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字幕書き起こし ファミリーヒストリー▽大竹しのぶ〜語り継がれる大竹様伝説 1世紀を経ての出会い 2017.01.26

まるであなた夢みたいですよ!今年でデビュー43年。
「天才」「魔性の女」語り尽くせぬ顔を持つ女優。
しのぶさんには自らのルーツの中で気になる存在がいました。
それは母方の祖母八重。
しのぶさんが生まれる前に亡くなった八重の人生は謎に包まれています。
実はしのぶさんのルーツには波乱に満ちた壮絶な物語が隠されていました。
さあ今夜のゲストは大竹しのぶさんです。
どうぞ!

 

 

 

 


(拍手)よろしくお願いします。
さあ大竹さん。
失礼します。
大竹しのぶの「ファミリーヒストリー」。
まずはしのぶさんの姉妹を訪ねました。
94歳になる母「江すてる」さんも若き日の八重の人生をほとんど知らないといいます。
謎に満ちている…明治時代アメリカに渡った情熱的な女性だったと聞いています。
物語は115年前に遡ります。
それだけですごい。
ここにあった屋敷に八重は暮らしていました。
実家は家具屋を営み祖父は外国公使館に土地を貸すほどの大地主でした。
実は少女時代の八重が登場する小説がありました。
劇作家小山内薫の自伝的小説「背教者」。
「絹子」という名のヒロインは八重がモデル。
周囲の男性たちをとりこにする少女として描かれています。
若き日の小山内も八重に思いを寄せる一人。
小説はキリスト教思想家内村鑑三を師と仰ぐ若者たちの物語でした。
なんかもう泣きそうになってきた…。
内村研究の第一人者…当時珍しかった女性の弟子八重に注目し資料を集めていました。
16歳の時八重は兄に連れられ内村の聖書講談会に参加していました。
八重は講談会である男性に出会います。
兄の友人だった…二人は互いに引かれ合うようになっていきます。
権次郎は社会主義に目覚める青年でした。
女学校を卒業した八重は女性の英語教育の先駆けとなった女子英学塾後の津田塾大学に入学します。
このころ八重と権次郎は社会主義運動家幸徳秋水と親交を深めていました。
時は日露戦争。
秋水は非戦を訴え投獄されます。
その後アメリカへ渡る事になりました。
権次郎と八重も秋水と共に渡米する事を決意します。
そのため八重は女子英学塾を退学しました。
実はこの時八重は権次郎の子をみごもっていました。
17日間の旅。
たどりついたのは…当時新天地を求め多くの日本人移民が押し寄せていました。
まずはサンフランシスコでの八重の足取りを追います。
すご〜い!日本人の社会主義活動を伝える新聞に秋水と赤ん坊を抱く八重の写真がありました。
更に権次郎が秋水たちと平民社という出版社で働いていた事が分かりました。
平民社の事を伝え聞いている人がいます。
日系二世の飯沼さん夫妻です。
当時日系人の増加から排斥の声が高まります。
ジャップと蔑まれていた日系人にとって秋水たちの社会主義活動は迷惑でしかありませんでした。
111年前八重が出産したアパートが残されていました。
え〜っすごい!生まれた娘の名は敏子。
平民社の創設者の妻岡敏子の名からもらいました。
当時の記事からは八重が岡夫妻に世話になっていた事がうかがえます。
今回の取材で岡夫妻の孫が見つかりました。
アメリカで生まれ育った…当時平民社があった建物が残っていました。
八重たちも一時ここで暮らしていたといいます。
明治39年秋水はアメリカにいる同志を集め社会革命党を結成します。
その結成の日の写真にも敏子を抱く八重の姿がありました。
すご〜い。
女1人。
当時権次郎や八重の活動はどうとらえられていたのか。
明治から大正期の社会主義を研究する山泉さんを訪ねました。
革命党と八重の情報は日本の当局にも送られています。
八重のそばに写る2人の男性。
内偵者によって八重の行動も監視されていました。
渡米から2年後夫権次郎が病に倒れます。
チフスでした。
看病のかいもなく権次郎は息を引き取ります。
夫を失い異国の地で幼い敏子を抱える八重は不安が募っていました。
権次郎の死から2か月後22歳の八重は敏子と共に帰国の道を選びます。
八重は夫の実家山内家に身を寄せました。
すると義理の母から敏子を置いていくように頼まれます。
つらい別れでした。
更にその後の八重の足取りを調べていくとある事実が浮かび上がります。
サンフランシスコで八重と親しかった岡が日本の友人に宛てた手紙です。
「山内八重さんは二度目に鈴木という男と結婚しうまくいかず別れました」。
「その人との間に男の子が一人あった」。
八重は山内家を出たあと鈴木という男性と結ばれ男の子を生んでいました。
しかしその後鈴木と男の子は中国へ渡ったと記されていました。
こうして八重は自ら生んだ2人の子供と別れ生きていく事になったのです。
そうですね。
おばさんですわ!え?いやいやいやいや…。
いやいや…。
2人の子供と生き別れた八重。
大正4年30歳の時新たな愛を育もうとしていました。
相手は4歳年上の吉川一水。
後のしのぶの祖父です。
「一水」の通称は「一水」。
明治14年麹町に暮らす士族の家に長男として生まれました。
実は一水は19歳の時内村鑑三の聖書講談会で八重と出会っていました。
一水は教会に属さない無教会派として清貧と非戦を訴えた宗教家でした。
20代の頃汽船会社の支店長として赴任したのがサンフランシスコ。
そこで目の当たりにしたのが教会に通えるのは一部の裕福な人たちという現実でした。
一水は27歳の時結婚しましたが妻をすぐに結核で失います。
そしてアメリカからの帰国後再会したのが少女時代を知る八重だったのです。
翌年には長男が生まれます。
間もなく一家は仙台へ移りました。
一水はキリスト教系の女学校で教べんをとるようになったのです。
その名は聖書に登場する女性民衆のために尽くすエステル姫から一水が名付けました。
仙台に来て6年後一水は安定した収入を捨て教師を辞めます。
貧しい人々のための布教活動に専念する事にしたのです。
一水は東京へ戻り機関紙の発行に携わります。
社会の不平等や非戦を時に強い言葉で訴えました。
しかし当局から目をつけられ機関紙は発禁処分となります。
その後一水は小さな家を借り聖書の講談会を始めました。
そこにはカフェで働く女性や工場で働く労働者たちが集いました。
一水に自宅の離れを貸していた人が見つかりました。
マリアさんの父宮崎安右衛門さんも当時一水を師と仰ぐ若き宗教家でした。
かつて自宅があった場所を捜します。
(取材者)どうして分かったんですか?そうですよ。
ここにあったマリアさんの家の小さな離れで一水は講談会を行っていました。
しかし一水の収入はほとんどなく一家6人の暮らしは厳しいものでした。
家計を支えたのが八重でした。
近所の子供たちに英語を教え仕立物の内職をこなしました。
そんな母の姿を見て育った江すてるは必死に家計を助けようとします。
しのぶの姉すなほさんと真理さんが遺品の中から一水の日記を見つけてくれました。
そうそうそうそう。
昭和13年から21年まで8冊の日記がありました。
「欲しがりません勝つまでは。
これこそまことに妙チキリンの標語である。
事を転倒するにもほどがある。
これが国民をリードする目的をもって掲げられているのである」。
キリスト教徒たちも戦争に巻き込まれていきます。
各教派に分かれていた教会は統合され戦争協力を余儀なくされました。
キリスト教信者への監視が厳しくなり「反戦分子」と冷たい目が向けられました。
そんな中でも一水は聖書の講談を続けました。
一水への監視の目はますます厳しくなります。
八重は憲兵が来ても全く動じず。
むしろ親しくする事で一水の活動を支えました。
一水は日記に「二人」と題しこんな一文を記していました。
「一にして二二にして一つこの二人が親しく静かに和やかに語り合いよろこび見つめ握手し激情をもって抱擁し接吻す」。
「この結婚生活こそ永遠の生活である」。
「神と一つとは言わない。
神に最も近い生活である」。
このころ一水の日記にはある青年の名が頻繁に登場します。
その青年とは大竹章雄。
一水の聖書の講談を熱心に聞きに訪れていました。
後のしのぶの父です。
章雄と一水の娘江すてるの運命の出会い。
それは苦難の愛の物語の始まりでした。
はい。
いかがでございますか?すごいですね。
「ファミリーヒストリー」続いてはしのぶの父章雄の人生に迫ります。
章雄と江すてるは5人の子供を育てました。
実は章雄には江すてると出会う前に結婚した妻と2人の子供がいました。
しのぶが全く知らないという父章雄のルーツを探りました。
戸籍で最も遡れるのは4代前の高祖父大竹章作。
新潟県南蒲原郡三林村と記されています。
しのぶの高祖父章作はこの地で生まれました。
戸籍の住所を訪ねてみました。
(取材者)そこの井戸がある所に大竹さんという方のおうちがあったっていうふうに…。
(取材者)「大竹様」っていうふうに呼ばれてるんですか?大竹様?すごい!大竹家は地元では有名な一族。
大竹家にまつわる碑が残されていました。
大竹与茂七は江戸中期この村の名主でした。
与茂七は処刑される前こう言い残したといいます。
以来人々は大火が起こる度「与茂七火事」と恐れるようになったといいます。
そもそも与茂七が処刑された理由。
それは村人からの人望が厚かったため他の名主の嫉妬を買いぬれぎぬを着せられたのです。
地域の人たちは今でも与茂七を慕いお盆になるとその霊を慰めています。
そういうとあれなんだけど…石碑のすぐ近くで社会科見学の小学生と出会いました。
向かった先は大竹邸記念館。
ここは明治から昭和にかけ活躍した政治家大竹貫一の生家でした。
大竹家の事をつづった古文書が残されていました。
平安時代から明治まで三十一代の先祖の記録が記されているといいます。
しのぶとどうつながっているのか確認してもらいます。
しのぶの高祖父章作の父は大竹家三十代の与三郎。
政治家の貫一は章作の兄の息子。
更に遡るとさらし首になった与茂七ともつながっていました。
大竹様じゃないですか!大竹様!古文書に書かれた大竹家の歴史。
今回新潟の近世史に詳しい原さんに解読してもらいました。
古文書には繰り返される川の氾濫と闘い地域が豊かな米どころになる事を目指してきた一族の歴史が記されていました。
明治時代に写された大竹家の写真が残っていました。
この家で生まれた…明治の世になり名主制度がなくなると新天地を求めます。
移ったのは宮城県塩釜市。
当時塩釜は鉄道が開通し発展著しい港町でした。
国司はこの地で医者になりました。
そして明治44年この塩釜で国司の孫大竹章雄が生まれます。
後のしのぶの父です。
しかし章雄は7歳の時に父を病で失います。
母が質屋を営み生計を立てました。
利発な少年に育った章雄。
高校時代は野球に打ち込み今の東北大学理工学部に進みます。
そして昭和12年章雄は25歳の時遠縁の娘と結婚します。
その2か月後日中戦争が勃発。
章雄に召集令状が届きます。
中国東北部旧満州ソ連との国境地域に配属されます。
章雄と同じ時期同じ部隊に所属していた人が見つかりました。
極寒の戦地から命からがら帰還した章雄は間もなく父となります。
このころ章雄はキリスト教への信仰に目覚めました。
その一方で実の母との溝が深まっていきました。
更に章雄の心は妻とも離れていきます。
ふるさと塩釜を出て川崎の会社に勤めるようになりました。
そして章雄は一水の聖書の講談会に通い始めます。
一水の娘江すてるとも言葉を交わすようになりました。
当時江すてるは幼稚園で保母として働き家計を助けていました。
一水の日記をたどっていくと章雄と江すてるの距離が近づいていく様子がうかがえます。
「大竹君午後来る。
江すてる誕生日にて晩食を共にす」。
次第に引かれ合っていく章雄と江すてる。
しかし章雄には妻と2人の子供がいました。
昭和19年章雄は再び召集され中国の戦地へ旅立っていきました。
江すてるは章雄の戦地での無事を祈り手紙を送っていました。
その手紙を章雄は生涯大切に持っていました。
「上海にて何万通かの手紙の山の中に見つけた一枚のハガキ」。
そう記された封筒に収められていたのは裏までびっしりと文字がつづられた江すてるからの葉書です。
「貴君の帰られる日を待っておりました。
貴君様の事を考えぬ日はございません」。
「時々胸いっぱいになりお会いしたい気持ちで涙が出てまいりました。
本当に本当に待ち遠しい切ない気持ちです。
日本の東京に私が待っている事をお忘れなく元気で暮らして下さいませ。
私はあなたの妻になる人です」。
…という歌です。
(笑い声)終戦から更に1年江すてるは待ち続けました。
ようやく章雄が満州から復員してきました。
2年ぶりの再会。
2人で大森の闇市を歩いている時の事です。
章雄は意を決して江すてるにこう告げました。
章雄と江すてる共に生きていく事を決めたのです。
やっぱり…あっそうかも分からないですね。
まさか…!そうですよもう。
大竹様…。
(笑い声)終戦から3年後章雄と江すてるは東京大井町で新しい生活を始めます。
長女すなほ翌年には長男進も生まれ八重も孫の誕生を喜びました。
八重は終戦の翌年夫一水をみとっていました。
そして昭和27年3月八重も病に倒れ息を引き取ります。
情熱のままに信じた道を貫いた66年の生涯でした。
その5年後しのぶが誕生します。
希望を捨てるなと説くこの聖書の一節から章雄が名付けました。
5人の子供に恵まれた章雄と江すてる。
しかし昭和38年章雄が結核を患い倒れます。
一家は空気の良い場所を求めて秩父山地の麓埼玉県越生町へ移ります。
体調が回復すると章雄は高校の教師となり数学と倫理を教えるようになりました。
章雄は田嶋さんにメッセージを記した本を贈っていました。
これは先生が結婚式の時にねここに「男の最高の財産は思いやりに富んだ妻である」。
章雄は卒業後も教え子たちとの交流を続けていました。
「日々上昇する」。
そうです。
章雄は人生の教訓を添えた手紙を送り教え子たちのその後を見守っていたのです。
昭和42年章雄は結核が悪化し教師を辞めざるをえなくなります。
一家は埼玉県毛呂山へ移り章雄は結核病棟に入院します。
暮らしは全て江すてるの肩にかかっていました。
パン屋で働きながら家政婦や子守もこなし家計を支えました。
それでも女一人の稼ぎでは限界がありました。
一家はこの家の敷地にあった物置に暮らしていました。
当時住まいを貸していた栗原サヨさんです。
あっ栗原さん!あ〜栗原さん。
このほおの木の下にあった古い木造の物置。
二間続きのつましい住まいでした。
江すてるの事をサヨさんは鮮明に覚えています。
(取材者)どうしてですか?そんな母の姿を子供たちは見てきました。
母がもうそういうね…。
「お前の母ちゃんは土方か?」って言われた記憶がありますね。
章雄は入退院の合間自宅に戻ってくると夕食後「デザートの時間だ!」と子供たちをよく外に連れ出しました。
デザートはせせらぎや風…。
鳥たちやかじかの声。
目をつぶり味わうのが日課でした。
そんな父との思い出はいくつもありました。
冬眠するの?ムーミン冬眠するの。
それで…。
しますよね。
しかし現実は厳しいものでした。
退院し60近くなった章雄が見つけたのは溶接工場の仕事でした。
和田さんが章雄に作業を教えました。
技術がないしペンキ塗りぐらいじゃね。
楽にならない暮らし。
江すてるはある決断をします。
章雄にこう切り出しました。
「東京ならきっと仕事が見つかります」。
自然に囲まれた環境を愛していた章雄はなかなか首を縦には振りませんでした。
昭和46年。
一家は埼玉から東京小岩へ引っ越します。
この会社の社宅に暮らし夫婦で働き始めました。
章雄の仕事は配線ケーブルを管理する倉庫番でした。
江すてるは昼は社員食堂の賄い夕方からは経営者の家の家政婦として働きました。
当時江すてると親しかった同僚。
体調を崩しても病院に行こうとしない江すてるを診察に連れていった事がありました。
その時ふと漏らした言葉が忘れられないといいます。
あったよね。
そしてようやく子育てが一段落します。
長女すなほに続いて次女真理も結婚。
子供たちが自分たちの家庭を持つようになったのです。
更に江すてると章雄は大きな喜びに包まれます。
しのぶがオーディションに合格し突如女優の道を歩きだす事になりました。
昭和50年しのぶが18歳の時映画「青春の門」のヒロイン役で本格的なデビューを果たします。
見下してくさいばってくさ。
男は皆そうたい!お前はひねくれちょる。
そうくさ。
なぶられちおもちゃにされちひねくれん人間がどこにあるね!「青春の門」を見終えたあと章雄はしばらく席を立てなかったといいます。
そんなやさきまたも病魔が章雄を襲います。
胃がんに侵されていました。
入院した章雄の楽しみは病室でしのぶの出演するドラマを見る事でした。
いつもそれなんだから!片づけたのはねお母さんなんだから。
思い出さなきゃ駄目!そして6月19日の父の日章雄はこの日を心待ちにしていました。
病室のカレンダーに付けられた赤い丸印。
この日の夜しのぶの出演するドラマが2つありました。
前の日病室へ立ち寄ったしのぶに「見ておくよ。
元気でいってらっしゃい」と送り出した章雄。
しかし放送当日の朝6時半容体が急変します。
章雄が亡くなったあとすなほさんは父が同僚にある事を頼んでいたのを知りました。
それは宮城塩釜に残してきた子供たちへの伝言でした。
94歳になるしのぶの母江すてるさん。
最近四女の恵さんが目にした光景があります。
家族が集まると江すてるさんが決まって言う言葉があります。
そうですね。
そうですね。
そうか〜!でもなんか…すごく支えられてたりとか…。
お別れしたお子さんへの伝言という事でしたけど…。
いかがでしたその時はお会いした時は?え〜っ!ご自身の「ファミリーヒストリー」いかがでした?何て言うのかな…。
明治から大正昭和へと激動の時代を生き抜いたしのぶの祖母八重。
初恋の人権次郎とサンフランシスコへ渡り娘敏子をもうけました。
しかし八重は夫の死後敏子を手放さざるをえませんでした。
その敏子の家族が大阪に暮らしている事が分かりました。
敏子は権次郎の実家で育てられた後横浜の実業家と結婚。
5人の子供を育て上げ76年の生涯を閉じました。
生前母の生い立ちを聞く事はなかったといいます。
え〜っ!え〜…。
え〜っ!え〜っ!えっ!
(取材者)そうです。
え〜っ!ええ〜っ!今から111年前に撮られた写真です。
なあ。
「えっ?ほんま?」言うて。
そして八重のもう一人の子供。
サンフランシスコから帰国したあと鈴木という男性との間に男の子を産みました。
しかしこの男の子とも別れ共に暮らす事はかないませんでした。
今回手紙を頼りにこの男の子の消息を捜しました。
男の子です。
そうしましたらちょっとそれはですね違うかもしれないんですけども。
すると自らのルーツを調べているというある女性の論文に行き着きました。
論文を書いた女性です。
大学で英語を教えていた杉野俊子さんは自らの家族の歴史を調べてきました。
俊子さんが聞いていた健さんの母の情報はごく僅かでした。
八重と画一郎との子供健さんはおじ夫婦に育てられ小学校の教師となりました。
親戚から母が再婚したと聞き迷惑をかけてはいけないと捜す事はありませんでした。
6人の子の父となり平成2年69歳で亡くなりました。
俊子さんはずっと祖母の事だけが分からず気になっていました。
そうですね…。
(取材者)同じおばあちゃんを持つ俊子さんとって事です。
しのぶさんが。
(取材者)大丈夫ですか?大丈夫です。
うわ〜そうか…。
あります!笑う時にねどういうふうに笑うかってこの間言ってたんだけど…。
えくぼ?あるんですもんね。
はい。
鈴木さん孫。
これだけねぇ力強い血がつながってるんだったらもっと強くなれるような…。
まだですか!?2017/01/26(木) 19:30〜20:43
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー▽大竹しのぶ〜語り継がれる大竹様伝説 1世紀を経ての出会い[字]

しのぶさんの会ったことのない祖母・八重。内村鑑三や幸徳秋水との親交が判明。そして訳あって子どもを手放した事実が浮かび上がる。それが1世紀を経て、その後が明らかに

詳細情報
番組内容
しのぶさんは、会ったことのない祖母・八重のことが気になっていた。情熱的な女性と語り継がれる八重。明治時代、思想家の内村鑑三や幸徳秋水とも親交があり、アメリカに渡っていた。事情あって子どもを手放した過去も浮かび上がる。さらに、大竹家のルーツが新潟で判明。「大竹様」と言われ無実の罪で処刑された伝説が残されていた。そして1世紀の時を経て、行方を知らなかった親戚が見つかる。しのぶさんは驚き隠せなかった。
出演者
【ゲスト】大竹しのぶ,【司会】今田耕司,三輪秀香,【語り】余貴美子