昨年放送した…のこった!主人公あさを支える女性うめを演じたのがお笑い芸人友近さん。
うめの事泣かしてあげようって思うてたのに。
おあさ様!本業のお笑いでは独特なネタを披露しています。
女の子がねカーディガンをあんまり腕を通さず肩に引っ掛けるだけのやつがおるやろがお前。
袖の意味ないぞあれ。
ちゃんと通せよこうやって。
最近では歌手水谷千重子としても活躍しています。
そんな友近さんは昨年3月父勝之さんをがんで失いました。
さあ今夜のゲストは友近さんです。
(2人)どうぞ。
(拍手)よろしくお願いします。
さあ…。
多いって事はないんですけどね。
ねぇ…。
なるほどね。
引っ掛かると…。
あっ違うんですね。
友近家のルーツの中でずっと気になっていた事があります。
戦前中国東北部旧満州に渡った祖父武雄。
終戦後に亡くなったその真相を知りたいというのです。
会った事のない祖父武雄とは一体どんな人物だったのか?友近さんの実家を訪ねました。
どうも〜。
昨年3月に亡くなった父勝之さんの遺品を見せてもらいました。
勝之さんだけでなく祖父や祖母の遺品も含まれていました。
その中に祖父武雄に関する新聞記事がありました。
(取材者千鶴)ありますね。
祖父武雄はもともと中川姓。
武雄の母方の実家友近家に跡継ぎがいなかったため家督を継ぎました。
昭和4年武雄は裁判所の書記試験に140名中10番の成績で合格しています。
22歳の時松山地方裁判所で働き始めます。
調書の作成や裁判記録の管理などが主な仕事でした。
そして4年後武雄は大きな決断をします。
「友近武雄」。
あります。
「満洲国入り両書記官」。
友近武雄の名前ありますあります。
昭和11年武雄は満州に向かいました。
当時満洲国が建国され日本で実務経験のある人材が求められていました。
松山での実直な仕事ぶりが評価されていた武雄。
上司の勧めもあって満州で働く事を決めました。
外務省アジア大洋州局にある記録が残されていました。
新京や錦州など満州各地の裁判所で書記官として勤務しました。
満州へ渡って6年がたった…武雄のもとにふるさと松山から見合い写真が送られてきます。
武雄はその女性の美しさに目を奪われます。
相手は13歳年下で当時19歳の…ハツ子の叔父三好守は松山地方裁判所にいた頃の先輩で見合いを勧めてきたのです。
松山のみかん農家に生まれ育ったハツ子。
11人きょうだいの長女でしっかり者と評判でした。
こんにちは〜。
(一同)こんにちは。
ハツ子のきょうだいたちが思い出を語ってくれました。
叔父に勧められた縁談。
ところがハツ子はあまり乗り気ではありませんでした。
そのため叔父の三好がハツ子を説得します。
間もなく武雄が見合いのため満州から一時帰国します。
不安そうなハツ子に武雄は言いました。
「心配しないで下さい。
私がハツ子さんを守ります」。
満州に向かいました。
ハツ子にとって初めての異国での暮らし。
武雄はハツ子への気遣いを忘れず外出する時はいつも一緒でした。
市場でよく買っていた物があります。
このころ撮られた写真が残されています。
松山のハツ子の家族を安心させるために送ったものでした。
満州に渡って1年後ハツ子は元気な男の子を産みます。
長男勝之。
後の友近さんの父です。
その翌年の昭和19年。
武雄は瓦房店の裁判所に転勤になります。
大連から北に100キロほどに位置し当時5,000人ほどの日本人が暮らす工業都市でした。
武雄たちは駅のすぐそばにあった公務員宿舎で暮らし始めます。
現在そこにはバスターミナルが建っています。
そのころ日本本土では激しい空襲があったにもかかわらず満州では穏やかな生活が続いていました。
ところが昭和20年8月9日ソ連軍が満州に侵攻。
そして終戦後の19日瓦房店にやって来ました。
終戦直後に瓦房店で生まれた…当時の事を母親から伝え聞いています。
武雄たち日本人はそれまでの職を奪われ引き揚げ船が出るのを待つしかありませんでした。
すぐに食べるものにも困ります。
瓦房店で友近家の近所に住んでいた池田教さん87歳。
更に10月になるとソ連軍に代わって中国共産党軍がやって来ました。
満州の歴史に詳しい…終戦から7か月後の昭和21年3月長女郁子が生まれます。
しかしハツ子は栄養不足から生まれたばかりの郁子に満足に母乳を与える事もできませんでした。
引き揚げる事もできず終戦から1年が過ぎます。
そして昭和21年8月のある日。
武雄は隣の家に用事があると出かけていきました。
その直後突然共産党軍の兵士がやって来ます。
「友近武雄はいるか」。
ハツ子は思わず答えました。
「隣の家に行っています」。
すぐに家を飛び出したハツ子はぼう然と見送るしかありませんでした。
「私のせいで連れていかれた」。
2歳の勝之。
生まれてまだ5か月の郁子。
幼い2人の子供を抱えハツ子はなすすべもありませんでした。
はぁ〜…。
いかがでしたでしょうか?そうですね。
いやぁほんとにね…でもきょうだいでやっぱり…満州で夫武雄は連行されたまま。
ハツ子は幼い二人の子供を抱え夫の帰りを待っていました。
留置場に何度も武雄の着替えを差し入れます。
しかし面会は許されませんでした。
このころ共産党軍は教師や役人だった日本人を手当たりしだいに捕らえていました。
ハツ子の遺品の中にこんな手紙が残されていました。
捕らえられていた武雄が留置場から出したものでした。
「十月一日シャツもズボンも毛布も皆届きましたので安心して下さい。
いつになったら帰れるか分かりません。
今日勝之の誕生日だからごちそうでもしてやりなさい」。
戦後松山でハツ子と親しかった…当時3歳だった勝之の様子を語るハツ子の言葉を覚えています。
このころ日本への引き揚げが始まっていました。
ハツ子の不安は増すばかり。
「夫も一緒に帰れるだろうか」。
ついに引き揚げ船が大連から出るとの連絡が入ります。
幼い子供たちを抱え食べる物も十分でない中国にこれ以上とどまるわけにはいきませんでした。
実はハツ子は瓦房店を離れる前ある場所を訪ねています。
その事を知る人物が見つかりました。
松山市内で暮らす川久保敬夫さん78歳。
当時父親が瓦房店郊外で農園を経営していました。
終戦後友近家の近所に引っ越したといいます。
友近さんですね…。
(取材者)じゃあもうほんとに隣の隣?父の静夫さんは戦後中国共産党から帰国を許されず農業指導者としてとどまる事を強いられました。
そんな父のもとをある日ハツ子が訪ねてきた事を敬夫さんは覚えています。
ハツ子と勝之郁子の3人は大連港から引き揚げ船永徳丸に乗船します。
佐世保に向け5日間の航海でした。
しかし生後9か月の郁子が体調を崩します。
昭和21年12月8日。
親子3人はやっとの思いで佐世保にたどりつきます。
ふるさと松山に戻るとハツ子の実家に身を寄せました。
しかし帰国して2か月後の昭和22年2月。
引き揚げの頃から体調を崩していた郁子が亡くなります。
僅か11か月の短い命でした。
当時3歳だった勝之。
悲しみに耐えるハツ子。
「武雄さんには無事帰ってきてほしい」。
しかし夫の消息は全く分かりませんでした。
ハツ子は瓦房店で親しかった友人知人に手紙を出し何か情報がないか尋ねました。
その返信されてきた手紙も大切に保管されていました。
そこには武雄の情報はなくハツ子への励ましの言葉が添えられていました。
ハツ子は勝之を育てるため働きに出ます。
道後温泉で接客係の職に就きました。
客が休憩する2階の座敷で案内やお茶を出す仕事でした。
引き揚げから1年が過ぎた昭和22年のある日の事。
ハツ子のもとに一通の速達が届きます。
差出人は…かつて瓦房店で日本人会の副会長をしていた人物でした。
そこには信じ難い内容がつづられていたのです。
「昭和二十一年十月中旬より国軍の進攻にあい共産軍は十一月五日ごろ退却のやむなきに至り復州城という場所で留置中の日本人友近は銃殺されました」。
信用できる中国人から得た情報でした。
当時中国では国民党軍と共産党軍が衝突していました。
いわゆる「国共内戦」です。
昭和21年11月7日友近武雄は36歳でその短い生涯を閉じていたのです。
亡くなった日はハツ子たちがまだ満州にいた頃でした。
瓦房店から西におよそ30キロにある町復州城。
今から70年前この地で日本人たちが処刑されたというのです。
う〜ん…。
さあいかがでしたでしょうか?う〜ん…。
だからほんとにうちの父親が…夫が亡くなったとの手紙をもらってから6年が過ぎました。
ハツ子はある人物が中国から帰国したとの連絡をもらいます。
終戦後中国に農業指導者として残っていた…息子の敬夫さんはハツ子が訪ねてきた事を覚えています。
ハツ子は改めて誓います。
「勝之を立派に育ててみせる」。
勝之が小学6年生になった頃ハツ子は実家を出て2人で暮らし始めます。
道後温泉での仕事。
ハツ子は朝早くから夜遅くまで必死に働きました。
ハツ子と一緒に働いていた…その真面目な仕事ぶりと美貌が評判になります。
地元紙にはこんな記事も掲載されました。
ハツ子の若い時の写真を使って「サービス美人道後温泉誰でしょう?」と紹介されました。
当時ハツ子に再婚話が持ち上がっていた事を小池さん姉妹は聞いています。
道後温泉の仕事は早出の日は朝6時から。
そんな時ハツ子はまだ寝ている勝之を起こして職場まで連れていきました。
また帰りが夜遅くになる遅番の日に備え勝之に料理を教えました。
包丁の使い方御飯の炊き方やみそ汁の作り方。
勝之も母思いの優しい少年に成長していきます。
高校は県内有数の進学校松山東高校に入学。
かつて正岡子規が学び夏目漱石が教壇に立った事でも知られる名門校です。
その後勝之は松山商科大学に進学。
自宅から通えるのが志望した理由でした。
大学時代の親友…勝之とは空手部の同期。
越智さんの部屋でよく夜遅くまでマージャンに興じました。
越智さんには忘れられない思い出があります。
昭和41年勝之は地元の農協の連合会に就職します。
ハツ子は社会人になった勝之の成長を喜びました。
そして昭和45年勝之は同じ職場で働いていた千鶴さんと結婚します。
翌年長女祐子が誕生。
更に2年後次女由紀子が生まれます。
後の芸人友近さんです。
勝之は娘2人の誕生を心から喜びました。
大学3年生になった次女由紀子が思わぬ事を言いだします。
「私芸人になりたい」。
勝之は猛反対しました。
似てるね。
そうですね。
それでも由紀子は諦めませんでした。
大学卒業後しばらくは地元のテレビ局でリポーターを務めます。
あ〜あ〜!いや全然かまん。
かわいい。
ボール触りよるみたいな感じでツルツル!そして26歳の時大阪へ出て吉本の芸人養成所に入りました。
すると間もなくお笑い番組にも出演するようになります。
みんな足崩しといてや〜。
あんたら鶏のものまねできるんか?
(笑い)わてはできる。
(笑いと拍手)
(鶏の鳴き声のものまね)
(笑いと拍手)最初は反対していた勝之も娘を応援するようになりました。
更に娘が出る番組を職場の仲間や親戚に宣伝していました。
祖母ハツ子も孫娘の活躍を喜びました。
「由紀子は大丈夫。
私に似て肝が据わっとるからな」。
そして平成22年ハツ子は87年の波乱の生涯を閉じます。
亡くなる前自らの人生をこう振り返っていました。
最愛の母を失った勝之。
その3年後高校の同窓会誌にある文章を投稿していました。
う〜ん…いががでしたか?満州行ってお見合いで…。
何よりも家族を大切にしていた勝之さん。
得意な料理をよく振る舞いました。
それは幼い頃母ハツ子さんから教わった料理の数々でした。
・「朝の空を見上げて」友近さんは連続テレビ小説「あさが来た」に出演。
何ですか。
ええ年して泣いて…。
父勝之さんはもちろん大喜びしました。
ところが12月肺がんに侵されている事が分かりました。
友近さんは忙しい仕事の合間を縫って松山に帰省します。
そして3月3日。
勝之さんはドラマの最終回を見届ける事なく72歳で息を引き取りました。
今回勝之さんの遺品を整理したところあるものが見つかりました。
勝之さんが小学6年生の頃に書いたものです。
自分が寝たあと夜遅く帰る母ハツ子さんに宛て勝之さんが書いた書き置きでした。
更に勝之さんが一人で御飯を炊いた時の事。
ハツ子さんは亡くなるまでこの書き置きを大切に取っておきました。
そしてハツ子さんが亡くなったあとは勝之さんが保管していたのです。
友近さんの「ファミリーヒストリー」。
そこには度重なる苦難や悲しみを乗り越え強く生き抜いた家族の絆がありました。
ちょっと今回はこういうものを見れて今後の自分の人生にやっぱり感謝という言葉をもっとかみしめながら生きていこうと思いましたね。
温かいこれ。
うんおいしい!2017/01/19(木) 19:30〜20:15
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「友近〜見つかった亡き父の書き置き 70年前の真実〜」[字]
お笑い芸人・友近さんは、祖父が終戦後、旧満州で謎の死を遂げたと聞かされてきた。それが今回、当時を知る人物や古い手紙が見つかり、70年前の真相が明らかになる。
詳細情報
番組内容
愛媛出身のお笑い芸人・友近さんは、気になっていることがあった。それは、祖父が旧満州で、謎の死を遂げたということ。今回の取材で、満州での友近家を知る人物や古い手紙が見つかり、死の真相に行き当たる。そして、夫と死に別れ、命からがら引き揚げてきた祖母。戦後、道後温泉で働きながら、女手一つで友近さんの父を育て上げた。見つかった祖母の遺品の中に、ある書き置きがあった。祖母と父の絆を物語るものだった。
出演者
【ゲスト】友近,【司会】今田耕司,三輪秀香,【語り】余貴美子