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書き起こし 報道の日2016 「世界を揺るがすテロ〜激動のアメリカと日本」 2016.12.30

 

 

今月27日、ハワイで開かれた安倍総理とオバマ大統領の最後の首脳会談。
その後、2人はともに真珠湾へ。
太平洋戦争の始まったまさにその場所で、日米の絆を確認し合いました。
しかし、時代は動きます。
いよいよ来年1月20日に迫ったトランプ新大統領の誕生。
行く手に待つのは希望でしょうか。
それとも…この1年も広がり続けたテロという黒い雲。
なぜテロはなくならないのか。
その中心に世界のルールを決めるアメリカがいます。

 

 

 


アメリカという鏡に映したとき、日本は?そして世界は?歴代大統領とテロ、2つのキーワードから読み解きます。
1975年、日米首脳会談の直前、その事件は起きました。
日本赤軍による人質テロ。
人質となったのはアメリカ領事たちでした。
日本政府が下した苦渋の決断とは?1992年、アメリカが求めたのは新たな国際貢献。
日本初のPKOです。
行き先はカンボジア。
若き警察官が犠牲になりました。
2001年、世界が一変したアメリカ同時多発テロ。
その立案者は、なんと日本に。
原点となった衝撃の計画が明らかに。
力の空白が生んだ過激派組織イスラム国。
その残忍なテロにより世界中で憎しみが増幅されていきます。
そして…今年、ダッカのレストラン襲撃。
20人の犠牲者のうち、7人が日本人でした。
すぐそこに迫る危機。
世界は一体どこへ向かうのか。
「報道の日」、関口宏です。
雨宮塔子です。
年が明けますと、いよいよアメリカのトランプ体制が出動します。
アメリカの大統領の影響力って大きいからね。
世界にどんな影響を与えるか、また日本に対して、どんな影響を与えるのか。
とてもその辺が気になるんですが、まずは、こちらをご覧いただきたいと思います。
ケネディ大統領から来月就任するトランプさんまで歴代のアメリカ大統領がずらりと並んでいます。
その下には日本の総理が並んでいるんですね。
例えば、クリントン大統領の時代です。
宮沢さんから森さんまで、総理がなんと7人もいたんですね。
てんこ盛りですね。
でも、こうやって見ていきますと、アメリカと日本の関係というのはいろんなことがあったと思うんですが、なぜこの企画は、ケネディさんから始まるのか。
実は、そのケネディ大統領が現職の大統領としては戦後初めて日本を訪問しようとした方なんです。
国対国との関係を新しくしようとしてくれたんですが、暗殺ということで、テロで訪日は実現しませんでした。
あれは衝撃的でした。
日本とアメリカを同時に衛星中継、テレビに映るというときに、初めてのときに入ってきたニュースが暗殺のニュースだったんですよ。
かなり衝撃だったでしょうね。
それはテロでありますしね。
今日の番組もテロとか凶悪犯罪とか、これは政治とか経済とは無関係ではありませんからここにずっとご覧いただくと何か新しい発見があるかもしれません。
番組ではこんなコーナーもご用意いたしました。
トランプセットの皆川さん?「報道の日」トランプ氏はそのとき。
番組の進行する年代に沿ってトランプさんが何をしていたのか、その人生をご紹介します。
まずは画面の下のトランプメーターをご覧ください。
ケネディ大統領が暗殺された1963年、トランプさんは17歳でした。
その当時の写真がこちらです。
真ん中にいるのがトランプさん、スポーツ全般が得意だったそうでニューヨーク・ミリタリーアカデミーという軍隊式の教育で知られる高校に通っていました。
こんなことを自分で言うほど攻撃的な青年だったようです。
ということはトランプさんも青年時代にあのケネディさんが暗殺されたことを知っているはずですね。
番組はケネディさんからスタートしますが、実は幻のメッセージというものが残されていたんです。
今年、出版と同時に全米でベストセラーとなった本があります。
「トゥエンティ・シックス・セカンズ」、26秒間。
ケネディ暗殺の瞬間をとらえた26秒間の映像をめぐるノンフィクションです。
大統領の死は、日本の未来にも影を落とすことになりました。
撮影者、エイブラハム・ザブルーダーさん。
ケネディ大統領の熱烈な支持者だった彼は趣味の8ミリカメラで偶然にも衝撃の瞬間を映し取ってしまったのです。
26秒間のフィルムはザプルーダーさんと一家を長く苦しめることになりました。
ベストセラーの著者はザプルーダーさんの孫娘、アレクサンドラさんです。
本に書かれているのは、一家の歴史政府やメディアに翻弄されたつらい半世紀でした。
生前、ザプルーダーさんには強い願いがあったと言います。
事件当日に逮捕されたリー・オズワルド容疑者はしかし移送中、マフィア関係者に射殺され、暗殺の真相は今も闇の中。
あの悲劇は日米関係の未来まで変えたのです。
43歳の若き大統領、ケネディ氏。
人種問題に取り組み、宇宙開発を初めとする数々のフロンティア政策を打ち出したプレジデントはアメリカの希望の星でした。
一方、日本では日米安保条約に反対して数千人のデモ隊が国会議事堂前を占拠するなど両国の関係は揺れていました。
ケネディ大統領は時の日本の総理、池田勇人氏との会談で関係修復の道を提案します。
それが、アメリカ大統領初の日本訪問でした。
実現のため、大統領顧問でもあった実の弟、ロバート・F・ケネディ司法長官を日本に差し向けます。
大統領は日本国民へのメッセージまで用意していました。
日米間初の衛星中継実験でそのメッセージを届ける計画があったのです。
しかし…記念すべきテレビ中継が伝えてきたのは大統領暗殺の悲報でした。
幻となった日本へのメッセージ。
けれど暗殺2日前に収録された幻となったメッセージ。
日本に向けたケネディ大統領の言葉が映像とともに残っていました。
大統領は訴えました。
日米関係が対等な協力関係へと変わったのだ、と。
対話を望んだ、その姿勢は長女、キャロラインさんに今も受け継がれています。
3年前、駐日大使を任じられたときの言葉。
来年、日米関係はどう変わっていくのでしょう。
このキャロラインさんが駐日大使になられたことね。
これはアメリカの1つのサービスかななんて僕なんか思いましたけどね。
親日家ですもんね。
今度はトランプさんで多分人選は変わるでしょうね。
お客様をご紹介していきましょう。
まずは「ひるおび!」のメインキャスター、恵俊彰さんです。
もう毎年毎年暮れにはお付き合いいただいていますが。
もう1年の終わりだなという感じがします。
でも何か新発見が必ずあるでしょう、この番組。
はい、そうですね。
今年は毎日ニュースを伝えてて、やっぱりトランプさんは驚きましたね。
これは岸井さんだって驚いたはず。
世界中が驚いた。
だってその日の朝まで全員が、専門家が毎日いらっしゃる、絶対ヒラリー・クリントンと言っていたんですから。
朝になったらどんどんトランプさんがってなって、専門家誰呼ぶ?ってなったの覚えてます。
ニュースにも大変関心が深い、ホラン千秋さんです。
アメリカにいらしたことがありますね?ちょうどオバマさんに変わった時期だと思うんですが2009年から2010年に1年間だけアメリカに留学してたんですが、そのときはオバマさんに代わってすごい期待感にあふれていたんですよ。
そこからあんまり変わらなかったというちょっとガッカリしたところがどこか、人の心の中にあって、恐らくアメリカの人たちも、なんだかんだヒラリーさんだろうなって気持ちはあったんだと思うんですが多分、ヒラリーさんのままでいくとおおよそこんな感じで政治は続くよな、でも今の政治にうんざりしてる人たちがよくも悪くも、何か変化をもたらしてくれるだろうということで、もしかしたら、トランプさんに投票したんじゃないかなみたいなことを友人は言ってましたね、アメリカ人の。
この方もおなじみ、岸井成格さんです、よろしくお願いします。
驚きましたよね、トランプ現象は?本当にびっくりしました。
反省すること多々ありますけど、だけど後になって、なんでトランプになったのかなっていうアメリカの中の大変な亀裂というかな、今後、心配するようなことがたくさんありますよね。
なぜメディアは読み間違えたのかっていう特集があったぐらいですもんね。
いろいろ原因があったんですけどね。
そして恐らく2時頃だと思いますが小池百合子東京都知事が、ここへいらしてくれることになっていますので、この方にもいろんなお話を伺いたいと思っております。
では続けて、雨宮さん。
ケネディ大統領が暗殺されてから続いてのこちら、ジョンソン大統領が就任されます。
彼がしたのはベトナム戦争の本格介入でした。
日本は当然、影響を受けます。
行動を起こしたのは若者たちでした。
今年、ノーベル文学賞を贈られたボブ・ディランさん。
1963年発表の「風に吹かれて」は反戦歌としても支持されました。
翌年にはベトナム戦争が激化。
共産化の阻止という大義を掲げ、アメリカのジョンソン大統領は本格的にベトナムに介入していきます。
アメリカ国内では反戦運動が高まりを見せました。
その頃、日本でも…沖縄からベトナムへ向かう爆撃機。
佐藤栄作総理はアメリカが推し進める北ベトナムへの空爆、北爆を支持していました。
アメリカに追随する政府のあり方に反発し、日本でも反戦運動が過熱します。
隊列を組んだデモ行進から、角材を手にした闘争へ。
制圧する機動隊には石を投げて対抗するようになっていきます。
反戦運動は、次第に暴力的な闘争へと姿を変えていきました。
一方で長期化するベトナム戦争はアメリカ国内で強く非難され、ジョンソン氏は次の大統領選への出馬を断念します。
そして…ニクソン大統領はベトナムからの撤退を訴えて当選。
戦争終結への道を探り始めました。
この年、佐藤総理は新大統領との会談でアメリカへ。
自衛隊のヘリコプターで空港に向かったのには理由があります。
空港の周辺では訪米阻止を叫ぶ者たちが機動隊と衝突していたのです。
この頃、闘争の武器として火炎瓶が頻繁に使われていました。
日を追って暴力的になる運動の中から過激派が登場します。
その一群が、赤軍派でした。
彼らは、武装闘争によって革命を目指したのです。
1971年、その一部は山中にこもり、こう名乗ります。
こう名乗ります、連合赤軍。
彼らの暴力は仲間に対してもエスカレート。
リンチの末、12人を殺害しましたそして、あのテロ事件を起こすことになります。
元連合赤軍、加藤倫教さん。
1972年2月19日に発生したあさま山荘事件の当事者です。
加藤さんを含む連合赤軍のメンバー5人は銃を持ち長野県軽井沢町の保養所に人質をとって立てこもりました。
壁の穴から銃を突き出していたのが加藤さんです。
1972年2月21日、そのニュースに誰もが目を疑いました。
佐藤総理も言葉をなくします。
アメリカのニクソン大統領が中国を電撃訪問。
その模様が全世界に生中継されたのです。
ベトナム戦争解決の糸口を求め、また、米中の協調を目指すこの訪問はニクソンショックと呼ばれました。
そのテレビ中継を、あさま山荘の連合赤軍5人も見ていたのです。
憎むべきアメリカと尊敬すべき中国の急接近に愕然としました。
容赦ない武装闘争によって革命を成し遂げた毛沢東主席は彼らのカリスマ。
そのカリスマがニクソン大統領を迎え入れるとは。
立てこもっていた5人は動揺し、武装逃走の目的を見失います。
警察の突入は、事件発生10日目でした。
警察官2人が殉職した事件は連合赤軍5人の逮捕で終結します。
当時19歳だった加藤さんは、殺人などの罪で服役し、1987年に出所しました。
しかし3カ月後、赤軍派の一部が今度は世界を震撼させます。
イスラエルのテルアビブ空港で岡本公三容疑者ら日本人3人が銃を乱射し、死者24人。
世界各地で日本赤軍のテロが始まったのです。
今、最後の方に出てた日本赤軍のねいろんなことはまた後ほど詳しく説明すると思いますけれども、だけどあさま山荘に閉じこもった彼らが、要するにニクソンが中国へ行っちゃったことに対してショックを受けたって理解できる?いや、全然知らなかったです。
要するにベトナム戦争を止めようと思って連合赤軍はつくられた、1つの目的は。
そのアメリカと止めるべき中国が手を結んでいることにショックを受けるということですよね。
日本政府もこれは大きなショックだったですよね。
この年は本当に内外とも大変な年だった、激動の年だったと思うんですけどね。
ただ、矛盾しているし、挫折感を、運動している方は感じたんですけれども、逆に言うとね、つまりあのときっていうのは中国がベトナムを抑えられる、アメリカとしては中国の手をかりてベトナム戦争を止めたいという年だったんで同時に進行していたから、中国と当時の旧ソ連がバンバン対立してきたんです。
中ソ対決って言いますかね。
だから、そこで中国はアメリカの手をかりた。
お互いの大国の思惑が一致しちゃったんです。
それでニクソン訪中って、でも、そこまでなかなか読み切れないですよ。
今という時代、千秋さん、普通の日本の方に聞くとテロはまだ日本ではと言う人が多いけど、もう既にテロ始まってるでしょう?今結構日本って平和っていうイメージがあるじゃないですか。
でも、70年代は本当にたくさんテロがあって、いつからこんな日本って平和という気持ちになったのかというのも、その時代を知らない私としては不思議な感覚です。
今日はずっとご覧いただいていくと、日本ってテロがしょっちゅう起こっている国だということになるはずです。
テロ先進国なんですよ、そういう意味では。
戦後のテロ先進国は日本なんです。
こちらニクソン大統領は時代を大きく変えた人でした。
ベトナムからの米軍撤退、そして中国との国交を回復させます。
経済面では日本に大打撃を与えました。
そのときの総理は、あの田中角栄氏です。
1972年7月、日本列島改造論をぶち上げ誕生した田中角栄総理。
そのわずか2カ月半後、意気揚々と向かったのは…国交のなかった中国でした。
2月に訪中したアメリカのニクソン大統領に先を越され存在感を増す中国に日本も関係改善を急ぎます。
そして、アメリカに遅れることおよそ半年、中国との国交正常化を実現させました。
このとき中国から贈られたのがパンダ。
一躍人気者となったカンカンとランランです。
公開初日の上野動物園。
訪中があったのです。
きっかけは、周恩来首相とニクソン夫人にありました。
パンダは欲しいですか?周首相の言葉にニクソン夫人は狂喜乱舞したと言います。
そして、2頭がアメリカへ。
巻き起こった中国ブームが日本へのパンダ寄贈につながったのです。
ニクソン夫人がいなければ、上野にパンダは来なかったかもしれません。
ニクソンショックは、経済でも。
もともと為替相場は1ドル=360円の固定制でしたがその後、変動制に移行。
わずか数年で180円近くまで円高が進んだのです。
デパートはこぞって輸入品のバーゲンを開催。
庶民には高嶺の花だったウイスキーも、ちょっとお手頃に。
一方で、日本製品の輸出価格は引き上げられ好調だった輸出産業は大打撃を受けます。
そして、第一次オイルショック。
石油の高騰が追い打ちをかけ、戦後日本の高度成長は終わりを迎えたのです。
この辺から、日本の経済もしょっちゅう揺れるようになっていったような気が僕はしていますが。
パンダね、あれは黒柳さんが相当騒いでね。
それ、何なんですかと聞いたことがあるけど、来てみたら、かわいかったね。
本当に今見てもかわいいですね。
そんなニクソン大統領の時代ですが、トランプさんは何をしていたんでしょうか。
「報道の日トランプ氏はその時」トランプメーターをご覧ください。
1973年、トランプさんは27歳です。
当時の写真がこちら隣に写っているのがお父さんのフレッドさんです。
お父さんの不動産会社を継いで若社長に就任しています。
この後ろに写っているのが、経営していた高層アパート。
しかし、黒人に住宅を貸さず、トランプさんは訴えられていました。
やっぱり差別はこのときからもうあったな、この人は。
もとからなんでしょうかね。
1974年、東京・丸の内で戦後最悪の無差別爆弾テロ事件が発生します。
一体、何が起こったんでしょうか。
生存者が初めて語ります。
華やかなイルミネーションが輝く東京・丸の内。
今から42年前、まさにこの場所で無差別テロは起きました。
1974年8月30日。
昼休みのオフィス街が、まるで戦場と化したのです。
狙われたのは、三菱重工業。
42年前、東京の三菱重工前で爆弾が…そして…9階建ての建物の窓ガラスが砕け散りまさに雨のように降り注いだのです。
ガラス片は爆風にあおられ、ビルの中にも飛び込みました。
死者8人、負傷者およそ380人。
戦後最悪の無差別爆弾テロでした。
事件後、東アジア反日武装戦線狼から犯行声明が。
それまで誰も聞いたことがない過激派グループでした。
何が彼らを駆り立てたのか。
その7カ月前、経済協力について話し合うためインドネシアへ飛んだ田中角栄総理。
彼を迎えたのは…激しい反日運動でした。
憎悪の的となったのは、街にあふれる日本車。
人々の言い分はこうでした。
日本は経済でアジアを侵略しようとしている。
犯行グループも同じく、海外展開する会社を侵略企業と呼び、矛先を三菱重工に向けたのです爆発の直後、両肩を抱えられ運び出された男性がいました。
三菱重工の元社員、当時入社2年目だった立川文敏さんです。
同僚も失い、今も怒りがおさまりません。
立川さんが初めてテレビで語る、あの日。
その証言などをもとに事件を再現します。
昼休み中の午後0時25分、男が三菱重工の玄関前に20リットル缶を2つ置きました。
これが時限爆弾でした。
その頃、立川さんは玄関脇の喫茶店にいました。
同僚5人と座ったのは、この席。
爆弾からは、わずか10m。
午後0時42分、予告電話が入ります。
しかし、立川さんたちは知るよしもなく…午後0時45分、立川さんが店を出ようと立ち上がった、そのときでした。
爆風で吹き飛ばされたのです。
同時に左の太ももに鋭利なものが突き刺さりました。
全治1カ月の重傷でした。
爆弾があった場所にあいた深い穴がその破壊力を物語ります。
なんと、ダイナマイト700本分。
しかも…建物が密集していたため、爆風が道を通り抜け周囲のビルも巻き込まれたのです。
一帯で大量のガラス片が落下し、被害はさらに拡大しました。
しかし、事件はまだ始まったばかりだったのです。
犯行グループはほかの過激派と合流し、テロを続行。
三井物産、大成建設など海外展開する企業をターゲットに10件もの無差別テロを起こしたのです。
世に言う、連続企業爆破事件でした爆弾工場は住宅街にありました。
一見、普通のアパート。
ところが、押し入れの抜け穴から床下におりると、そこに小部屋があったのです。
高さ1.4mの狭いスペースに小さな机や椅子、電気スタンド、そして薬品類をしまう戸棚まで置いていました。
こんなところで日本中を震撼させた爆弾をつくっていたのです。
さらに、「腹腹時計」という妙な名前の本まで出版。
時限爆弾のつくり方を広めていました。
三菱重工爆破事件から9カ月後、警察は犯行グループを逮捕します。
佐々木規夫容疑者、大道寺あや子容疑者ら、逮捕されたメンバーは8人でした。
被害に遭った立川さんは証人として法廷にも立ちました。
けれど、佐々木、大道寺両容疑者はある事件をめぐる超法規的措置で釈放されるのです。
2人は生きていれば68歳。
今も国際指名手配が続いています。
この超法規的措置というのはまた後ほど詳しくご説明することになると思いますが、ここで新しいニュース入れなきゃいけませんね。
「報道の日2016」午後5時半まで生放送です。
東京株式市場では年内最後の取引が行われているが、午前の平均株価は一時1万9000円を割り込んでいる。
中継。
今日の終値が去年の年末の終値を上回ればバブル崩壊以降、初めて5年連続で前の年を上回ることになるため、市場は注目しています。
ところが、今朝の東京株式市場では円高が進んでいることや、前日のアメリカの株安を受けて売り注文が優勢となり、平均株価は3週間ぶりに一時1万9000円を割り込んだ。
結局、午前の終値は1万9067円となっている。
今年の東京市場はイギリスがEUからの離脱を決めたことやアメリカ大統領選挙でトランプ氏が勝利するなどサプライズに振り回された1年だった。
年明けにはトランプ氏がアメリカ大統領に就任し、新たな経済政策を打ち出す予定で、市場はその内容に注目している。
酉年は株価が乱高下する年と言われているが国内ではアベノミクスの正念場が続く中、来年も海外情勢に振り回される年となりそう。
今日未明、静岡県浜松市の特別養護老人ホームで入居者の80歳の男が職員とほかの入居者合わせて3人を包丁で切りつける事件があり、男は殺人未遂の疑いで逮捕された。
逮捕されたのは、静岡県浜松市の特別養護老人ホーム、山崎園に入居する迫峻容疑者80歳。
警察によると、迫容疑者は今日午前2時15分頃、施設内で66歳の女性介護職員を包丁で襲い頭を切りつけた疑いが持たれている。
迫容疑者はほかの入居者2人にも切りつけたが、被害者の命に別状はないとのこと。
警察は迫容疑者の認否を明らかにしていない。
現場は認知症患者が入居する施設で迫容疑者は、今月入居したばかりだった。
アメリカ大統領選を狙ったロシアによるサイバー攻撃への報復措置として、オバマ大統領は29日、ロシアの外交官35人の国外退去を含む厳しい制裁を発表した。
オバマ大統領は、サイバー攻撃に関わったとするロシアの情報機関や民間企業など5つの組織やその幹部らを資産凍結などの制裁対象に指定。
さらに情報収集に関与したとしてロシアの外交官35人に対し、家族も含め72時間以内の国外退去を命じた。
これに対し、ロシア大統領府のペスコフ報道官は制裁は不当だと反発、適切な対抗措置をとるとする一方、トランプ次期政権のもとでの米露関係改善への期待感も表明した。
一方で、当のトランプ氏は声明で我々はもっと重要な問題に取りかかるべきだと述べる一方で来週、情報機関の幹部から説明を受けるとしている。
人気お笑いコンビ、ナインティナインの岡村隆史さんが東京・港区で乗用車を運転中に歩行者に接触し、ケガをさせていたことがわかった。
人気お笑いコンビ、ナインティナインの岡村隆史さんは昨日午後6時頃、港区高輪の交差点を乗用車で右折しようとしたところ、横断歩道を渡っていた男性に接触したとのこと。
この事故で男性は軽いケガをした。
警視庁が当時の状況を詳しく調べている。
フランス東部で行方不明となっている日本人留学生、黒崎愛海さんの事件で地元の捜査当局が容疑者のチリ国籍の男と黒崎さんが一緒に写った写真を使って捜査をしていることがわかった。
フランス捜査当局はJNNの取材に対し、容疑者が20代のチリ国籍の男であること、黒崎さんの元交際相手であることなどを明らかにしている。
また、現地の黒崎さんの親友など複数の関係者は29日、捜査当局からチリ国籍の容疑者と黒崎さんが一緒に写っている写真を提示され、名前の確認や証言を求められたとJNNに話した。
容疑者は既にチリに帰国しているということでフランス捜査当局はチリの警察と連携し、捜査を開始する方針。
またフランスの地元警察当局は29日、捜査を誘拐・監禁ではなく正式に殺人事件に切りかえた。
全国の天気です。
トランプ新大統領誕生へ。
世界の行く手に何が待つのか。
希望?それとも…テロをキーワードに読み解く日本とアメリカ、そして世界。
1986年、東京サミット。
迎賓館が標的に。
狙われた首脳たち。
過激派の秘密兵器はなんとロケット弾でした。
1999年、北朝鮮の不審船が日本海に。
政府が下したのは史上初の実戦命令。
そのとき自衛隊員は?2005年、インドネシアのバリ島で起きた爆弾テロ。
重傷を負った日本人が初めて口を開きました。
テロ、凶悪事件、新大統領。
私たちに降りかかる未来とは…「報道の日2016」に戻りました。
歴代アメリカ大統領と日本はどう関わっているのか。
そしてテロとか凶悪事件、これを軸に考えていきたいと思っています。
続いて、アメリカではニクソン大統領が、日本では田中角栄総理が辞任に追い込まれる激動の年となりました。
ベトナム戦争からのアメリカ軍撤退を実現させたニクソン大統領。
支持者の集会でサービス精神旺盛な姿を見せています。
でも、あのウォーターゲート事件が発覚。
大統領選挙中、敵陣営の盗聴に関与したという大スキャンダルの渦中にいたのです。
カメラの前で部下に八つ当たり。
かなり追い込まれている様子。
結局、辞任の道を選び、ホワイトハウスを去ります。
後釜はこの人、実直さとクリーンさが売りだった副大統領のフォード氏でした。
選挙なしでアメリカ大統領の座についたフォード氏。
記者からベトナムについて問われると、笑いながら逃げ出します。
ベトナムでは、アメリカ軍撤退後も内戦が続き、共産化が脅威となっていました。
そんな中、アジアの安定を目指し日本へ。
彼こそ、現職のアメリカ大統領として初来日した人物でした。
でも、その頃日本では…田中角栄総理がまさに崖っぷち。
金脈問題で内閣支持率が低下。
窮地に立たされていました。
フォード大統領が到着した日も都内は内閣退陣を叫ぶデモで大混乱。
初来日を歓迎しようと集まった市民の頭越しに大統領はヘリコプターで迎賓館に直行したのです。
せっかくの歴史的な訪日でしたが、田中おろしに水を差された格好でした。
そして、この日米首脳会談を花道に田中氏は総理を辞任。
後任は、田中氏とは対照的に、お金にきれいなイメージの三木武夫氏でした。
日本のバトンもクリーンな人物へと渡ったのです。
アメリカの大統領も日本の総理大臣も、ちょっと最後が残念な感じに終わりましたね。
よほどの事件を起こして、大変なおろし、田中おろしもありましたしね。
その後、クリーンっていう、これも同じパターンなんですね。
国民の期待はね。
それを求めるんですよね、国民がね恵さん、どうご覧になりました?1974年ですよね、昭和で言うと49年、長嶋茂雄さんが引退した年。
よく知ってるね。
僕10歳だったので、その印象なんですけど、10歳のときは。
でも、今52歳で見ると、大変な年なんですね。
田中角栄さんが、あの大人気の。
インタビューを見ていても、好きだけどやっぱダメだよねという感じにちょっとなってましたもんね。
最後の方はそうなっていったかな、印象が。
細かいエピソードになりますけれども、辞める総理のところに来るというのは失礼じゃないですか。
本来なら来てもらったら困りますと言わなきゃいけないんだけど田中さんは最後の花道にしたいから、呼んでそのままなんですよ。
それで、辞めたと言ったのはフォード大統領の飛行機が領空を離れた瞬間に。
ギリギリ外交上の失礼をあれしたという、そういう細かい配慮の人ですよ。
一国の総理が、辞めると口にした瞬間からだといいますよね。
厳しいもんだな。
その頃、一体トランプさんは何をなさっていたんでしょうか。
「報道の日・トランプ氏はその時」、トランプメーターをご覧ください。
1974年、トランプさん28歳です当時の写真がこちら、郊外のアパート経営から脱却すべく夢だったニューヨーク・マンハッタンでの事業に参入します。
使わなくなった土地を国際会議場にしたらどうかと、こちらの完成予想図を持ってニューヨーク市に売り込みます。
この後、取引がまとまりまして、なんと、およそ1億8000万円の報酬を受け取ったと自伝に書いています。
そして、この頃「ニューヨーク・タイムズ」ではトランプさんのことをこのように紹介しています。
こんな時代もあったんですね。
ここまで長い番組でございますので、どこが終わって、今何をやっていて今後、何が出てくるのかを簡単ではございますが、今どこまで終わりました?74年ですよね。
今度、クアラルンプール、超法規的措置が絡んでまいります。
ダッカも出てきます、三菱銀行も出てきます、だんだん現代に近づいてまいります。
総理不在のタイミングで発生したテロ、日本政府は結局、凶悪事件を起こしたテロリストを釈放します。
一体、なぜそうなったんでしょうか?今年開かれた主要7カ国首脳会議、伊勢志摩サミット。
41年前、日本は第1回のサミットに参加するべく躍起になっていました。
ところが、そのさなか、前代未聞のテロが参加への夢を大きく揺るがすことになったのです。
1975年8月2日。
三木武夫総理は勇躍アメリカに旅立ちます。
目的は、フォード大統領との日米首脳会談でした。
同行した秘書官、中村慶一郎さんは総理の様子を記憶しています。
フォード大統領は、開催の準備が進んでいた世界初のサミットのキーマンでもありました。
当時、5大国会議と呼ばれたサミット。
フランスのジスカール・デスタン大統領がオイルショック後の世界経済を立て直すために提案したものです。
けれど、アメリカはヨーロッパ主導の開催に難色を示し、日本への正式な誘いもありませんでした。
サミットに名を連ねれば日本の国際的な地位も上がる。
フォード大統領との会談は大きなチャンスでした。
ところが、総理が旅立った2日後、最悪のテロが起きてしまったのです。
事件の舞台はマレーシアの首都、クアラルンプールでした。
8月4日午前10時、武装した日本赤軍のゲリラ5人が現地のアメリカ大使館などを襲撃。
アメリカ領事を含む52人の人質をとって立てこもったのです。
この事件について、元日本赤軍のリーダー、重信房子受刑者は…日米首脳会談に照準を合わせた周到なテロ。
要求は、日本で収監されていた仲間の釈放です。
指名されたのは、日本を揺るがせた事件を起こした男たちでした。
1972年、浅間山荘事件で逮捕された坂東国男容疑者。
さらに連続企業爆破事件で1975年に逮捕された佐々木規夫容疑者ら過激派のメンバーです。
テロ発生の一報は、真夜中のワシントンに届きます。
このとき三木総理は、ホワイトハウスの向かいにある迎賓館で眠りについていました。
事態を知った三木総理は留守を守る福田赳夫副総理に事件の指揮を一任。
総理には優先順位がありました。
会談まで32時間。
テロで人質にとられたアメリカ人の安否が会談に影響を及ぼすことも考えられます。
福田副総理は、直ちに官邸に対策本部を設置しました。
総理からの指示は、人命尊重。
本部に緊張が走ったのは日本時間8月4日の午後7時50分。
9時30分までに要求に応じなければ人質にとったアメリカ領事、ステビンス氏を殺害する、犯人グループが、そう予告してきたのです。
日本赤軍が起こしたクアラルンプール人質事件。
日本政府に突きつけられたのは人質の1人、アメリカ領事、ステビンス氏の殺害の予告でした。
与えられた猶予は1時間40分。
三木総理が臨む日米首脳会談を失敗させるわけにはいきません。
政府が日本赤軍の要求をのんだのは殺害予告があってから40分後。
過激派の釈放を決めたのです。
初めての超法規的措置でした。
8月5日未明、東京拘置所の門が開きます。
過激派たちを乗せた車は羽田空港へ。
彼らを移送するため、特別機が用意されていました。
浅間山荘事件で逮捕されていた坂東国男容疑者。
連続企業爆破事件で逮捕されていた佐々木規夫容疑者。
合わせて5人の過激派メンバーが特別機に乗り込みます。
事件の現場となったクアラルンプールへ移送されました。
現地で人質と交換され、日本赤軍に合流することになったのです。
特別機がクアラルンプールに到着した3時間後、ワシントンでは日米首脳会談が始まります。
けれどこの時点で人質はまだ解放されていませんでした。
会談は、三木総理の陳謝で幕を開けています。
クアラルンプールでは、占拠されていたアメリカ大使館で人質に動きがありました。
黒い覆面で顔を隠した犯人グループの男たち。
拳銃を手にしています。
彼らは人質の一部を解放。
残る15人を連れて、空港へ向かいました。
その空港には特別機が到着。
過激派5人は飛行機を降り、建物の中に待機していました。
犯人グループは、この旅客機で逃走することになるのです。
彼らは、いったん無人の機体にアメリカ大使館から連れてきた人質を押し込み、人質交換の準備を整えました。
交換は3回に分けて行われています。
初めに特別機を操縦する機長ら乗員と5人の人質。
続いて、日本とマレーシアの政府高官が身代わりに乗り込み、5人の人質が解放されます。
最後に日本から移送された過激派5人が残る人質5人と交換されました。
超法規的措置で釈放された者たち。
奥に立つのが人質です。
交換は1人ずつ行われました。
まず1人目。
そして2人目。
最後の人質交換。
解放されたのは、犯人グループが切り札と考えたアメリカ領事、ステビンス氏。
犯人グループと釈放されたメンバーは、こうして三木総理訪米のさなかに北アフリカのリビアへ逃れたのです。
一方、ワシントン。
三木総理はサミットに参加するようフォード大統領への説得を続けました。
テロに屈した日本の対応には海外から批判の声が上がります。
そして3カ月後…フランスのランブイエには日の丸がはためきました。
三木総理は念願どおり、フォード大統領とともに第1回サミットに加わることができたのです。
以来、42年間、日本はサミットの一員であり続けています。
ホランさん、苦渋の選択なんていうことを超しちゃって、これはもういろんな意見が噴出した中で最後にあの道を選んだんですよ、日本は。
何を選んでも、ある意味、地獄だったとは思うんですよ。
犯行グループの要求をのめば、それこそ過激派が世にまた放たれて、新たなテロを生むかもしれない。
でも人の命も救わなきゃいけないしっていう、本当に犯行グループからすれば絶好のタイミング、日本政府からすると最悪のタイミングで起きたことだったなと思うんですけど。
どうですか、あの結論は今思うとあれでよかったですか?いや、どうなんですかね。
やっぱりいまだに迷う?難しいところではあると思うんですよね。
ここからは国際情勢やテロ対策にもお詳しい板橋功さんにご参加いただきます。
板橋さんは、あの選択はどうお考えになりますか?あのときの選択というのは非常に難しかったと思うんですが、実はこの後、もう一度同じことを繰り返すんですね。
ダッカのハイジャック事件において。
今度は政治犯だけではなくて、一般の殺人犯まで釈放するということをするわけですね。
ですから、一度テロに屈してしまうと、なかなか強い態度に出るというのは難しくなるというのはこの事件とその次のダッカ事件での教訓ですね。
だけど、先ほどもちょっと言ったんですけど、今、日本人ってテロからは遠いと思っているけど、ずっとご覧いただくと日本はテロ国家ですよね。
私はテロの研究を始めて30年ぐらいになるんですが最初に2年目くらいのときにイスラエルに行きました。
そのときに、お前の国はテロの先進国じゃないかと言われたんですね。
それが最初に言われた、あ、日本はテロの先進国なのかと。
ロッド空港乱射事件が起きていますから。
その次にまた今度は95年の地下鉄サリン事件の後にいろいろな欧米の研究機関とかあるいは治安機関に回ったとき、やはり同じことを言われました。
日本はテロの先進国だと、おまえ、何しに来たんだと、逆にこっちが教えてほしいぐらいだと言われたんですね。
そういう自覚が、恵さん世代ではあまりなかったでしょ?ないですよ、日本は安全で治安がよくて、夜1人で歩いてても大丈夫な国だと。
そこで、テロ先進国だという日本が締結したテロ防止関連条約、主なものをまとめてみました。
大体こちらは飛行機ですよね、ハイジャックだったり、破壊。
そういうことはいけませんよ。
安全、あと人質、要人を人質にとってはいけないとか。
あとはシージャックですね。
わかりづらいのが大陸棚プラットフォームの奪取、これは何ですか?テロに使われるようなプラットフォームを、いわゆるそこを占拠したり、人質をとったりする行為に対して規制するという法律なんですが、この13の関連条約のうち、最初ですね、航空機内の安全を損なう行為、これ、実は別名、東京条約と呼ばれているんです。
実は東京でこの骨子は決まったんです。
今、サミットが出てきましたけれども、第4回のボンサミットのときに実はその前にダッカのハイジャック事件があってもう一度、日本は超法規的措置をとるんですね。
第4回のボンサミットで、実はこの航空機のテロについて話し合いをするんです。
これが経済問題で始まったサミットの最初の政治問題を扱ったサミットとなるんです。
これをもとに東京条約、航空機内の安全を損なう行為の条約というのが実はできているんです。
だから、日本はテロ対策をサミットで最初に提唱したんですね。
そんな激動の70年代なんですが後半にもなるとトランプさんの人生にも転機が訪れます。
「報道の日・トランプ氏はその時」。
トランプメーターご覧ください。
1977年、トランプさんは30歳です。
当時の写真がこちら。
最初の結婚です。
お相手は旧チェコスロバキア出身のモデル、イヴァナさん。
なんとこのとき、トランプさんは結婚する前に、離婚したときの財産分与をあらかじめ決めておく、婚前契約を結んでいます。
何ともビジネスマンらしいですよね。
これはホランさんに聞きましょう、この契約どうですか?確かに愛と愛で結ばれて夫婦になるのに、いきなり離婚のことを前提にしているような感じは若干、ちょっと違和感はありますけれども、でも離婚が多いということで泥沼化を避けるという意味ではアメリカらしいのかなとも思いますね。
相手を思う気持ちなんだね。
ある意味…。
日本には向いてませんか、日本もだんだんそういうことになってくんじゃない?結婚するときに何で別れること考えるのって言われそうですけど。
若干ショックですけど。
続けます、雨宮さん。
フォード大統領に代わって1977年、今度はこちらの穏健派、カーター大統領が就任します。
そして平和外交を進めるんですが、日本ではすぐにテロが発生します。
日本政府がとった対応は2度目の超法規的措置でした。
1977年9月28日、日本赤軍によるハイジャックでバングラデシュのダッカに緊急着陸した日航機。
乗客・乗員151人を人質に服役中だった仲間の釈放を要求してきました。
その上、16億円の身代金まで…人質にはカーター大統領の友人も含まれていました。
犯人たちは、その友人の殺害を予告してきたのです。
2年前、超法規的措置で日本赤軍の要求をのんだ福田赳夫氏はこのとき総理。
実行犯の中にはその超法規的措置により釈放された坂東容疑者と佐々木容疑者がいたと見られています。
総理は決断を迫られました。
政府は2度目の超法規的措置に踏み切り、連続企業爆破事件の大道寺あや子容疑者ら合わせて6人を釈放。
彼らは16億円の身代金とともにダッカへと移送されまた。
人質は無事解放されましたが、テロへの屈服は海外から批判を浴びています。
そして2週間後、この事件に刺激された凶行が日本国内で起きてしまったのです。
1977年10月15日。
事件は長崎で起きました。
銃を手にした男たちが乗客ら23人を人質に路線バスを乗っ取ったのです。
給油に立ち寄ったガソリンスタンドで店員が異変に気づき、発覚に至りました。
発覚から15時間、ついに銃撃戦となった日本初のバスジャック事件です。
犯行に及んだのは白覆面の男2人。
窓から身を乗り出して、近づく警察官を威嚇します。
警察を戦慄させたのは覆面に書かれた赤軍の文字でした。
2人は阿蘇連合赤軍と名乗っていたのです。
長崎県警の捜査一課長だったら小林輝男さん。
このとき頭にあったのは日本赤軍に屈したダッカのハイジャック事件でした。
犯人は小さい子どもら7人を解放し、バスの車内には運転手を含む16人が残されていました。
主犯格は最前列に陣取り、最後部に人質を見張る共犯の男。
窓のほとんどにブラインドが下ろされ、車内の様子はバスの前方からしかうかがえませんでした。
警察は、なぜ人質の救出をちゅうちょしたのか。
理由があります。
長さ20cmほどの赤い筒を犯人は爆弾と呼びました。
それを人質の女性の首にかけ、近づけば爆破すると脅していたのです。
加えて、ラグビーボールのような黒い物体もちらつかせました。
この物体につなげた電線をバスの窓に垂らし、触れたら爆発するぞと警告を発してきます。
犯行声明には恐ろしい言葉も。
もし下手な手出しをすると、日本37カ所で一斉に爆破事件が起こるであろう。
やがて犯人たちは、当時の法務大臣らを現場によこせと要求。
人質にして身代金3億7000万円を奪う計画でした。
夜、お年寄りや体の弱った人だけが解放されます。
その1人。
警察庁から情報が入ったのは、この頃です。
阿蘇連合赤軍という組織は存在しない。
とはいえ、爆弾を見せつける犯人を前に、うかつな行動はとれません。
深夜2時、小林さんは賭けに出ます犯人の組織が偽物ならば、爆弾も偽物である可能性が高い。
小林さんはそうにらんでいました。
差し出された毛布を犯人が乱暴に引き取ったそのとき、あの電線が切断されてしまったのです。
案の定、爆弾は偽物。
直ちに機動隊が行動を開始します。
犯人が発砲したら拳銃を使用してでも制圧する。
突入の決断が下されました。
長崎バスジャック事件。
発覚から15時間半、ついに事態が動きました。
犯人の発砲を機に、捜査員たちがバス内部に突入。
この銃撃戦で主犯格の男は間もなく死亡。
共犯の男も取り押さえられます。
日本初のバスジャック事件は、こうして終結しました。
犯人が持っていた武器は手製の銃4丁以外ほとんどが偽物と判明。
日本37カ所の爆破予告も嘘でした。
共犯の男は、金目当てでダッカ事件をまねたと供述。
計画は死亡した主犯格が立てたもので、共犯の男は具体的な計画など聞かされてはいませんでした。
人質は奇跡的に全員無事でしたが、犯人の死は事件の解明を阻む結果となりました。
テロは世界で増殖していきます。
バスジャック解決の2日後、ソマリアではルフトハンザ航空機ハイジャック事件が犯人射殺で幕を閉じました。
犯人を制圧したのは西ドイツの特殊部隊でした。
相次いぐハイジャックを受けて、日本でも対テロ特殊部隊、SATが誕生します。
ハイジャックを初めて聞いたときも驚きましたけどね、バスジャックって何するのという感じしない?成功してもどうやって逃げるの、あんたたちっていう。
でも、こういうことが起こるんだわハイジャックがどんどん増えて、何か起こりますね。
こちらを見ていただくとよくわかるんですが、日本の飛行機の数なんですけれども、70年代、80年代、この20年間で、なんと飛行機の数が2倍にも増えているんです。
その間に有名なハイジャックがありましたけれども、そこで新たな問題が生じます。
つまり、利用者が増えます。
だから発着便数を増やさないといけない。
なので、羽田空港を大型空港に拡張したいんです。
それがなんと、許されなかったということなんですね。
なぜ許されなかったのか、それがこちらなんです。
その前に、ここに羽田空港があります。
こちらがアメリカ軍の横田基地があります。
これが大変なことになります。
この横田基地を含む周囲の状況を、岸井さん、何というかというと横田空域というんですが、それがこれでした。
何で岸井さんに聞いてるんですか?ちょっと大きめにつくってありますけれども、この空域を飛んじゃいけないんでしょ、日本の航空機は。
実はそうなんです。
問題は、例えばこちらに飛行機があるとしまして、羽田空港から飛び立ちます、九州にいきたいとすれば普通はこうやって、当時ですから急に高度は上げられないんです。
なので、緩やかにスーッと通っていきたいけど、行けない。
とりあえず真っすぐ行ければ何ということないのに、これが邪魔するわけですよ。
許可なしでは通れないということでゆっくり旋回しながら行かないといけない。
だから、大きな燃費の無駄になるわけです。
だから、大島の方へ抜けていく航路もあるでしょう。
あれもこれを避けているんですよ。
これも大きな無駄になってしまいます。
房総半島から入ってくるんですね。
飛行機の数は増えているのに、これがものすごく邪魔になってるんだ。
何のためにこれがあるんですか。
それじゃ、あんまりだということで徐々に削減はされていくんです、それがこういう姿です。
ちょっと低くなった。
何か意味はあるんでしょう?アメリカの訓練が全部計画の中に入ってますからね。
この後、横田空域だけの問題ではなく当時の羽田は騒音の問題、それから、埋め立ての技術の問題などがあって、やっぱり拡張はできないということになったんです。
それで結局、成田の千葉県へ。
だから、これはみんな怒ったんだよね。
どうしてあんな遠いところまで行かなきゃいけないんだって。
これがある。
横田空域から離れたところにある成田空港にしなければいけなかったということなんですね。
ところが、その成田空港で開港の直前にテロが起きます。
いかめしい有刺鉄線に守られた成田空港。
空港警備隊は常時、厳重な警戒態勢を敷いています。
38年前、空港建設に反対する人々は激しい開港阻止闘争を展開。
ここで驚くべきテロが起きたのです。
空港の中心部には、まるで要塞のような管制塔がそびえています。
事件の舞台となったのは最上階の管制室でした。
開港を4日後に控えたその日、空港敷地の一角からもうもうと黒煙が立ち上りました。
侵入した過激派のトラックが火を噴いていたのです。
同時に、別のゲートを突破して過激派が乱入。
警察官たちは銃を正面に向けて威嚇します。
もはや、そこは戦場でした。
開港を4日後に控えた成田空港に過激派が乱入。
でも、これは陽動作戦でした。
地上の混乱に乗じて管制塔に入り込む者たちがいたのです。
彼らは最新機器を備えた内部を徹底的に破壊し尽くしました。
ハンマーを振り下ろしていたのは、管制塔襲撃隊のリーダーです。
当時、25歳だった前田道彦さん。
刑期を終え、現在は教育関係の出版社を経営しています。
管制塔の襲撃計画は周到でした。
前夜、過激派22人が1.5km先の管制塔に通じる下水道に入り口に向かいました。
22という数字には彼らなりの意味がありました。
ベトナム戦争のさなか、解放戦線の戦士たちがサイゴンのアメリカ大使館に突入・占拠しました。
これがアメリカの撤退につながる大きなきっかけとなりました。
このときの突入部隊が22人だったのです。
管制塔の襲撃作戦を立てたのは和多田粂夫さんです。
下水道の中で一夜を明かした襲撃隊は午後1時過ぎ、管制塔近くの排水溝から地上にはい上がります。
ところが…襲撃隊は管制塔北側から一気に正面玄関に達しました。
まんまと内部に入り込むと、追ってきた警察官に対し、火炎瓶を床に投げて牽制。
その隙に5人がエレベーターに乗り込みました。
遅れて別の5人もエレベーターへ。
こうして10人が上層階に上がり、そこから階段で16階の管制室を目指したのです。
鉄パイプで入り口の扉をこじ開けようとして果たせず火炎瓶を投げつけました。
そのため、すき間から階段を伝って黒煙が上がり、怒号も響きわたったと言います。
このとき、室内にいた管制官5人の1人、柴田謙二さんはまざまざと覚えています。
とっさに急いだのは、煙を逃がすことでした。
柴田さんはネジ回し、天井のハッチを開きます。
身の危険を感じて、折り畳み式のはしごを伸ばし、5人全員が屋上に逃れたのです。
一方、内部からの侵入をあきらめた襲撃隊はいったん14階に降り、非常口を通じてベランダに出ていました。
その映像が残っています。
ベランダに赤い旗を掲げると、見張り役を残して一斉にパラボラアンテナの骨組みをよじ登りました。
そして、窓ガラスを割り管制室へ。
管制官たちはなすすべもなく、屋上で救助を待っていたのです。
過激派の襲撃から逃れ、屋上に避難していた柴田謙二さん。
自分たちは管制官だ。
そう書いたメモを報道機関のヘリにかざして助けを求めました。
1時間ほどして、ようやく警視庁のヘリが到着。
1人ずつ屋上から救い出されたのです。
管制室内部の過激派は、ハンマーやバールで真新しいシステムを破壊しつくしました。
管制塔の占拠を高らかに宣言するように、書類までまき散らしたのです。
このとき、管制室に電話がかかっています。
かけたのは、当時管制部長を務めていた大須賀源司さん。
部下の無事を確認するためでした。
受話器をとったのは過激派です。
その電話を前田さんも覚えていました。
2時間に及んだ管制塔の占拠は、機動隊の突入によって幕を閉じます。
襲撃隊はその場で逮捕されました。
前田さんは懲役9年の刑を受けて服役しました。
成田空港の開港は管制室の機器を修復するため、2カ月延期されたのです。
38年前、過激派がなだれ込んだ管制塔は業務を縮小。
今は駐機場のコントロールだけを受け持っています。
本来の業務は、既に新しい管制塔に移り、古い管制塔は撤去されることが今年明らかになりました。
あれから大分時間もたって、お話しくださる方たちが出てきてくださって何かわかったことってありますわね。
映像なんかも当時は出てない映像が僕はあったと思いますよ。
出せなかったと思う。
だけど皆さん、関係者も話すようになってようやくこういうものが出るという、珍しいですよね、初めて知ることたくさんありますよね。
ホランさん、成田というのはこういう歴史があったことはあまりご存じなかったでしょう?もちろん知らなかったですし、母からちょっと聞いたことはありましたけれども、成田闘争大変だったのよというのはありますけれども、でもまさかここまでというのは映像を見てみないとその過激さとか、大変さみたいなのは伝わってこないので、本当に、わずか22人ですけど、こんなに成田を占拠しちゃうことができたんだという驚きがありますよね。
板橋さんのとらえ方はどうですか?開港阻止が目的だったんでしょうけれども、浅はかですよね。
ただこの影響ってものすごい大きいですよね。
この後、成田空港はご案内のとおり車で行っても、あるいは電車で行ってもセキュリティチェックを受けるゲートが設けられましたよね。
それから空港警備隊が24時間厳重に警戒をしているんですね。
まだ空港警備隊が警戒していますので、そういう警備にお金がかかったり、すごい影響はあったと思いますね。
その後、チェックがどんどん厳しくなります。
その話はまた多分後半に出てくると思います。
続いては1979年、東京でサミットが開催されます。
カーター大統領の来日でTBSのカメラがスクープしたものとは、何だったのでしょうか。
1979年、オイルショック再び。
この年、流行したのが省エネルックでした。
大平正芳総理も半袖スーツに身を包み、元祖クールビズをアピール。
そして初めての東京サミット。
テーマはやはり、エネルギー問題でした。
ほかの首脳より一足早く来日したアメリカのカーター大統領。
夫妻のジョギング姿をTBSのカメラがスクープしました。
走ることができたのはアメリカ大使公邸内のみ。
警備は実に厳重でした。
日本に6カ国もの首脳を一度に迎えるのは史上初。
延べ41万人もの警察官が動員されたのです。
でも、あまりの警備に大統領が苦言を呈します。
これでは、市民と触れ合えない。
それを受け、日米関係のルーツとなったペリー来航の地、静岡県下田市への訪問では警備を少し緩めることに。
それでも人口3万人ほどの町に集まった警察官は7000人。
まさに、ペリー来航さながらの大騒ぎです。
大統領一家を一目見ようと市民が詰めかけます。
でも大統領の車は、この町には大き過ぎました。
おびえるおばあちゃん、そんな一幕もご愛きょう。
庶民派の大統領らしい、笑顔はじけるスキンシップ外交となりました。
下田は大変。
だけど、人気が上がったんだよ、これでカーターさん。
何かいい人だなって。
肩を抱いてね、触れ合ってる感じが印象的ですね。
親近感沸きますね。
ここまで番組はいろいろ進んでまいりました。
成田空港まで終わりました。
これちょっとつらい事件だけど、やっぱり見ておかなければならないと思いますね。
40人以上の人質をとった事件なんですが、今回番組では極秘の捜査報告書を入手いたしました。
そこに記されていた狙撃作戦の意外な全貌をご覧ください。
1979年1月26日。
大阪市の三菱銀行北畠支店は異様な緊張に包まれていました。
猟銃を手にした男が人質をとって立てこもったのです。
5000万円を要求した男は、応じなかった銀行員2人と駆けつけた警察官2人を射殺。
男の名は、梅川昭美30歳。
15年前に強盗殺人を犯し、少年院に送られた過去がありました。
人質は行員と客、合わせて40人以上。
銀行内部では想像を絶する悪夢が繰り広げられます。
私たちは、極秘の捜査報告書を入手犯人狙撃作戦の全貌が明らかになりました。
内部をうかがうため、シャッターに小さな穴が開けられます。
のぞき込んだ捜査員は絶句しました。
猟銃を手にフロアの奥に陣取った男。
警察の銃弾をよけるため、女性行員たちを裸にして人間バリケードを築いていたのです。
さらには猟銃で撃たれ、重傷を負った行員の耳を別の行員に切り取らせる凶行に走りました。
密室を男の狂気が支配していたのです。
当時、捜査に加わった鈴木邦芳さんは何よりも犠牲者が増えることを憂慮していました。
いかに残虐な凶悪犯といえど、狙撃はあくまでも最終手段でした。
やがて捜査員たちは梅川容疑者が母親思いだという情報をつかみます。
2日目、現場に母親が呼ばれました直接、本人への説得を試みるためです。
しかし…投降の呼びかけにも応じず、こう着状態のままじりじりと時だけが刻まれていきます。
銃口は依然、人質たちに向けられていました。
そしてついに、大阪府警は狙撃を決断します。
投入されたのは、大阪府警の精鋭、特殊急襲部隊SATの前身です。
けれど、警察側には苦い記憶がありました。
9年前、広島港で客船が乗っ取られた瀬戸内シージャック事件。
犯人を狙撃した警察官が後に殺人罪で告発されています。
このとき使用されたのは、殺傷能力が極めて高いライフルでした。
そこで大阪府警は、狙撃に拳銃を使うことを決定。
さらに、どの銃弾が命中したかわからないよう、複数で狙うことにしたのです。
それは、警察官6人による突入作戦でした。
通用口を利用し、腰をかがめて密かに内部に侵入。
チャンスをうかがって一斉に立ち上がり、全員同時に発砲するのです。
梅川容疑者との距離は、およそ6mバリケード越しに狙うのは容易ではなく、人質を傷つけるおそれもあります。
相手は猟銃の扱いに慣れた男。
失敗すれば、必ず撃ち返されるはず突入部隊は銀行の3階に現場を再現して狙撃のシミュレーションを行います。
発生から24時間、人質の一部が解放されました。
室内に残されたのは25人。
極限の恐怖と疲労に震えていました。
変化があったのは3日目です。
午前8時半、突入部隊が行動を開始します。
靴を脱ぎ、足音を殺して室内へ。
バリケードの陰で配置につきました。
梅川容疑者のすぐ前に女性行員が4人、とりわけ右端の1人は突入部隊と梅川容疑者の間を遮る位置にいました。
このままでは撃つことができません。
ところが、その女性行員がお茶をいれるよう命令されます。
絶好のチャンス。
籠城3日目の朝、ついに梅川容疑者が隙を見せました。
突入部隊6人は一斉に立ち上がり、引き金を引きます。
弾丸が梅川容疑者に向かいました。
放たれた銃弾8発のうち、3発が命中していました。
搬送先の病院で9時間後に死亡。
頭部への一発が致命傷と言われています。
突入部隊の隊長が会見に応じました。
極秘の捜査報告書には、猟銃の弾がまだ十分残っていたと記されています。
狙撃の決断が遅ければ犠牲者が増えていた可能性も高く、殺人罪による告発はありませんでした。
あれから37年、この事件以降、日本では射殺で解決する人質事件は起きていません。
板橋さんにお伺いしたいけど、複数で狙わなければ後の処理が難しいと。
それから、精神的な問題ですね。
自分の弾がやはり犯人といえども射殺してしまったというのは後からダメージが大きいわけですから。
よく死刑で、みんなでボタンを押して誰のボタンがついたか、それと同じ理論ですか?そういうことですね。
そういうことですね。
それと、やはり複数で狙った方が確実に制圧できるということはあるんだと思います。
恵君、そういうのを聞いて、こういうものの処理の仕方の難しさがありますが?本当ですね、この事件の場合は1日2日と、時間が経過したわけでしょうけれども、今は一瞬を争うような事態もあるわけじゃないですか。
そのときの判断って、早くないといけない気がします。
岸井さんなんかは、この処理の仕方はよかったと思われますか?それは結果論ですよね、いつもこういう問題っそうですけれども、本当、紙一重でしょう、もう。
一瞬間違えたらみんな被害者がやられて惨劇になるということがあるわけですから、そういうときの指揮官、突入する部隊の判断ってものすごく重要ですよね。
よほど訓練していないとダメでしょうね。
難しいよね、当事者は。
カーター大統領ですが、人柄はよかったんですが、経済政策の失敗や、または弱腰外交と言われたことでアメリカを弱くした大統領と思われてしまいました。
そんなとき国民が望んだのは強いアメリカの復活。
レーガン大統領の登場です。
1980年7月、大平正芳総理の急死を受け、来日したカーター大統領。
ピンチに陥っていました。
革命に揺れるイランで学生たちがアメリカ大使館を占拠。
その人質救出作戦で失敗し、支持率が急落していたのです。
定着したのが、弱い大統領というありがたくないイメージ。
そこにさっそうと登場したのが…共和党から名乗りを上げたロナルド・レーガン氏。
スローガンは、強いアメリカ。
まさにその日、イランのアメリカ大使館の人質も解放されました。
外交政策は徹底した強硬路線。
それまでの緊張緩和の流れから一転、ソ連を悪の帝国とまで呼び、激しく対立します。
そんな強い大統領を銃弾が。
レーガン大統領を襲った6発の銃弾。
1発が胸に命中しました。
しかし、そこはやはり強い大統領。
奇跡的に命を取りとめ2週間足らずで退院しました。
復帰したレーガン大統領のもとを訪れた鈴木善幸総理。
このとき初めて、日米共同声明の中に同盟という言葉が盛り込まれました。
でも…鈴木総理のこの一言で、日米関係は冷え込みます。
その修復に走ったのが…中曽根康弘総理でした。
就任するとすぐ、アメリカに飛びました。
日本列島をソ連に対抗する不沈空母に例えたとして物議を醸すも、大統領との距離は急接近。
ロン、ヤスと名前で呼び合う仲になりました。
そんなとき開かれたのが、アメリカがホストとなったサミット。
中曽根総理には、ある作戦が。
これまでサミット恒例の記念撮影では端の方にばかりいた日本の総理。
中曽根総理は真ん中に立とうともくろんだのです。
建物を出て、歩き出した首脳たち。
中曽根総理は、まだこの位置です。
次の瞬間。
レーガン大統領とサッチャー首相の間に滑り込みます。
その後ずっとサッチャー首相と話し込み、場所を譲りません。
こうして、レーガン大統領の隣のポジションを勝ち取ったのです。
ヤス、ご満悦のサミットでした。
日本を訪れたロンを山荘に招いておもてなし。
ロン、ヤス関係、日米蜜月の時代です。
恵さん、この中曽根さんの作戦は?見事でしたね。
目を合わせてなかったですもんね。
ずっとサッチャーさんと話してて。
狙ってたよね。
踏み出しの一歩が大きかったからね。
グッと行った感じだったね。
でも、これずっと歴史に残るんですもんね。
マスコミでもよく言われていましたよね。
日本の総理はどうしていつも端っこなの?遠慮深いんですよね。
だけど、中曽根さんは後で言っていましたけれども、レーガンさんをいかに落とすかっていうのは練りに練ったと言ってました。
だからレーガンさんが、一番ロン、ヤスの関係になったのは私がキャッチャーやるから、あなたは思いきって投げろってピッチャーやれって言ったと。
そうしたらレーガンが、君のサインのとおりやるよって言ったんです。
そこからですね。
それも全部練りに練ってやったと。
テレビにどう映るかっていうのが政治力。
そういうことが敏感になってきた時代でもありましたね。
そんなレーガン大統領が就任した1981年ですが、トランプさんはどうしていたんでしょうか。
「報道の日・トランプ氏はその時」。
トランプメーターをご覧ください。
1981年、35歳のトランプさんはこちらです。
結婚4年目、奥さんのイヴァナさんも32歳です。
トランプさんも今の風貌に近づいていますよね。
この年、今回の選挙戦で大活躍した長女のイヴァンカさんが誕生しました。
さらに、この2年後にアメリカ・ニューヨークマンハッタンの一等地にトランプタワーが完成します。
レーガン政権のもと好景気の波に乗って、アメリカの不動産王の地位を手にしました。
そのレーガン大統領ですが、恵さんもおっしゃっていましたよね。
トランプさんと似ているところがあるんじゃないかと。
強いアメリカという意味では。
実はお二人には共通点がたっぷりありました。
まず2人ともメディアで人気者ですよね。
予算的にも技術的にも、レーガン大統領の時代には無理だったんですね。
ちなみにこんな写真もあるんです。
レーガン大統領とトランプさんが、なんと握手をしているんです。
有名人好きだったのかな、トランプさんは?そうかもしれないですよね。
憧れの目つきが見えますね。
ただどうでしょう、岸井さん、レーガンとトランプとは同じような政策をとることになるんでしょうか?トランプさんとしてはレーガンさんを1つの憧れというか、目標にしてるなという感じはしますね。
前からレーガンさんに似てるなと私、ちょうどレーガン時代にワシントンにいたものですから、それをちょっとピンときましたけどね。
ただ2番目の中東が致命傷なんです。
前の大統領が致命傷を受けて国民の不満が新しい強いアメリカを求めたというのが共通項なんですね。
だから強いアメリカを取り戻すという政策は基本だと思います。
これは変えないと思います。
今度は東京で2回目のサミットが開かれる。
もちろんこの後、いろんな大きなサリンのこともありますし北朝鮮が出てくるし、イラク戦そうがあって、イスラム国が出てくる、いろんなことが起こっていきますがまず、ここにいきますか、2回目のサミット。
各国の首脳が集まるサミットなんですが、過激派はなんと会場の迎賓館をめがけてロケット弾を撃ちました。
1986年4月15日、アメリカのレーガン大統領は北アフリカのリビアを空爆しました。
反米を貫き、テロを支援してきたとされる最高指導者、カダフィ大佐への報復です。
空爆のおよそ3週間後、第2回東京サミットが開かれます。
レーガン大統領はテロ対策を大きな課題に挙げました。
日本でも過激派のテロが先鋭化。
この2年前には、政治の中枢、永田町にある自民党本部が火炎放射器で焼き尽くされる事件が起きています。
当時の警察庁長官、山田英雄さんはサミット会場の迎賓館も狙われるだろうと考えていました。
全国から動員された警察官、実に3万人。
空手は警視庁の飛行船が地上に目を凝らし、水中でも不審物の捜索。
検問は都内1000カ所で行われました。
空前とも言える万全の警備態勢を敷いたにもかかわらず、過激派は、サミット初日に攻撃を仕掛けてきたのです。
午後4時20分、迎賓館でフランスのミッテラン大統領の歓迎式が行われていた、そのとき、会場すぐ近くのカナダ大使館前などに金属製のロケット弾が続けざまに着弾したのです。
一体、どこから…サミット初日、会場の迎賓館を飛び越えて落ちたロケット弾は新宿区内のアパートから放たれたものでした。
5本の筒が発射装置です。
驚くべきは、その仕掛けでした。
窓が自動的に開き、金属のロケット弾が次々発射されたのです。
狙いはサミットの粉砕でした。
ところが、幸いにも迎賓館を越えて無人の路上などに着弾したのです。
その飛距離およそ3km。
実はこの1カ月前、過激派はアメリカ軍の横田基地を砲撃していました。
ロケット弾の飛距離は1kmほど。
警察側はその事実をもとに迎賓館の半径2km圏内を入念にチェックしていたのです。
まさか3kmも飛ぼうとは…直後に出された犯行声明。
過激派の一つ、中核派の仕業でしたサミットに集った各国首脳は、しかし事件を冷静に受け流します。
とはいえ、同じ過ちは繰り返せません。
捜査範囲を半径4kmに広げ、迎賓館に向いた窓がある建物を徹夜で調べたのです。
翌日、迎賓館の屋外で無事に記念撮影ができました。
こうして第2回東京サミットはリビアを名指しした国際テロに関する声明を採択し、幕を閉じます、しかし…中核派は次なる機会をうかがっていました。
1989年1月7日。
昭和天皇の崩御で1つの時代が終わりました。
政府は、直ちに天皇の葬儀、大喪の礼の準備に取りかかります。
その中心にいたのが内閣官房副長官、石原信雄氏。
大きな懸念材料がありました。
天皇制打破を主張する過激派にとって大喪の礼は格好のターゲットだったのです。
成田空港の近くでは、ロケット弾の発射台が発見されました。
164カ国の要人が参列する葬儀、過激派はその要人を攻撃対象としていることがわかったのです。
初めてテレビで明かされたこと。
この頃、アメリカでは新しい大統領が誕生します。
就任したばかりのブッシュ大統領も参列。
格好の標的になるのではないか。
警視庁は3万2000人もの警察官を動員して都内に史上最大の厳戒態勢を敷きます。
大喪の礼、前日。
ブッシュ大統領が羽田空港に到着。
専用車でホテルへ向かいました。
ピタリと寄り添う日本の警護車両。
背後にシークレットサービスを従えたけれど、こうした長い車列は葬儀当日に大きな混乱を招く恐れもありました。
このとき要人警護を指揮した元警視庁警備部の金井佑一さんは頭を抱えたと言います。
葬儀が行われる新宿御苑に車列が通れる入口は、ただ1カ所しかなかったのです。
渋滞に阻まれた車両は、過激派に狙われる危険性も高い、金井さんは策を練りました。
初めて公開される全要人の宿泊先です。
金井さんはこのリストを手に入念に検討しました。
例えば、ブッシュ大統領はホテルオークラ。
このリストを参考に、164カ国の車列が各ホテルを出て、新宿御苑に到着するまで秒単位のスケジュールを組んだのです。
いよいよ、その朝。
新宿御苑に立つ金井さんがそれぞれのホテルに配置した部下に連絡を入れたのは、午前9時前でした。
要人たちの車列は、秒単位の正確さで出発。
9時10分、各国の車列が次々と新宿御苑へ。
途中、1台たりとも止まることなく入ることができたのです。
一方、皇居では…雨の中、およそ7.5kmの沿道には20万人を超える人々。
激動の時代を生きた昭和天皇を偲びました。
霊柩車が国会議事堂前を通過した頃、ブッシュ大統領は、まだホテルオークラ。
出発を遅らせたのは危険を極力回避するためでした。
9時45分、霊柩車は青山通りへ。
そのときを待って、ブッシュ大統領も新宿御苑へ出発します。
葬列より到着が遅れることはできません。
車列は霞が関から封鎖していた首都高速を利用。
理由はスピードだけではありませんでした。
けれど過激派の牙は昭和天皇の葬列が青山通りを走っていたとき。
飛び出してきたのは、中核派の男2人。
すかさず警察官が取り押さえ、事なきを得ました。
その直後…ブッシュ大統領は新宿御苑に入ります。
こうして葬列より前に到着することができたのです。
昭和天皇の葬儀、大喪の礼は何もかも計画どおりに進められます。
各国の席次にもアメリカへの配慮があったといいます。
当時、外務省の職員として準備に当たった杉田明子氏。
昭和天皇は1975年にアメリカを訪問されていました。
そのため、アメリカ大統領の席を最前列の中央に置くことができたのです。
参列者およそ1万人。
大喪の礼は、過激派のテロから守られました。
くどいようでございますが、こちらが今日のこの番組の流れでございますが、今、ここまで終わりましたね。
ということは、次はベルリンの壁崩壊。
これは世界的には大きな出来事でございました。
ブッシュ大統領の時代、ベルリンの壁が崩れ冷戦が終結します。
世界は平和になるかに見えました。
ところが、アメリカはすぐに戦争を始めることになります。
そこで、日本に求められた国際貢献とは何だったのでしょうか。
1989年11月。
ベルリンの壁が崩壊しました。
1カ月後には、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長がにこやかに握手を交わしたのです。
歴史的な会談はジョークも飛び出す、和やかな雰囲気でした。
冷戦の終結で唯一の超大国となったアメリカは、世界の警察官として様々な地域の争いに介入していきます。
1990年、石油を狙って隣国のクウェートに侵攻したイラク。
フセイン大統領は撤退を求める国連決議を無視しました。
アメリカは多国籍軍の中心に立ち、イラクをたたく湾岸戦争を開始。
日本には、人を出さないのなら金を出せと迫ります。
支援金は膨らみ続け、ついには1兆6000億円に上りました。
クウェートは、新聞や雑誌を通じて支援国への感謝を表明します。
しかし、日本の国旗はありませんでした。
お金だけの支援は評価されなかったのです。
金から人へ、日本は新しい国際貢献の道を模索しました。
ペルシャ湾の機雷撤去で自衛隊を初めて海外に派遣。
さらに自衛隊などが国連の人道支援活動に参加できるPKO法案の採択に向けて動きます。
野党の牛歩戦術もむなしく、法案は可決・成立しました。
初めてのPKO派遣はカンボジア。
そして、非戦闘地域と言われた場所で悲劇は起きてしまったのです。
1993年5月4日、国連のPKO活動に参加していた1人の日本人警察官が武装集団の襲撃を受け、命を落としました。
高田晴行さん33歳。
岡山県警で働く2児の父でした。
警察官たちが撮影した映像は、海外派遣の知られざる実態を語り出します。
1991年、カンボジアの内戦が終結。
その翌年、カンボジアの民主化を支えるため国連によるPKO、平和維持活動が始まりました。
日本からは自衛隊とともに武器を持たない、いわゆる文民警察官たちが派遣されます。
全国から集まった警察官75人は誇りを胸に、旅立ちました。
自分もいつか国際貢献に従事したい。
夢を叶えた高田さんの姿が残されています。
23年前、息子をカンボジアに送り出した母、幸子さんが私たちの取材に答えてくれました。
PKOにおける海外派遣は現地で紛争当事者の停戦合意が成立していることなどが条件となっています。
1992年10月、警察官たちは戦場の気配を肌で感じました。
高田さんたち10人の任地は首都プノンペンから400km離れたアンピルでした。
爆発音は日常茶飯事。
当時、この地域には民主化に反対する勢力が強い影響力を持っていました。
班長、川野邊寛さん。
アンピルの情勢に衝撃を受けたといいます。
着任から3カ月。
アンピルに近いシェムレアプで日本の文民警察官の宿泊施設が武装集団による襲撃を受けます。
幸い文民警察官は外出中で、難を逃れました。
政府の姿勢は揺るがなかったのです。
日本が人的な国際貢献を進める中、アメリカでは新政権が誕生します。
アメリカ至上主義のブッシュ政権から国連重視を訴えるクリントン政権へ。
この頃、山崎裕人さんは文民警察隊長としてPKO活動の拡大に苦悩していました。
現地警察への助言や指導などで派遣された彼らは武器の携行が許されていませんでした。
にもかかわらず、要請されたのは武装勢力の襲撃に備えた任務だったのです。
カンボジアPKOの明石康代表がアンピル視察にやってきたときも、警護の文民警察官たちは丸腰だったのです。
このときの映像には、高田さんの姿も記録されています。
幸い、視察は無事終わりました。
けれど翌月、国連ボランティアの中田厚仁さんが武装集団に射殺される事件が発生。
高田さんは衛星電話を通じて母親の幸子さんを安心させています。
母と息子の、それが最後の会話となりました。
5月4日、車列を組んで移動しているさなかのこと。
先頭にはオランダの海兵隊、続く2台に文民警察官たちが乗っていました。
高田さんは2台目のハンドルを握り班長、川野邊さんは3台目の後部座席でした。
反政府勢力の支配地域に近い場所。
ロケット砲は先頭の車に炸裂します。
続けざまに、銃弾が降り注ぎました砲弾を受けたオランダ海兵隊の車は辛うじて前方に走り抜け、日本の文民警察官が乗る2台がその場に取り残されます。
高田さんの車両は側溝にタイヤをとられ、身動き不能。
激烈な集中砲火を浴びたのです。
30分間にも及んだ銃撃を山崎隊長は次のように報告しています。
日本の文民警察官4人が重軽傷、オランダ海兵隊5人が重傷。
高田さんは帰らぬ人となりました。
襲撃を受けたアンピル班は全員帰国。
それでもなお日本政府は、停戦合意は崩れていないという立場を変えなかったのです。
事件から23年、高田さんは実家のある倉敷市の墓に眠っています。
国際貢献にあこがれ、志願した高田さんの死とは何だったのか。
日本は今、さらなる国際貢献を推し進めています。
南スーダンのPKOでは、新たな任務、駆けつけ警護が加わりました。
これはなかなかコメントの難しい問題だろうと思いますが、板橋さんにお伺いしましょう、どう思われますか?本当にとても残念な事件ですね。
国際貢献というのは非常に重要だと思うんですが、そもそも文民警察官ってここに行かれたこと自体はこういった任務を想定していなかったわけです。
そもそも警察官として入ったわけですから、こうした海外での準紛争地みたいなところで活動するというのは、想定されていないことだったはずですよね。
ところが、国際情勢の変化、それからもう1つは、アンタックのトップが明石さんだったということが1つあると思うんですね。
特に言われているのは、特に日本の警察官が与えられた任務の場所というのは比較的厳しい状況のところが多かったと言われているんですね。
でも、停戦合意は崩れていないで突き通したですね。
それは今、南スーダンにも言えていますよね、岸井さん。
国際貢献というのは、じゃあ、何が国際貢献かともう一回よく考える必要があると思うんですね。
南スーダンは駆けつけ警護で安保法制の一環でPKO法を改正して行くことになったんですけれども、あのカンボジアよりよほどリスクが大きいです。
つまり最近、国連の調査団自身が大量虐殺を受けるかもしれないぐらい、内政は深刻だと言われているそれを受けてJICAの職員はみんな今、退避しているんです。
そこへわざわざ自衛隊を送って、今度は丸腰ではないわけですね。
何かあれば銃撃しなければいけない、戦わなきゃいけないということが任務になっちゃっているということですから。
それは我が身を守るということもありますけれども、それが紛争へ広がって巻き込まれていく、日本という国がね。
カンボジアのときも政府は停戦合意は崩れていないとずっと貫いた、今もそうなんですよ。
ちょっとしたやりとりがあっても、それは停戦合意は崩れていないんだと言っています。
つまりそれは崩れていると言っちゃうとPKO活動ができなくなっちゃう、引きあげなきゃならなくなるので、それは言えないという、非常に変なジレンマなんですね。
国際貢献とはなんぞやと、これをもう一回、我々も考え直さなければいけないのかもしれませんが、話は先に行きましょう。
続いては、アメリカは不景気に苦しんでいました。
そしてその時代、危機に陥っていたのがトランプさんです。
「報道の日・トランプ氏はその時」。
実はこの頃、大変なことになっているんです。
トランプさんの不倫が発覚しまして、最初の夫人のイヴァナさんと離婚。
メディアも大きく取り上げ、大騒動となりました。
本業も私生活も大変だったわけなんですが、トランプさんはめげません。
東京で驚きのプロジェクトを進めていました。
1993年、不動産王、ドナルド・トランプ氏は当時47歳。
時の人でした。
2度目の結婚をしたのです。
前妻のイヴァナさんの目を盗み浮気に走った末の再婚でした。
お相手は…マーラ・メイプルズさん。
妻より一回り以上若い人気女優にくら替えしたのです。
マーラさんが前妻のイヴァナさんの若い頃に似ていることも話題になりました。
プレイボーイを地でいく人生。
私生活は絶好調でしたが、実はビジネスで人生最大のピンチに直面していました。
投資などに失敗し、巨額の借金を抱え込んだのです。
再起をかけるトランプ氏。
なんと日本で活路を見出そうとします。
1993年、来日したトランプ氏が極秘に接触したのが、この蝶ネクタイの男性でした。
横井英樹氏、あのホテルニュージャパンの元社長です。
33人もの死者を出した悲惨な火災事故。
その跡地をめぐる驚きの計画が持ち上がっていたのです。
人呼んでトウキョウ・トランプタワー計画。
東京のど真ん中に摩天楼を出現させる計画でした。
当時、TBSが独自に入手した計画書には、こうあった。
最高80階建ての多目的ビルを建設する。
しかし、アメリカでの事業が持ち直し、トウキョウ・トランプタワー計画が幻と消えます。
そして、トランプ氏は不動産王に返り咲くのです。
何か世間は狭いなという感じしない?あそこと接点があったんだみたいな。
でも、欲しかった?東京にトランプタワー?あったら随分変わっているんじゃないですか。
よかったかな?よくなってんじゃないですか。
そうなのかな〜。
横井さんも買収王と呼ばれてましたからね。
あのホテルの中、ものすごい政治家の事務所が多かったんです。
千秋さんはトランプタワー欲しかったですか、東京に?多分、実際に手に入れるのは難しかったでしょうけれども、とりあえず見には行くでしょうね。
どんなものかというのを。
持ち主が大統領なんだもん。
あればね、そうか。
話続けます。
クリントン大統領の時代、実はアメリカと北朝鮮が戦争を起こす直前までいったことがありました。
もうダメかというとき、あの人物が危機を救ったのです。
1993年7月、クリントン大統領が来日します。
東京サミットに出席するためでした。
でも人々の視線を集めたのは、この人。
ファーストレディーのヒラリー夫人です。
水色のスーツにサングラスで決めたと思えば、鮮やかな黄色をまとい、鎌倉へ。
注目の的でした。
一方で…当時、アメリカを悩ませていた貿易赤字をめぐり、クリントン大統領は日本を痛烈に批判。
日本の得意分野である自動車や半導体の市場開放を強硬に求めてきました。
そして、ついに…時の細川内閣は日本の農業の本丸とも言えるコメの輸入一部自由化を受け入れたのです。
その頃浮上したのが北朝鮮の核開発疑惑でした。
北朝鮮は国際機関による核施設の査察を拒否。
韓国を巻き込み、世界を挑発したのです。
挑発する北朝鮮。
アメリカは韓国に迎撃ミサイルを配備します。
核施設への空爆も辞さない構えのアメリカに対し…北朝鮮は抗議集会を開き、士気を高めます。
韓国のソウル駅前に響くのは空襲警報。
攻撃を想定した訓練は実戦さながらです。
あわや戦争突入か。
この危機にアメリカはカーター元大統領を送り込みます。
核兵器に転用しにくい原子炉をアメリカが建設する。
それを条件にキム・イルソン主席との直接会談にこぎつけます、そして…北朝鮮は核施設の凍結に合意。
武力衝突は、こうして回避されたのです。
これね今振り返ると、あのカーターさんとキム・イルソンさんがもっと詰めた話をしておいてくれればという気がしませんか?ただね、大事なことがあるのはあの後、キム・イルソンが死んじゃうんですよ。
あまりのカリスマだったためにその後のキム・ジョンイルが後で総書記になりましたけどあの人はすぐトップになれないんですよ。
それでどんどん方針が変わっていっちゃったということがありました。
私もあの直前、ちょうど行って、キム・イルソン主席と会見したりしてるんですけどね。
全くそういうことがわからないですね。
あのときはCIAについてったスパイが毒殺したんじゃないかと言われたくらい、いろんな説が飛び交いました。
だけどあのキム・イルソン主席の死去はものすごく大きかったです。
若い人たちに聞きますが、北朝鮮ってどう思います?実際に今も核兵器の開発はされているらしいと言われているじゃないですか。
ここで武力衝突を回避したとは言ってますけど、結果的に今のような状況になっているのであれはあれで、一つの成果を挙げたと評価されてはいるんですか?あの時点でそうだったのが、さっき言ったように新しいキム・ジョンイル総書記はいろいろなことを考えた上で、我々が生き残るためには核ミサイルを開発してそれを認めさせる以外にはないと決心したんですよ。
それが今日。
だから今ものすごく核開発をやってます。
今日はアメリカの大統領を中心に番組を進めてるでしょう。
でもいつも彼ら北朝鮮が言ってることはアメリカに対して物を言ってるんですよね。
これを今度、トランプさんがどうするかなんですよ。
これも予測つかないでしょう。
予測つかなんいですけど、動きはあるんです。
トランプさんがキム・ジョンウン委員長と会っていいと言ったんです。
そんなことアメリカの人言ったことないんですよ、大統領なんか絶対認めなかったんです。
だけど、それをトランプさんが言ったので北朝鮮側は、じゃあ会うチャンスをつくろうかという動きはあるんです。
とにかく危険なことは間違いないんだから、誰かがどうにかしないとと思うんだよね。
続いては化学兵器を大都市で使った前代未聞の無差別テロ、地下鉄サリン事件なんですが、それに重大な関心を寄せたのがアメリカでした。
1995年3月20日。
世界が経験したことのないテロが東京で起きました。
オウム真理教による地下鉄サリン事件。
都心を走る5つの地下鉄の車両に猛毒のサリンがまかれました。
死者13人、負傷者6000人以上大都市を狙った世界初の無差別化学テロでした。
テロの衝撃は海を越えました。
未知なる化学テロを受け、アメリカではオウム真理教についての公聴会が開かれました。
報告されたのは驚きの事実。
そのガスマスクは、サリン事件の2日後に日本へ輸出されるはずでした。
しかし、事件を知った仲介業者が輸出直前に気づき、税関に引き渡したのです。
矢面に立たされたのがCIAとFBIでした。
世界の警察官、アメリカが誇るCIAやFBIがオウム真理教のことはノーマークだったのです。
しかし、オウム真理教の代表、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚はたびたび攻撃対象にアメリカを挙げていました。
公聴会の中心メンバーだったサム・ナン元上院議員は強い危機感を抱きました。
これはオウム真理教が出していた英語版の広報ビデオ。
アメリカではニューヨークに支部がありましたが、信者は多くても100人程度と見られていました。
地下鉄サリン事件からおよそ2週間後の「ウォールストリート・ジャーナル」オウム真理教はアメリカであるコンピュータソフトを購入しようとしていたのです。
それは新薬の製造などに使う化学ソフト。
当時4000万円近くもしました。
これを使えば化学物質の組み合わせをシミュレーションし、サリンなどの毒性をさらに強めることもできました。
彼らの狙いは何だったのか。
当時TBSではオウム真理教のニューヨーク支部を直撃していました。
部屋に流れる不気味な声。
壁には至るところに麻原代表の写真が貼られていました。
コンピュータソフトの入手について支部の代表者に尋ねると…一方その頃日本では、執念の捜査が続いていました、そして…事件からおよそ2カ月後、警察はついに麻原代表をとらえたのです。
この逮捕劇により消え去ったかに見えたアメリカの懸念。
首謀者の逮捕後も消えなかったアメリカの懸念。
原因は一冊のノートにありました。
警察が押収した、通称、早川ノートです。
早川紀代秀死刑囚がヘリコプターや戦車の購入など教団の武装計画などについて記していました。
アメリカが気にしていたのは、その中のある言葉。
「戦争」と書かれた11月、大阪での開催が決まっていたAPEC。
クリントン大統領も出席を予定していました。
このとき、地下鉄サリン事件の実行犯の1人は、まだ逃亡中だったのです。
化学テロからAPECを守れ。
消防ではサリンにも対応できる防護服を急きょ、用意します。
しかし、もし毒ガスを浴びたら?除染という考えがまだあまりなかった中、編み出された方法とは…消防車を2列に並べ、その間を隊員と負傷者が通ります。
急ごしらえの除染シャワーで毒物を洗い流そうと考えたのです。
各国首脳らが泊まったホテル。
APECの警備を指揮した元大阪府警の池田克彦さんはホテルの通気孔にまで気を配ったといいます。
そんな中迎えたAPEC。
しかし、クリントン大統領は直前になって欠席します。
理由はアメリカ国内の政治情勢でした。
その裏でアメリカが進めていたのは、ある特殊部隊発足の準備。
アメリカ海兵隊の特殊部隊、CBIRF。
化学・生物テロに対応するため、地下鉄サリン事件の翌年、発足しました。
彼らが注目されたのは、2001年の炭疽菌事件。
テレビ局などに炭疽菌が入った封筒が送りつけられ5人が死亡しました。
そのとき現場で除染などを行ったのがCBIRFでした。
活動の場は、事件に限りません。
トランプ氏が壇上に立った今年の共和党大会でもテロへの備えとしてCBIRFが配備されました。
大都市を狙った世界初の無差別化学テロ、地下鉄サリン事件は、アメリカのテロ対策まで変えたのです。
今のVTRをみんなで見ている間に小池都知事が来てくださいまして、ここから参加していただきます、よろしくお願いします。
VTRが途中だったですけれども、いらした以上は、まずサリン事件についてご感想をいただきたい。
私も覚えてます。
ちょうど議員会館におりましてサイレンの音が、駅が近くですからね、ただならぬ雰囲気でしたし、あのときに犠牲になられた方、ご冥福をお祈りするとともに、何が起きたかわからないから、救助に入ろうとした駅員さんが巻き込まれる形になったりでしょう。
ですから、こんなにいろんなABCDといいますけど、ケミカルの問題というのはよく見えないだけにわからないけれども、いろんな種類があるということだけは知っておかなくちゃいけないですね。
今、都知事とすれば警視庁が管轄なもので、その意味ではこういった経験を積みながら体制をしっかり整えていくというのは2020年のオリンピック・パラリンピックにとっても、とても重要な、不幸な経験を生かすという言葉がいいかどうかわかりませんけれども、これをまさしく生かして、一番は予防ですけれども、起こったときには何が必要かというのを逆算しておくべきだと。
それはもう始まっているんですか?いつ何が起こるかわからないというのが一番ポイントですけれどもね。
だけど岸井さん、これが起こったとき、一教団に何ができるかという空気がありましたよね?明らかになるたびに、え?え?と驚きましたよね。
さっきから、日本って何でこんなにテロがいろいろあるのという中でも、このサリン事件というのはレベルが完全に上がっちゃったんじゃないですかね。
最初に聞いてびっくりしたのは、ロシア、北朝鮮経由で武器をあれしたり、あるいはアメリカともいろいろルートがあったって。
何でこの教団にそんなあれがあるのっていう、その疑問はいまだに解けていないんですよね。
板橋さんはこれを今、どうくくられますか?まさに1つのテロの大きな転換点だと思いますね。
冷戦構造の崩壊が深く関わっていて、その技術が日本にも流れてきた。
この事件というのは、アメリカが徹底的に研究しました。
なぜなら、次に起こるのはアメリカかもしれないと。
その年に大量破壊兵器防衛法ってつくっているんですね。
各地に解毒剤とか、そういうものを備蓄したんですね。
あるいは防護服とかですね。
もう1点重要なのが、この後、最近ですが、2005年にロンドンで地下鉄でテロが起こる、その前の年にマドリードでテロが起こるんですが、これはみんな複数路線なんですよ。
地下鉄サリンが5路線でしたかね。
これと同じようにまねてやっているんですよね。
だから、原点になっているところがあるんですね。
日本が悪い例をつくってしまったんですね。
ですからまさに欧米の研究機関とか治安機関に行くと、日本はテロの先進国だと言われるんですよ。
知事、今日は東京都の複雑な話じゃなくて世界的なテロの話とか、アメリカ大統領を中心にした話になりますのでお時間の許す限り、お付き合いいただきたいと思います。
追いついていきたいと思います。
続いては1995年、後にSATと呼ばれる特殊急襲部隊が日本にもあることが明らかになりました。
しかし、その活躍の陰で、思わぬ悲劇が起こりました。
彼らの存在はずっと極秘でした。
通称・SAT、凶悪犯罪を専門とする、警察の特殊部隊です。
初登場は…1995年、函館空港のハイジャック事件でした。
このとき、機内に強行突入し、犯人を逮捕。
人質を無事救出したのが、SATでした。
さらに…2000年の西鉄バスジャック事件でも、せん光弾を投げ入れ、突入を支援。
難事件を次々と解決に導いてきました。
しかし、その7年後、悲劇が…当時の警察幹部が初めて真相を語った悲劇の殉職とは。
2007年5月、警察官が1人、路上に倒れています。
撃たれて動けないのです。
現場は愛知県長久手市。
拳銃を持った元暴力団組員の男が復縁を断られ、別れた妻を人質に立てこもったのです。
場所は、男が経営する不動産会社の事務所。
警察官はその玄関先に倒れていました。
通報で駆けつけ、男に首を撃たれたのです。
捜査に当たって、元愛知県警の玉越清美さん。
実は、事件発生直後に一度解決のチャンスがあったといいます。
それは、発生からおよそ1時間後。
現場に着いた捜査員の1人が銃を持たずに男の説得を始めます。
警戒心が緩んだのか、男の拳銃は下を向いていました。
その隙に拳銃を持った捜査員が接近。
あと少しで射程に入る、まさにそのとき、県警幹部から、待ったがかかったのです。
男はこの後、窓を閉め、事務所の奥へ。
倒れた警察官を助けることができないまま、事件はこう着状態に入ったのです。
そして日没、SATが登場します。
警察官救出のシミュレーションを終え、駆けつけてきたのです。
現在、9時20分です、機動隊員が徐々に建物に近づいていきます。
事件発生からおよそ5時間半、ついに救出作戦が始まりました。
部隊の編成はこうです。
最前列に盾を持った捜査員、2列目に拳銃を持った捜査員。
全員、捜査一課の立てこもり専門部隊です。
3列目には担架を持った6人の刑事。
彼らを後方から支援するのが、別の部門に属するSATです。
拳銃や機関銃を手にしています。
さらに70mほど離れた屋上にSATの狙撃手。
捜査員が建物の前に近づいた、そのときでした。
犬の鳴き声で犯人が捜査員の接近に気づいたのです。
窓を開け拳銃を構えた男。
そのすぐ先にSATがいました。
距離、わずか7m。
そして…銃声が響く中、担架で運び出された警察官。
すぐに病院に運ばれ、一命を取りとめました。
しかし…先ほどの場面をもう一度。
銃声の後、その場にしゃがみ込んだSAT隊員がいたのです。
担架で運ばれた警察官の背後で、体をのけぞらせ、後ろに倒れました銃弾が命中したのです。
男が撃った弾は防弾チョッキの襟と胴体の狭いすき間を通り抜け鎖骨を直撃。
角度を変えて体内に入り、大動脈を貫いたのです。
林一歩警部、23歳。
SATで初めての殉職者でした。
指揮をとっていた捜査一課から細かい指示がなく、SAT隊員が近づいてしまったのです。
警察組織が抱える縦割りの弊害でした。
容疑者と見られる男が家の外に出てきました。
結局、男は警察の説得に応じて投降しかし、欠けがえのない命が失われてしまいました。
小池さんはこんな事件をご覧になると何をお感じになりますか?こうやってSATの方々がいつも訓練をしてやっていらっしゃるということは非常に私たちをしっかり守ってくれているという、その努力は敬意を表したいと思いますけど、ああいう一瞬のことで、今も縦割りの話が出ていましたけれども、指示系統をきっちりとしておくというのはすべてにおいて言えることだと思いますね。
このケースがどうだったのか私はよくわかりませんけれども。
その後、板橋さん、この事件からSATとSITですか、2つある?もともと役割が違うんですね。
SITというのは、人質立てこもりでもテロではない強盗だとか、人質をとって立てこもる、今回のような対応にSITというのが対応するんですね。
これは捜査一課の中にある対応特殊班、スペシャルインベスケーションチームをSITと言うんですね。
SATというのは一瞬にして制圧しなければいけないような事件に対応する部隊ですね。
これはどういうことかというと、例えばハイジャック犯が起爆装置を持って飛行機の中にいると。
これは一瞬に制圧しないと、何百人という命に関わりますのでそれがSATの役目。
もともと性格、役割が違うんですねSITとSATでは。
SATだ、SITだというのが活躍する時代は結局物騒な時代ということですね。
両方とも非常に重要な役割を持っていますよね、それぞれ違うにしても。
ものすごい訓練してます。
普通の人が銃を持っているわけでしょう。
その問題がまずありますよね。
1998年、クリントン大統領は前代未聞のスキャンダルに揺れていました。
そんなとき、狙い済ましたかのように北朝鮮が行動を起こします。
1998年8月、テポドン1号の発射に北朝鮮は沸き返りました。
日本をはるかに越えて、太平洋に至るほどの射程に世界が驚がくします。
その2週間前、アメリカは一大スキャンダルに揺れていました。
大統領就任以来、経済政策に手腕を発揮し、高い支持率を誇っていたクリントン大統領。
それなのに…ホワイトハウスの元研修生、モニカ・ルインスキーさんとの不適切な関係。
平たくいえば、不倫を認めたのですヒラリー夫人は懸命にフォローしましたが、政権は求心力を失っていきます。
その頃、日本では就任間もない小渕恵三総理が冷めたピザなんて言われていました。
支持率も株価もそろって低迷。
小渕総理はクリントン政権に倣って北朝鮮に対話路線で臨みました。
にもかかわらず、この2日後、自衛隊は北朝鮮相手に命をかけることになるのです。
1999年3月22日、海上自衛隊・舞鶴基地はただならぬ緊張の中にありました。
最新鋭のイージス艦が緊急出港を命じられたのです。
アメリカが開発したイージス艦、史上最強と言われる護衛艦です。
ブリッジには半径500kmをカバーするスパイレーダーを備え、デッキのミサイル垂直発射装置は同時に10を超える目標を狙い撃てます。
北朝鮮の弾道ミサイルを想定したイージス艦は大気圏外での迎撃さえも可能にしていました。
それはまさしく最強の盾です。
伊藤祐靖さんは当時、日本のイージス艦「みょうこう」の航海長、つまり、運航責任者。
その日、当時営業していたこの書店で連絡を受けました。
伊藤さんは、基地に停泊していた「みょうこう」に急ぎます。
艦長はしかし、航海長にも出航の理由を伏せたのです。
緊急出航の背景には、防衛庁がつかんだ不審な電波がありました。
日本海の船が朝鮮半島方面と頻繁にやりとりしていたのです。
やがて海上自衛隊の哨戒機が2隻の不審船を発見し、海上保安庁に通報。
不審船を取り締まる海の警察官として、まずは海上保安庁の巡視船が動きました。
不審船は、「第1大西丸」、「第2大和丸」と名乗り、日本の漁船を装っていました。
自衛隊の「みょうこう」が緊急出港したのは、この不審船追跡のためだったのです。
もしも、北朝鮮の工作船だとしたら拉致か、あるいはスパイ活動か。
総理官邸では小渕総理が防衛庁の野呂田長官らと緊急協議に入ります。
海上保安庁の巡視船と自衛隊のイージス艦はともに不審船「第2大和丸」を追っていました。
不審船は停船命令を黙殺し、さらに速度を上げて逃げ続けます。
海上保安庁の巡視船は、ついに威嚇射撃を決断。
けれど、巡視船の速度には限界がありました。
燃料不足も重なって、海上保安庁の巡視船は午後9時過ぎに追跡を断念します。
不審船を追うのは、今や自衛隊のイージス艦「みょうこう」1隻だけでした。
防衛庁の野呂田長官には、この時点で既に覚悟があったといいます。
海上警備行動とは、海上保安庁が対応できない場合に限り総理の承認を経て防衛庁長官が下す命令です。
これにより、海上自衛隊は警告射撃や立入検査が可能になります。
攻撃にもさらされかねない実戦命令はしかし、過去一度も発令されたことがありませんでした。
深夜1時、野中官房長官の会見。
当時、野中氏は直前まで強く反対していたといいます。
不審船に対するイージス艦の警告射撃には直径12cmを超える巨大な砲弾が使われました。
法律上、相手が攻撃してこない限り船体を狙うことはできません。
艦長は命令を下します。
数キロメートル離れた不審船。
その後方200mの海上に向けての発射でした。
精度を誇るイージス艦の主砲が火を噴きます。
さらに後方100m、前方50mにも水柱。
そこへ、海上自衛隊の哨戒機P3Cが飛来。
潜水艦攻撃に使用する爆弾を不審船の前方に4発投下しました。
巨大なイージス艦さえ揺れるほどでした。
けれど、それでも不審船は逃げ続けたのです。
日本側は北朝鮮の基地と不審船の交信を傍受していました。
基地が告げます。
ところが、不審船は突如、動きを止めたのです。
海上警備行動のもとでは、自衛隊が立入検査をしなければなりません。
20人ほどの隊員が食堂に集められました。
そこで初めて拳銃の扱い方を教わり、いったん解散して、10分後に再集合となったのです。
準備だけでなく仲間と最後の挨拶を交わすためもありました。
伊藤さんは忘れられない光景を目にします。
隊員たちが漫画雑誌を腹に巻いていました。
接近戦を想定しない海上自衛隊に防弾チョッキの備えはなかったのです。
気休めの漫画雑誌の上から頑張れと書く仲間もいました。
何せ、相手は自爆も辞さない武装した北朝鮮の工作員です。
重いこと言うな、こいつと思って。
しかし、不審船は再び逃走を開始。
結局、立入検査は行えなかったのです。
不審船は2隻とも北朝鮮へ。
実はこのとき、北朝鮮のミグ戦闘機も緊急発進。
文字どおり、一触即発だったのです事件の推移はアメリカも掌握していました。
当時の官房長官はあの警備行動発令を今も疑問視しています。
2年後の2001年には、鹿児島県奄美大島沖に不審船が姿を見せました。
以前より性能を上げていた海上保安庁の巡視船はこの不審船に接近、停船命令を発します。
法律の改正によって停戦に応じない場合は射撃することも可能になっていたのです。
史上初の船体射撃。
海上保安庁の巡視船は史上初の船体射撃に踏み切りました。
立入検査を前に激しい銃撃戦が繰り広げられます。
そして不審船は自爆したのです。
船体が引き揚げられたのは1年後。
今、横浜市にある海上保安庁の施設に保存されています。
軽量化を図った船体の厚みは一般の漁船に比べ、3分の1しかありませんでした。
船にはロケットランチャーを初め、無数の武器も積まれていたのです。
17年前、不審船を追ったイージス艦「みょうこう」は大規模修理に入っていました。
その後、「みょうこう」が不審船に対応する場合は新たに創設された特殊部隊が乗り込むことになりました。
何か余計なときに北朝鮮がちょっかい出してくるって感じが僕にはしちゃうんだけど、恵君なんか、どう思いますか?能登沖の不審船事件で初めて知ったんですが海上自衛隊の方というのは、陸上での戦闘を想定していないから、銃を撃ったことがないんですね。
だから、漫画の本で要するに防弾チョッキにしてということでしょ?それでも行かなきゃいけないんです、あの現場、驚きました。
ちょっと信じられないな。
整っていないのに行かなきゃいけないっていう。
この辺は、小池さんは防衛大臣もおやりになりましたね、どうお考えになりますか?この能登半島沖不審船事案というのは、とても防衛の観点から言っても重要な局面というか、1つの大きな転換点だったと思います。
そもそもこれがなぜ不審船か、どういう動きをしたかというと、「第1大西丸」というのは、これはもう廃船になってるんですね。
本来、日本ではないはずが動いているわけです。
「第2大西丸」というのがあって、それは別のところで漁業をやってたりとか、そういう情報が集まっているということと、そもそも不審船と北朝鮮との間のいろんな信号を交わしているのはちゃんと傍受して、シギントと言うんですけど、キューミントとかシギントとか言うんですけど、この場合はシギントがうまく警察も防衛も連携しながら、これがまさしく不審な船だということを知っていたからこそ、こういうことが進んだけれどもしかしながら、いろいろな制度もそれから、実際に隊員たちを守るいろんなすべもなかったということを表しているわけで逆に言えば、これをきっかけにしてどのようにして隊員を守り、そして国を守るかといういろんな法律、装備をグレードアップするというようなことがこの後続くわけですね。
逆にもう1つ言うならば、北の方は、日本は何もせんだろうというちょっとなめてたところがあると思いますけれども、これによって向こうも構えてくるという話になってくるわけですね。
でも、なめられてエスカレートするのもまたどうかなという気もしますよね。
その辺の国同士の難しさというのを北朝鮮をどう見るかは別ですけれども、このとき私も社説の責任者をやってましたから、これは適切な対応だったかどうか、野中さんが最後まで反対したとか、ああいう背景もあるんですけど、もう1つ重要だったのは、今、小池さんも言われたけど拉致問題についての情報をとることがずっとあったんですよ。
だから、ある意味で泳がせしてる部分もあったんです。
だから北朝鮮はやられないって思い込んでる、そういう一種のすれ違いもあるんですよね。
不審船の動きをずっと追ってた?それでもう全部傍受してるし、何か拉致事件の手がかりをそれでつかめないかということだったんだよね。
つかめませんでしたね。
では、次にいきましょう。
この頃あの方はどうしていたのでしょうか。
「報道の日・トランプ氏はその時」、トランプメーターをご覧ください。
1999年、53歳です。
当時の写真がこちら。
翌年に行われる大統領選挙に向け、出馬に強い意欲を示しています。
当時は共和党ではなく改革党でした。
しかし、予備選が始まってすぐ、旗色が悪いとして撤退してしまいます。
大統領に向け、初めの一歩を踏み出したのがこの頃と言えるかもしれません。
もう早くから出たがってたんですね。
そういう人なんだ。
知らなかったですね。
一言、トランプさんの印象を。
何て言うんですかね、まださっぱりわかりませんけど、でも、リアリストなんだろうなと思いますね。
タイプとしてはお好きですか?いや、そういう質問がくるということは想定外でした。
トランプさんが出馬を断念した2000年のアメリカ大統領選ですが、その当日、日本はある人物の逮捕劇で揺れていました。
2000年11月、アメリカ大統領選の投開票日。
歴史的な競り合いとなった大統領選。
その開票が進む中…大阪から衝撃の一報が飛び込んできます。
国外に逃亡しているはずの人物が逮捕されたというのです。
高槻署前に押し寄せた報道陣が待っているのは…元日本赤軍のリーダー、重信房子受刑者。
その日、列島が2つの大ニュースで揺れました。
ここが重信受刑者の実家です。
1960年代後半、学生運動に身を投じ、やがて赤軍派の創立メンバーとなった重信受刑者。
1971年、日本を出国します。
活動の拠点に選んだのは、中東レバノンでした。
パレスチナゲリラと行動をともにしながら日本赤軍を結成。
その日本赤軍は、世界各地でテロを起こすのです。
テルアビブ空港乱射事件。
死者24人を出しました。
クアラルンプールの人質事件では超法規的措置により仲間を釈放させます。
そしてダッカのハイジャック事件。
仲間の釈放に加え、日本政府から16億円もの身代金を払わせます。
重信受刑者は国際手配されるも手かがりは若い頃の写真のみ。
その後の容姿を知る人はほとんどいませんでした。
この日、大統領選を伝えていた松原耕二キャスターはとにかく驚いたと言います。
事態は刻々と動きます。
元日本赤軍のリーダー、重信房子受刑者。
ついにカメラの前へ。
凶悪なテロ組織を率いたその女は、既に55歳になっていました。
午後1時25分です、重信容疑者を乗せたワゴン車が大阪・高槻署を出ます。
中東で活動していると考えられていた彼女がなぜ日本にいたのか。
その半年前に出された日本赤軍の声明には…後に明らかになったのは、この1カ月前から大阪に潜伏していたこと。
目撃情報をもとにマークしていた警察はゴミから指紋を採取。
それが逮捕の決め手となりました。
午後2時前、新大阪駅のホームにはカメラマンが殺到。
そのカメラが肉声をとらえていました。
日本に拠点を移し、活動しようとしていた重信受刑者。
新幹線の車内でも…手を挙げてカメラにアピールします。
この日、夕方のニュースは予定より早く始まり、重信受刑者の東京到着を大々的に報じました。
中東情勢が変わる中、拠点を失い、追い詰められての帰国でした。
一方、この日の大統領選を制したのは、この人。
2001年1月、ブッシュ大統領誕生。
その3カ月後、重信受刑者は日本赤軍の解散を宣言しました。
そして、世界は新たなテロの時代へホランさんには重信房子という人がどういうふうに見えましたか?1970年代を生きていない人間から見ても、あれだけのテロ事件を起こして、世界の至るところで人々を脅威に陥れていたわけじゃないですか。
その象徴的な人物が、しかも捕まるというのはものすごい衝撃だったんだろうなと感じました。
若いときと相当違うでしょう?年をとって見ると、そのインパクトもすごいですよね。
それにちょっと我々は驚いたというのがありましたけど。
そういうのを言われるのはちょっとつらいですよね。
だけど都知事も中東にいらしたことありましたね?まさしく70年代は、私は中東におりました、71年からですから。
ということは重信がいろいろなことをしている頃ですか?その後ですが、ライラ・ハリットというハイジャック犯で有名な人がいたり、PLOなどが非常に活発に活動していたので、私は高校生の頃から中東に行こうと決めていたんですが、変な子って見られてましたね、その頃から。
当時は70年代の最初の頃はレバノンのベイルートというのはとてもプティ・パリと言って、パリみたいにおしゃれだというのであこがれの地で私も72年ぐらいかな、初めて行って、ハマラ通りを歩いてたんですけど、後から聞くとちゃんとつけられてて、日本の女性が歩いとると、大丈夫かみたいな、後から聞きましたけどね。
2001年に就任したブッシュ大統領ですがその同じ年に同時多発テロが発生します。
一体、なぜ防げなかったのでしょうか。
その真相に迫ります。
2001年、自民党のCMに出演した小泉純一郎総理。
内閣支持率が最高92.8%という猛烈な人気でした。
就任以来、日米関係を重視していた総理は、まずアメリカへ。
根っからの親米派であることを当初からアピールしていました。
日米首脳会談の場はアメリカ大統領の別荘、キャンプ・デービット。
ブッシュ大統領運転のゴルフカートで会場に向かいます。
でもこの時期、世界を震撼させるテロは最終準備段階でした。
ビンラディン容疑者率いる国際テロ組織アルカイダが、アメリカを狙っていたのです。
CIAからの報告書がブッシュ大統領のもとに届いたのは8月6日。
ビンラディン容疑者がアメリカ国内への攻撃を決意した、報告書はそう告げていました。
でも当時、大統領は1カ月の休暇中具体的な対策をとることはなかったのです。
そして運命の9月11日。
フロリダの小学校を訪問していた大統領は衝撃の一報に青ざめました。
2001年のあの日。
世界を恐怖のどん底に陥れた4機の旅客機による9・11アメリカ同時多発テロ。
日本人24人を含むおよそ3000人が犠牲となりました。
未曾有のテロを一体、誰が予想できたでしょうか。
その計画はアルカイダのナンバー3が立案したものです。
逮捕され、アメリカで軍事裁判にかけられている男、あの同時多発テロを立案したアルカイダのナンバー3はかつて日本で働いていました。
1987年、ハリド・シェイク・モハメド被告はアメリカの途上国支援団体の職員として来日。
静岡県の会社で削岩機の組み立て技術を学びます。
恐ろしく熱心で、のみ込みも早かったハリド氏がいつも口にしていた言葉。
3カ月で技術を習得すると研修先の会社から、150台もの削岩機を購入。
ハリド被告はそれをアフガニスタンに輸出すると、ぷっつりと消息を絶ちました。
けれど、なぜ削岩機だったのか。
ハリド被告の足跡を調べた、元公安調査庁の益田哲夫さんが初めてテレビに明かしました。
山岳地帯に潜伏するための洞窟づくり。
1988年、アフガニスタンで撮影された映像には洞窟に潜むビンラディン容疑者の姿が。
9・11の首謀者のアジトもまた、削岩機でつくられたものだったのでしょうか。
この時期、ビンラディン容疑者はアメリカと協力関係にあり、最新兵器などの支援を受けていました。
アフガニスタンに侵攻するソ連軍と戦うためです。
ところが1990年、石油を狙ってイラクがクウェートに攻め込み、ビンラディン容疑者の母国、サウジアラビアの国境付近まで迫りました。
サウジアラビアはアメリカ軍を駐留させます。
けれどイスラムの聖地メッカがある母国を我が物顔で歩くアメリカ軍にビンラディン容疑者は激怒しました。
一気に反米に転じたビンラディン容疑者は聖戦を呼びかけます。
ハリド被告も共鳴し、アメリカに対するテロの下地が生まれました。
ハリド被告は、イスラム系武装勢力が力を持つフィリピンで暗躍し始めます。
9・11テロの7年前。
狙われたのは、マニラ発成田行きのフィリピン航空機でした。
南大東島上空を飛行中、座席の下に仕掛けられた爆弾が爆発。
那覇空港に緊急着した機内の様子です。
その席に座った日本人男性は即死でした。
アルカイダによる最初の航空機テロ、犠牲者は日本人だったのです。
けれど、これは予行演習にすぎませんでした。
ハリド被告は9・11のひな型とも言えるテロの計画を立てていたのです。
発覚は1995年。
マニラ市内のアパートで爆薬の調合ミスから火災を起こしたことがきっかけでした。
当時捜査に当たったフィリピン国家警察の元将軍は、恐るべき情報をつかんだのです。
その名は、ボジンカ計画。
ボジンカとは大爆発を意味するセルビア語です。
アメリカの航空会社の旅客機11機に爆弾を仕掛け、同時多発的に爆破させる、ボジンカ計画には成田を経由する4機も含まれていました。
もし実行されていたら、死者は4000人、日本人が半数を占めたと言います。
アパート火災のおかげで計画は中止となり、テロリストのほとんどが逮捕されました。
しかし、ハリド被告は辛くも逃れ、中東のカタールへ。
9・11の準備を始めるのです。
私たちは、その全容を明らかにする文書を入手しました。
日本初公開、後にパキスタンで逮捕されたハリド被告の裁判資料です。
旅客機ハイジャックによる同時多発テロ。
ハリド被告は練り上げた国民をあの男にぶつけます。
裁判資料によれば、テロ5年前の時点で既に9.11の計画が議論されていたのです。
そしてテロの3年前、ビンラディン容疑者は宣言します。
宣戦布告とともに、ハリド被告は計画を加速させます。
2カ月後、実行犯のうち主犯格の男がアメリカに入国。
CIAはその動向をキャッチしていました。
にもかかわらず、ホワイトハウスへの報告は遅れたのです。
その理由は…9・11テロ事件の検証委員会メンバーだった、その人物が教えてくれました。
CIAがホワイトハウスにアルカイダの動向を報告したのは1年もたってからのこと。
9・11テロ8カ月前だったのですさらに、報告を受けたホワイトハウスの対応について当時、テロ対策の任にあったブッシュ政権の補佐官は、意外な事実を口にしました。
テロ計画は軽んじられていたのです。
もっと早くに何らかの手を打っておけば…計画立案者は、このときアメリカにはいませんでした。
犠牲になったのは、何の罪もない民間人ばかりというのに…この日を境に、アメリカは一変します。
果てしない憎しみの連鎖の始まりでした。
恵さん、ある程度わかってたんですよ。
CIAは知ってて、ブッシュ大統領に報告していた。
どこかで本気になれない人たちがいたのかな。
まさかが勝ったんですかね。
板橋さん、どうご覧になる?これはまさにブッシュ政権が2001年1月に発足したわけですね。
実は共和党政権って8年間、政権から離れていたんですね。
その前のクリントン政権は、アルカイダの脅威はよく認識していました。
ずっと対峙してきてるから、事件がいっぱい起こって。
アメリカにとって最大の脅威はアルカイダだとクリントンは引き継ぎのときに言ったそうです。
そうしたらブッシュは、アルカイダって何?というのがクリントン回顧録に載っています。
要するに、アルカイダを認識していなかったんですね。
もう1つは、思い出していただきたいのは、あのときブッシュ政権というのはミサイル防衛構想だったんですよ。
まさに、大国によるものというのを考えていたんですね、あるいは国家がバックアップするテロみたいなのを考えていたんですね。
もっと大がかりな。
ところが、テロ情勢がブッシュのお父さんからクリントンに代わるときに大きく変わったんです。
これは冷戦構造の変化です。
それを認識できなかったのが最大の原因です。
政権交代で正しい情報が伝わっていなかったということですか?それは大統領がちゃんと伝えています。
何度もレポートを出していますし、テキサスで休養中の大統領にもレポートを何度も上げているんです。
ちゃんと認識していたら、何か変わったのかななんて思っちゃいますよね。
いわゆる冷戦構造においての米ソの戦いって主流を歩いている、防衛にしてもセキュリティーにしても、ロシア研究というのが圧倒的に多かったですからね。
主流派はそういうことですよね。
最近になってようやく中国のこと、そういった研究者がバーッと出てきましたけれども。
まさに共和党政権というのは、そういうところの研究は手厚くしていたけれども、アルカイダみたいな研究はほとんどしていなかったということですね。
テロというのは結局のところ、国対国ではなくて、非対象でましてやテロが今やSNSでつながって、国境も越えてしまうということですから、全くフェーズが違うわけですね。
指示もしてないのに勝手にやるんですからね。
ただ、オウム、サリンのときはあれだけ過敏に反応していることがあったのにね。
その辺が時代が変わって…。
政権交代だと思いますね。
体質というか、本質が変わってきていますよね、どんどんテロのね。
小池さんはそろそろお時間だそうですが、何か最後におっしゃりたいことがあれば。
ずっと中東イスラム系の問題が起きていますけれども、別にイスラムそのものが悪いわけではないということが1つありますね。
ただ、イスラムもキリスト教もどちらも唯一神であるということですね。
アッラーのほかに神はないということを、例のISの黒い旗にはそう書いてあるわけですね。
ということで、唯一神となると排他的になるわけですね。
これはもう歴史的にずっと戦いが続いてきて日本人は忘れるのが早いけれども、彼らは絶対忘れないというのもあるんですね。
ただ、私、今こういう状況にあって、例えば日本はシリア難民など、ほぼ受け入れていない。
3人だけですよね。
遠いですから、なかなか多くは来ていないということもありますが、私は日本の役割をどうすべきかというと、こういう難民は今、7000万人ぐらい世界にいて、今年のリオのオリンピックでも難民の方々の、国家があちこちで壊れているわけですからね。
そういった難民のアスリートたちが出てきたりしていましたよね。
希望がそれによって少しでも与えられればということがあります。
あと、日本としてできるというのは私、教育だと思うんです。
だって、国が壊れて学校がないと学ぶこともできないで、大きくなったら何になるんですか、どんな仕事がつけるんですか、そういったところで、私はもっと難民問題について日本は教育という点に絞ることも必要なんだろうなと。
これ、私が衆議院時代にやっていたんですけど、トルコで学校をつくりまして、これが学校なんですけれども、クラウドファンディングでお金を集めてさくら小学校という名前にしましてね。
できることはいっぱいあるんですよね。
それも国際貢献ですね。
オリンピックのセキュリティー、よろしくお願いします。
もちろん。
ありがとうございました、番組は続けます。
今日は百合子グリーンのネクタイにしてきたのに。
違う番組で。
さて、アメリカ同時多発テロは4機の旅客機がハイジャックされて起きたんですが、一体どうやって機内に凶器を持ち込んだんでしょうか。
アメリカ同時多発テロ。
それは、1機の飛行機がワールドトレードセンターに突っ込んだことに始まります。
アメリカン航空11便でした。
機内にはモハメド・アッタ容疑者ら5人が乗っていました。
調査委員会が事件の3年後に出した報告書に、こうあります。
しかし、客室乗務員は機内からの電話で凶器の存在を伝えていました。
さらに、2人の乗務員が刺されます何らかの凶器が持ち込まれたのは明らかでした。
そしてそれは、その日のほかのハイジャック機でも…国防総省に突っ込んだアメリカン航空77便。
注目すべき映像が残っていました。
同時多発テロで国防総省に突っ込んだアメリカン航空77便。
空港の監視カメラが容疑者たちをとらえていました。
白い枠が彼ら。
まず、白い長袖シャツの男が金属探知機を通過。
手荷物を受け取ります。
向かって右の半袖シャツの男が続くと金属探知機が反応します。
ボディーチェックを受けるも…難なく通過、手荷物を受け取ります20分後、青いシャツの男が通ると警報が鳴りまたボディーチェック。
その間に、別の白いシャツの男が奥にある探知機を通過し、手荷物を受け取ります。
結局、青いシャツの男も通過を許されました。
注目すべきは、青いシャツの男のズボンのポケットです。
黒いものが入っています。
報告書に、確認できないものと記されたこの物体。
最後までノーチェックでした。
しかし、乗客は凶器を見ていました報告書にはこう記されました。
実はこのときまで、アメリカの空港では保安検査にかかる費用はすべて航空会社が出していました。
まさにテロの当時、アメリカの空の安全を任されていた責任者は言います。
このテロにより、アメリカ政府は空港のセキュリティーの甘さを痛感しました。
運輸保安局を新設し、保安業務を国営化、費用は航空会社に代わって国が持ち、検査員は公務員にしました。
さらに、空港ごとに異なっていた検査方法も統一します。
運輸保安局長官だったジェームス・ロイさんです。
アメリカは同時多発テロを転機に安全対策を民間ではなく、国の責任としたのです。
では、日本の空港は?実は日本にも大きな転機があったのです。
1970年のことでした。
3月31日、日本で初めてのハイジャック事件発生。
羽田−福岡の日航機よど号が乗っ取られたのです。
犯人は赤軍派を名乗る9人。
要求した行き先は、北朝鮮のピョンヤンでした。
これは福岡空港で一部の人質が解放されたときの様子です。
このとき、犯人たちの手には凶器が握られていました。
しかし、なぜ機内に凶器を持ち込むことができたのでしょう。
よど号事件以前の羽田空港の映像です。
乗客は大きな荷物を持ったまま、次々と搭乗ゲートを通過していきます。
まだ今のような手荷物検査はありませんでした。
これは、北朝鮮に到着後、撮影された写真。
よど号の犯人たちは、細長い筒状の入れ物で凶器を運んだことがわかりました。
この事件を教訓に、ハイジャック防止法が成立し、銃や刀剣の持ち込みが禁止されました。
空港には金属探知機が航空会社の負担で導入されます。
このときの探知機は、通過する金属が大きいほどランプがたくさんつく仕組みでした。
ところが…2年後、またもやハイジャック事件が起きたのです。
羽田−福岡の日航機にピストルや手製爆弾が持ち込まれました。
なぜ、見つけられなかったのでしょう。
実は、当時の探知機は立て続けに人が通ると誰に反応しているのかよくわからず、検査が甘くなっていたのではないかと見られています。
そんな中、登場したのが、より進化した金属探知機でした。
ポケットの拳銃を感知するとブザーとともにランプが点灯。
ランプは左右に4カ所ずつ設置され、体のどの辺りに金属が入っているかもわかるようになりました。
さらに、X線による手荷物検査装置が導入され、その費用は国と航空会社で折半されるようになります。
これは当時と同じ仕組みの装置。
カバンに拳銃と包丁を入れると…武器などをこのような向きでカバンに入れ上からX線を当てれば、形ははっきりわかります。
しかし、ひとたび向きを変えると…この透視方向ですと、線状の針金っぽいですよね。
画像だけで凶器と判断するのは、確かに難しそうです。
次に編み出されたのは、金属は青、プラスチックはオレンジなど色で材質を表す技術でした。
まさに、イタチごっこ。
それでも凶器は持ち込まれ、またもやハイジャックが。
1999年のことでした。
1999年7月23日。
羽田−札幌、全日空61便がハイジャックされました。
犯人の男は、羽田空港の警備上の死角を突いたのです。
動機は本物の飛行機を操縦してみたいという実に幼稚で身勝手なものでした。
なぜ包丁が機内に?犯人は貨物室で運ばれる預け荷物に目をつけていました。
当時、国内線の預け荷物は爆発物のチェックのみだったのです。
犯行当日、男は羽田空港で大阪行きの日航便と、ハイジャックする札幌行きの全日空便、2便のチェックインを済ませます。
一度、大阪に向かった男は羽田にとんぼ返り。
預けた荷物を受け取りに空港の1階に向かいます。
包丁の入ったカバンはここで男の手に渡ります。
通常、荷物を受け取った乗客は出口に向かいますが、男は札幌行きの航空券を持ちUターン。
警備員もおらず、監視カメラもない階段を逆に上り全日空の搭乗口へ。
包丁入りのカバンを手に、まんまと通り抜けたのです。
そして離陸後、その包丁で機長を殺害しました。
理由は、機長が操縦席を譲ってくれなかったからというものでした。
事件から2カ月後、羽田空港に預け荷物の受け取り場所から搭乗口への逆流を防止するゲートが設置されました。
それでも隙は生まれます。
今年起きた空港トラブルです。
舞台となったのは北海道の新千歳空港。
1人の女性が金属探知機を通らずに飛行機に搭乗したのです。
出発前の乗客およそ1000人が保安検査をやり直し、ダイヤは終日、大きく乱れました。
発端は女性のスマートフォンのバーコードがうまく読み取れなかったこと。
検査員が、対応できる係員を呼びに行きます。
その隙に女性はゲートの横にある車いす用の通り道をすり抜け、搭乗してしまったのです。
トラブルから1カ月あまり。
すり抜けのあった場所には柵が設置されました。
こうした保安対策を実際に行うのは航空会社です。
問題は費用ですが、現在は国が一部補助しているだけ。
航空業界は全面的に国に賄ってほしいと訴えます。
日本の水際をどう守るのか。
国の姿勢が問われています。
いろいろな問題がありますけれども、飛行機ばかりじゃないという考え方もあるしね、何だかみんなで世の中住みづらくしてるなって気がしちゃう。
でも、しようがないんだな。
9・11以降、世界は新たな局面を迎えました。
予測できないテロの時代、世界では一体何が起こっているのでしょうか。
9・11はアメリカの転換点でしたテロへの憎しみが燃え上がります。
アフガニスタンのタリバン政権がビンラディン容疑者らの引き渡しを拒否すると、アメリカは容赦ない空爆を加えました。
タリバン政権を2カ月で崩壊させ、続けざまにブッシュ大統領は、こう言い放ちます。
北朝鮮、イラン、イラクにテロ支援国家の烙印を押し、大量破壊兵器を隠し持っているという理由で、イラクに戦争を仕掛けました。
わずか3週間でフセイン政権は崩壊。
けれど、大量破壊兵器は見つからなかったのです。
政権を失ったイラクでは、次々武装勢力が生まれ、敵対しました。
治安は極度に乱れていきます。
日本の外交もまた、転換を強いられました。
アメリカからの要求です。
すると…小泉総理は、たちまちイラク支援法案を国会に問い、成立させました。
その3カ月後、ビンラディン容疑者が声明を出します。
日本は給水や道路の整備など、イラクでの復興支援活動を開始。
これに対し、イスラム過激派は日本人青年を人質に、48時間以内の自衛隊撤退を要求してきたのです。
4日後、青年は遺体となって発見されました。
2004年以降、アルカイダはテロの拡散を狙っている。
かつてホワイトハウスでテロ対策を担当していた人物が言います。
ビンラディン容疑者の側近で、元アルカイダ幹部、アブ・ムサブ・アル・スーリー容疑者は1604ページにも上る論文でテロの新たな手法を提唱したのです。
この考え方は、インターネットを通じて瞬時に世界へ広まりました。
そして、続々と個別テロが起きるのです。
論文が出た翌年、ロンドンで56人の死者を出した同時爆破テロ。
アルカイダ系の過激派4人による犯行でした。
その3カ月後、インドネシアのバリ島でも…実行犯3人がそれぞれ1軒ずつレストランを爆破し日本人1人を含む25人が犠牲になりました。
このとき、全治1カ月の重傷を負った日本人がいます。
今もテロの絶えないジャカルタで暮らすため顔を映さないことを条件に初めてカメラに口を開きました。
2005年、インドネシア・バリ島で起きた爆破テロ。
重傷を負った日本人男性が初めてカメラの前で証言しました。
あの日、親戚を連れて入ったレストラン。
席を探した男性は、不審な物を目にしています。
そのカバンに爆弾が仕込まれていたのです。
爆発の瞬間をとらえた映像が残っています。
飛び散ったガラス片は男性の体に突き刺さり、内蔵にまで達しました。
一部は体内に残り、11年が過ぎた今も後遺症に苦しんでいるそうです。
個別テロは依然、増加の一途をたどり、イラクの混迷もまた、深まるばかりです。
力尽くのテロ撲滅。
振りかざした正義はおびただしい流血を招き無数の悲しみと憎悪を生んできたのです。
何かどんどん広がって、ターゲットも広がっているような気がしますね。
ずっとテロを見てきましたけど、いよいよ新しいテロの時代というのは、一つは人のよく集まるというそういうソフトターゲットというのでしょうかね、政治的な狙いじゃなくて、そういうところにある。
それから犯人も組織じゃなくて個人になってきている。
どんどんそれが広がっている。
それもネットで広がっていくという特徴があるのかなと。
去年、雨宮さんがパリで実際に見てるよね?あそこからヨーロッパはうわーっとテロが広がったでしょう。
実は学校で、子どもたちはパリにいるんですが、テロの対策訓練を受けているんですよね。
本当に今、人ごとではなく、私たちの身近に本当に肌身に感じてます。
みんなそういう心意気だと思うんですよ。
そういう芽をどうやってつむかですよね。
本当に大変だと思うんですね。
続いて、2000年代半ばなんですが、トランプさんは何をしていたんでしょうか。
「報道の日・トランプ氏はその時」。
トランプメーターをご覧ください。
2005年、トランプさんは59歳です。
当時の写真がこちら。
トランプさん、人生3度目の結婚です。
お相手はスロベニア出身のモデル、メラニアさん。
24歳差が話題になりました。
この結婚パーティーには驚くべき人も招待されていたんです。
それがこちらのお二人、皆さんどなたかわかりますか。
ビル・クリントン元大統領、そして左側の人はなんと、ヒラリーさんです。
今回の選挙戦ではお互いに批判し合っていましたけれどこのときはとても仲よさそうですよね。
どうですか、ああいう時代もあって選挙戦ではすごく激しい戦いがあって、何だろう。
やっぱり一部のエリート層ということなのかな?1つはそうですね。
意外と狭い世界なのかもしれないですね。
あんな広いアメリカなのに。
でも、トランプさんという人、歴代、いつも有名な人と写真を撮ってるじゃないですか。
有名な人好きっていうのはあるのかな。
それはあるんだよ、どこかミーハーなんだよ。
若い頃から握手してる写真とかあるじゃないですか。
それだけ実力と権力を備えた地位にその頃からいたということですよね。
2006年、ブッシュ大統領のもと横田めぐみさんの母、早紀江さんが訪ねました。
なぜ拉致被害は防げなかったのでしょうか。
今回の取材で驚くべき事実がわかりました。
2006年4月、横田めぐみさんの母、早紀江さんは拉致被害者家族として初めてアメリカの大統領と面会しました。
なぜ日本政府はもっと動かないのか、早紀江さんは強く思ったと言います。
めぐみさんが新潟市内で姿を消したのは1977年11月。
実はその2カ月前、後の拉致を防ぐきっかけになったかもしれないある事件が起きていました。
私たちは極秘の捜査資料を入手。
北朝鮮が拉致を命じた暗号を石川県能登町宇出津。
1977年9月、東京・三鷹市の当時52歳の警備員、久米裕さんがこつ然と姿を消しました。
政府が認定する国内初の拉致、宇出津事件です。
極秘の捜査資料によると、拉致の指令は暗号化され、北朝鮮からのラジオ放送を通じ在日朝鮮人の男に出されていました。
事件の2週間以上前でした。
ラジオで読み上げられるのは、1段目の数字です。
特殊な表に当てはめると、新たに2段目の数字が出てきます。
その1段目と2段目を足した数字の下1桁が3段目。
この207を今度は暗号表に当てはめます。
横軸20と縦軸7が交わるところが接線。
接線とは、接触するという意味のスパイ用語です。
207は接線、347は「は」、397は19。
読み解くと、文章になります。
その場所とは、宇出津。
指令を受けた在日朝鮮人の男は、金を貸したことがある久米さんに目をつけ、密貿易で儲けようと誘ったのです。
そして、事件の4日前。
「南山の青い松」は、北朝鮮の有名な歌謡曲。
これがラジオで流れたら、拉致を実行せよというわけです。
指令の最後はこう結ばれていました。
事件当日、男は久米さんと海岸近くの旅館に入ります。
その夜、ラジオから曲が流れると、男は久米さんを連れ舟隠しと呼ばれる入り江へ。
男が石を3回打ち鳴らすと、暗闇から工作員3人が現れました。
合い言葉は、「張本さんですか?」工作員は「はい」と軽く返事をした後、久米さんを連れ、日本海の暗闇へと消えていったといいます。
その夜、男が1人で戻ったことを怪しんだ旅館の人が警察に通報したのです。
そのとき駆けつけが捜査員、筒口正森さんです。
外国人登録証を携帯していない疑いなどで逮捕された男、こう供述しました。
警察は押収した暗号表などをもとに事件の9カ月後には一連の拉致指令を解読。
久米さんを拉致した容疑で男を再逮捕する方針を固めた。
しかし…検察は認めませんでした。
久米さんが拉致されたのか、本人の意思で行ったのかがわからないという理由でした。
これだけの事実がありながら、見送られた立件。
その後、宇出津事件は長年公表されませんでした。
実は、この事件から6年の間に少なくとも政府が認定している17人の被害者が連れ去られたのです。
もし、公表されていれば…当時、警察庁で北朝鮮の工作活動をめぐる捜査に関わった菅沼清高さんです。
北朝鮮が地上の楽園と呼ばれ、在日朝鮮人の帰還事業が行われていた当時、拉致の疑いというだけでは公表に踏み切れなかったといいます。
宇出津事件から25年後、拉致被害者5人が帰国しました。
そこに久米さんやめぐみさんの姿はありませんでした。
めぐみさんが13歳で拉致されてから、来年で、もう40年です。
今になって言えることかもしれませんが、後手後手だったんだな、これもという気がしますが、これ、トランプさんにアメリカの大統領が代わって拉致問題に何か変化出ますかね?今のところ、トランプさん周辺から拉致問題についての発言とか行動は何もないんですけれども、ただ、希望が持てるなと思うのは、今までのアメリカ大統領はずっと、核ミサイル問題があるので、北朝鮮と直接真っ当に対応しなかったんです。
無視してきたんですね、ある意味ではね。
だけど、トランプさんは選挙戦中から北朝鮮のジョンウン委員長が会いたいと言うなら俺は会うよと言ってるんですよ。
それに対して、北朝鮮も何とか、北朝鮮は最後はアメリカと直接交渉したいわけですから何とかそういう話し合いの場を持ちたいという動きは出てくるわけですね。
そうなったときにトランプさんに拉致問題を徹底的に耳に入れて対応してもらう、それはあるかもしれない。
だけど、横田さんが言っているように日本政府がどう動くかがまず最大ですよね。
本気になってやるかどうかですね。
戦争に明け暮れたブッシュ政権。
時代は変化を求めました。
次に大統領になったのが、オバマさんです。
平和な世の中になるのではと期待しましたが、それは新たなテロの時代の幕開けでした。
皆さん、誰の言葉か覚えていますか?2008年9月、就任1年足らずで福田康夫総理は突如、辞任を表明。
一方でこの年は、世界にとって試練の幕開けでした。
流行語大賞の候補になった、サブプライム。
アメリカの低所得者向け住宅ローン、サブプライムローンが不良債権化して大手証券会社のリーマン・ブラザーズが倒産。
100年に一度の金融危機は日本にも波及します。
業績が悪化した企業の派遣切りや、内定取り消しが相次ぎました。
12月には任期満了を前にブッシュ大統領がイラクを訪問。
ところが…世界の警察官が正義の名のもとに始めたイラク戦争も現地では強い反発を招いていたことが露呈しました。
そして…合い言葉はチェンジ。
変革を掲げた誕生したアメリカ史上初の黒人大統領は、ブッシュ政権から一転、国際協調路線へと舵を切ります。
2011年、オバマ大統領はアメリカ軍をイラクから完全撤退させました。
ところが…アメリカ軍のおもしが外れ、力の空白が生まれると、思いがけない事態が生じました。
中東や北アフリカでテロの件数がそれまでの3倍近くも膨れ上がったのです。
時に、日本人が巻き込まれることも2013年1月、アルジェリアの天然ガス関連施設では大手プラント、日揮の駐在員が人質となります。
その1人、木山聡さんの肉声は地元メディアでも報じられました。
けれど2日後、政府軍とテロリストの戦闘に巻き込まれ、木山さんら10人の日本人を含む48人が犠牲となりました。
シリア内戦は、政府と反体制派の衝突で始まりました。
アサド政権は力で市民を弾圧。
化学兵器の使用も懸念されました。
事態を危惧したオバマ大統領は軍事介入を示唆します。
レッドラインを超えたら軍事介入も辞さない、しかし…化学兵器の使用が頻繁に噂されてからも、大統領は動きませんでした。
なぜ軍事介入を避けたのか。
オバマ政権の元国防次官補が取材に応じてくれました。
2003年のイラク戦争では、イラク国内の混乱を加速させ14万人を超えるアメリカ兵やイラク国民が命を落としています。
たとえアサド政権を崩壊させても、その後のシリアの混乱を収拾するすべを見出せなかったのです。
2013年9月、オバマ大統領はシリアへの軍事介入を断念し、アメリカの立ち位置を明言しました。
もはやアメリカには、かつて世界の警察官と言われたほどの力はない。
その現実を公式に認めたのです。
そして、この動きはシリアに新たな脅威を生むことになりました。
過激派組織イスラム国の台頭です。
アメリカが撤退したイラクで成長し、混迷をきわめるシリアに勢力を広げます。
2014年には一方的に国家の樹立を宣言。
それ以降、イスラム国は各地でテロを引き起し、世界を戦慄の渦に巻き込んでいます。
厄介な、IS、イスラム国が出てきちゃいましたね。
板橋さんはどうとらえているんですか?最近のテロというのは本当にもうインターネットで刺激された人間が起こしているわけですね。
しかも、ローンウルフと呼ばれるたった1人で過激化してテロが起こっているのが現状なんですね。
非常に難しい時代に入ってきたんだろうと思いますね。
それから対テロ戦争というのは、どちらかというとテロを拡大させてしまっている方向に進んでいるんだろうなと私は感じます。
有志国でもって殲滅作戦やってでも、散り散りバラバラに散っていって、なくなりゃしないんでしょう?そういうことになると思いますね。
仮にISを殲滅したとしても、また次の同様の組織が出てくる可能性は高いと思いますね。
続いてのキーワードはこちらです、ソフトターゲット。
テロはより、私たちの身近に迫ってきました。
今年の夏、ドナルド・トランプ氏は移民の受け入れについて、こう言い放ちました。
2013年4月、悲劇はボストンマラソンのゴール付近で起きました。
2つの爆弾が相次いで爆発したのです。
3人が亡くなり、280人以上が重軽傷を負いました。
テロの標的が不特定多数の人が集まる場所や民間の施設、いわゆるソフトターゲットにも広がったことを象徴するような事件でした。
容疑者は、テロ組織には属さないロシア南部、チェチェン系移民の兄弟でした。
狙われたスポーツイベント。
衝撃を受けたのが、翌年にソチ五輪を控えたロシアです。
政府機関が開発した秘密兵器を投入します。
ディフェンダーX、早い話が、不審者を見分けるシステムです。
こちらがその映像。
男が店に入ってきた直後、不審者を示す赤い枠が。
ロシアの警備システムが不審者を検知、赤い枠がつきました。
男はレジの前に立ちます。
その直後…実際にに強盗を働いたのです。
システムは、事件が起きる前に不審者を見分けていたのです。
ソチ五輪に導入されるとピーク時、一日12万人にも及ぶ入場者のうち、およそ2600人を不審者として検知。
調べると、そのうちの92%が持ち込み禁止の薬物を持っていたり、チケットなしで不正に入場しようとしていました。
このシステム、去年、日本にも上陸。
どういう仕組みなのか、代理店に聞きました。
検知するのは目や口などの揺れ。
人間は緊張やストレスを感じると無意識のうちに揺れるというのです。
赤や黄色などの色は揺れの速さ、線の長さは揺れの大きさを示しています。
これが通常の精神状態。
赤や黄色が目立つのは、攻撃性が高まっている状態。
詳しい仕組みは明らかにされていませんが、その揺れがあるレベルを超えると不審者とみなされ、赤い枠がつくのです。
10万人分の実験データをもとにしたというそのシステムにアメリカも注目。
ボストンのテロの映像で分析を依頼したのです。
果たしてテロリストを検知できるのか。
これは爆発が起きる前、爆弾を置きに行く2人の容疑者です。
画面の中央を歩いています。
それを、このシステムにかけると犯行直前の2人に不審者を示す赤い枠がついたのです。
日本でも今年5月の伊勢志摩サミットで大手警備会社が使用。
天皇・皇后両陛下が観覧されたラグビーの国際試合でも試験的に導入されました。
2020年には東京オリンピック・パラリンピック。
テロとの終わりなき闘いが続きます。
という装置を皆川さん、借りてきたんだね?テロ対策の最新システム、ディフェンダーXをお借りしてきましたので、スタジオで不審者を見分けたいと思います。
不審者、多いですよ。
いるの?皆さん、前のモニターをご覧ください。
これ今、右側に出ている映像がディフェンダーXを使って解析している映像ですね。
皆さんの顔の周りには緑が出ていますので、不審者はいません。
赤だったらまずいんでしょう。
さらにもう1つ、詳しい機械で恵さんだけ調べてみましょう。
これが、前にあるのがカメラですねこれでちょっとお芝居してほしいんですよ。
カーッと怒ったり、腹の中にある嫌なもの全部出しちゃう。
どうでしょう。
まだ青いよ。
でも、本当に怒ってないよ。
もっとしゃべらせろー!全然ストレスないみたいですね。
赤や黄色が出るとストレスを感じていたり、動揺していたり、緊張していたり、メンタルチェックができるものなんです。
殺してやるー!みたいに怒ってくれない?やっぱりお芝居じゃ無理なのかな。
不審者じゃないですもん、これ不審者発見するんでしょう。
そのときの感情の状態がわかるということですね。
秀逸ですよね、お芝居じゃダメなんですもん。
10万人のデータなんでしょう、これ。
結構当たるらしいですね。
確率もすごかったですよね。
でもこういうものに囲まれてしまう世界も嫌だね。
あっちゃから、こっちゃから見られてるっていうね。
でも、東京オリンピックには非常に期待できるんじゃないですか。
そういう時代になっちゃったんですかね、本当に。
過激派組織イスラム国は卑劣なテロを世界各地で繰り広げています。
テロとの闘いはどこへ向かっていくんでしょうか。
2015年、パリ同時多発テロ。
狙われたのは市民でした。
容疑者はフランス人やベルギー人。
もはやテロは日常の中で起こります。
過激思想に染まった個人がレストランや広場など身近な場所を襲撃する。
世界のどこもが、そして誰もが標的になり得るのです。
今年3月、ベルギーの首都ブリュッセルの空港と地下鉄で、7月、南フランスの花火大会の会場で、そして今月、ドイツの首都ベルリンのクリスマスマーケットで、世界でテロが相次いでいます。
いずれも犯行への関与を表明したのは、過激派組織イスラム国でした。
今年7月、バングラデシュのダッカで起きたレストラン襲撃事件。
イスラム国に共鳴した実行犯により民間人20人が殺害されました。
うち7人は日本人。
バングラデシュの発展に尽くしてきた人たちでした。
1人の日本人と一緒に隠れたレストランの店員、サルカールさんテレビで初めてその詳細を語りました。
あの日、午後9時20分、武装した5人の男がレストランを襲撃。
このとき、サルカールさんは日本人客のテーブル近くにある冷蔵庫の前にいました。
サルカールさんが冷蔵庫に逃げ込もうとしたそのとき…その日本人は男性だったと言います。
冷蔵庫に隠れて5分後…銃撃が始まります。
この時点で店にいたほとんどの外国人が殺害されました。
銃声がおさまると、その後2時間、静寂が続きます。
襲撃は終わったのか、状況は全くわかりませんでした。
しかし、期待は容疑者の怒鳴り声に打ち砕かれるのです。
まだ終わっていなかったのです。
襲撃に遭い、レストランの冷蔵庫に隠れたサルカールさんと日本人男性。
そこへ実行犯が…すると実行犯は開けるのをやめ、引き下がります。
しかし…脅迫、さらに力を込め、こじ開けようとします。
ついにドアは開けられました。
実行犯はサルカールさんに向かって、こう言います。
仲間のもとへ向かうサルカールさん。
そのとき、背後から銃声が2発聞こえたといいます。
日本人は殺害されました。
日本人は8人いましたが、別の建物に隠れた1人を除き、全員が亡くなりました。
襲撃から10時間後、突入した治安部隊によって容疑者は全員射殺されました。
彼らはインターネットでイスラム国に傾倒し、犯行に及んだと見られています。
一体なぜ過激派思想に染まるのか。
これまでイギリスからイスラム国に参加したのは600人を超えます。
そこでイスラム国に入るのを防ぐ活動を行っている人物がいます。
トルコ系イギリス人のアダム・ディーンさんかつてイスラム過激派組織のメンバーでした。
やりたいことがなかった19歳のとき、手にした過激派のパンフレットに強く引かれたと言います。
その後17年間、過激派組織に身を置いたディーンさん。
抜け出すきっかけとなったのは外部との接触でした。
今は一人でも多くの若者を過激思想から解き放とうと闘っています。
10月、イスラム国の拠点があるイラクのモスルで、イラク軍による奪還作戦が始まりました。
しかし2カ月たった今もモスルを奪還できずにいます。
イスラム国はモスルの市民を盾にしているのです。
さらに子どもたちを連れ去り、こう洗脳します。
子どもに自爆を強要しているのです。
冷酷な無差別テロと、インターネットで拡散し続ける過激思想。
奪われ続ける命を前に世界は何ができるのか。
模索の時が続いています。
本当に天国で会えるかどうか、私には疑問です。
これ見てください、今年起こった主なものですよ。
どこで何が起こっても、もうおかしくない時代ということが、板橋場さん、これを見て言えますか?こういう各地でのテロというのは増えていくと思いますし、今や誰でもテロリストになる可能性がある時代だということですよね。
それはインターネットですよ、やっぱり。
インターネットの力というのは大きいんですね。
ため息が出てしまいますが、最後の話題はこちらです。
来年1月20日、オバマ大統領からドナルド・トランプ氏へと大統領が代わります。
それは平和への道なのか、あるいは新たな試練が待っているのでしょうか。
いまだ公式会見には応じていないトランプ次期大統領。
けれど、連日更新中なのが、ツイッターです。
フォロワー数1800万人以上。
続々とアップされるその内容は、次期大統領のつぶやきというには過激です。
今月19日、ドイツのベルリンでクリスマスマーケットにトラックが突入、すると…今月22日、ロシアのプーチン大統領が戦略的核戦力を強化する必要があると発言。
すると…オバマ大統領が自分が大統領選に出馬していたらトランプ氏に勝てたとの見方を示したことが今月26日明らかに。
すると…同じ日、その矛先は国連にも…もし就任後も続くなら、世界一影響力のあるツイッターとなるのは間違いありません。
よくも悪しくも…ここへ話が戻ってまいりました。
長い時間おつきあいいただきましたが恵さん、何が印象に残りましたか?今日はアメリカの大統領とテロということでしたけれども、テロが急に始まったわけじゃない、行われてきたわけじゃないというのが、よくわかったような気がします。
アルカイダのテロにしても、もともとはフィリピンとどこでしたっけ、飛行機で爆発があったということであったり、一方、そういうニュースをつかんでいても、本気で対応しようと思わなければ防げないということもわかったような気がしました。
ホラン千秋さんの感想は何でしょう?私の生まれる前ではあるんですけれども、1970年代、日本でテロがたくさん起こっていてテロ先進国とも呼ばれていたというのはすごく衝撃的だったんですけれども、そこから時代が進めばテロも進化していって、恐らくトランプさんになってもテロとの戦いというのは終わらないと思うんですけれども、本当にテロの芽を早めに摘むという意味で、トランプさんにはいろんなところにアンテナを張っていられるリーダーであってほしいなというのはテロの被害を最小限にするという意味でも、願いとして今日は持ちましたね。
今日トランプさんを若いときからご紹介したけど若いときの挑戦的な、いい方へ行ってくれればいいけど、いろんなところとの対立関係で挑戦感覚を使われると困るなと心配しておりますが、板橋さん、いかがでしょう?来年はヨーロッパで選挙がある年なんですよね。
これによって右傾化をしなければいいなと。
ドイツ、オランダ、フランス。
右傾化していくと外国人の排斥が起こってきますので当然テロも激化してくるということで、それを来年ちょっと心配だなと思っています。
日本は2020年に向けて、オリンピック、やはりISがターゲットだと言っていますので、相当警戒をしなきゃいけない。
これは2020年から始まるんじゃなくて今から始まってるんです。
ISはそういうことを言っているんですか?言っています、日本はターゲットだとしばしば言っています。
それは気をつけるためにはどうしたらいいんです?まず、国民1人1人が日本でも起こるという意識を持たなければならないと思います。
それぞれ意識を持って注意して防ぐしかないです。
今日この番組ご覧いただいた方、日本ってすごいテロが起こってるんだなと思われた方…。
日本はテロの先進国だということを理解していただけたんじゃないかと思います。
最近それが何かわからなくなっていたのは何でしょう。
実際にテロというものをとらえていなかった、特殊な団体による特殊な事件というとらえ方を日本はしてきたんじゃないでしょうか。
中東の方で起こることばかり気が行っちゃって、そういうことがあったかもしれませんね。
岸井さんは、トランプ政権がスタートしますが、世界はどうなっていくと読んでらっしゃいますか?今のところちょっと見通しが暗いんですけど、不安定で、不透明な時代になっちゃうのかなと。
トランプ現象っていろんな意味で使われるんですがさっき板橋さんが言われたように、来年はヨーロッパが亀裂がどんどん深まっていってそれがまたテロの温床になっていくという心配が非常にあるんですよね。
そうなると、我々も本気になって、テロとか戦争のもとになっている要因は何なんだって真剣になって考えて、経済的な貧困、格差、民族的・宗教的な偏見、あるいは差別というところからどんどん出てくるんですよね。
そういうものをなくしていくという努力、細かくても非常に大事な身近な問題でもそういうものをなくしていく努力がものすごく大事な年になるんじゃないかと思いますね。
大きな問題は難民でしょう。
それは日本の場合には直接またそういう経験をしてませんからね、ちゃんとわかっていないのかもしれないけれども、やっぱり大勢の人が来ちゃったときに、それは拒否したくなる。
でも、そういう拒否していけばいくほど、もめごとは増えるわけですよね。
またトランプさんみたいに、アメリカへ行きたい人を阻止すれば、それはそれでまた問題が起こるわけですよね。
この流れはどうしてもしばらく止まらないんですよね。
それは排斥的になるわけでしょう、反イスラム的だけじゃなくていろんな意味で民族もそうなるかもしれないという非常に嫌な時代になるのかもしれないけれども、それをどうやったら直せるのか、あるいは芽を摘めるのかを本気になって考えた方がいいですよね。
ヨーロッパだって、EU、イギリスが離脱しますわね、あれも人類の理想を求めつつ、戦争はやめよう、みんな一緒に壁を低くしてっていうこれが壊れそうなんでしょう?フランス行かれてあれされたと思うけど、最近のフランスのテロの全く新しい研究所をちょっと目にしたんですよ。
えっと驚くのは何かというと、フランスの刑務所の半分、イスラム教徒なんですよ。
だから、イスラム教徒の人口比からいったら全然違うでしょう。
それはなぜかというと貧困、格差、差別から始まって、最初は軽犯罪なんです。
それでもダメで、強盗になっちゃって入っちゃう。
それまたテロのもとになっていくっていうね。
とにかくどんな年になるのでしょうか。
よいお年をと言ってお別れしたいと思っております。
皆様もおつきあいいただきまして、ありがとうございました。
激動が予想される2017年。
新たなアメリカのリーダーとどう向き合うのか。
1人1人の進路が問われています。
一方で、不安の声も…戦後、日本とアメリカが歩んだ道。
それは今月27日、オバマ大統領が発したあの一言へと続いていました。
この言葉を、この人はどうとらえるのでしょうか。
2017年、世界は未知の領域へ。
この時代の変わり目という大きな波をどう乗り越えていくのか。
ここからは赤坂の報道スタジオからニュースとスポーツをお伝えしてまいります。
今日未明、長崎県五島市の病院で入院中の患者が倒れているのが見つかりその後、死亡した。
患者同士のトラブルがあったことから警察は事件の可能性が高いと見て調べている。
今日午前1時頃、長崎県五島市の五島中央病院で、精神科に入院していた52歳の男性が病室内に倒れているのを巡回中の男性看護師が見つけた。
男性は既に意識がなく、およそ1時間後に死亡。
目立った外傷はなく、直前の巡回の際には元気だったとのこと。
病院によると亡くなった男性は同じ病棟に入院する50代の男性患者との間でトラブルを抱えていた。
警察は事件の可能性が高いと見て、この患者から事情を聞くとともに司法解剖を行って死因の特定を進めている。
144棟が焼けた新潟県糸魚川市の大火を受け政府は住宅被害を受けた人に最大300万円を支給することを決めた。
火災では初めて被災者生活再建支援法が適用されることになる。
松本防災担当大臣は今日行われた自民党の部会で糸魚川市の大火で住宅被害を受けた人に対して、被災者生活再建支援法を適用し、最大300万円を支給することを明らかにした。
この法律は地震や津波などの自然災害が対象だが、今回の大火では強風による飛び火で被害が広がったことから、政府は火災としては初めて、自然災害の風害として扱うことを決めた。
自宅を新築する費用の支援として、全壊の場合は最大300万円、大規模半壊の場合は最大250万円が支給される。
東京株式市場では今年最後の取り引きが行われた。
年末の終値としては20年ぶりの高値だったが、酉年の来年、この流れは続くのか。
大納会、平均株価の終値は1万9114円。
バブル崩壊以降、初めて5年連続で前の年の年末を上回り、年末の終値としては20年ぶりの高値。
しかし、今年の初めは6営業日連続で下落する波乱の幕開け。
そんな中、1月に最初のサプライズが起きた。
日銀が史上初めてマイナス金利を導入した。
株価は乱高下したものの、その後は低迷、2月には1万5000円台を割り込んだ。
そして6月、次のサプライズが…円高が止まらないですね。
今、1ドル=99円台です。
イギリスがEUからの離脱を決めた。
このため急速に円高が進行。
株価も大幅に下げ、今年の最安値をつけた。
アベノミクスは正念場が続き反転は難しいと思われた11月、今年最大のサプライズが起こる。
アメリカ・トランプ次期大統領の誕生。
当日、株価は1000円以上下落したもののその後、トランプ氏が掲げる経済政策への期待感から大きく上昇。
トランポノミクスという言葉まで生まれ12月に入り、今年の最高値をつけた。
証券業界には申酉騒ぐという格言があり、酉年も株価が乱高下すると言われていていわゆる慰安婦問題をめぐって韓国第2の都市プサンにある日本総領事館前に、おととい撤去されたばかりの少女像が再び設置された。
プサンにある日本領事館前の歩道では正午過ぎ、市民団体が再び少女像を設置した。
この場所ではおととい、無許可のまま少女像を置いたとして管轄するプサン市と警察がおよそ4時間後に像を撤去し、押収したばかり。
しかし、抗議の電話が殺到するなど市民が猛反発したため、プサン市は今日、市民団体を妨げないと発表し、一転して像の設置を容認する考えを示した。
市民団体は明日夜に正式な除幕式を行うことにしている。
プサン市はこの問題は自治体が対応するのは困難だとの立場だが日韓の外交問題に発展するのは必至。
人気お笑いコンビ、ナインティナインの岡村隆史さんが東京・港区で乗用車を運転中に歩行者に接触し、ケガをさせていたことがわかった。
昨日午後6時前、港区高輪の交差点で人気お笑いコンビ、ナインティナインの岡村隆史さんが乗用車で右折しようとしたところ、横断歩道を渡っていた60代の男性と接触した。
この事故で男性は左腕に軽いケガをした。
警視庁は、岡村さんが安全確認を怠ったと見て、当時の状況を詳しく調べている。
関係者によると事故直後、岡村さんは警視庁に通報し、被害者の男性に謝罪したとのこと。
所属事務所は、まことに申し訳ございません、スポーツ、冬の風物詩。
高校サッカーが男女で開幕。
青春のすべてをかけた熱い戦いが始まった。
前回女王、藤枝順心は前半18分、土屋佑津季がドリブルで持ち込み、先制ゴールを挙げる。
前半30分にも土屋。
さらに後半も攻撃の手を緩めない。
頼れる3年生のハットトリックで、開志学園を下した藤枝順心、連覇へ向け、好発進。
2大会ぶりの優勝を狙う日ノ本学園は、3点リードされる苦しい展開。
それでも前半に1点を返すと後半14分にもゴールを奪い、1点差に詰め寄る。
その7分後、ついに追いつき、試合はPK戦へ。
追いついた勢いそのままに日ノ本学園が競り勝ち、2回戦進出。
一方、男子の開幕戦は初出場の関東第一がPKで得た1点を守り切り野洲に勝利。
2回戦進出。
全国高校ラグビー2回戦。
過去優勝5回の紺と赤のジャージー、大阪第2地区代表の常翔学園は前半、フルバック・池島の見事な個人技などで14−0とリードを奪う。
後半に入るとシード校の本領を発揮し、佐賀工業に完封勝ち。
4大会ぶりの優勝に向け、好発進。
いよいよ明日、大みそかにゴングのボクシングダブル世界戦。
4度目の防衛戦に臨む井岡一翔が王者の貫禄を見せた。
ボクシング、井岡一翔6度目の大みそか決戦。
今日、前日計量に臨みリミットいっぱいで見事、一発クリア。
暫定王者との王座統一戦にも自信がみなぎっている。
また22勝22KOの絶対王者、ジョナタン・グスマンに挑むのは小國以載。
季節外れのヒマワリパンツをはいてリラックスした表情。
初の世界戦に向け意気込みは十分。
こちらも明日決戦。
元K−1王者・魔裟斗と、元総合格闘技PRIDE王者、五味隆典。
この対決のために激しいトレーニングを積んできた魔裟斗の鍛え上げた肉体がこちら。
前日計量を行い、2人の選手とも一発でクリアした。
元王者同士の夢の対決、明日ゴング気象情報をお伝えします。
日本海側ではまだ雨や雪が続いていますが年明けにかけて比較的穏やかな天気になっていきそうなんです。
広い範囲で明日にかけて高気圧に覆われてきて晴れるところが多くなりそうなんです。
ただ、日本海側では少し雨や雪が残りそうです。
その予想を見ていきますと、今夜から明日にかけて、日本海側では再び雨や雪が降りそうです。
ですが、荒れた天気になるところはほとんどないでしょう。
今日、日中は冷たい北風が吹きつけてこの時期らしい寒さになりました。
東日本や西日本は10度ほどまでしか上がらず、冷え込みが強まりました。
ただ次第に穏やかな天気になっていきそうです。
比較的穏やかな天気になって冷え込みは緩んでいくでしょう。
2016/12/30(金) 11:00〜17:30
MBS毎日放送
報道の日2016 「世界を揺るがすテロ〜激動のアメリカと日本」[字]

トランプ新大統領誕生で、日本はどうなるのか?世界に暗い影を落とすテロの連鎖の行方は?日米半世紀の歴史秘話を紐解き、記憶に残る凶悪テロ事件を徹底検証。未来に備える

詳細情報
番組内容
年末恒例の長時間報道特番。ことしは、1963年のケネディ大統領暗殺テロ以降の日米関係、テロ事件に注目。
▽ケネディ大統領暗殺〜日米初の衛星中継「幻のVTR」
▽連続企業爆破事件〜日本最悪の爆弾テロで被害者初証言
▽クアラルンプール事件〜超異例のテロ犯釈放。日本政府を悩ませた本当の人質は
▽能登沖不審船事件〜自衛隊初の「実戦」命令。決死の隊員が身にまとったものとは
番組内容2
▽カンボジアPKO文民警察官殺害〜“丸腰”隊員が撮った危険地帯
▽アメリカ同時多発テロ〜機内に凶器なぜ?日本の空港警備は万全? ▽「イスラム国」vsトランプ次期大統領で世界は
▽波乱万丈トランプ氏の歩みも随時紹介
 
出演者
【司会】
関口宏
雨宮塔子
【スペシャルゲスト】
小池百合子東京都知事(午後2時すぎ〜)
【ゲスト】
恵俊彰
ホラン千秋
板橋功(公共政策調査会)
岸井成格
【アシスタント】
皆川玲奈(TBSアナウンサー)