に塗ったものです。
昭和6年以降足立区の小さな平屋に移り住んだ北野家。
借金を抱えた貧乏生活でした。
値段の張る漆の仕事が減り菊次郎はペンキ職人として再出発していました。
昭和11年には長女安子が。
昭和17年には三男大が誕生。
仕事に気合いが入る菊次郎。
かつて洋品店を潰したほどの型破りな性格はというと…?
(三輪今田)顔!顔!顔!いくら人がよくて「悪いじゃねえか」ったって骨接ぎ塗りに行って足くじいたって男はいまだにいないですけどね。
これは弟のギャグですけど。
そのぐらいね…。
ほんとの話ですこれは。
戦争中菊次郎は山梨の戦闘機工場に徴用され機体の塗装を担当していました。
そのまま終戦を迎えます。
そして昭和22年。
北野家に4番目の男の子が誕生。
名前は「武」。
「竹のようにどんな困難にも耐えてすくすく伸びてほしい」。
両親が名付けました。
このころさきは子供たち全員に毎朝行っていた事があります。
家に1本しかなかった包丁で子供たちの鉛筆を削る事を欠かしませんでした。
「とにかく勉強」。
徹底させました。
菊次郎の収入が期待できないため家計のやりくりは大変でした。
さきは内職を掛け持ちし家族を支えます。
和服の仕立ておもちゃの組み立て雑誌の付録作り…。
このころ離れて暮らしていた祖母のうしも北野家で再び同居を始めました。
教育に対するさきの思いを察し義太夫節の稽古代を家計に回すようになりました。
もうそれは言ってました。
14歳で家族を失い貧しさの中で生きてきたさき。
手に職がなかったばかりに5年以上奉公先の便所掃除に甘んじました。
さきの意地がありました。
そのかいあって北野家の長男重一は国立千葉大学工学部の前身東京工業専門学校を卒業。
都内の高校で機械工学を教えその後もエンジニアとして活躍しました。
長女安子は都立の進学校を卒業後結婚を機に軽井沢でペンション経営。
三男の大は明治大学工学部工業化学科に入学。
その後大学教授に。
そんな中末っ子の武は…?近所からの評判は「遊びの天才」。
打ってよし演じてよしそして笑顔よしの人気者。
常に武のまわりには大勢の友達が集まりました。
すごい!めちゃくちゃ集まってる。
そして昭和40年さきに尻をたたかれ続けた武は…さきの信念が子供たちに届いた瞬間でした。
ところが…。
母の言いつけに従い入学した工学部機械科。
けれども武にはその先の未来が描けませんでした。
武大学3年の時学校をやめる覚悟を固め家出を決意します。
家族にないしょで荷物を運びだそうとしたその時…。
さきに勘当を言い渡された武。
きょうだいたちにも何も告げず家を飛び出していきました。
武さんはやめてるつもりやったんですねもう。
昭和47年武が向かった先は浅草のストリップ劇場。
ショーの合間に行われるコントや漫才が人気を博し連日大盛況でした。
武はここでエレベーターボーイの職にありつきます。
当時劇場で寝泊まりしていた武。
その部屋は今も残されていました。
出演者の楽屋の更に奥。
うわぁ〜…!え〜こちらが昔武さんが生活をされてた部屋ですね。
僅か3畳の屋根裏部屋。
武の芸人人生はここから始まりました。
2年の下積みを経て先輩芸人の兼子二郎と…昭和49年正統派漫才で浅草デビューを果たします。
ところがまったくうけず…。
目の肥えた観客からやじを浴びせられる事もしばしば。
甘い世界ではありませんでした。
売れない時代に武が通った浅草の居酒屋。
河野さんは元浅草出身の役者であり武の先輩。
お金のない武はどうやって店で食べていたのか?河野さんが再現してくれました。
しつこい…。
やつしつこいから…。
やっぱり気付くよそれだけやりゃあこんなんなって。
ねえ。
(取材者)中のお客さん何て言うんですか?
(取材者)犬みたいじゃないですか。
そうだよ!河野さんはこのころの武に他の芸人にはない姿を見ていました。
(取材者)勉強してんですね。
「先輩の後ろ姿を見て正統派漫才をしているだけでは俺は絶対に売れない」。
母さきと決別し自ら退路を断った武には意地がありました。
武は小説から時事問題に至るまであらゆるジャンルの本を読みあさりました。
舞台作家に何度も質問をしネタをゼロから作り上げていきました。
そして生まれた漫才が…。
偽善や建て前を笑い飛ばす…従来の正統派漫才を根底から覆すスタイルはお笑い界に賛否両論を巻き起こします。
その結果テレビで注目される事となりました。
音信不通になっていたきょうだいたちは突如テレビ画面に現れた武に驚きます。
武の家出から20年余り。
母さきは足立区の実家で三男の大と同居していました。
変身!
(笑い声)既に10本近いレギュラー番組を抱えスターダムにのし上がった武。
テレビから連日流れる息子のバラエティー番組をさきは食い入るように見つめていたといいます。
大学の工学部をやめ芸人という未知の世界へ飛び込んだ息子武。
さきは心配が募りテレビを見て笑う事は一度もありませんでした。
天寿を全うしました。
今回の取材でさきの遺品が見つかりました。
大さんの自宅奥に大切にしまわれていた物です。
う〜ん…ジャジャン!ないしょでしまっていたタケちゃんマン人形。
さきなりに一生懸命息子を応援していました。
そして大正時代うしと一緒に営む洋品店で使っていた五つ玉のそろばんも出てきました。
更にこんなものまで…。
平成4年武が2年連続で好きなタレント100人の第1位に選ばれた時の記事。
切り抜きなどめったにしないさきが大切に取っていたのです。
母の反対を押し切り別の道を歩んだ息子。
誰よりも怒った母。
誰よりも心配し誰よりも応援していたのもまた母さきでした。
いやぁいかがでしたでしょうか?大事に取っておられてましたねタケちゃんマン人形。
う〜ん…。
当時は録画もね機械もあんまないですからオンタイムで全部見てはったっていう事ですよね武さんの番組。
あれはご存じでした?人形は?ああ…。
う〜ん…。
浅草…。
あの〜。
家出されたから。
うん。
その1枚だけが…。
知らなかったですか。
ですね。
いまだにですか。
だから…すぐお母さんの顔が浮かぶんですか。
武の母校。
恩師が出迎えてくれました。
武の小学2年から6年までの担任教諭です。
かわいい教え子の漫才デビュー。
藤さんはこう振り返ります。
二十歳の時だからね先生が。
実は藤さんには60年ほど前の忘れられない思い出があります。
戦時中兵舎として使われた校舎は壁がすすけて真っ黒でした。
夏休み学校へ行くとある父親の姿が目に飛び込んできたのです。
(取材者)休み明け生徒さんたち喜んだんじゃないですか?北野家の中では教育の事にほとんど口出しをしなかった菊次郎。
それでも「息子たちが一生懸命勉強に取り組めるように…」。
家族にないしょで教室の壁を塗っていました。
この事を後で知った菊次郎の養母うし。
「これぞ私の息子」と目を細めていたといいます。
菊次郎は昭和54年80歳でこの世を去りました。
平成16年9月それは武にとって思わぬ出来事でした。
明治大学が武の世界的な活躍を評価し特別卒業認定証を授与したのです。
57歳での大学卒業でした。
この5日後の9月12日。
大さんの妻が北野家の菩提寺を訪れた時の事です。
うし菊次郎そして母さきが眠る北野家の墓前。
この日家族で誰よりも先に手を合わせていたのは武でした。
希代のエンターテイナー北野武の「ファミリーヒストリー」。
それは全身全霊で教育に情熱を注ぎそれぞれがもがき成長した下町家族の物語でした。
まあだけど…ひどいやな。
何で…。
いい話だったのに…!2016/12/21(水) 19:30〜20:43
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「北野武〜父と母の真実 阿波国徳島に何が!〜」[字]

武さんのルーツは謎ばかり。それが今回、祖母うしに関する資料が東京大学で見つかる。すると徳島で、ある新事実が。そして、姉・安子さんがテレビ初登場。73分拡大版。

詳細情報
番組内容
武さんのルーツは謎ばかり。父と母の実家すら分からない。それが、祖母・うしに関する手がかりが東京大学で見つかった。そこから、北野家のルーツが次々に浮かび上がる。また、母・さきに関しても、武さんがこれまで聞いていたのとは全く異なる生い立ちが明らかになる。そして今回、武さんの姉・安子さんがテレビ初登場、母や弟への思いを告白する。初めて知る母の思いに、武さんは涙を浮かべる。泣けて笑える73分拡大版。
出演者
【ゲスト】北野武,【司会】今田耕司,三輪秀香,【語り】余貴美子