インフルエンザを防ぐにはウイルスに触れない事が一番。
流行中に人混みに子どもを連れていく時は注意が必要かもしれませんね。
その原動力となり世界に羽ばたく選手を次々と生み出しているJリーグ。
日本のプロサッカーリーグJリーグ創設の立役者となった男がいる。
26歳の時難病を患い2つの腎臓を失った。
一生続く人工透析の生活。
しかし絶望のふちからはい上がり大きな夢を実現した。
ハートネットTV「未来へのアクション」。
今日は不屈の男木之本さんからの熱いメッセージ。
私たちの本当に想像できない逆境を乗り越えて大きな夢を実現させた方をお招きしております。
ではご紹介しましょう。
どうぞ!
(拍手)サッカーJリーグ創設の立役者で日韓ワールドカップ日本代表団の団長を務めた…
(藤本)よろしくお願いします。
ようこそお越し下さいました。
どうぞよろしくお願い致します。
木之本さんは地元ここの千葉出身で…。
そうですね。
若い頃はサッカー選手ジェフ千葉…。
ですから当時の古河電工で…。
はい。
活躍されていらっしゃいましたが突然重い病気にかかって2つの腎臓そして両足を失ってしまいました。
まずはその木之本さんの壮絶な人生からご覧頂きます。
今から20年前日本にプロサッカーリーグJリーグが誕生した。
Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かってその第一歩を踏み出します。
(歓声)ブラジル帰りのカズ。
スター選手の華麗な技にスタジアムは興奮の渦に包まれた。
Jリーグ設立の立役者となった男がいる。
重度の障害と闘いながら大きな夢を実現した。
木之本さんは週3回人工透析を受けに病院に向かう。
木之本さんは26歳の時グッドパスチャー症候群という難病にかかり2つの腎臓を摘出。
更に59歳の時両足を切断する大手術を受けた。
おはようございます。
腎臓がない木之本さんはこの機器で血液中の老廃物や水分を取り除き命をつないでいる。
毎週3回。
透析回数は5,600回を超えた。
おはようございます。
今インタビュー…。
(木之本)ご苦労さまです。
すいませんです。
いえいえ。
難病と闘い続ける木之本さん。
中学の時サッカーと出会い大学ではキャプテンとして活躍した。
卒業後実業団サッカーの名門古河電工に入社。
仕事にサッカー充実した日々が始まった。
その直後だった。
突然サッカーの練習中に倒れ入院。
病名はグッドパスチャー症候群。
発症した人は5年以内に命を落としている難病だった。
助かるためには腎臓を摘出し一生人工透析を続けるしかなかった。
その時妻が妊娠している事を知った。
何としても…決意を固めた。
当時の人工透析は想像を絶するものだった。
急激に血圧が下がり意識を失った。
会社に復帰できたのは1年後。
健康保険組合の事務の仕事。
将来の夢など考えられなかった。
そんなある日。
数年ぶりにスタジアムに行きがく然とした。
観客席はガラガラ。
サッカー人気は地に落ち選手はやる気を失っていた。
一方ヨーロッパや南米ではプロリーグが大人気を博していた。
サッカー選手は国の英雄だった。
木之本さんは思った。
愛するサッカーのために…病を患ってから初めて抱いた夢だった。
かつての実業団の仲間たちに呼びかけた。
反対する声にも諦めなかった。
信じて始めた訳ですね。
ある日。
山形の小さな運動場での試合を見て驚いた。
満員の観客が地元チームの活躍に熱狂していた。
これだ。
地域密着で地元に愛されるチーム。
木之本さんの呼びかけに全国各地の実業団チームが名乗りを上げた。
ついに1993年Jリーグが開幕。
(歓声)来日したスーパースタージーコの鮮やかなテクニック。
日本の選手も闘志あふれるプレーを連発。
日本中が熱狂した。
木之本さんの夢はかなった。
2002年ワールドカップが初めて日本で開催された。
木之本さんは日本代表の団長に就任。
まずゴールキーパーから。
背番号1川口能活。
その後日本から世界に羽ばたく選手が次々と誕生。
日本は…サッカー大国の仲間入りを果たした。
久保さんいかがでした?いや〜今本当にこのJリーグ私たち当たり前のように観戦してますけれどもそこに木之本さんがいらっしゃらなかったらJリーグはなかったって事ですもんね。
でもそもそも全て順調にいって結婚してサッカーもやっていて会社でもある程度の地位があって…。
(藤本)これから働き盛りだったりとか…。
(津田)ちょうどでも病気になる直前っていうのはそのころの考えていた未来とか将来の夢というのはどういうものでした?自分は日本代表になるような選手ではなかったしまあ少なくとも古河電工当時代表多かったんですがそこでレギュラーになって好きなサッカーを30ぐらいまでですかね当時だったら。
やらせて頂いてあとは…。
古河電工というのは電線の販売会社ですから営業して…。
そんな事が自分の将来像としては頭に入ってましたね。
まず何か自分ができる事はないか社会に復帰したいという気持ちが強かったんですか?まず思ったのは家内と息子には病気は関係ないんだと。
やっぱり僕も26までは自由な人生生きてきた訳ですね。
だから家内と息子には普通の人のように生活してほしかったんですね。
だから結局週3回病院行って通常のお給料をもらえないですよね。
そうすると収入は減りますから。
収入が減るって事は支出も減らさないかんと。
そうですね。
だからやっぱりできるだけ自分がつらいけど外へ出てお金を稼がないかんと。
やっぱり奥様や家族の事がいつも念頭にあったんですか?今から思えばですよ。
そしてやはりプロリーグを作りたかったという思いもね相当強かったんじゃないですか?「人間万事塞翁が馬」って言いますけどやっぱり病気にならなかったら自分も本気でサッカーのプロ化という事を考えなかったと思うんですね。
それとやっぱりもう一つ違った視点で言いますとこれはサッカー部の皆さんも何人か来てるけど見てるよりやった方がはるかに楽しいスポーツなんですよ。
ミキティも…。
(藤本)私もフットサルをやってて監督に元Jリーガーの北澤さんが監督をやってくれてたりとかするので…。
最初サッカーって何が楽しいんだろうって最初は思ってたんですよ。
でもやってみるとやっぱりすごい楽しいしそうなるとすごい見る楽しみも出てくるので…。
やっぱり本当にやった方が楽しいですねまずは。
それは選手をとことんやった方は体で覚えている訳ですね。
だから僕は26で突然病気になった事で一番の楽しみをなくしてしまった。
それで逆に試合を見る方からその当時日本リーグって言ったんですが日本リーグの試合を見るようになった。
そしたら今まで…先ほどVTRの中で退路がなかったっていうお話がありましたけどあれも退路がない分もう進める事しか頭にはなかったんですかね?だから当時の…木之本さんの言葉には。
言ってくる方がいますけどほかから見ればそういうふうには見えたんでしょうね。
(久保)でもそんな思いだったんですか?いや気が付いてみればという事ですよね。
与えられた事を淡々と…でも体も痛かったりつらいって思う中でもういいやプロ化。
もう駄目だ諦めようなんて思う事はなかったんですか?そういう礎さえ作っておけば…。
その証拠には半信半疑のJリーグがもう今年で21年目になる訳ですよね。
そういう事を考えたら大きな成果を残したと言ってもいいんじゃないですかね。
(一同)「未来へのアクション」!右に左に鋭いターンでボールを追う。
その動きを可能にしているのは国枝さん専用の車いす。
安定性と耐久性抜群の車いすがその活躍を支えている。
世界で戦うアスリートの車いすを製造している会社が千葉市にある。
この日千葉大学の学生たちが製造現場を訪ねた。
こんにちは。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ではこちらへどうぞ。
出迎えてくれたのは広報担当の櫻田太郎さん。
まずショールームに案内してくれた。
ここの上に並んでいるのが日常生活用の車いすです。
それで下にあるのがバスケット用テニス用陸上用になります。
この3輪の車いすは陸上競技専用モデル。
バスケット用は頑丈なバンパーを装備している。
テニス用は車輪が大きくハの字に開いた設計だ。
じゃあ試乗なさってみますか?はいお願いします。
初めてスポーツ用の車いすを見る学生たちは興味津々。
早速試乗させてもらう。
バスケ部の澤田さんが乗ったのはもちろんバスケット用の車いす。
軽くて小回りがきく抜群の操作性。
以前けがをした時に病院で乗った車いすとの違いに驚いた。
後ろにも…。
お〜。
続いて山下さんが乗ったのはテニス用。
長時間プレーするため徹底的な軽量化で体力の消耗を防ぐ。
本体がすごく軽く感じます。
岩井さんが乗ったのは陸上競技用。
3輪なのはスピードを出すためだ。
正座するような感じで乗ってみて下さい。
相当狭い。
全く腰が入らない。
その理由は…。
選手に合わせての…なかなか収まらないと思います。
一台一台完全オーダーメードで造っているという現場を見せてもらった。
選手の体にぴったり合わせた図面が引かれる。
それを基に職人たちが手作業で一つ一つ部品を作り上げる。
横も縦も。
職人技だね。
1ミリの狂いもないフレームを作るのは首藤龍さん28歳。
若いながらもその技には絶大な信頼がある。
首藤さんは陸上競技用の車いすが専門。
レースに同行しメカニックも務めている。
自分の造った車いすで選手が勝利する瞬間を見るのが最高の喜びだと言う。
技術者たちの生み出す車いすの数々。
障害者を支え新たな可能性を切り開いている。
すごいですね。
どうでした?何かもうその技術の方でやっぱりお年の方が正確にやってるんだろうなというイメージがあったんですけど意外に若い方が活躍されているというのもこれからもまた楽しみが増えますし…。
あとああいう車いすが必要な方にとって本当にちょっとした動きの…小回りだったりというので違ってくると思うので本当に技術に感謝だなというのを思いますね。
乗りたくなるような乗り物を造りたいっていう…。
あれはやっぱりどうしても車いすに乗るっていう事自体が我々ネガティブに捉えてしまう人も多いかもしれないんですけどそうではなくてこの乗り物が乗りたい乗り物だから乗るんだという自転車を選ぶようなバイクを選ぶような感じで選べるようになるとそういう事で多分物の見方とかも変わっていくと思うんですよね。
(藤本)すばらしいですよね。
実は千葉大学でそういった障害者の生活を支援しようという研究もまさに行われているんです。
今日はその大学の研究室の学生さんに来て頂きました。
古谷さんどんな研究をしているんでしょうか?今私の研究室では耳の聞こえないろう者の方と私たちのような健常者とのコミュニケーションの支援を目的とした手話認識システムというものの研究開発を行っております。
手話認識システム。
(古谷)はい。
未来の技術手話認識システム。
これは手話を自動的に文字で表示する技術。
例えば銀行の窓口を想定したやり取り。
実用化すれば耳が聞こえない人のコミュニケーションの幅を大きく広げてくれる。
(津田)音声認識とかも昔はまだ全然単語で登録したものとマッチングさせてという事でしたから…。
でも今は自然でしゃべった事が認識しますから多分作っていくうちにどんどん進化していくという事なんでしょうね。
そうですね。
どんな思いで研究しているんですか?この研究が自分自身の研究というよりかは誰かのためになっている研究というのが一番大切にしているとこかなと。
(藤本)是非…。
(久保)期待してます。
どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
そういった技術がどんどんどんどん進んできて本当に木之本さん助けられる部分ってたくさんありますもんね。
やっぱり技術の進歩もそれから薬の開発も刻々変わってくるんですよね。
だから先生のおっしゃる事も当初と今ではだいぶ違ってますよね。
例えば運動なんかがそうなんですね。
昔はなるべく寝ているようにと静かにしているようにと。
今はどんどん歩いて元気になれと。
普通の人のように生活する事がいいんですよね。
(津田)また木之本さんと同じご病気にかかられた中で一番長く今生きられているという事自体が同じ病気にかかる人の希望にもなっていくんでしょうしね。
諦めちゃいけないんですね。
そうですね。
サッカーで救われた体だと思うんで…。
いやすごい。
少しでもサッカー界に恩返しできればと。
(久保)今振り返って大切な事…サッカーやっているみんなにこれからこういうふうに気持ちを持っていったらいいよという言葉ありますか?僕はやっぱり強いハートを持つ方がすごく大事なんじゃないかと。
(藤本)どんな時も諦めないという。
そうですね。
とにかく強い意志を持って闘うという事が逆に試合に出るか出ないか勝つか負けるかの境目にあるような気がするんですよね。
(藤本)最後の何秒で負けてしまったりするスポーツですからね。
そういった意味で最後の1秒までも気持ちを強く負けずですよね。
諦めない。
諦めないという事が一つ大きな。
だから僕は…それはまあ透析の事も含めて我慢の人生だけど自分の夢を追い続けるという事を心の糧にして生きてきたんですけどね。
難病と闘い続ける木之本さん。
Jリーグの運営を離れた今もサッカーへの情熱は失っていない。
地元千葉から世界に羽ばたく選手を育てるプロジェクトを立ち上げた。
その夢を一緒に追うのは親友の永井良和さん。
日本代表として活躍した名ストライカーでかつてのチームメートだ。
幼児からプロまで一貫して育成する仕組みを作りサッカーを通して逆境に負けない若者を育てたいと願っている。
木之本興三さん65歳。
どんな困難にも必ず道は開ける。
力をくれる仲間がいると信じている。
2017/01/30(月) 20:00〜20:30
NHKEテレ1大阪
ハートネットTV 未来へのアクション「逆境に負けず夢をかなえる」(1)[字]
先日亡くなったJリーグ創設の立役者・木之本興三さん。2014年1月に木之本さんを取材した番組をアンコール放送する。
詳細情報
番組内容
Jリーグ創設の立役者となった木之本興三さんは、実業団サッカーの強豪・古河電工で活躍していた26歳の時、難病を患い2つの腎臓を摘出。週3回の人工透析を一生続ける体となった。絶望のふちからはい上がる力となったのは「日本にプロサッカーリーグを作る」という夢だった。不屈の男から若者たちへの熱いメッセージを伝える。千葉大学で公開収録。
出演者
【ゲスト】藤本美貴,【出演】Jリーグ元専務理事…木之本興三,ジャーナリスト…津田大介,久保純子,【キャスター】山田賢治,【語り】田口トモロヲ