かつて読売ジャイアンツの左の投手として活躍した…本当にナイスピッチングでした。
ねえ!やっちゃいましたねいきなりね。
やっちゃいました。
引退後はその明るいキャラクターを生かし多くのテレビ番組に出演。
コリコリで中ジュワーッととけますねこれね。
その軽妙な語り口が人気を集めています。
宮本さんは山口県下関出身。
10年前に亡くなった父から宮本家は代々漁師だったと聞かされてきました。
今回宮本さんのルーツについて取材を進めると意外な事実が次々と明らかになります。
曽祖父は巨大な鯨に命懸けで挑んだ伝説の漁師。
そしてふるさとから遠く離れた土地でなぜか先祖の墓が見つかります。
今夜のゲストは宮本和知さんです。
どうぞ。
(一同)お願いします。
(拍手)あれ?よろしくお願いします。
表情がかたいです。
そんな人ちゃうと思ってたけど…。
そうですねイメージがちょっと…。
宮本さんの父方のふるさと…ここは秀吉が朝鮮出兵の際に城を築いた事で知られています。
港から程近い宮本家の本家を訪ねました。
(取材者)こんにちは。
和知さんとは曽祖父が兄弟の…この家に明治19年に生まれたのが重太郎。
和知さんの祖父です。
腕利きの漁師として知られていました。
重太郎の妻で宮本さんの祖母にあたるフクです。
フクは自ら艪をこいで遠く対馬まで漁に出るほどの豪傑な女性でした。
体つきよかったもんな〜おばあちゃん。
大漁を祈願するために行われていた奉納女相撲では横綱を張っていたといいます。
フクは晩年になってもその見事な体格で元横綱である事を誇っていました。
和知さんのいとこにあたります。
フクの旧姓は「片岡」。
今回これまで謎が多かった片岡家について興味深い事実が明らかになります。
港近くにある…その入り口に建てられた灯籠。
(取材者)あっここに片岡福太夫とありますね。
実はこの人物フクの父で宮本さんの曽祖父にあたります。
しかし福太夫がどんな人物だったのかこれまで謎でした。
灯籠の写真を見てもらいました。
更に山田さんは「福太夫」という名前はある事を意味しているといいます。
かつて佐賀名護屋の沖合には鯨の回遊ルートがありました。
そのため江戸時代から鯨漁が盛んな土地として知られていました。
鯨は余す事なく利用でき……と言われるほどの貴重な漁業資源でした。
鯨漁の歴史に詳しい…「福太夫」は鯨漁でどのような役割だったのか。
「羽刺」とは腕の立つ屈強な漁師だけがなれる花形。
追い詰めた鯨にモリを打ち込み弱ったころを見計らって荒海に飛び込みます。
そして生きた鯨の背中に乗りとどめを刺すのです。
羽刺が使っていたモリは長さ4mで重さはおよそ10kg。
鯨を目がけ投げ込みました。
佐賀名護屋の鯨漁師たちは各地で漁を行っていました。
山口県文書館で150年前のある記録が見つかりました。
こちらが「先大津宰判本控」という記録になります。
ここにですね肥前唐津名護屋からですね……という事が書いてあります。
江戸時代もともと農村だったこの川尻では近くを鯨が回遊していた事もあり鯨漁を始めます。
そこで指導役に招いたのが佐賀名護屋の鯨漁師たちでした。
川尻の海岸沿いの高台。
鯨を供養するための慰霊碑が残されています。
地元の漁師たちはここに鯨の鼻の骨を埋葬したといわれています。
慰霊碑の脇には鯨漁で亡くなった漁師たちの墓がありました。
その二段構えの墓に刻まれた名前を見てみると…。
「名護屋海士町福蔵」と書いてあるんですね。
…とあります。
この意味はですね功績を積んだと。
実は宮本さんの4代前の高祖父の名も福蔵でした。
そこで再び祖母フクの実家片岡家を訪ねました。
仏壇から先祖代々の位牌を出してもらいます。
これが福蔵さんですね。
照らし合わせてみると…。
宮本さんの4代前の高祖父福蔵はふるさとから遠く離れた山口の地で亡くなっていたのです。
(取材者)「片岡家で鯨漁をやっていたんだよ」という話は…?はぁ〜…。
鯨漁の花形羽刺をしてきた祖母フクの実家片岡家。
今回初めて明らかになった宮本さんのルーツです。
はぁ〜。
でも…あら!ほら!宮本さんの祖母フクは明治43年に重太郎と結婚。
5人の子供に恵まれます。
昭和8年に生まれたのが三男明智。
和知さんの父です。
しかし11歳の時悲劇に見舞われます。
一本釣りの名手だった父重太郎が肺炎で亡くなります。
59歳の若さでした。
一家の大黒柱を失い宮本家の暮らしは一変。
フクは必死に家計を支えます。
フクが新たに始めたのはイワシを加工するイリコ製造。
夜明けとともに始まる重労働でした。
フクは港から加工場までの間を何度も往復しました。
明智は懸命に働く母の背中を見て育ちました。
しかし進学は諦めます。
小学校の…これかな…?あっこの人ですよ。
母を手助けしたいと明智は家業である漁師の道に進みます。
そして明智は15歳で漁に出ました。
一緒に船に乗った…物覚えがよく機転も利く明智は他の漁師たちから信頼を集めていきます。
しかしこのころ名護屋では船団を組む巾着網漁が主流になります。
魚を一気に大量に取るため宮本家の小型船では太刀打ちできませんでした。
更に昭和27年韓国が突然李承晩ラインを設けます。
日本漁船の漁ができる範囲が狭まります。
「李承晩ラインから追い出された日本漁船が集まっていますが港は日頃活況を呈した水揚げ風景も見られません」。
漁師としての将来に不安を感じた明智はある決断をします。
それは漁師をやめ勤め人になる事でした。
昭和28年明智は二十歳でふるさと名護屋を離れ山口県下関へ向かいます。
ある企業が工場の臨時工を募集していると聞き試験を受けたのです。
従業員1,000人以上を抱える三井金属彦島製錬所でした。
このころ工場では亜鉛の増産に追われていました。
こちらが宮本明智さんに関する資料です。
入社試験の際に提出した履歴書です。
漁師をやめた理由をこう記しています。
「船を売った為。
漁の将来性なき為」。
明智は「臨時工」として採用されました。
配属された部署は焼鉱硫酸係。
そこは工場内で一二を争う過酷な現場でした。
同じ焼鉱硫酸係に配属された…初めて仕事をした時の事が忘れられないといいます。
仕事場は亜鉛の鉱石を燃やすため1200度にもなる高熱の炉の前。
24時間炎を監視する作業は過酷を極めました。
灼熱の中の作業。
多くの作業員が辞めていく中明智はふるさとの家族に仕送りするため懸命に働きました。
仕事熱心だった明智は作業に使う道具も自ら作りました。
この辺が…そして入社から1年3か月後。
真面目な仕事ぶりが認められ臨時工から正社員に登用されます。
当時正社員だけに許された三井のバッジ。
地元の人から羨望のまなざしを向けられました。
正社員になり安定した収入を得られるようになった明智は実家への仕送りを増やしました。
帰省の際にはいつもたくさんの土産を買って帰りました。
知佐子さんが17歳の時に明智と撮った写真の下にはこんな言葉が書かれています。
明智が働き出して5年がたった昭和33年。
下関と門司をつなぐ関門トンネルが開通します。
それに伴い下関大博覧会が開催されました。
ある日博覧会を訪れた明智。
そこで受付をしていた一人の女性に目を奪われます。
女性の名は…運命の出会いでした。
いやぁ〜いかがですか?そっか〜。
いやぁでもそうですねおやじ…。
う〜ん…。
すごい…頑張り屋さんだったと思いますね。
・どうぞ〜!
(取材者)失礼いたします。
明智さんと初めて会った時の事を鮮明に覚えています。
出会ってから2年後の…会社の社宅で暮らし始めます。
その後2人は子供に恵まれます。
昭和39年に誕生したのが次男の和知です。
昭和40年ごろ明智が働く工場では亜鉛の生産が落ち込みます。
コストの削減が迫られるようになりました。
そこで明智は製造工程を細かく見直します。
どこの工程に無駄がありどうしたら効率化できるのかメモを片手に調べて回りました。
当時の事を覚えていました。
明智が目をつけたのが亜鉛製造で生まれる「残」と呼ばれる廃棄物でした。
ある化学物質を使い残を効率的に処理できる方法を見つけたのです。
昭和50年その功績が認められ会社から表彰されました。
その後もコスト削減や職場の改善に取り組み結果を残していきます。
(取材者)たくさんありますね。
すごいな〜!こんなもらわれへんやろ。
そして昭和52年明智は「作業副長」という役職に推薦されます。
この時44歳。
多くの先輩社員を追い抜いての異例の昇進でした。
しかし明智は迷います。
「学歴のない自分が人の上に立っていいのか」。
当時を知る明智の同僚たちです。
同期で2歳年上の松山さん。
明智からこんな事を言われたといいます。
仲間たちに後押しされ明智は作業副長を引き受けました。
そんな父の姿を見て育った次男の和知。
活発で負けず嫌いの少年に成長します。
中学から野球を始め下関工業高校に入学。
2年生の時投手となります。
高校を卒業後和知は「川崎製鉄水島」に入りチームを都市対抗野球の初出場に導きます。
「新人選手選択会議を開催いたします」。
和知は読売ジャイアンツからドラフト3位指名を受けました。
しかし1位指名を期待していた和知は入団するか悩みます。
その時明智はこう言いました。
和知はジャイアンツに入団を決めます。
入団から4年後の平成元年左のエースとして活躍。
リーグ優勝と日本シリーズのマウンドに立ち2度の胴上げ投手となりました。
そんな和知の活躍を誰よりも喜んでいた明智。
しかし職場では息子の事を自分から話す事はなかったといいます。
明智が集めた新聞のスクラップが残されています。
いい時だけ切り抜いて…。
いやいかがですか?あ〜ああ〜…そうですね。
そうですね…。
これあれ…。
(一同)羽刺。
昭和60年52歳になった明智さんは…ああずっと出世だ。
臨時工として入社した明智さんが現場のトップに立ったのです。
明智さんの後輩で…迫田一成さんは入社2年目の時明智さんにかけられた言葉が忘れられません。
そして昭和63年55歳になった明智さんは定年を延長する道を選ばず退職します。
そこには長年胸に秘めていたある思いがありました。
一度は諦めた漁師に戻ったのです。
36年ぶりに海に出ました。
一緒に漁をした…明智さんが漁師に戻った8年後の平成9年。
和知さんは13年間のプロ野球生活にピリオドを打ちます。
(歓声と拍手)「両親と子供さんです」。
引退試合には明智さんと順子さんの姿がありました。
明智さんが引退する息子にかけた言葉があります。
引退後和知さんはテレビの世界に転身。
ストライク!こんにちは。
宮本和知です。
その明るい人柄ですぐに人気者になりました。
ジャイアンツ時代共に活躍した元投手…新たな世界で活躍する和知さんを明智さんはうれしそうに眺めていました。
平成19年5月明智さんは肝臓がんで亡くなります。
74歳でした。
山口県下関の高台。
明智さんは生前ふるさと佐賀の石を使って墓を建てました。
墓の向こうには明智さんが愛した海が広がっています。
え〜…おやじが旅立ったのは多分僕は天国じゃなくて海だと思ってるんで。
ずっと海を見つめてたいなと思います。
2017/01/12(木) 19:30〜20:15
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「宮本和知〜渾(こん)身の一投 クジラ漁師の魂〜」[字]
元読売ジャイアンツ投手・宮本和知さん。見つかった150年前の古文書などから、先祖は鯨漁のリーダーだった。鯨にモリを投げこみ、肩が強かった事実が明らかになる。
詳細情報
番組内容
元読売ジャイアンツ投手・宮本和知さんは、山口県下関出身。探し当てた150年前の古文書などから、先祖は鯨漁のリーダーと判明。鯨にモリを投げこみ、肩が強かった事実も明らかになる。プロ野球時代の宮本さんの、ホエールズとの対戦成績は果たして…。さらに、海に生きた宮本家で亡き父はなぜ、漁師を辞めたのか。決断 の背景に迫る。そして、学歴が無くとも努力で壁を乗り越えた父の姿。宮本さんは涙を抑えきれなかった。
出演者
【ゲスト】宮本和知,【司会】今田耕司,三輪秀香,【語り】余貴美子