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字幕書き起こし 地球ドラマチック・選「大ピラミッド建造の謎〜4600年前の日誌は語る〜」 2017.01.15

エジプトギザの大ピラミッド。
数あるピラミッドの中で最大のものです。
高さ146メートルおよそ230万個の石からなるピラミッドはたった一人の王のために造られました。
この巨大な建造物はどのようにして築かれたのでしょうか。
世界中で知られています。
どうやって築かれたのかはいまだに解明されていません。
最近ピラミッド建造の謎に関して2つの大きな展開がありました。
1つは建造に関わった人物の日誌が見つかった事。
考古学者の夢をかなえるものです。
もう一つは考古学ではなく技術的な観点から大胆な仮説を唱える人物が現れた事。

 

 

 


建造のプロとして現場監督の視点に立ってみたんです。
大ピラミッド建造の謎に迫ります。
2013年3月エジプトのワディ・アル・ジャルフで考古学者のチームが発掘を行っていました。
そこでかつてない発見がありました。
何百にも及ぶパピルスの破片です。
古代エジプトの象形文字がビッシリと書き込まれていました。
エジプトで発見された最古のパピルスです。
書かれた文字も判読できました。
破片ばかりですが保存状態は良好です。
考古学者たちのリーダーだったピエール・タレが破片の文字を解読したところそれがおよそ4,600年前に書かれた日誌である事が分かりました。
書いたのは「メレル」という男性です。
日誌によるとメレルは石の運搬を担当した労働者たちのリーダーでした。
そこには史上最大級の墓であるギザの大ピラミッド建造にまつわる出来事が書き込まれていました。
大ピラミッドの建造に深く関わっていた専門家の貴重な記録を発見したという事です。
ピラミッドの建造に関する記録が見つかったのはこれが初めての事です。
機械はおろか鉄器すらなかった時代にどうやって巨大なピラミッドを築き上げたのか。
古代の謎がメレルの日誌によって解き明かされるかもしれません。
これまでも考古学者たちはピラミッドの周りを発掘調査してきました。
事件の真相を探る刑事や鑑識みたいな仕事ですよ。
メレルの日誌が貴重なのは現場での目撃談だという事です。
人々がピラミッド建造の現場でどんな仕事をしていたのか知る事ができます。
このパピルスは僅かな時間でもいいからあの時代のあの場所に行ってみたいという考古学者の夢をかなえるものです。
大ピラミッドを建造した人々の日常をかいま見る事ができます。
マーク・レーナーは長年にわたってピラミッド周辺の発掘調査を行ってきました。
そこにメレルの日誌から得られた情報を加える事で新たな事実が明らかになるはずだと考えています。
メレルの日誌は情報の宝庫です。
私たちは25年以上かけて発掘を行ってきました。
そこで見つけたものをどう捉えるべきか日誌が新しい視点を提供してくれます。
同じころもう一人の専門家が全く別の立場からピラミッド建造の謎に取り組んでいました。
ピーター・ジェームズは古代建築の専門家ですが考古学者ではなく技術者です。
世界各地で行政機関の依頼を受け遺跡などの修復を手がけてきました。
彼の仕事は建築方法を調べる事から始まります。
私の専門は傷ついた建物を調べ修復する方法を探る事です。
インドのタージ・マハルやエジプト最古の石の建造物「階段ピラミッド」などさまざまな修復に携わってきました。
ジェームズは半世紀にわたる知識と経験を生かし大ピラミッド建造の謎に光を当てたいと考えています。
私は技術者として現場監督の視点でものを見たりどう作られたのかを理解したりする事ができます。
考古学者とは違う立場からのアプローチです。
目標はピラミッドの建築様式。
つまり石がどう組み合わされたのかを突き止める事です。
これには技術的な知識が欠かせません。
大ピラミッドは地面より高い位置にトンネルがある唯一のピラミッドです。
複数の通路がつながり王の遺体が葬られた中央の部屋に続いています。
建造物としての規模は壮大で高さは50階建てのビルに相当します。
1311年にイギリスのリンカン大聖堂が完成するまで3,800年もの間世界で最も高い建物の座を維持していました。
底面積はおよそ5万3,000平方メートル。
東京ドームがすっぽり入ってしまう広さです。
1辺230メートルの正方形で周囲を歩くと15分はかかります。
ジェームズは建造に用いられた石の特徴を調査していきました。
実に巨大な石です。
底辺の石は2トン半から3トンはあるでしょう。
ただし上に行くにつれて少し小さくなっていきます。
ピラミッドは一見単純な建造物に見えますが建てられた紀元前2560年ごろにおいては最先端の技術でした。
古代エジプトの技術は小さく素朴なものしか作れない段階から壮大で精巧な建造物を建てられる段階まで僅かな期間で急速に発展しました。
驚異的な進歩です。
古代エジプトにはもともと泥のレンガで作った1階建ての建物しかありませんでした。
しかし紀元前2650年頃にジェセル王によっていくつもの層を重ねた階段ピラミッドが初めて造られました。
それから僅か100年ほどで大ピラミッドにまで発展したのです。
それは大ピラミッドの建造が技術面でも労働者の組織化の面でも前例のない大事業だった事を示しています。
研究者の試算によればインフラ整備の分野まで含めた労働者の数は2万から3万でした。
当時の人口や技術力を考えればありえないほどの大事業でした。
スケールの大きさに驚かされるばかりです。
測量をし巨大な石を運び正確に積み重ねていく。
現代で言えば月面着陸に匹敵する偉業です。
世界の建造物の中でも大ピラミッドが特に強烈な印象をもたらすのはあまりにも巨大だからです。
なぜあんなものを造る事ができたんでしょうか?造られたのは紀元前2560年ごろ。
当時のエジプト社会に何か特別な事が起きていたのだと思います。
不可能を可能にする強大な王の力があった事が伺えます。
ピラミッドの謎を解くためにはそれを作らせた人物について知る必要があります。
大ピラミッドは古代エジプトに君臨したクフ王の墓として造られたため「クフ王のピラミッド」とも呼ばれています。
クフ王は国のあらゆる資源を自分の墓の建造につぎ込んだ暴君であるというのがこれまでの定説でした。
しかしそれは本当なのでしようか?長年の調査にもかかわらずクフ王の人間性を伝える記録はほとんど見つかっていません。
小さな像が1つ発見されただけです。
クフ王は古代エジプトで最大のピラミッドを造った人物なのにその像はこんな小さなものしかありません。
ギリシャの歴史家ヘロドトスがクフ王について書き記していますがヘロドトスはクフ王より2,000年もあとの人物です。
(ウィリアムソン)ヘロドトスはクフ王を自分と自分の墓の事しか頭になく民の幸福など一切考えない暴君として描きました。
ヘロドトスの描く歴史は正確な歴史というよりは物語です。
歴史上の人物の性格はかなり誇張されています。
ピラミッドを造るためにクフ王は自分の娘さえ売り飛ばしたとヘロドトスは書いています。
そうした話を裏付ける証拠は何もありませんがヘロドトスによってクフ王のイメージは決定づけられてしまいました。
メレルの日誌が発見された事で状況が変わるかもしれません。
発見されたメレルの日誌もクフ王の権力が絶大なものであった事を示していました。
メレルの全ての仕事はクフ王の名のもとに行われていました。
(日誌)「26日目クフ王のピラミッドまで石を運搬する。
27日目積み荷の石とともにクフの港を出発する」。
日誌が発見された遺跡の至る所にクフ王の印が刻まれていました。
ピラミッド建造に対するクフ王の強い執念が感じられます。
日誌が発見されたワディ・アル・ジャルフの港はギザから200キロ離れていますがピラミッド建造のためだけに造られた施設だと考えられています。
港はピラミッドの完成後に閉鎖され二度と使われませんでした。
ワディ・アル・ジャルフの港は少なくとも30年間貴重な資源の入り口として利用されました。
シナイ半島の鉱山で採掘された銅が紅海を渡って運ばれてきたのです。
シナイ半島には銅を精錬するための炉がたくさんありました。
メレルの仕事の一つはシナイ半島から銅を運びピラミッド用の採石場に持っていく事だったとピエール・タレは考えています。
全ての石は銅でできた工具を使い人の力で切り出されていました。
しかし銅の工具は軟らかくすぐに使い物にならなくなるため絶えず新しい銅を補給する必要がありました。
マーク・レーナーは鋳物工場を訪れました。
ピラミッドの建造に使われた銅製の工具を再現するためです。
クフ王の時代に使われた2種類のノミを鋳造しています。
ピラミッド建造のためにはこのような作業が何百回も必要でした。
ピラミッドがあるギザには至る所に炉がありました。
料理用と銅の工具を作るためのものです。
大ピラミッドを造るためにギザに集められた銅は世界でも類を見ないほどの量だったはずです。
ピラミッド建造に不可欠な資源である銅は貴重な金属として厳重に管理されていました。
いい形になりましたが細かい削りカスが出ます。
当時銅はとても貴重だったので粉まで残らず拾い集めました。
もう少しあとの時代には作業員が銅を削って持ち出したりしないよう工具の重さまで量って管理したそうです。
銅製の工具を使って切り出された石は採石場からピラミッドの建造現場に運ばれました。
日誌によるとメレルはギザの南12キロのところにあるトゥーラから石を運搬する作業にも携わっていました。
今もトゥーラではクフ王の時代と同じく品質の良い石灰岩が採れます。
ピラミッドの大部分にはギザの近くで採れる質の悪い石灰岩が使われていますが外側の目立つ部分にはトゥーラで採れる質の良い石灰岩が使われています。
しかしそれをギザまで運ぶのは簡単な事ではありませんでした。
技術者のピーター・ジェームズはその実態を調査しにやってきました。
当時は銅の工具を使って石を切り出していました。
まず石に溝を掘ります。
その溝に小さなくさびを打ち込みひび割れを起こして石を切り出します。
木でできたくさびをぬらすと水を吸って膨張し石が割れるんです。
何百人もの作業員が10時間交替で毎日石を切り出していました。
大ピラミッドの表面を覆うには膨大な量の石灰岩が必要でした。
2人がかりで30分作業をしてみましたが大変な重労働です。
石の形と大きさを決める線は入れたものの実際に切り出すにはほど遠い状態でこれは丸一日かかるでしょう。
次のステップは切り出した石の運搬です。
重く巨大な石を運ぶ事を可能にしたのはナイル川でした。
ピラミッド建造に関わったメレルの日誌には石を運ぶためナイル川をどのように活用したかが書かれていました。
しかしメレルが利用したルートを正確にたどる事は不可能です。
4,600年の間にナイル川の流れが大きく変わってしまったからです。
当時の正確な地形や川の流れは分かりません。
しかしギザの近くまで流れているナイル川の支流に入るにはどこかで運河を通る必要があったはずです。
メレルの日誌によればトゥーラからピラミッドのあるギザまで往復で3日かかりました。
クフの港と呼ばれる場所で1泊した事が書かれています。
積み荷の石を降ろすのに1日かかり3日目にトゥーラに引き返しました。
マーク・レーナーはこの時間経過の中に自分の学説を裏付ける証拠があると考えました。
ピラミッドの建築資材を運ぶためにナイル川が利用された事は以前から知られています。
更にレーナーは海岸から160キロ近く離れたギザが当時最大の国際的な港として栄えていたと考えています。
クフの港はギザにあったと思います。
メレルたちがそこを出てピラミッドに着くまでに1日かかった理由は港があまりに複雑で大規模だったからでしょう。
レーナーの説によればギザは港町として大いに栄え毎日何十隻もの船が出入りしていました。
それが本当だとすれば船の乗組員たちの宿泊施設が存在したはずです。
大ピラミッドから歩いて数分のところに労働者たちの町の遺跡があります。
これはいくつも並んだ長い建物の一つで中は間仕切りされています。
これとよく似た建物がメレルの日誌が発見されたワディ・アル・ジャルフでも発掘されました。
これはギザに4つある長い建物の一つです。
一方こちらは海に近いワディ・アル・ジャルフで見つかった建物です。
ほぼ同じ大きさで立地条件も似ています。
一部は倉庫で他の部分は船の乗組員のための宿泊施設だったと思います。
200キロ離れた場所にほとんど同じ作りの倉庫や宿泊施設があったという事は古代のエジプトに一定の規格が存在した事を示しています。
一定の規格が存在したという事はこれまで考えられていた以上に緻密な管理体制があったはずです。
本当にギザに港があったとすればそれだけで1つの巨大な社会事業です。
港を造るには川の治水や膨大な資材と労働力が必要だからです。
レーナーの説を裏付けるかもしれない遺跡が更に発見されました。
ギザの東にある川岸に非常に深い穴が掘られているのを見つけたんです。
レーナーは大ピラミッドから数百メートルの場所で発見された穴を港の一部だと考えました。
1980年代後半から90年代前半にかけて巨大な石の壁も見つかっています。
レーナーの説が正しければこの一帯に古代の港湾施設の遺跡が埋まっているはずです。
しかしその上に現代の町がある以上大がかりな発掘はほぼ不可能で調査は難航しています。
今私が立っているこの場所にクフの港があったと思います。
しかし巨大な港ですからここは北側の一部にすぎません。
もっと南まで1キロ近くにわたって延びていたはずです。
更に大規模だった可能性もあります。
エジプトの外からこの港に多くの資材が運び込まれ大ピラミッドの建造に決定的な役割を果たしたとレーナーは考えています。
ギザに国際的な港があった事を示す手がかりは数多く見つかっています。
ギザで発掘された陶器の破片ですが地中海の東側の地域に特有のものです。
陶器の中に入っていたものは大抵オリーブオイルでした。
エジプトと地中海東側地域との間に国際的な貿易があった事を示す遺物だと思います。
ピラミッド建造が極めて大規模な事業だった事が分かります。
クフ王はピラミッド建造という大事業に向けて多くの人々を組織化しコントロールする事に成功しました。
そのようなクフ王の統治能力人々を組織化する才能には目を見張るものがあります。
ピラミッドの建造にはナイル川を行き来する船が重要な役割を果たしました。
クフ王のなきがらが納められる最後の段階においても同様です。
この船がおそらくクフ王のなきがらを運ぶのに使われました。
言わば霊きゅう車です。
長さは43.3メートル。
もっと大きな50メートルを超える船もあります。
クフ王は死後ミイラ化されたと考えられています。
なきがらをピラミッドに運ぶ時には船が使われた事でしょう。
ピラミッド建造の段階から多くの船がナイル川を行き来しました。
数知れぬほどの船が穀物や家畜工具の材料になる銅建築作業に必要なロープなどをギザに運んできた事でしょう。
船を使わなければ大ピラミッドは造れなかったという事です。
多くの人々がたった1つの目標に向かって働き続けました。
クフ王が亡くなる前にピラミッドを完成させるという目標です。
メレルの日誌には大ピラミッドが完成に近づいた頃の作業が細かく記録されています。
メレルたちはピラミッドの表面を覆う上質な白い石灰岩を運んでいた事が分かりました。
今はそのような石は見当たりません。
盗まれたか他の建築物に流用されたのだと考えられています。
完成した時のピラミッドが白い石灰岩で覆われていたとすれば今とはだいぶ違う姿をしていたはずです。
その光景を推測するため白い石灰岩を細工する事にしました。
4,600年前のエジプトで用いられていたのと同じ方法です。
表面に使われた石灰岩は正確な角度で削られ滑らかだったはずです。
研磨材として砂岩の塊と細かい砂を使い表面を磨きます。
時間と技術と労力を要する仕事です。
横で見ているだけでも大変な作業だと分かります。
全身の力を込めて石灰岩を磨いています。
滑らかなだけでなく光沢が出るように仕上げるのが目標です。
何も手を加えていない面と見比べて下さい。
石で磨き上げた面は驚くほど真っ白になっています。
現在のピラミッドはさまざまな汚染で黒ずんだ色になっています。
これが本来の色ですね。
完成したばかりの大ピラミッドは完璧な三角形で表面を真っ白な石灰岩で覆われエジプトの強い日ざしをまばゆく反射していた事でしょう。
しかしピラミッドは芸術作品ではありません。
また単なる墓でもありません。
ピラミッドには王のなきがらを安置するだけでなくその復活を助ける役目がありました。
ピラミッドは復活のための装置だと考えられていました。
王は天に昇り新たな生を受けるんです。
それはエジプトの人々全てにとって重要な問題でした。
王が復活しなければ国が混乱するからです。
エジプトの人々はマートという神を信じていました。
マートは宇宙のあるべき秩序を体現する存在です。
太陽が輝き作物が育つ。
そのような秩序を守るため王は死後太陽神のもとに旅をしなくてはなりませんでした。
王の遺体は内臓を取り除いて乾燥させミイラにします。
死後も生前の姿をとどめるようにしたのは王が次の世でも同じ肉体を必要としたからです。
ピラミッドによる王の復活は国家的な関心事でした。
古代のエジプトにおいて王は半ば神のような存在であり多大な労力を捧げるのは当然だと誰もが多かれ少なかれ思っていました。
だからこそ現代の目から見ればばかげているとすら思える膨大な労力と資材がピラミッドの建造につぎ込まれたんです。
それが古代エジプト社会のあり方でした。
考古学者のマーク・レーナーと技術者のピーター・ジェームズがピラミッドの内部を共同調査する事になりました。
ジェームズはピラミッドがどう作られたのかを知る手がかりを求めています。
今使われている内部への入り口は地上18メートルの高さにありかつては石で隠されていました。
もともと王のなきがらは地下の部屋に置かれる予定だったと考えられています。
しかしその案は変更されました。
完成したピラミッドには上り坂の先に高さ8.5メートルの回廊がありなきがらを納める部屋に続いています。
なきがらを納める部屋はピラミッドの中央部にありますがその上には更に石が高さ100メートル以上にわたって積まれています。
大変な重量です。
これだけの重量を支えるのに空間の幅をどのぐらいにすべきかよく分かったものだと思います。
もし角度を間違えれば部屋が押し潰されてしまいますからね。
石は丁寧に仕上げられ完璧に組み合わされているため回廊の中は密閉状態になります。
この巨大な回廊はただの通路なんでしょうか?大きな行列が通るためのものという説があります。
王があの世に昇っていくための行列です。
回廊の役割は今日でもちょっとしたミステリーになっています。
レーナーとジェームズはピラミッドの中心部へと進みました。
クフ王のなきがらが安置されていた部屋です。
(レーナー)これこそがピラミッドの中心です。
あらゆる建造作業は全てこの花こう岩でできたひつぎのためにありました。
クフ王はここに葬られていたんです。
王の復活を確かなものにするためにピラミッドの中心軸に置かれています。
ひつぎだけでなく部屋の壁床天井も全て花こう岩でできています。
その事実はクフ王の勢力範囲が広かった事を示しています。
この花こう岩は800キロ南のアスワンから運ばれたものです。
800キロ!硬い花こう岩を切り出すのは大変な作業です。
それをひつぎにするために銅でできた工具や石英の砂などを使った事でしょう。
作業にかかった時間は?相当長くかかったでしょうね。
費用も労力も膨大だったはずです。
構造がよく分かりません。
後ろ側は一体どうなっているのか?この巨大な花こう岩の部屋をどうやって支えているんだろう。
ピラミッドが極めて変わった建造物である理由の一つは内部に存在する空間が全体の容積の0.1%にも満たない事です。
まだ発見されていない部屋があると言う学者もいますがいずれにせよ99%以上が石で満たされている事は明らかです。
既に見つかっている部屋と通路以外空間は存在しないと思います。
ピラミッドの内部にほとんど空間がないという事実はピーター・ジェームズに大きな疑問を抱かせました。
ピラミッドの建造に関するこれまでの説に代わる新たな説が必要となるような疑問です。
ジェームズが大ピラミッドの内部を調査して技術的な面から疑問を抱いたのは建築資材である石についてでした。
ピラミッドを完成させるために必要な石灰岩はおよそ270万立方メートルだと考えられています。
採石場から採られた石の量とほぼ同じですがむしろそこに問題があったのです。
ピラミッドに使われているような四角い石を作るには捨てる部分が大量に出るはずだからです。
石を切り出し形を整え組み合わせていく過程で捨てられる部分が大量に出るはずです。
最大で70%にもなるでしょう。
それだけの石を近くにある採石場だけで賄えたとは思えません。
ジェームズの計算によればピラミッドが全てこのような形と大きさの石で造られていた場合採石場は3倍の大きさが必要です。
また捨てられた石の破片がどこかにあるはずですがその量はピラミッド自体の2倍以上にもなります。
捨てられた破片はどこに消えたのでしょうか?ジェームズは近くにある小さなピラミッドで手がかりを見つけました。
クフ王が妃のために造った墓です。
朽ちて内部が露出した部分から丁寧な加工をされていない石の破片が見つかったのです。
大ピラミッドの中心部には表面と同じような石が積まれているとこれまで考えられてきました。
しかしジェームズは技術者としての立場から考えた結果四角く整えた石を使うのは外側だけにとどめ内部は破片で満たす方が合理的であるという結論に至りました。
巨大な建造物を全て四角い石で造り上げる必要はありません。
外側の3層か4層だけきれいな石を使い内側は破片などで埋めればいいんです。
大ピラミッドも同じです。
分かりやすい説ですが研究者からは古代エジプト人の世界観に合わないという反論も出ています。
ジェームズ氏は技術者ですから作業は最小限の労働力で行われるはずだという合理的なものの考え方をします。
しかし少なくとも大ピラミッドに関してはそれとは正反対の証拠が見つかっています。
確かにピラミッド建造が宗教的な行為であれば合理的な考え方は当てはまらないかもしれません。
むしろ仕事量が多ければ多いほどまた労力や資金が余計にかかればかかるほど建造物の価値は増していくんです。
しかしピーター・ジェームズは大ピラミッド建造の謎に答えを出せるのは自分の説だと主張しています。
考古学者が長い間頭を悩ませてきた問題に終止符が打てると言うのです。
巨大な石をどうやって運び所定の位置に納めたのか分かりません。
大ピラミッドの建造方法はまだ謎だらけです。
長年有力視されてきたのはピラミッドの1辺にスロープを設け石を積み上げていったという説です。
この説には大きな問題があります。
数学的に考えてスロープ全体の容積はピラミッドと同じくらい巨大になるんです。
そんな方法は非現実的です。
石を運び上げられるほど傾斜の緩やかなスロープを作れば長さ2キロ近い巨大なものにならざるを得ません。
ピラミッドの周りに小さなスロープを作ったという新しい説もありますがいくつかの点でやはり疑問が残ります。
ピラミッドの外側にらせん状にスロープを設けたという説ですが従来の説より傾斜が急になりますから石を運び上げるのは大変です。
しかも角で大きくカーブしなくてはなりません。
スロープは全くナンセンスです。
建築技術の面から見てありえません。
また大ピラミッドは20〜30年で作られたという証拠が残っています。
従来の説どおり全てが四角い石で造られていた場合必要な石の数はおよそ230万個。
6分に1個の割合で26年以上にわたり休みなく石を積み上げていた計算になります。
いくら勤勉に働いても無理のある話です。
ピラミッドの内部には四角い石ではなく破片が詰まっているとすればいくつもの謎が解けるジェームズはそう考えています。
内部に小さな石や破片を詰めるなら熟練工でなくてもそこそこの技術がある人たちだけで作業ができます。
彼の説は次のようなものです。
まず正確な正方形になるように四隅を作り枠となる壁を築き内部に破片を詰めます。
次に破片でできた内側のスロープを使って四角い石を運び上げ更に破片を詰めては高さを増していく。
これを繰り返し最後に表面を白い石灰岩で覆って完成です。
ピーター・ジェームズは建築の専門家ですから大量の石の運搬方法や崩れない建築物の造り方をよく知っています。
そういう人物が技術的な観点から導き出した説ですから強い設得力があります。
独創的な説ですが彼が主張する内側のスロープについては何の証拠もありません。
ジェームズの説を証明するにはピラミッドを傷つけるような調査をするしか手がありません。
内側のスロープはまだ残っていると思います。
ピラミッドに深さ30〜40メートルの穴を開けられれば分かるんですが。
そのような調査が許される事はないでしょう。
本体を傷つけずに内部をスキャンできるような技術が開発されるまで決定的な答えは出ません。
建造方法が分からない事でピラミッドの神秘性が高まっているのも事実です。
ギザの大ピラミッドはもともと中に入れるように作られた部分以外内部を見る事はできません。
真相が明らかになればピラミッドの魅力は薄れるのでしょうか?最大の驚きはあんな巨大なものを造り上げそれが今も存在する事です。
中身が四角い石であれ破片であれその偉大さに変わりはありません。
クフ王は紀元前2566年に亡くなったとされています。
王のなきがらはナイル川を運ばれてギザに到着。
なきがらを納めたのち大ピラミッドは封印されました。
ワディ・アル・ジャルフの港も役目を終え閉鎖されます。
港の閉鎖が日誌を残したメレルの最後の仕事だった可能性があります。
彼が書いた日誌は洞窟の中に納められていてその入り口は石灰岩で封印されていました。
念入りに封印されていました。
石灰岩が2列になっていて石と石がピッタリ組み合わさるようになっています。
その後周りにいくつかの石を置き分からないようにしてありました。
そもそもメレルはこのような石の細工に関する特別な技術を持っていたからワディ・アル・ジャルフにいたんでしょう。
彼は港を閉鎖するのに必要な技術と経験を持った人物だったんです。
ワディ・アル・ジャルフの港は消滅し砂にのまれていきました。
発掘されたのはそれからおよそ4,600年後。
メレルも自分の書いた日誌が考古学史上の宝物になるとは思っていなかった事でしょう。
4,600年前のあの場所に1時間でいいから行ってみたいと思います。
メレルが残してくれた日誌はその夢をある意味でかなえてくれました。
大ピラミッド建造のために働いた人々の日常をかいま見る事ができるからです。
クフ王に仕えた建築士はここに立って計画を考えたと思います。
ここなら大きな港を造る事ができるからです。
クフ王の港には地中海の品物やアスワンの花こう岩などが運ばれてきました。
多くの船が行き交う活気にあふれた港町だったに違いありません。
古代エジプトの人々が英知と情熱を注いで築き上げた大ピラミッド。
その建造にまつわる謎は時を超えこれからも多くの人々を魅了し続ける事でしょう。
(パーカー)
きょうりゅうがいたころよりもずっと昔。
2017/01/15(日) 16:00〜16:45
NHKEテレ1大阪
地球ドラマチック・選「大ピラミッド建造の謎〜4600年前の日誌は語る〜」[二][字]

エジプトで4600年前の日誌が発見された!ギザの大ピラミッド建造時の作業日誌だ。長い間、謎に包まれてきたピラミッドの建設方法が今、解き明かされる…!?

詳細情報
番組内容
4600年前、クフ王のために造られた巨大なピラミッド。最近、その建設の謎の解明に迫る2つの出来事があった。一つは建設作業日誌が発見されたこと。もう一つは技術的観点から大胆な新設を唱える人物が現れたこと。日誌から、ナイル河岸に国際的な港が栄えていたと推測。また、石を成形する際に出る膨大な破片のありかを考えることで、この巨大な建造物がなぜ人力で造り得たのかが浮かび上がる。(2014年イギリス)
出演者
【語り】渡辺徹