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書き起こし 残響の街・長崎〜福山雅治 故郷を撮る〜[SS] 2016.12.22

 

 

長崎市出身の福山雅治さん。
2016年福山さんはふるさと長崎を旅しました。
雨降ってきちゃいましたね。
(シャッター音)福山さんは音楽活動などで長崎の街に響く独特な音の余韻残響に注目するようになりました。
(シャッター音)今回の旅のテーマはライフワークの写真を撮りながら残響を感じる事。
長崎の写真の中に僕にはその音も聞こえてたっていう。
静止画なんだけど音も聞こえてるっていうようなあっこの感覚っていうのは多分長崎特有のものなのかな。

 

 

 


聞こえてきたのは500年にわたって長崎を支えてきた人々の営み。
先人たちの喜びや悲しみ。
さまざまな思いが響いています。
そして訪れた教会。
この場所で長崎の歴史に正面から向き合った歌を歌います。
・「我はこの丘この丘で生きる」・「幾百年越え時代の風に吹かれ」
旅の始まりは大雪
長崎市では1906年の観測以降最高となる積雪量を記録した
おお。
この景色は初めての景色だなこれ。
すごいな。
こんな長崎はないですから。
僕も見た事がないです。
見えないのもまたよし。
(シャッター音)お子様が家族お父さんとお母さんと一緒にこうやって雪だるまとかこう作ってるんですねああいうふうに。
この見た事のない風景を楽しんでるっていう。
すごい寒いんですけど温かい気持ちになれる時間ですよねこの時間は。
すごくいいタイミングでこの場所に来れたと思います。
かつての爆心地で無邪気に遊ぶ子どもの姿を見てこれこそが平和なのだと感じた
港を望む坂の上。
子どもの頃この辺りでよく遊んでいた
うわ。
うわ。
この坂にこんな雪の日に来るとは思わなかったですよ。
ここものすごく急な坂道で。
僕が付けたネーミングはきゃあまぐる坂。
おばあちゃんちに行くのに歩いてきてたんですけれどもここから見えるその〜風景工場であるとか巨大な船。
その中の一つにあそこにある四角っぽいクレーンなんですけどもあれが今回世界遺産になったと。
もう子どもの頃から見てるものなので自分ちの近所から有名人が生まれたみたいな。
「あっジャイアント・カンチレバークレーン知ってる知ってる。
あいつは昔からいたよあそこに」ってみたいな感じでうれしくなっちゃいました。
あまりにも身近な存在すぎてその歴史であるとか偉大さ功績足跡というものは全く知らなかったですね。
昔からそこにあった見慣れたクレーン。
一体どこに世界的な価値があるというのだろうか?
クレーンがあるのは造船所。
ほぼ30年ぶりに訪問した。
高校卒業後電気会社に就職。
船舶機器の営業でここに出入りしていた
あ〜これだこれだ。
こちらがジャイアント・カンチレバークレーンです。
はいはいはいはい。
来ましたね。
これ。
力強いですねこれ近くで見ると。
そうですね。
やっぱり近くに来るとこの迫力大きさは実感できると思います。
あ〜すごいな。
明治42年イギリスからやって来たジャイアント・カンチレバークレーン。
100歳を越えている。
高さは62メートル。
20階建てのビルと同じだ。
3階建ての建物が珍しかった明治時代長崎の人たちはその大きさにどぎもを抜かれた事だろう
おはようございます。
あっおはようございます。
これからクレーンを動かすという
「ご安全に」と言いながら指でゼロを作る挨拶。
無事故を願う昔から続く習慣だ
じゃあ気を付けて。
ご安全に。
ご安全に。
あっ動いてる動いてる動いてる動いてる。
真下から見るとでかいもんが動いてるっていうのを実感しますねこれ。
このタイプのクレーンで現役で活躍しているものでは世界最古だ
あそこが操縦室。
そうですね。
ちょうど作業者が見えてると思いますが。
操縦室には安全を気遣う声が響いていた
浮いた。
浮いた浮いた浮いた浮いた。
すごい精度ですね。
ほぼ揺れてないですね。
ああ行った行った行った。
明治以降大型化した船のエンジンなどを運ぶのに大活躍したという。
日本の近代化を支え現役で働いている事が評価され世界遺産になったのだ
まさか100年使うというふうには思ってなかった…。
かもしれませんですね。
ですよね。
はい。
(シャッター音)
これからもご安全に
長崎は日本の造船業発祥の地。
ルーツは江戸時代に遡ります。
鎖国時代でも唯一海外に開かれていた長崎。
造船技術も外国人によってもたらされました。
そして明治には1万トンを超える船にも対応できる巨大なドックが建設されるようになりました。
その一つが…これも世界遺産です。
明治38年に建設され今も現役。
船を修理する時は中に水を満たし船を入れます。
このドック当時の技術の粋を集めて造られたという。
巨大な船と大量の水をしっかり支えるためドックの底には頑丈な御影石が一つ一つ整然と並べられている
(シャッター音)
雪がその形を際立たせていた。
丁寧な仕事ぶりだ。
さまざまな色の塗料がついた壁。
一体何隻の船を修理してきたのだろう
明治41年には日本初の1万トンを超える大型客船が巣立っていったという
すごい技術ですね。
なんとかやっぱり日本から長崎から世界一流の船を造りたいと当時の人たちが頑張ったんですね。
その象徴がこの第三船渠。
この巨大なドックには明治の長崎人の心意気が詰まっていた
18歳で会社勤めをしていて長崎で。
工場の中は入った事はあるんですよ。
社会人になってすぐでお恥ずかしい事にあまり関心もなくという状態だったので。
何か工場というとはたから見てると鉄で出来た大きな要塞のような感じがするんですけども。
そこには明治の日本人の知恵と技術と強い気持ちがこの長崎という場所に集結して実現できたっていう事が何よりすごい事なんじゃないのかな。
日本の発展につながっていったんだなという事を強く感じましたね。
長崎の造船所。
世界と肩を並べようと汗を流した長崎人の活気に満ちた声が聞こえてくるようだった
福山さんはかつてふるさと長崎に背を向けていたといいます。
18歳で長崎を出たんですけれどもまあ…ずっと出たいと思ってましたね。
長崎を。
若いんで子どもなんで生意気なんでやりたい事は分からないのにやりたくない事はいっぱいある。
「それじゃないんだよな」みたいなとにかく何かこうこれじゃない感みたいな。
退屈な街なんだろうなっていうふうに思い込んでましたよね。
長崎の見え方が大きく変わったのは40歳。
大河ドラマ「龍馬伝」に出演して長崎の歴史に触れ当時の人々の思いを感じるようになったからです。
本当にお恥ずかしい話ですけども40前後で自分の生まれ育った街の事を知り始めたので。
それは多分今しか見てなかったしそしてこの先の事しか見てなかったので。
じゃあ過去どうなってたんだっていう事には…うん。
目が行ってなかったですよね。
全然。
更に2015年明治日本の産業革命遺産としてクレーンやドックと共に長崎に8つの世界遺産が誕生。
福山さんは長崎が持つ独特な歴史にますます注目するようになりました。
もう一つ僕が知っている場所が世界遺産になった。
長崎港から船に揺られる事30分
軍艦のように見えるその姿からいつしかそう呼ばれるようになった
ちょっと怖い廃虚だったんですよね。
僕らが高校生ぐらいの頃っていうのは。
アメリカ軍が偵察に来た時に空から見て日本はこんなに巨大な軍艦をもう既に持っているんだっていう事で引き返したっていうような都市伝説があって何かちょっとえたいが知れないんだけどかっこいい場所っていうような印象も子どもの頃はありましたよね。
前に来たのは2008年。
世界遺産になって初めて上陸する
あ〜。
だいぶ崩れましたね。
かなりもう崩壊が進んでますねこれね。
非常にその…切ない世界遺産ですよねここはね。
正式名は端島。
明治から炭鉱の島として栄えますが昭和49年に閉山。
今は無人島です。
この島で取れた石炭は全国トップクラスの火力を誇ったといいます。
国の近代化を支えた製鉄業に欠かせませんでした。
おお〜光ってますねこれ。
まさにブラックダイヤモンドというやつなんですねこれが。
これがもう山バ〜ッとあった訳ですね。
掘れていた訳ですね。
炭鉱の坑道は島の真下に延びていました。
最も深い所は地下およそ1,000メートル。
最新の設備が惜しみなく投入されました。
昭和30年代には島の人口が5,000人を超え人口密度は世界一といわれました。
島の人たちの収入は当時の平均的なサラリーマンの2倍もあったといいます。
ここは坑道の入り口だ。
かつてエレベーターが地下深く続き炭鉱夫たちでにぎわっていたに違いない
坑道は埋められてもうない。
草木がその残響を消そうとしているようだ
この島が軍艦のように見えるのはアパートなどの集合住宅が密集しているからだ。
全部で30棟以上もある
建物は崩壊が進み廃虚と化している
大正5年に建てられた日本最初の鉄筋コンクリートのアパートがあった
台風などで高潮をかぶるため頑丈な住宅がどうしても必要だった
今年100歳。
100年建ってる高層建築って日本だとないですよね。
しかもこんな小さな島に建ってますからね。
…であと1年もしくは2年以内にはもう倒壊してしまうだろうというふうにいわれているんですよね。
うん。
建物の中には当時の暮らしぶりが残っていた
島の人たちの声が聞こえてきそうだ
しかしその後時代は石炭を必要としなくなった。
昭和49年100年足らずの島の歴史は終わった
黒いダイヤとかつて呼ばれた石炭ですけれども産業を工業を成長させていく…。
そこに人が集まりお金が集まり一気に成長しきっと人類がある時期から繰り返してきたその活動をすごく濃密に短い時間で体現した島なんだろうなという事を一日今日見て回って思いましたね。
静寂に包まれた軍艦島。
しかしそこには繁栄と衰退というあまりにも極端な人の営みが響いていた
長崎は坂の多い街です。
雨降ってきちゃいましたね。
坂の街長崎ならではの風景があるといいます。
やっぱり長崎は夜景が魅力ですから大事な大事な街の魅力街の景観ですし。
当然自分の思い出の景色なのでキラキラとまぶしい街の明かりっていうのはずっと続いてほしいですよね。
細長い入り江を山々が取り囲む地形の長崎。
斜面にへばりつくように家々が立ち並んでいます。
日が暮れて明かりがともると現れるのが圧巻の風景。
更にこの地形がもう一つの特長を生んでいます。
ちょっとやっぱり独特な音の街だなとは思っていて。
いろんな国やいろんな街に行ってて思うんですけど。
長崎の音はやっぱ長崎の音だなと思う。
やっぱ山に囲まれてるので音が上に抜けていかずにこう響き合う。
自分の印象の中ではっていう。
(汽笛)ああこれですよね。
(汽笛)長〜いんですよ。
残響が。
(汽笛)
(鐘の音)長崎は教会の街でもあります。
その一つ現存する日本最古の教会…江戸時代末期鎖国が解かれて日本に来るようになった外国人のために建てられました。
世界遺産候補となっています。
今回初めて大浦天主堂に入った
世界は今なぜ長崎の教会に注目しているのだろう?
時は江戸時代末期の1865年。
キリスト教が禁止されて250年がたち既に信仰は途絶えたと思われていました。
そんな時10人余りの日本人の男女がやって来てフランス人の神父にキリスト教徒である事を打ち明けました。
250年も続く弾圧にもかかわらずキリスト教が絶えなかった。
この事実はヨーロッパで東洋の奇跡と呼ばれました。
長崎はキリスト教とどのような関係があったのだろうか
長崎のキリスト教の歴史はおよそ500年前に遡るという
16世紀キリスト教の街として始まった長崎。
街にはポルトガル人があふれ次々と教会が建てられました。
そして誰もが平等という精神が受け入れられ長崎はキリスト教の街として発展していきます。
しかしキリスト教の力が大きくなる事を恐れた豊臣秀吉は禁教令を出しキリスト教徒を徹底的に弾圧し始めます。
長崎には禁教となっても隠れて信仰を守り続ける人たちがいたという。
人里離れたうっそうとした森の中にその様子をしのばせるものがあった
この岩ですか?はい。
見つからないように岩の下に隠れて祈りの言葉を練習したという
書物になってたりしてる訳じゃなくて口述で伝えていく。
はい。
秘密証拠を残さないようにするという。
命懸けだった祈りの言葉。
緊迫した息遣いが伝わってくるようだ。
墓ではキリスト教のお祈りがひそかに行われた。
小石を使って十字架を作り祈りをささげる
祈りが終わったらすぐに十字架を壊した
なぜそれほどつらい思いをしてまで信仰を続ける事ができたのだろうか
予言を信じて250年間代々。
はい。
禁教が始まって250年。
予言が現実になります。
その舞台があの大浦天主堂。
黒船に乗って神父がやって来たのです。
そして信徒が信仰を告白。
更に神父にある事を願い出ます。
まだ見た事のないマリア像に祈りをささげる事でした。
そのマリア像は今でも大浦天主堂にあった
こちらのマリア像が信徒発見に深く関わっているそうですね?そうですね。
彼らは見た事がないですけどもそういう言い伝えがあった。
驚いたでしょうねこのマリア像を見た時に。
そうですね。
隠れキリシタンたちは…しかしキリスト教徒に平和が訪れた訳ではありませんでした。
告白をきっかけに激しい弾圧が加えられ600人以上が命を落としました。
信仰の自由が認められたのはその6年後。
以来キリスト教徒たちは悲願の教会を次々と建てます。
しかし…。
原爆がさく裂したのは長崎の浦上地区。
7万人以上もの人が亡くなりました。
爆心地の近くに福山さんにとって特別な場所があります。
神社の境内。
高さおよそ20メートル。
2本の巨大なクスノキです。
何となく来てたんですよね中学高校。
この街にいていいのかなとか自分に対してのいらだちやそういったものがあった時に何か自分のそういう感じてる事がとても小さく思えるクスノキがそういう存在。
このクスノキには大きな傷が残されている。
原爆によるものだ
枝は折られ幹は焼かれた。
誰もがもう枯れてしまうだろうと思った。
しかしその後枝を大きく広げ葉を青々と茂らせた
樹齢は500年以上。
このクスノキは長崎の人々の営みをどのように見続けてきたのだろう。
2014年僕はこのクスノキの歌を作った
ラジオで自分の持ってる担当番組で「いや被爆2世なんだよね」って話をしたらそれがネットニュースに取り上げられ割とニュースとして拡散されていったんですよね。
何かカミングアウトみたいなふうになっていやいやカミングアウトも何ももともとそんな意識全然ないんですけどっていう…。
その時に改めて自分の出自と関わる事象というものは歌にしていくべきなのかなっと思ったのはそのラジオでの発言がニュースになった事がきっかけではありましたね。
この歌はやはり長崎で生まれ育ってそしてシンガーソングライターという僕にしか書けなかった歌じゃないかっていう…。
これは僕にしか書けないんだっていう思いはありますよね。
この「クスノキ」という歌は。
福山さんにはこの歌を歌いたい場所がありました。
爆心地にあるかつて東洋一といわれた浦上天主堂です。
そこにあったのは…。
原爆が投下された時祭壇に安置されていたマリア像。
被爆マリアと呼ばれています。
長崎は特別な歴史を背負った街だった。
キリスト教の街として始まった長崎。
250年の弾圧。
信徒たちが苦難の果てに自由を手にし完成させた東洋一の教会。
日本の近代化を支えた長崎
その街の真上で容赦なくさく裂した原爆
そんな激動の歴史が残響として響き渡る長崎。
今回の旅で偶然にも「クスノキ」の歌が長崎の歴史と重なった
250年にわたる迫害を潜伏キリシタンたちが受けていた。
それでもなお信じる事をやめず続けてきた信徒たちの歴史。
建てられた教会。
クスノキという木も500年600年と生きてきた中で激しいダメージを受けた。
それに耐え続けて命を続けていってる。
その姿と重ね合わせるものがあったんだな。
だからこの場所で歌いたいって思ったのかなっていうふうに感じましたね。
かつてふるさとを飛び出し一度は長崎に背を向けた福山雅治さん。
長崎で聞こえる残響はますます大きなものになっています。
ファインダー越しにのぞく長崎っていうのは非常に絵になる街なんだなというのをカメラを持ってから気付きましたよね。
表現者それはシンガーソングライターでもカメラマンでも画家でも自分のふるさとを描くともうその表現者は描く事がなくなるんで終わりだみたいな事を言う人もいたりして…。
まあでも終わるかどうかは分かんないからちょっとやってみようかなみたいな…。
長崎という街の成り立ちに対する興味っていうのがまた改めて続いていくんだと思うんですよね。
2016/12/22(木) 22:30〜23:15
NHK総合1・神戸
残響の街・長崎〜福山雅治 故郷を撮る〜[SS][字]

故郷、長崎の独自性や魅力を感じるようになった福山雅治さん。ライフワークの写真を撮影しながら長崎を再発見。歴史とともに歩んだ先人たちの営みの余韻『残響』を感じる。

詳細情報
番組内容
長崎市出身の歌手で俳優の福山雅治さんは、大河ドラマの出演をきっかけに、長崎ならではの街の独自性や魅力を感じるようになった。そんな福山さんが、ライフワークでもある写真を撮影しながら長崎を旅する。旅の目的は長崎の街に響く独特の音の余韻『残響』を感じること。そして見えてきたのは500年にわたる長崎の歴史とともに歩んだ先人たちの営みの残響だ。福山さんはどんな残響を感じ、何を思ったのか?長崎の街を見つめる。
出演者
【出演】福山雅治,【語り】礒野佑子