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書き起こし ファミリーヒストリー「小林幸子〜戦地に向かう父 吹き込んだレコードの謎〜」 2017.01.05

 

巨大な衣装を身にまとった歌手小林幸子さん。
芸能界にデビューして半世紀。
今やインターネットの世界にも進出。
若者たちからも熱烈な支持を集めています。
幸子さんは僅か10歳でデビュー。
ふるさと新潟を離れたため自らのルーツについてほとんど知らないと言います。
さあ今夜のゲストは小林幸子さんです。
どうぞ!よろしくお願いします。

 

 

 


さあ今はもう…そうです。
はいもう…。
平成18年に86歳で亡くなりました。
その人生は波乱に富んでいました。
新潟市の南部に広がる田園地帯…代々農家を続ける小林家。
大正9年父喜代照はこの家の次男として生まれました。
親戚の間では陽気な人柄で知られていました。
幸子さんの姉静江さんが生前の喜代照に聞いた話を手記にまとめていました。
「このころから歌手になりたいという夢があった」。
そんな喜代照は周囲から野心家として見られるようになります。
喜代照が若い頃目指していた事を聞いていました。
そう。
しかし時代は戦争へと向かいます。
二十歳になった喜代照は今度は軍隊での出世を目指して陸軍に志願します。
戦地に向かう覚悟を決めた喜代照。
入隊前意外な行動に出ました。
めいっ子…。
遺品の中に珍しいものがありました。
そうなんですこれ。
「ありったけのお金を持って作ってもらったレコードを大切に新聞紙に包んで実家に置いていった」。
型が古く傷も多かったためこれまで聴く事ができずにいました。
何が録音されているのか?金沢にある蓄音機専門の博物館を訪ねました。
古いレコードに詳しい…あ〜…。
う〜ん…。
これはレコードの「金属原盤」と呼ばれるものでした。
アカペラで歌う喜代照。
曲は昭和15年に流行した…出世を夢みて軍隊に入隊した喜代照。
2年後には試験に合格し憲兵となります。
そして朝鮮半島で任務に就きます。
遺品の中に戦地で写した写真が一枚だけ残されていました。
建物の看板には「福渓憲兵分駐所」と書かれています。
「福渓」とは現在の北朝鮮福渓里。
かつての戦友を捜すと同じ福渓里にいた元憲兵が見つかりました。
大分に住む後藤松男さん。
連絡を取ったところ後藤さんは既に亡くなっていましたが家族が取材に応じてくれました。
すみません。
(2人)よろしくお願いします。
後藤さんの孫…
(河合)でこっちもそうですね。
これがおじいちゃん。
それは見覚えのある写真でした。
(取材者)小林幸子さんの親戚からお預かりしたお写真なんですけども…。
ああ一緒ですよね。
一緒ですね。
ああ…昭和20年4月ごろ2人は朝鮮半島で一緒だった事が分かりました。
ところが8月9日突如ソ連軍が侵攻。
朝鮮半島を南下し始めます。
福渓里は混乱に陥りました。
戦後書かれた後藤さんの軍歴。
終戦後の8月30日に福渓里から現在の韓国側へ脱出。
そして2か月後の10月の末部隊とともに引き揚げ船で帰国していました。
しかし同僚だった喜代照の軍歴には帰国に関する記述が一切ありません。
そこにはある理由が隠されていました。
幸子さんの母方の叔父良雄さん。
喜代照がなぜか終戦直後に帰ってきた事を覚えています。
それは終戦から僅か1〜2週間後の事だったといいます。
おいの満男さんは喜代照が終戦直後部隊と合流できなかった事を聞いていました。
一人になった喜代照は自力で日本に帰る手段を探さざるをえなかったのです。
どのような手段を使って帰国を果たしたのか?朝鮮半島からの引き揚げに詳しい…「闇船」とは民間の漁船や貨物船を使った非公式の引き揚げ船の事。
アメリカ軍の調査では10万人以上の日本人が闇船で帰国したと推測されています。
途中で沈没する闇船も多く航海は「死」と隣り合わせでした。
喜代照は5年ぶりにふるさと新潟へと戻ってきます。
しばらくして見合いをする事になりました。
相手は近所の農家の娘…いやぁ〜…。
そう!ねぇ。
ねぇ。
いろんな事がきっとあの中では…平成13年に亡くなった…その実家…明治18年に生まれた幸子さんの祖父酉吉。
農業をしていた酉吉ですがある事で評判でした。
それは「新しもの好き」。
明治の終わり集落でいち早く取り入れたものがあります。
酉吉の三男…酉吉の事を覚えているという…「ガス井戸」とは地下に眠る天然ガスを家庭で利用するために掘ったもの。
新潟では江戸時代から不思議な火が出る井戸「火井」についての記述がありました。
それが明治になり天然ガスを家庭に引き込む技術が考案されるといち早く身につけた酉吉はよく工事を頼まれました。
集落には今もガス井戸を使っている家があります。
天然ガスを含んだ地下水をくみ上げて分離し家庭に引き込むのです。
(取材者)おお!あっすごい!そして大正の初め酉吉はまたも新たな事に挑戦します。
当時新潟ではほとんど作られていなかったトマトの栽培でした。
今でも宮家ではトマトの栽培を続けています。
「西洋化の進んでいる新潟なら高く売れるに違いない」。
日米修好通商条約によって横浜神戸などとともに開港した新潟では洋食がいち早く広まっていました。
酉吉は収穫したトマトをリヤカーに乗せ新潟の市街地まで片道10キロの道のりを運びました。
新潟市役所で酉吉が戦後までトマトを運ぶために使っていたリヤカーの記録が見つかりました。
新潟市の中心部に明治2年創業の八百屋があります。
酉吉が栽培を始めた大正時代にトマトを扱っていた数少ない店です。
当時から市内のあるレストランにトマトを卸していたといいます。
その店は今も営業を続けています。
すごいお店…。
ホテル。
明治7年創業の西洋レストランです。
当時のレシピが残されていました。
トマトを使ったメニューが数十種類も記されています。
当時から作り続けているというメニュー。
ソースをたっぷりと…。
実はこの店で幸子さんは毎年ディナーショーを行っています。
ブログにはトマトを使った料理にご満悦の写真もありました。
今から100年前の祖父の代からこのレストランとはつながりがあったのです。
いや…いやぁ〜!いち早くトマト栽培をしていた宮酉吉の娘イツに縁談話が舞い込みます。
相手は戦地から帰ってきたばかりで近所に住む…お見合いから3か月後2人は結婚しました。
戦後世の中が大きく変わる中「新しもの好き」の宮家に育ったイツはある商売を思いつきます。
「これからは肉をもっと食べる時代になるはずだ」。
そこで新潟市内に小林精肉店をオープンしたのです。
イツが肉の他にコロッケやポテトサラダなど洋風のお総菜を売り出すと評判を呼びました。
イツの弟新吉さん。
開店当時の店を度々手伝っていました。
そして…三姉妹の末っ子として生まれたのが幸子でした。
幸子が5歳になったある日。
父喜代照は演歌を口ずさんでいました。
すると幸子が突然まねして歌い出したのです。
子供とは思えない小節の利いた歌声。
喜代照はその見事な歌いっぷりに驚きます。
イツの弟良雄さんも幼い幸子の歌声を覚えています。
喜代照はある夢を抱きます。
「幸子を歌手にしたい」。
そして4年後喜代照は行動に移します。
「幸子ちょっと東京見物に連れていってやろう」。
そして到着した場所に幸子は首をかしげました。
そこはテレビ局。
喜代照は幸子にないしょでのど自慢番組に応募していたのです。
戸惑った幸子でしたがいつものように小節を利かせて歌います。
すると次々と勝ち抜きなんと優勝してしまったのです。
そして帰ろうとした時ある人物に呼び止められます。
番組の審査委員長で日本を代表する…「娘さんを歌手にしませんか」。
「幸子が歌手になれる」。
喜代照はすっかり舞い上がりました。
しかし母イツは猛反対。
「歌手なんてとんでもない。
普通の幸せが一番」。
それでも喜代照は譲りませんでした。
まだ9歳の幸子は大勢の友人知人に見送られ東京に向かいます。
親戚の家に世話になりデビューを目指す幸子を喜代照は送り出しました。

(「ウソツキ鴎」)上京して1年後10歳になった幸子は古賀政男作曲の「ウソツキ鴎」でデビューします。
するといきなり20万枚のヒットとなります。
「美空ひばりの再来」ともてはやされ歌に映画に一躍スターの仲間入りを果たしました。
ところがデビューから僅か10日後の…午後1時新潟地方を突如激しい揺れが襲いました。
マグニチュード7.5を記録した…「繁華街も各所で地割れして悪魔が口を開けたようです」。
道路は寸断され市街地は液状化で水浸しになりました。
これは地震直後の小林精肉店を写した写真です。
倒壊は免れたものの店は泥水につかりました。
すぐに駆けつけたイツの弟新吉さん。
姉はショックで声も出なかったといいます。
そんな中喜代照は一人全く落ち込んだ様子を見せませんでした。
泥水に浮いた戸板に乗り満面の笑みを浮かべています。
水浸しになった小林精肉店。
喜代照の中にある思いが芽生えていました。
しばらくして喜代照は小林精肉店を畳み妻イツと幸子の姉2人を連れて上京する事にしました。
この時喜代照49歳イツ46歳。
幸子を含め家族5人での暮らしが再び始まりました。
しかし幸子のレコードは次第に売れなくなっていきます。
家計を支えるため年齢を偽ってキャバレー回りをする日々でした。
心配した喜代照は幸子の歌手活動を手伝うようになります。
姉2人も働きに出ました。
そして母イツはいくつもの仕事を掛け持ちし幸子の負担を減らそうと必死でした。
当時のイツを知る…目黒にあった民謡酒場ふるさと。
イツはここで接客の仕事もしていました。
知らない!当時この店で民謡歌手をしていた…イツの事を覚えていました。
う〜んあの…クタクタに疲れ果てた仕事帰り。
イツはよく街角の占い師に手相を見てもらいました。
するとなぜか毎回同じ事を言われたのです。
ある大みそかの夜。
「NHK紅白歌合戦」!華やかなステージを見ながら喜代照は居ても立ってもいられなくなります。
長女の静江さんは喜代照から突然「一緒に出かけよう」と言われます。
向かった先は初詣の参拝客でにぎわう明治神宮。
喜代照はラジカセで幸子の曲を流し道行く人に声をかけました。
「小林幸子をよろしくお願いします!」。
「幸子の曲を人の多い所で流したら宣伝になる」。
「何が何でも幸子の歌をヒットさせたいさせるんだという父の熱意に頭が下がりました」。
イツの弟良雄さんもヒットを願ってひそかに続けていた事があります。
低迷していた時代の幸子のレコードの数々。
そんな幸子に思わぬ形でチャンスが訪れます。
昭和54年28枚目のシングル。
民放の昼のドラマの主題歌に選ばれた「六時、七時、八時あなたは…」。
そしてそのB面になったのが「おもいで酒」でした。
ところがその「おもいで酒」のレコーディング当日。
幸子は風邪をひき鼻声になってしまったのです。
当時のディレクターに話を聞く事ができました。
・「無理して飲んじゃ」A面ではなくB面だった「おもいで酒」が有線放送でリクエストを集め出します。
やがてその人気は全国に広がり200万枚を超える大ヒットになったのです。
・その年の11月喜代照のもとに一本の電話がかかってきました。
電話の向こうからは幸子の震える声。
デビューから15年。
ついに幸子は「紅白歌合戦」初出場を果たします。
この頑張り屋さんに大きな温かい拍手を送ってあげて下さい!「おもいで酒」小林幸子さんどうぞ!・「あの人どうしているかしら」・「噂をきけばあいたくて」家族の夢はようやく現実になりました。
・「酔うばかり」ほんとに応募した…ご家族で…
(笑い声)「紅白」の舞台に立ち続けてきた幸子さん。
しかし次第に大きくなる衣装について母イツさんがこぼしていた事がありました。
それでもイツさんは幸子さんの歌う姿を見ては目を細めていました。
そして30年ほど前幸子さんが大分でコンサートを行った時の事です。
終了後一人の女性が突然ステージに上がってきたのです。
それは戦時中朝鮮半島で父喜代照さんと一緒だった後藤松男さんの妻百枝さんでした。
それからしばらくして大分別府で開かれた元憲兵たちの戦友会。
40年ぶりの再会を果たしたのです。
平成13年7月にイツさんがそしてその5年後に喜代照さんが波乱の生涯を閉じました。
歌手一筋の人生を送ってきた幸子さんは平成23年に結婚。
両親に花嫁姿を見せる事はできませんでしたが結婚後驚きの事実が分かります。
(三輪)えっ?そうなんです!亡くなった孝子さんの夫幸雄さんも憲兵で喜代照さんと戦友だった事が分かったのです。
喜代照さんが亡くなる少し前幸子さんはあるプレゼントをしています。
はい。
歌手を夢みて戦地に行く前に自分の歌声をレコードに吹き込んでいた喜代照さん。

(「影を慕いて」)緊張して何度も間違えながらも一生懸命歌い上げました。
小林幸子さんの「ファミリーヒストリー」。
決して諦めずひたすら夢を追い続けた家族の姿がありました。
ほんとに両親に「生んでくれてありがとう」というひと言しかないですね。
ほんとにありがたいと思ってます。
さあいつものように始まりました「所さん!大変ですよ」。
2017/01/05(木) 19:30〜20:15
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「小林幸子〜戦地に向かう父 吹き込んだレコードの謎〜」[字]

幸子さんの父がのこした一枚のレコード。昭和15年の出征直前、遺言代わりに自らの歌声を吹き込んでいた。幸運にも戦地から戻った父だが、ある事実を胸にしまっていた。

詳細情報
番組内容
幸子さんの父がのこした一枚のレコードがある。昭和15年の出征直前に、自ら録音したものだった。遺言の代わりに、当時の流行歌がアカペラで収録されていた。そんな父は、戦地から命からがら引き揚げてきた。そこには、語らなかったある事実が隠されていた。そして、10歳で歌手デビューした幸子さんを家族がひそかに支えた姿が明らかになる。さらに、紅白衣装秘話。初めて知る家族の思いに、幸子さんは涙をこらえきれなかった。
出演者
【ゲスト】小林幸子,【司会】今田耕司,三輪秀香,【語り】余貴美子