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字幕書き起こし SWITCHインタビュー 達人達(たち)「行定勲×宮本輝」 2017.01.21

白血病…。
私の病名。
白血病で短い命を終えた少女との思い出をたどる純愛物語はその年の実写映画の観客動員数興行収入ともにナンバーワンを記録。
長澤まさみがヒロインを熱演し大きくブレークした。
亜紀。
この次なんてないんだってば!この大ヒット映画の監督が今回の達人。
スタート!日本映画界屈指のヒットメーカーだ。
青春群像劇の旗手恋愛映画の名手ともいわれる行定。
日本アカデミー賞最優秀監督賞ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞など国内外で数々の賞を受賞。
毎年のように新作を発表し続けている。
その行定が是非会いたいと願った達人は…。
デビューから40年。
根強い人気を誇る日本文学界屈指のストーリーテラーだ。
ここは宮本の母校の大学に活躍をたたえて作られたミュージアム。
宮本が愛用してきた文房具や直筆原稿が展示されている。
宮本は69歳になる今もなお複数の連載を抱え精力的に創作活動を続けている。

 

 

 


行定とフィールドは違うが宮本もまた希代のヒットメーカーである。
1977年発表のデビュー作「泥の河」。
そんな風景描写から始まる河のほとりに住む少年と舟で暮らすきょうだいとの短く切ない交流を描いた物語。
続く「螢川」では第78回芥川賞を受賞。
選考委員だった井上靖は「実にうまい読みものである。
これだけ達者に書いてあれば芥川賞作品として採りたくなる」と評した。
発表してきた小説はおよそ80作。
現在芥川賞の選考委員なども務める文学界の重鎮の一人だ。
年の差21歳。
行定はなぜ宮本に会いたいのか。
宮本輝ミュージアムから車でおよそ1時間。
兵庫県伊丹市。
ここに宮本の自宅兼仕事場がある。
ついに憧れの人と会える。
やはり緊張気味か。
失礼します。
あっどうぞ。
あっ初めまして。
遠路はるばるありがとうございます。
とんでもないです。
もう本当に恐縮です。
本当にもういろいろと…。
どうぞお上がり下さい。
よろしくお願いします。
まずちょっと僕の仕事場書斎にご案内します。
あっそうですか。
ありがとうございます。
すみません。
2人の出会いは意外とそっけなく始まった。
実は迎える宮本もこの時少々緊張していたのだという。
うわ〜すごい。
毎日午後に執筆を行っているという宮本の仕事部屋。
じゃどうぞこちらにでも…。
話はいきなり隠す事は何もないとばかりに始まった。
去年ぐらいまでは万年筆でこうこの原稿用紙に…横に震えるんじゃなくてね…「か」を書くのにガガガガガガッとなるという感じで。
「あれ?今何書こうと思ったかな?」いう感じで。
やっぱ残るものとしては原稿用紙の方がいいよなあと思ってたやさきだったんで今の話聞いて…そうなんですね。
そうですよね。
でももうね震えるし…。
そっちの方へ神経が行ってね。
気になってしょうがない。
気になってね。
それで「もういっそこれでいいや」と。
やっぱりそうなんですよね。
忘れる忘れる。
「『宮本』ってどんな字やったかな?」って。
「どんなだったっけな?」。
書かないとね。
ハハハ!映像と言葉。
いずれ劣らぬ創作の達人。
熟練の2人が織り成す大人のプロフェッショナリズムとは?空気って映らないと思うんですけど…作れなかったらやっぱり理想としてる場所を見つけ出してその空気ある所に俳優を置いて…宮本がテーブルに用意したのは3年にわたって新聞に連載してきた作品の原稿。
これね「田園発港行き自転車」っていう新聞に連載したんですけどこれが僕が…上下巻ですもんね。
上下巻ですね。
すごいですね。
これ…こんだけの事を1,600枚も自分の手で万年筆つけて書く人間やったんやなあって。
「偉いな俺は…」ってこう浸るためにちょっと置いてあるんです。
ハハハ…!作家宮本輝の名を世に知らしめたデビュー作「泥の河」。
小栗康平監督によるモノクロの傑作映画の原作としてもおなじみだ。
舞台は昭和30年代の大阪。
河のほとりの食堂の一人息子信雄が主人公。
お化けや!お化けや!お化け鯉や!雨の日少年喜一と出会う。
喜一は舟の家で母と姉と暮らしていた。
わいの家はあそこや。
どこ?舟があるやろ。
あれや。
大人たちからは近づくなと言われながら喜一と仲よくなる信雄。
遊びに来たんか!ある日信雄は近づいてはいけない訳を知ってしまう。
喜一の母は体を売って子どもたちを養っていたのだ。
きっちゃん!最初に…あの話自体に。
小説を買って帰ったんです。
それで宮本作品を読んでいるとですね…読者に伝わってくる部分がすごく多くて。
原風景っていうとねみんながほら少年の頃子どもの頃の育った街とか非常に狭い範囲内の風景というふうに受け取りがちなんですけどね…例えば12歳の時の原風景とか二十歳になった時の原風景とかっていうのはあると思うんで。
やっぱり僕ももう70になりますけどやっぱり原風景というのは恐らく…そういう年代まで遡るとやっぱり小学1年生2年生3年生ぐらいに戻らざるをえないんです。
やっぱりそれは大阪のいくつの川が一つに固まってくる。
大阪の街そのものがもともと中州ですからね。
そういう川と川が集まってくる場所。
だからそういう人たちの…その人たちが暮らしてる舟に一歩入った時の…だからやっぱり一番書き残しておかなくてはならないものっていうかな。
汚いものが実際は実際…というものを一つ選び出して書いておこうと思ったんですね。
だからそうやって最初は小説を書き出したんです。
宮本はデビュー作「泥の河」で新人賞の太宰治賞を受賞。
30歳の時だった。
そして2作目の「螢川」で芥川賞を受賞。
たちまちのうちに宮本は文壇のエースに躍り出た。
それを可能にした類いまれな文章の力。
その原点が「泥の河」にある。
自分はこういうものを…万年筆持って書き出してそういうものが…今日は5枚書いたとこの5枚の中で今日書こうとしたもの自分の中に残ってますよね。
だけど読み返したら違うんですねあれっていうね。
そうすると書き加えますよね。
ここも書き加える。
ここも書き加えるってやっていって…そういう事ですっごく「泥の河」を書く前に悩んでた時にある人がね僕の小説の師匠みたいな人があるところから僕が一生懸命後から書き加えたり最初から大事にしてた書き出しのところを鉛筆でピャッと消したんですよ。
全部?全部。
何するんですかって言ってね。
僕はそこが気に入ってるんや。
一番俺が気に入ってるこの7行8行をね勝手にね鉛筆で消しやがってね。
腹立ってね。
返してくれって言ってね。
「僕はここが気に入ってるんです」って言ったら「そうやろうな」って言うんですよ。
それで家へ帰ってねしばらく原稿を見るのも嫌やしあのおっさんの顔を見るのも嫌やと。
あのおっさんのところは二度と行くかって弟子の方から師匠破門にしてやるみたいなね。
ふっと夜中にあの人の言うとおりにここはなかったものとしてここから書き出したものとして読み返したらそっちの方がはるかにいいんですよ。
その時分かったんですね。
なるほどそうかっていうね。
削っていくんだっていうね。
例えば金づちでくぎ打つのにもコツってありますよね。
これ力任せに上からド〜ンと打ったってくぎ打てないですよね。
あの金づちの重さをトントンっとねこういう事がやっぱり小説の文章小説を作っていくという過程の中にやっぱり必要なんですね。
そうすると…それが「泥の河」書き終えた時に自分ができるようになった気がしたんです。
なるほど。
宮本作品も初期の作品ってやっぱり今もなおそれが代表作としてあるじゃないですか。
本当は…起こらないですか。
うん。
だから代表作は「泥の河」とかね言われても別に…逆にね。
うん。
だけど…そういうふうに言って励ましてくれたのが亡くなられた水上勉さんですよ。
「輝ちゃんお前なお前には『泥の河』があるやろ『螢川』があるやろ『錦繍』があるやろ何々があるやろ何々があるやろ。
これみんなお前の金看板や」。
「もっと言うて下さい!もっともっと看板ありますかね」。
「あるやろそら。
俺も題忘れたけどほら…男がおって女がおって」。
「それどの小説も皆そうです」。
でも作家は山ほどおるけども…「お前のは『泥の河』だ。
あの『泥の河』読んだらお前という宮本輝という小説の山には何百本もの大木が生えてるって分かるんや」って。
「僕はもうじゃあ希望を持っていい訳ですね」。
「何回言わすねん」と。
「いや何回も言うてほしいんです」って。
(笑い声)あるのになと。
そうそう。
世の中のせいにしてる。
アハハハ。
宮本は1947年兵庫県神戸市に生まれた。
幼い頃父親の仕事の都合で大阪や富山兵庫などを転々とした。
やがて中学生になった宮本は貪るように小説を読むようになる。
宮本さんがそもそも文学と出会われたっていうか何かそういう事ってどういう事だったんだろうなっていうふうに思ったんですけど。
まあおやじが商売失敗しましてね。
それだけでなく女ができたりね母親がほとんどアル中の状態になったんですね。
でちょっと親戚の家に行ってくるって言ってそれでそこで…でそれはすぐおばから電話がかかってきて「今すぐ病院に来い」っていうの。
僕ね…何か行ったら死んでる母を見るような気がしたっていうか。
いや俺は行けへんって言ってね。
押し入れに入ってね。
たまたま1週間ほど…10日ほど前に知り合いの人が文庫本を1冊貸してくれたんですよ。
これ僕は面白かったからって。
それが…今…今母親が死ぬか生きるかの状態なんですけど何かね「あすなろ物語」をずっと読んでたんです。
それがねお昼の2時ぐらいですかね。
で夕方に突然バッとこう…押し入れ…僕は開かないようにしてるんだけどおやじがバッと開けてね「助かったぞ」って言って。
だからページはめくってるんだけど読んでたのかどうか自分でいまだによく分からないんですよ。
だけど「そう」って言って。
それでおやじにしてみたらどう感じたのかな…またバタンと押し入れを閉めて出ていったんですよ。
でそれを…その時にそういう状況の中で読んだって事もあるしものすごく感動したんですね。
だからその時に…だけど自分が小説家になるだから小説家になろうとか小説を書こうとかなんて夢にも考えなかったです。
宮本は大学卒業後広告会社に就職した。
仕事は広告のキャッチコピーを書く事。
次々にその仕事をこなしていったが28歳の時サラリーマンを辞め作家の道へ進む決心をする。
でも小説家にやっぱりそれでもまた転身しようとされたのはなぜなんですか?う〜ん。
今日書いて明日自分の書いたキャッチフレーズなりキャッチコピーが明日新聞に載ったらもうそれでおしまいなんですよ。
それでもやっぱり一生懸命書きますしね。
だけどそれがもう何て言うかな消費物のように次から次へと消えていくっていうか…残るものを書きたいっていう…10年たっても20年たっても…そこがスタートですね。
でもある意味残るものを書きたいが小説でじゃあ食っていこうという一つの気迫みたいなものはあったって事ですよね。
小説家…。
…で食っていく。
志した時はね。
それで思い切って…3年間芽が出なかったら諦めてまたどこか働きに行くからなんて口では言ってましたけどね。
3年では無理やろうな〜いう気もありましたけど。
アハハハ。
これでもずっとやり続けていらしてある種の…それはどんな仕事でもそうだろうと。
サラリーマン時代にもやっぱり思いどおりにいかない事ばっかりです。
それはなんとかしたたかに何となく乗り越えてきたっていうかな。
割とその…だから今になって思うと結構僕は忍耐力あるんだなっていう。
こうしつこいのかな。
小説を書く事だけでまあなんとか生活ができてるんだからもう嫌だとか…旺盛な創作活動を続ける宮本。
現在も同時に複数の作品を執筆中だ。
去年12月に出版したばかりの…新聞に連載した長編でアメリカ西海岸の超高級住宅街が舞台の作品だ。
主人公の日本人男性は叔母の死によって巨額の遺産相続人となる。
更に幼くして病死したはずの叔母の娘が実は行方不明のままだと知らされる。
叔母はなぜ黙っていたのか。
娘はどこにいるのか。
アメリカの超高級住宅街そして被害者が年間数十万人ともいわれる幼児誘拐事件をヒントに宮本は自身初となるミステリー調の作品に仕上げた。
齢69。
熟練のプロフェッショナルは今なお進化する事をやめない。
あれもねミステリー…あっそうなんですか。
うん。
もう大金持ちの邸宅がずらっと海岸べりに並んでるね絵に描いたようなねアメリカっていうね。
どうしたらこんな…どんな商売したらこんな家に住めるのっていうね。
息子がそこへ赴任してたっていう事もあるんですけど孫の顔を見にね夫婦で行って2〜3回行ってるうちに…でその時にミステリーにはしないぞと第一僕はミステリー書くそういう能力ないと。
あれはまた特殊な能力なんだと。
だからそっちの方へ行かないように行かないようにってするんですけどそっちの方へ行ってしまうんですよ。
「いいやもう」と思って。
本当「ミステリーの方へ行け」みたいなね。
書いてるとああいうものが出来上がってしまったんです。
だから…読者としては宮本輝という一人の作家がこう…ずっと打ち出しているものがどんどんどんどん新しく更新されていっているような。
何かねばならないっていう事をもう取り外したっていうかな。
自分はもう…もうじき70歳になるんだしそこから自由になろうと。
好きな事書こうと。
男女の濡れ場なんてものすごく僕苦手なんですけど。
へえ〜。
エヘヘッて本当に苦手なんで。
濡れ場を書くのは苦手なの。
あそうなんですかアハハ。
濡れ場を書くのは苦手。
濡れ場そのものも苦手ですけど。
(笑い声)それも必要なら書こうと。
書くならうんと嫌らしいのを書いてやろうと。
うんとエッチなのを書いてやろうみたいなね。
そんな感じに今なってきてるんです。
宮本の小説はデビュー作「泥の河」をはじめ映画化されたものが少なくない。
実は行定もかつて宮本の代表作の一つを映画にしようとしていた。
本当ですか。
かつて…。
覚えてますか。
はい覚えてます。
「錦繍」の企画書僕が直接出した訳じゃないですよ。
どっかほかの方が。
…がどうしてもやりたいって言って…したらちょうど舞台化がね。
ちょうどそれがバッティングしたから行定さんの方を多分お断りしたんだと思います。
覚えて頂いただけでも光栄です。
覚えております。
女性から別れた夫への手紙で始まる「錦繍」。
離婚した男女が10年後偶然再会しお互いを認め合っていく物語を2人の往復書簡で描ききった傑作だ。
海外でも評価が高く9か国語に翻訳されている。
ちなみにこれは…更に…すごい!この「錦繍」をはじめ短編から長編まで数多くの宮本作品が映画人たちの創作意欲をかきたててきたのだが…。
いつも思うんですよ。
僕もそう思うんですよ。
ある時ね「宮本輝原作悪女論」っていうのが映画関係者の間でいわれるようになったっていって耳に入ってきましてね。
「悪女?」って。
「俺の小説が悪女なの?」って…。
「何で?」って言ったら…それよりも例えば原稿用紙で30枚ほどの短編小説を映像作家たちが何かこういうものをくっつけたりここの場面をちょっと変えてこっちとくっつけたりしてね30枚のものを100枚に伸ばす方が僕は映画として成功しそうな気がするのね。
脚本家あるいは監督…もっと思い切ってね好きなように変えたらどうだって思うんですよ。
まるで原作を読みに行ったみたいなね。
それはね…もうダイジェストですよ。
そうですよね。
出されてらっしゃるじゃないですか39編の。
そうですか?なります。
僕の「短編」を行定さんがそれをどう料理してどこを三枚におろしてどこの内臓を焼いてどういうふうにして何かをくっつけて一本の映画作るのかなと…。
本当ですか。
そういう事なんで…。
ありがとうございます。
後半は舞台をスイッチ。
日本映画界屈指のヒットメーカー行定勲。
29歳で監督デビュー以来発表した映画は長編短編合わせて30本。
旬の俳優や大スターをキャスティング。
行定作品でブレークした新人も少なくない。
今年も2本の作品が公開予定で新作のクランクインも間近に控えている。
その行定が対談の舞台に選んだのは生まれ故郷熊本。
求めに応じて作家宮本輝がやって来た。
待ち合わせの場所は去年4月の熊本地震で被害の大きかった熊本城の二の丸広場。
どうもどうも。
熊本までようこそお越し下さいましてありがとうございます。
いや〜こんな事がないと熊本に今来られませんしね。
もちろん熊本だけではない仕事してるんですけど…これも昔のままだとつまりあの地震がなければ熊本城って常に傍らにあるもので堂々とそびえ立ってるもう世界の名城のナンバーワンに近い。
何か夕刊にね前震って呼ばれてる4月14日の前震の熊本日日新聞の夕刊にヘリコプターから撮られた熊本城が写し出されてるんですよね。
それから以降まあでもどっかで熊本城を見るのがすごくこう…何か痛い気持ちでしかないのでなかなか直視できなかったんですけど2週間ぐらいたってからですかね熊本城を夜ねライトアップするようになったんですね。
何かそうすると…そうするとみんな下向いてたんですけど…ライトアップした姿を。
特別に許可をもらい石垣の近くへ向かう2人。
震災前は自由に出入りができ大勢の子どもたちが遊んでいた。
まだちょっと危ないって言われてて…。
これだ。
そうですね。
保ってるというですね。
そうですよね。
すごいな〜。
本当あれだけでもってるもんな。
このあと行定勲の熊本の仕事場に向かう。
ここが行定の仕事場。
「月刊行定勲」よ〜いスタート。
2006年からこのラジオ局で「月刊行定勲」と題した生放送のパーソナリティーをしているのだ。
熊本でこういう活動をしていたのでくしくも地震が起こった時もこの番組が決まってたんですよ。
前の日に…それもだから熊本に僕を何かこう神様が呼んでるっていうかこの一つのライフワークがこのラジオだったりするのでそこでお話ができればいいなというふうに思ってお連れしたんですけども。
ありがとうございます。
ちょっとここに座ってじゃあ。
僕はそもそもどっちかというと…でただある時に何ですかねまあ熊本で映画祭をちょっと手伝うようになってそのフェスティバルディレクターみたいな事やるようになって。
年を取ったからなのかもしれないですけど…。
で…何か熊本のために何かできないかなというような気持ちになった時にたまたま県の方から「一緒に映画作りませんか」という事で…それ地震前ですよね。
テスト!「うつくしいひと」とは熊本のすばらしさを広く伝えるために製作された映画。
しかしそこは行定単なるPR映画にはしなかった。
はい。
物語は映画のロケハンのため熊本を訪れたある監督が若い女性と出会い一緒に小さな旅をするというもの。
クライマックス夕暮れ迫る阿蘇中岳で映画監督は熊本を訪れた本当の理由を告げる。
昔好きな人に私はこれを渡せなかったんです。
行定は熊本の風景の美しさを余す事なく映像化したいと考えた。
そこには行定ならではの撮影に臨む信念があった。
何か気持ちとしては熊本に少し寄り添いたくなるような何か普通の物語の中にたまたまその背景に熊本城があったり阿蘇があったり。
そうすると映画の流れがその土地のパワーによって…これは別にご本人にお世辞言う訳じゃないですけど本当久しぶりにね映画っていいもんだなっていうね。
じゃあどこがどうよかったですかと言われてもねそれは言葉にできないんですよ。
多分そのカメラワークっていうものがあると思うんですけど情感みたいなものがね映ると信じてるし空気って映らないと思うんですけど…またその俳優はその空気とか光ですよね。
光で何かこう感じるものがあって。
それで気持ちを情感を高めていく。
その「うつくしいひと」を撮った時に思ったのは阿蘇山をバックに中岳がねちょうど噴火してる時だったんですよ。
でその噴火してる煙とそれをバックに夕日の中でもう日没ギリギリのところで撮った夕日の中で何かこう撮ったシーンがあるんですけど。
最初はしっとりとした何かこうささやかな本当に何か自分の恋心を娘に伝えるようなシーンだったんですよ。
それが非常に熱い思いが込み上げてくるようなシーンに何かこうなってしまって僕が想像しなかった事なんですね。
それはやっぱり抜けに中岳の火口が映ってるちょっとだけ映ってるその力強さと夕日の力強さ…これは何かやっぱり風景の持つ力。
そこに引き寄せられてその場所を選んだ。
ところが完成上映会の直前に熊本地震が起こる。
去年4月14日夜から16日未明にかけて熊本は最大で震度7を記録する大地震に見舞われた。
行定は被災した人たちの気持ちをおもんぱかり上映会をためらった。
撮り終わって完成させて4月にちょうどお披露目するやさきに地震が起きたのでこれをどうやってこの「うつくしいひと」を見せていこうかなという…。
でも見る…今やもうこの風景のほとんど70%ぐらいは変わってしまっていてもちろん県民の方たちはね何かその…落胆するんじゃないかと思って…県外の方たちがそれを見た県外の方たちがいや今こそこの美しい熊本を打ち出してむしろここにみんなが戻っていく一つの復興の道がこの…まあ元に戻るだけじゃなくてその更に…「だから上映するべきだ」ってたくさんの方に言われて。
その時に熊本地震で地震で傷ついてる熊本の方たちはどういう反応するだろうと思って見せてみると長蛇の列なんですよ。
ああそう。
それで何を見てるかっていうとあるおばあさんが僕に言ってきたんですけどもう自分の記憶が何かあの傷ついた熊本城を見ると熊本城の美しかった記憶が全くゼロになってしまったというか思い出せない。
おっしゃるんですよね。
そういうのってね…何かねあの「うつくしいひと」という映画に映るほんのちょっとのあの石垣とかねあのクランク状のね熊本城独特のあの道とかね。
ああいうものはやっぱり動く映像でないと郷愁とか自分のそれぞれにスタンプされてる…そうなのかもしれないですね。
どんな美しい絵葉書でも駄目なんです。
熊本城には行定の忘れられない記憶が刻まれている。
10歳の頃父親に連れられてある映画の撮影現場を見たのだ。
それは…少年行定の心に映画撮影の光景が鮮烈に焼き付けられた。
映画監督を選びましたよね。
その映画監督になりたいとなろうとする人はたくさんいると思うんだけどなれる人なった人ってそういないですよ。
ハハハハハ。
「影武者」の現場にその甲冑を着けたその侍のエキストラがたくさんいてジーパンはいたひげ面のおっちゃんたちがいっぱい汚ししてるんですよ。
美術スタッフですよねきっとね。
汚してるそのおっちゃんたちしか見てないんですよ。
すごくそのあのおじさんたちがこの「影武者」を支えたんだ。
作ったんだ。
ある種作ってた。
最後にエンドロールが上がりますよね。
ものすごいたくさんの人。
僕ね何年か後に数えました。
何人いたか。
もう200人か300人ぐらいいるんですよ。
これはこの中には潜り込めると思ったんですよ僕が。
作ったのはあの人たちなんだと。
作ったのはあの人たちやと。
僕にとっては。
だからあの人たちにはなれるんじゃないかって思うとちょっと気が楽になったんですよ。
決して映画監督になれなくても映画の人生…専門学校に通いながら助監督となった行定。
20代半ばで数多くの監督と出会う。
独特の映像美で知られる岩井俊二監督もその一人。
行定は撮影現場で次第に頭角を現していく。
まずその助監督にどうやってなるんですか?意外とね簡単になれるんですよね。
ああそうですか。
「ノーギャラだぞ」って言われるんです大体。
「金は払えないぞ」「はい大丈夫です」って言えるかどうかですね。
最近ね若いやつで「いや〜10万…20万ぐらいもらわないと」みたいな。
そんなやつはもういらないです。
だってどうせ使い物にならない訳ですから。
いつも思ったのは…「修業の時代が長かったですね」とかよく映画デビューした時に言われたんですよ。
「監督は助監督の経験長かった…10年もやってたんですか」。
10年ってあっという間なんですよ。
20年やってもよかったぐらいですね助監督。
まあいろんな監督のいろんなそれぞれ仕事のやり方も違うでしょうしね。
僕ね助監督長くやってて監督に2つの種類がいてこの人は本当に映画を作りたいんだなあと。
自分が泥だらけになってはいつくばってでも映画が好きで映画を作りたいっていう監督とこうディレクターズチェアに後ろに名前書いてね座ってね「おいあれどこだ!」つって動きもしない。
メガホン持って「はいはいやるぞ!」みたいな事だけ言っている…。
この人は映画監督になりたい。
でこの人は映画を作る人になりたい。
僕はどっちかっていうと…その背中を見てて先輩たちの。
僕は日本で生まれたいわゆるコリアンジャパニーズ。
やつらはこう呼ぶ。
(一同)在日!行定勲33歳の時の作品「GO」。
窪塚洋介演じる在日韓国人高校生の愛と青春の苦悩の物語だ。
行定は若者たちの在日問題を見事に映像化した。
親のすねかじってる間はね韓国も朝鮮も日本もないの。
ガキなんだよガキ!ヒロインは今年の「NHK大河ドラマおんな城主直虎」の主役を務める柴咲コウ。
どう?ブルース・リー。
「GO」は国内外で49もの賞を受賞。
行定は一躍脚光を浴び日本映画界のヒットメーカーとなっていく。
何かそういうのをどっかで見たんですけどあれはどういう…?芸術だけでね例えば作られてる映画っていうのもあると思うんですけど…本当によく街の映画館で見てたくさんの映画に感動したんですよね。
例えば昔アイドル映画で角川映画みたいな…。
例えば「セーラー服と機関銃」とかって見に行ったんですけど非常に熱狂して今も心に残ってる映画だったりとかするんですけど。
だからそういう意味では…僕なんかも大衆に受け入れられなくてね「何が芸術だ」って思ってるから。
だからやっぱりビジネスとして成り立たなきゃいけないし…負け越し3回続くと十両へ落ちるからね。
僕ね昔もう亡くなった森田芳光監督に森田芳光監督は自分がね若い時に「流行監督宣言」っていうのをやったらしいんですよ。
流行作家じゃなく…。
流行作家でなく流行監督であると。
僕の作ってるものは今流行になって中心にいるんだよ。
それの…「2代目として僕が太鼓判押すから」って言ってくれた事があるんですよ。
でもある時にヒット作がちょっと続いたんですよ。
そしたら電話かかってきて「行定君君…僕一つだけ助言しとくよ」って「7割バッター目指してるでしょ」って言われて。
いやいやというか当たってなんぼじゃないですかと。
当たって次がやっぱりチャンスが与えられるんで頑張ってますけど。
「3割にして」って言われて。
「あのね7割目指すと駄目になるよ」と。
もっと。
ちょっと破れ穴だらけの作品もやってみろと。
そうなんです。
そうすると…だからそう言われてなるほどと思って…。
行定の冒険。
その一つがアジアへの越境だ。
「アジアの未来」をテーマにそれぞれの個性あふれる映画になったと思いますので是非とも楽しみに。
去年「アジア三面鏡2016:リフレクションズ」というオムニバス映画の製作に参加した。
世界的に活躍しているアジアの気鋭監督3名が同じテーマでそれぞれ映画を製作するプロジェクト。
テーマは「アジアで共に生きる」。
行定が選んだ舞台はマレーシア・ペナン。
移住した日本の老人と現地の女性ヘルパーの心の交流を描いた作品を撮った。
カット!主人公の田中道三郎は2階建ての大きな家で鳩を飼いながら暮らしている。
そこに新しく雇われたヘルパーヤスミンがやって来る。
こんにちは。
私の名前ヤスミンです。
ヤスミンは献身的に世話をするが道三郎はなかなか受け入れない。
月に1度日本からやって来る息子は道三郎の財産が目当てだった。
おやじの持ってる資産はどこにあるんだよ?信じられるのは自分が飼っている鳩だけ。
そんな道三郎がやがてヤスミンに心を開き始める。
年の離れた異国の者同士の静かな交流の物語を行定は日常の風景の中で丹念に紡いでいった。
鳩を飛ばそう。
本当ささやかでいいんだなと。
「明日頑張ろう」と思えるかっていう…。
それが何かもちろん手の込んだアクション大作とかみんなが感動するようなね大ミュージカルみたいなものというのも。
僕もうねああいうねいかにもハリウッドのねものすごい大資本をかけたねエンターテインメントってねもう疲れた。
すごく日常の底辺に生きる人々がねそれでも生きていくっていう力強さに満ちてるものが宮本小説のすごい原点にあるなと思ってて…。
書き込まない。
書き過ぎないって事ですかね。
だから絶対それは必要だなと。
映画監督にもそれは絶対必要なんだろうなと。
何か描き過ぎると観客がおなかいっぱいになってもう次飯食ってる時忘れちゃう。
それを全部監督映画関係者が全部埋めてしまって…小説にもあるんですよ。
ですよね。
まあでも宮本作品は描き過ぎてない部分っていうとやっぱり…特に…。
だからこっちもそれを…でしょう?だからそこが…是非宮本作品を映画化したいなと…。
ありがとうございます。
よろしくお願いします。
ありがとうございました。
どうも。
(スタッフ)ありがとうございました。
ありがとうございました!
(拍手)うれしかったです。
いや〜僕より20歳下やからな。
ハハハ!息子みたいなもんやからな。
そうですそうです。
もう明らかに…2017/01/21(土) 22:00〜23:00
NHKEテレ1大阪
SWITCHインタビュー 達人達(たち)「行定勲×宮本輝」[字]

『世界の中心で、愛をさけぶ』などのヒット映画を手がける行定勲と『泥の河』『螢川』など日本文学界屈指の名作を次々生み出す宮本輝が第一線で輝き続ける秘密を語り合う。

詳細情報
番組内容
宮本作品をいつか映画化したいという行定。今回の対談は「尊敬する人に会う怖さもありながら」「会って話を聞いてみたい」との強い希望から実現した。番組前半は宮本の自宅を行定が訪ね、「何かが足らないという時はもっと足らなくする」文章術など、その文学世界に迫る。後半は宮本が去年震災に見舞われた行定の故郷・熊本を訪ね、「現場の空気を映す」という映画制作の姿勢から熊本を舞台にした近作まで、映画への思いを聞く。
出演者
【出演】映画監督…行定勲,作家…宮本輝,【語り】吉田羊,六角精児