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字幕書き起こし 第31回民教協スペシャル 祖父の日記 〜時を超え 家族に伝える戦争の真実〜 2017.02.12

(井上佳子)
79年前祖父が歩いた道を私はたどっています
中国に上陸して47日目中国軍との戦いで祖父はこの世を去りました
亡くなる5日前まで祖父は日記を書いていたのです
(遼さん)「敵弾のビューンビューンと頭上をかすめ飛び来るもまた戦場ならでは」「味わえない事だ」
戦地での日記は祖母の遺品の中から偶然見つかりました
わずかなページの日記
祖父が亡くなったあと同じ部隊の人がページを破って持ち帰ってくれたのでしょう
日記からは家族が知らなかった戦場の祖父がよみがえってきます

 

 

 


妻と幼子を残し戦場で死んだ祖父
最期は自らの命を投げ出すかのように突撃したと聞いていました
なぜ家族のために生き抜こうとはしなかったのでしょうか
中国の人たちは今でも戦争の記憶の中に生きていました
心境が変わるんですよ。
とにかく殺らにゃあ殺られますからね。
殺らにゃあ殺られるから。
そして日本でも中国と戦った元兵士たちが戦争を昨日の事のように語りました

祖父の日記は私にとって79年前の戦争を今に手繰り寄せる標のような存在となりました
日中戦争それに続く太平洋戦争が終わって71年経ち戦争の記憶は年々風化しているといわれています。
そんな中おじいさんの死に真正面から向き合おうとする井上ディレクターの思いに共感を覚えました。
僕はこれまで兵士の役を演じてきた事があります。
実体験のない僕は想像でしか表現出来ませんが撮影が終わると心には必ず空しさしか残っていませんでした。
今回井上ディレクターが手繰り寄せて見えてくる戦争の手触りとはどんなものなのでしょうか。
中国安徽省
1937年に勃発した日中戦争で戦場となったところです
ここには日本軍のトーチカや司令部の建物などあちこちに戦争の痕跡が今も残っています
79年前祖父はこの地で戦死しました
日記に書かれた地を訪ね当時を知る人から話を聞き祖父が亡くなった場所に立つ事が取材の目的でした
79年前の戦争を体験した潘さんが取材に応じてくれました
インタビューの場所は祠堂と呼ばれる一族をまつる建物
潘さんは空爆などで8人の親族を亡くしていました
祖父が日本兵であった事を話そうと考えていましたが言い出せませんでした
1938年昭和13年6月11日
井上富廣ら第六師団歩兵第十三連隊の補充部隊を乗せた船は門司を出港した
「万歳万歳の旗の波」「この熱誠に対し我らは皇国のためあくまで強く戦うを心に誓う」「玄海の波のかなた行くはただ一路征戦の地上海」
井上富廣が出征する1年前の1937年7月中国との全面戦争に突入した日本は12月国民党政府の首都南京を攻略した
退却しながら抗戦する中国軍を追い日本軍も戦線を拡大していく
井上上等兵は前線で戦う第六師団本隊の補充兵として派遣された
「初めて目の当たりにする支那民家の無残」「友軍の爆撃に遭い焼け落ち見る影もない」「廃墟の上海」「支那群衆の雨に濡れ食を求める姿のなんと哀れさよ」
上海で2泊した祖父の部隊は貨車で攻略後の南京に向かいました
「ああここもまた哀れなる景かな」
井上富廣の部隊に課せられたのは抵抗する中国軍を掃討する事だった
中国に到着して9日目井上は本隊と合流する
取材中に出会った歴史研究家呉勝生さんが進軍する日本軍の写真を持っていました
大阪の古本屋で購入した写真雑誌
日本軍の進撃を特集していました
撮影された日時は1938年6月23日から7月11日
場所は潜山
井上上等兵の部隊の行動と一致する
整然とした行軍駐屯地でのほのぼのとした日常が紹介されている
しかし日記には戦地の厳しい現実が記されていた
この辺りは中国でも過酷な暑さで知られるところ
20キロの装備を身に着け一日40キロの行軍が始まった
「支那軍の戦死者道端に腐乱し臭気鼻を突く」「午後五時過ぎ足のまめと体力減耗につきしまいに倒れた」
祖父が生まれ育った町です
私の父剛
祖父の一人息子です
祖父が出征した時3歳でしたがもう80歳になります
ここに入っとったんですね。
この…。
この父が亡くなった祖母のたんすから戦地での日記と家族宛ての手紙を見つけました
(剛さん)南京だよこれは。
南京から来てる。
南京に行ってるんだ。
なんで?
恐らく祖母がしまっていたのでしょう
その存在は家族の誰も知りませんでした
6月に中国に…。
出征してわずか47日で亡くなった事も私たちは初めて知りました
一方で私たち家族になじみ深い日記があります
それは祖父が1930年の元日から5年間書きつづったもの
この日記は祖母の宝物でよく家族に読むよう勧めていました
「昭和五年一月一日」「めでたい元日に国旗を立てるのを忘れていた」「万事用意周到でなくてはならぬ」
祖父はこの時数えで二十歳
地主から田畑を借りて耕作する小作農家の長男でした
「秋晴れの好天気にもみを干して心は急ぐ畑へと」「サックサックサックで心地よい」「思えば不景気はまだまだ襲ってくる様子」「重荷は双肩にぐっとかかっている」「働け働け働け」「倦まずたゆまず働けと声がする」
長引く不況が頂点に達した1930年昭和5年から日記は始まる
アメリカの株価暴落に端を発した不況が世界を直撃
日本の農村は深刻な打撃を受けていた
「なんて哀れなものだ」
田畑を耕す馬も持たない小作農家
道路工事や庭石運びの仕事をして家計の足しにしています
中でも七島藺を使ったむしろ作りに祖父は精を出しています
むしろは畳表などに使われ集落では貴重な現金収入でした
「昨日二枚しか打ち得なかったゆえ今日は四枚を打ちて畳表を終わらんと意気天を衝く」
実家近くに住む西山茂已さんにかつての仕事を再現してもらいました
むしろ作りは昭和40年代までこの辺りで盛んに行われていました
この頃日記に頻繁に出てくる名前があります
「愛する彼女のもとで仕事するかと勇んでいったかいもなくツギエさんに愛想を尽かされた」「我が心に津波が渦巻いた」「今日も一人寂しくむしろを打った」「打ち明ける勇気もなく一人胸を焦がす事のつらさ」
むしろ作りは夜なべ仕事
当時集落では若い女性のもとを男性が訪れ仕事を手伝ったり夜が更けるまで話をしたりしたそうです
でもツギエさんの反応はいまひとつだったようです
「夜道をとぼとぼと馬を持たない悲しい心とツギエ様を慕う寂しい心で十一月の空も更けていくのか」
1931年日本の大陸進出のきっかけになった満州事変が勃発
強硬路線をとる軍部を国民は熱狂的に支持した
日本は満州国を認めない国際連盟を脱退
孤立の道を歩み始める
「国際連盟総会四十二対一」「忘るな八千万同胞よ」「我が松岡首席全権は“花は桜木人は武士日本人の最後は潔いもので”との意気ある言葉をあとに一路故国に帰る」「この際いかなる国際間が問題となってもあくまで日本と満州は提携して世界各国を相手に」「なんの経済の小ささ恐るに足らずだ」
村の友人たちは兵役に就き中国軍との散発的な衝突が続く大陸へと送り込まれていく
「手袋を外せし片手には拳銃冷たく光り今にも発射して中国の匪賊ども数人を倒しそうだ」
戦地から届く友人の武勇伝に祖父は胸を高鳴らせていたようです
この頃諦めかけていたツギエさんとの恋に進展がありました
「やがて彼女が来た」「彼女の顔の優しい事…砂漠の中のルビーだ」「おお…今俺はツギエ様の偉大な愛によって生きていかねば」「愛の太陽の輝き」
ツギエさんとの結婚が決まったのです
「今日もまた愛する妻との二人連れ」「妻は初めて夫婦と名のついての二人仕事でちょっとはにかんだ気持ちの様子」「俺はさすが男性。
平気なものだ」「青春のほほ笑み」「忘れがたき夫婦生活の華々しいスタートである」「どんな仕事もものかは来たらば来たれ」「ただ愛の抱擁の中に眠らせてしまうぞ」
結婚の翌年長男剛が誕生します
父剛は出征当時3歳だったので祖父の記憶はありませんが祖母から聞いた話が記憶に残っています
戦地に発つ時熊本駅に見送りに行ってね。
その時…。
熊本を出発して12日後
井上上等兵は前線部隊の衛生兵として任務を果たしていた
「今日の戦闘にて一中隊の負傷・戦死三十名余り」「痛ましくも担架で運ばれる患者を見れば気が猛る」
衛生兵として治療にあたる祖父の心情が伝わってきます
私はかつて中国軍と戦った元兵士の話を聞きました
それ見つけた者っていうのは兵士じゃないんですか?え?中国人の一般の人ですか?「この間僕たちと一里は離れていない敵の密集部隊に友軍の飛行機が朝から晩にかけて爆撃致しました」「山の上から眺めていて実に気持ちのいいものです」「機が真下目がけてずっと下ったと思うとグーンと雷のような音響と共に敵陣兵が一度に砕けゆく有り様は活動辺りでは見られません」
読み進めていくと祖父の中国人に対する見方が変わってくるのを感じます
「四時半起床朝食を済まし黎明の潜山屯営発」「要所を撃破せし戦跡には支那人死体横たわりとうとうと進軍する愉快さ」
中国人の死体を見て抱いた愉快という感情
出征前と戦地
祖父の世界は天と地ほどの差があるように感じます
中国に上陸した頃祖父は家を焼かれ食を求める中国人を「あわれ」と記していました
それからわずか10日後です
さらに妻に送った手紙にも戦場の生々しい状況が書かれていました
「近頃は土民が山を下りて我が軍の配備状態を偵察にやって来ます」「二〜三日前二十人ほど捕らえてきて尋問したらやはり支那軍から命令されているようです」「全部河原へ連れ出し銃殺しました」「三名は犬に投げ込みました」
元日本軍兵士は一般人の格好をして襲ってくる便衣兵と呼ばれるゲリラが脅威だったと語りました
兵隊が部落に入ったら便衣になるんですよ。
部落民の服ば着て。
兵隊かあれかわからんでしょう?それでそこを通り過ぎていくと後ろから撃ってくるんです便衣が。
だからねちょっとした…。
後ろから撃たれる今度は。
便衣が今度はあとから追いかけてくる。
(中国語)
敵がどこにいるかわからない状況で日本軍は一般の中国人をも巻き込んだ掃討作戦を行う
殺すか殺されるか…そんな状況で生まれたのは憎しみでした
それにしてもなぜ祖父は中国人を殺して犬にやった事を妻への手紙に書いたのか
中野さんに尋ねました
当たり前のように書いてある。
うんうん…。
精神状態が…兵隊のね戦闘中のね…。
普通じゃないですよ本当戦闘中は。
殺したり殺されたりですからね。
「これらの辛苦の際目の前に現れるのは故郷の君たちの姿だ」「夢に会う君を実際に会うを楽しみに待つ」「外に出て清い月を眺める時故郷の事が思い出されて涙が出そうです」
戦場の祖父には温かさと冷たさが同居していました
7月22日。
最後の日記になりました
「俸給十七円四銭」「栄枯盛衰世のならい」「楽しい俸給も頂き故郷への送りば出来ぬかなあ」「砂漠の中のルビー」「愛の太陽の輝き」。
素敵な言葉ですね。
でも同時に「射殺した中国兵を犬にやる」という言葉もありました。
そうさせてしまうのが戦争だと思います。
日記が途絶えた7月22日から5日後日本軍は中国軍との激戦に突入します。
1938年7月27日安徽省太湖の山岳地帯で激戦が始まった
中国軍は山を背後に岩陰に隠れ頑強に抵抗した
中国軍の攻撃は3日間で290回を超えた
戦場では79年経った今でも木が育たない
この近くに住む陳林発さんは日本兵と戦った事があります
太湖にある博物館には当時日本軍が使った砲弾や銃剣が保管されていました
中国の研究家が持っていた日本の写真雑誌に「太湖の戦い」が紹介されている
戦闘の写真の撮影日は1938年7月26日
太湖を流れる長河を渡っているのが27日朝
「勇敢率先」
「先頭にありて衛生兵ながらも短剣を持って敵陣に突入奮戦中敵の小銃弾により頭部貫通の傷受けるに至り」
なぜ衛生兵の祖父が短剣を持ってしかも先頭に立つという行動に出たのか同じように敵陣に突っ込んだ体験がある元兵士を訪ねました
弾のババンと来る木の中こう走って出ていったその時の心境はですねここで俺が恥ずかしい行為をしてみんなから後ろ指をさされるような行動をしたらば国の私の肉親が一生涯村八分になってしまう。
そういう事はさせちゃならんと…。
それでその思いがおしたくっていったんです。
だからやっぱり家族…戦争というのはやっぱり家族のためですよ。
すいませんどうも。
なぜ村八分になるのか
当時を知る人たちの取材を進めるに従ってその意味がわかってきました
祖父の戦死は地元の新聞で報じられました
「尊き護国の人柱武勲輝く郷土の勇士」
祖父は上等兵から伍長に昇進さらに軍神になったのです
祖父の故郷では村葬が営まれたそうです
こんにちは。
お世話になります。
村葬に参列した岡田さん
当時7歳でした
盛大だったという事だけは覚えとりますね村葬がですね。
富廣さんという名前は昔から大した人だというのは頭の中に焼きついてますね。
自分たちもいつかはああやって国のために行くぞという気持ちだったですもんね。
お国のために尽くしてきなはった人がねこんなして帰ってこられるんだからって言うて。
ここで並んでここでお迎えしたという事ははっきり覚えとるですたい。
末永さんは今でも祖父の村葬の様子を鮮明に記憶していました
この戦争で祖父が初めての村葬だったのです
村の英雄の家族
周りからは尊敬のまなざしが残された家族に向けられた
子ども心によ写真ば見てねああこれは立派な死に方をしらしたなというふうにずっと子どもの時は思っとったねやっぱりね。
親父がおらんで残念って思った事はなかったね。
ない。
それはない。
祖母ツギエは15年前90歳で天寿を全うしました
戦後は再婚する事もなく農業をしながら一人息子剛を育てました
恐らく祖父との5年間の思い出が心の支えだったのでしょう
「彼女の顔の優しい事…砂漠の中のルビーだ」「愛の太陽の輝き」「要所を撃破せし戦跡には支那人死体横たわりとうとうと進軍する愉快さ」「全部河原へ連れ出し銃殺しました」
家族の皆が知っていた出征前の日記
そしてしまい込まれていた戦地での日記
祖母は夫の出征前と出征後の変わりぶりを受け入れられなかったのかもしれません
私は祖父に対する父の思いを初めて聞きました
本当の事を言えばねやっぱり帰ってほしかったね。
会いたかったよね?
(剛さん)全部全滅しとるわけじゃないけんね。
前線が死んどるわけだけんね。
だから全滅した部隊じゃないからね…。
だけん帰ってきてほしかったねやっぱりね。
今お父さんはじいちゃんが亡くなったというじいちゃんの死っていうか死んでしまったっていうこの死についてはどんなふうに思ってますか?意味があったと思ってますか?死ぬ必要はなかったと思うね私は。
家族をやっぱり全部捨ててね死ぬような価値はないよ。
戦前はね神さんのように扱われたけどね…。
戦後はもうまるっきりその逆だけんねやっぱりね。
父も今回初めて日記に正面から向き合いました
本当もう…自分でわからん事がいっぱい出てきたね今度は。
自分ではやっぱり…やっぱり避けとったんだねえばね恐らく。
祖父の軌跡をたどる取材でも戦争の傷の癒えない中国の人たちに会いました
陳さんは3歳の時お母さんが日本軍の軍用犬にかまれて亡くなりました
お母さんが亡くなったあと一家はますます貧しくなり弟は餓死他の兄弟は里子に出されました
陳さんは父親と2人物乞いをして暮らしました
私はそれまで躊躇していた言葉を陳さんに投げかけました
陳さん私の祖父も日本兵だったんです。
で安慶から上陸してるんですここに。
(通訳の中国語)
私は祖父が兵士であった事そして戦死した事を話しました
陳さんのお話を聞いててお母さんへの思いがずーっと今も持ってらっしゃるのを…本当なんか…なんか…心が苦しくなります。

(歌)
陳さんが中国の古い民謡を歌ってくれました

(歌)
最後まで連れ添う事が出来なかった両親への思いが込められていました

そして私は5年足らずで夫を亡くした祖母ツギエの人生を思いました
井上富廣上等兵が戦死した太湖の戦い
3日間に及ぶ戦いで日本軍の戦死・負傷者は400人を超えた
井上上等兵はこの近くで銃弾に倒れた
やっと今来たという感じですね。
こういうところだったんだなという…。
祖父が戦地で書いた日記と手紙
命を縮めたとも思える最期の突撃
純朴だった祖父から考えると意外な事でした
しかし当時の若者の多くが祖父と同じような思いで戦地に向かい戦場の波にのまれていったのだと思います
私自身もあの時代に生きていたらなんの疑問もなく祖父と同じ思いになるのではないかそう感じました
「当時生きていたら祖父と同じ思いだったのではないか」…。
その言葉が心に突き刺さります。
井上ディレクターが手繰り寄せた戦争。
それは決して過去のものではなく今にも繋がっているからこそ僕たちはこの戦争の悲しみを決して忘れてはいけないのだと思います。
「我妻子の健全と併せて自我の武運長久を祈る」「滅私奉公皇国のため最後まで頑張ろう」はいオーケーです。
朗読を担当したのは私の息子です
現在25歳
祖父と同じ年代になりました
戦争が起こってその一番最初に被害者になるのはその…なんの罪もない普通の人たちで…。
普通の人たちが殺し合ったり家族が死んだり人と人が憎み合ったり悲しんだりとかするだけで多分戦争によってなんか生み出されるものはないと思います。
私たちが一番好きな祖父の日記
1932年3月26日
「かわいらしや卵三個」「やがては母鳥の恵みによって立派な一個の鳥になるのである」「おお丹精なるかな母鳥の苦労」
祖父にかけがえのない一日一日があった事を思います
この戦争で一体どれだけの人たちの日常が奪われたのでしょう
戦争の傷が癒えるまでどのくらいの時間が必要なのでしょう
以前はあまり戦争の話をしませんでしたが戦後を生きた祖母の人生も改めて思いました
79年の時を超え家族に届いた祖父からの伝言
これからも引き継いでいく私たち家族の宝物です
2017/02/12(日) 15:25〜16:25
ABCテレビ1
第31回民教協スペシャル 祖父の日記 〜時を超え 家族に伝える戦争の真実〜[字]

日中戦争で戦死した祖父が、死の5日前まで書いていた日記…中国にその軌跡をたどる。79年を経て、家族で向き合った祖父の戦争…家族に届いた祖父からの伝言とは?

詳細情報
◇番組内容
私(井上佳子)の祖父、井上富廣は、1938(昭和13)年、中国戦線で戦死している。27歳だった。当時祖父には妻と3歳の息子がいた。私の祖母と父だ。召集されるまで祖父は熊本の片田舎で米を作っていた。祖父は出征までの4年間を日記に記している。大地を耕して作物をつくる喜び、伴侶を得たことの嬉しさ、そして軍国の一翼を担いたいという強い思い。4冊の日記は祖母から父に渡り、今私の手元にある。
◇番組内容2
祖父は日記帳の一日一日を細かい文字でびっしりと埋めている。天候に右往左往しながらも野良の作業が進む喜びや、結婚して二人仕事となり、おしゃべりしながら精を出す様子など、決して経済的に恵まれない暮らしの中でも前を向いて生きる姿は心に沁みる。そして今回、祖父が中国に行ってからの日記と戦地から妻ツギエにあてた19通の手紙が遺品の中から新たに見つかった。戦地に発ってからの祖父の詳細な足取りがわかった。
◇番組内容3
祖父は門司港を出航して上海に上陸後、わずか47日で戦死していた。日記は、上海に上陸直後、家をなくしてさまよう中国人を憐れに思う言葉で始まっている。しかし、前線に近づくにつれ、祖父は次第に戦闘に駆り立てられていく。殺さなければ殺される戦場で、祖父も狂気に飲み込まれてしまったのだろうか。残された日記は、私にとって祖父からのかけがえのない大切なメッセージだ。祖父の戦争を、一日一日を、私が伝えたい。
◇ナレーション
井浦 新(俳優)
◇制作
企画:民間放送教育協会
制作著作:熊本放送