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字幕書き起こし SWITCHインタビュー 達人達(たち)「中村獅童×三原康裕」 2017.02.18

バーチャルシンガーと歌舞伎俳優が競演する異色の舞台。
その活躍は歌舞伎の世界にとどまらない。
この愚か者めが!死んでも山から離れるなという命令だったはずだ。
クリント・イーストウッドが監督したハリウッド映画での鬼気迫る演技。
何があったんだ?こいつらは摺鉢山から逃走してきたのであります。
お嬢さんはいつも元気ですね。
はい。
黒柳徹子のエッセーを基にしたドラマ「トットてれび」ではあの昭和を代表する名優渥美清を演じた。
伝統芸能を本業としその枠を超えてあえて異端となる事を目指してきた中村獅童。

 

 

 


そんな中村のトークの相手は…。
世界を舞台に活躍するファッションデザイナー三原康裕。
中村と同い年の44歳だ。
ミラノパリロンドンとヨーロッパ各地のコレクションで作品を発表。
そのデザインワークはまるで詩が聞こえてくるようだと高く評価されている。
海外のファッション関係者が熱いまなざしを向ける日本を代表するファッションデザイナーの一人だ。
三原のデザイナーとしてのスタートは独学で始めた靴作り。
ファッション界では異色の経歴だ。
実は2人は15年来の知り合い。
今回は中村がこれまでじっくり話した事のない仕事の話をしたいと三原を指名した。
どこかいつも会っても何か…40代半ばになろうとしてて彼もおんなじようになってきてて…彼なんて特にあると思う本当に。
だから何か本当…東京歌舞伎座。
中村に招かれて三原がやって来た。
真っ先にポスターの中村獅童の姿が目に留まる。
2016年を締めくくる公演。
ここで中村は新作歌舞伎を演じる。
(ツケ)演目は「あらしのよるに」。
本来ならありえないオオカミとヤギの友情を描いた作品。
中村が自ら企画した。
舞台を見終わった三原が中村の楽屋を訪ねた。
こんにちは〜。
ハハハハッどうもどうも。
どうも。
今日ありがとう。
いえこちらこそ。
すごいね。
旅館みたいでしょ?旅館みたい。
お疲れさまでした。
どうもどうもありがとうございました。
あっそう。
年の話する事ではないと思うけど…歌舞伎とファッション。
異なるフィールドで活躍する同い年の男2人が思いの丈をぶつけ合う。
何で映画やってなんてさ。
でも歌舞伎って言葉自体がもともと…。
あれ?何だ?何?あらしのよるに?そいつはいい!「あらしのよるに」は中村が長年企画を温めて実現させた新作歌舞伎。
演出にも深く関わっている。
幅広い世代が楽しめる演目として高く評価され東京歌舞伎座で再演される事になった。
市川中車尾上松也といった人気俳優たちが共演する。
中村が演じるのは群れになじめないオオカミがぶ。
嵐の夜に出会ったヤギのめいと友達になる。
互いを理解し友情を深めていくがぶとめい。
その後群れ同士の争いが起きても2匹は友情を貫く。
登場するのが動物だけというのは歌舞伎史上初めての試みだ。
描かれるテーマは人の世にも通じる。
(拍手)獅童が多分このストーリーというか…例えば子どもたちに伝えたいとかいろんな年齢の人たちにも伝わるものとしてっていう気持ちも確かにあるかもしれないけれど…何か不思議だよね。
だからやっぱり俺の事よく知ってる人は例えば…その日は別に何にも言わなかったんだけど…おんなじような事を…。
昔から浅草歌舞伎でずっと一緒にやってきた仲間だから…。
「あ〜なるほどな」って。
実はそれはやっぱり…今日のセリフにもあったようにやっぱり死んだおやじが…ああいうセリフとかっていうのはやっぱり自分にとっても何か永遠のテーマだしやっぱり…だけどやっぱりこの作品を歌舞伎にする事によって何かまた一つ…隣の隣の隣ぐらいに座ってる人なんてこうハンカチ持ってズルズルしだした時に…。
いや俺もズルズルしたかったけど…。
やっぱりねあのくだりだよ「自分であるか」みたいな。
これ獅童じゃないと無理なんだなと思ったんだよ。
話の結論だけではなくて獅童自身に対しても思い入れがあったかもしんないしその周りのお客さんの拍手する中での息遣いとか子どもの声とかもする訳じゃん。
笑ってたよね。
ものすごいうれしい。
笑ってる声がねまた通るんだよ。
今日の芝居も休憩入れて3時間ぐらいだけど…皆さん劇場から一歩出ればそれぞれの生活に戻っていくけど…あの空気っていうのは。
あの子たちが大人になった時10年後20年後30年後にまた「子どもの時お母さんと見に行った歌舞伎何か面白かったからまた行ってみようか」って…。
「あらしのよるに」の原作は童話。
中村がこの作品を知ったのは2003年。
絵本を読み聞かせる番組でナレーションと全てのキャラクターの声を1人で演じた。
「顔が分からなかったでやんすから」。
「その時のあなたの顔ったら!クックッ!」。
作品が持つファンタジーな世界観や友情というテーマは歌舞伎に通じるものがあると感じたという。
歌舞伎「あらしのよるに」はこれまでの歌舞伎の手法をベースに中村ならではの工夫を凝らした演目になった。
オオカミのがぶとヤギのめいが餌を探しに行く場面で2匹が向かったのは客席。
これほど観客との距離が近いのは珍しい。
本能と友情の間でがぶが葛藤する場面ではがぶの心の内を語る義太夫コミカルにかけ合う。
(笑い声)
(拍手)何かあの振り切り方って今日の獅童とか見てても何かこうやってる…例えば太鼓たたいてるとこ。
「チキチッチキチッチキチッ」て入ってたよね。
使ってる。
何かこう「あれっ?」。
ああいうのはだから…「チキチッチキチッ」とか…入れてたよね。
自分がこういう新作歌舞伎を作るようになったのは人生観が多分…。
音楽作る人も写真撮る人も洋服を作る人もそうなんだろうけどやっぱり…それからおふくろに手を引かれながら…。
俺ストリップ見に行ったのが5歳ぐらいだったからね。
いろんなもの見せてくれたのおふくろが。
5歳6歳の時にば〜って見せてくれて。
いざ自分がものを作る時にやっぱそういう影響っていうのが…。
例えば…もう少し大人になってから見た「ストンプ」みたいな事とかああいう音を使ったりとか…。
知らず知らずのうちにそういうものが入ってくるっていうのは何かやっぱり…。
そういうのってのはすごいあるなと思いますよね。
あの当時から変わらないものもあったとしても…獅童が例えばやったりとかほかの役者が作ってみたりとかする中でやっぱり…スタンダードがあるから新しいもの出来んだよね。
歌舞伎でもやっぱりオオカミの獣らしい動きとかヤギらしい動きっていうのは先人の方たちが歌舞伎の古典の中にキツネの動きとかそういうものを残してくれたからこそそれをアレンジしてオオカミっぽく…。
でもかわいかったよ。
特にリスが。
だからやっぱりああいうのも歌舞伎で小動物とか動物の動きっていうのがもともとあるからそういうものをアレンジしてる訳であって…。
雪が降ってきたら大太鼓で「ドンドンドンドン」雪音があったりとか。
本当に便利にできていて。
それはどうしてかっていうと…もちろん…そこに…そうやって作ってたんだよだから江戸時代だって。
最初やった時は。
だと思うよ。
だから多分あの当時の人にとってはさすごいリアルな現実的な話を分かりやすく人情劇に変えて伝えてたりする訳じゃん。
絶対思ってるかもしんない。
血管が浮き出す様子を誇張してる訳じゃないですか。
そういうものを最初にやって…。
あれすごいよね。
やっぱ顔でかく見えるもんね。
あれで出てきたらね。
あえて人と違った事をやろうとは別に狙ってやろうとは思わないけどだけど「自分らしさって何だろう?」から作品づくりっていうのは入ってるのかもしれない。
やっぱり伝統…古典を演じる事もあるし…そのスタイルは一生続くと思うしやっぱり失敗を恐れずに人に…中村の祖父は名女形といわれた歌舞伎俳優。
しかし父が歌舞伎俳優を廃業したためその名門の歴史は途絶えていた。
それでも中村は歌舞伎俳優になりたいと両親に懇願し1981年8歳で初舞台を踏んだ。
父や師匠が物を言う歌舞伎の世界。
その道は決して平たんなものではなかった。
ロックやファッションが好きだった中村は歌舞伎とは違う道に進む事も考えたという。
そんな中村の運命が変わったのは29歳の時。
映画「ピンポン」に出演。
小僧!見る者の記憶に強く残る熱演で映画の新人賞を総なめにし広くその名を知らしめた。
勝つのか?金髪に流行のファッション。
一見歌舞伎俳優らしくない風貌の中村は時代の寵児ともいわれた。
俺も獅童と会った時やっぱり…ほら「ピンポン」っていう映画でそれこそ…もうだからあのころっていうのは30代で出会った頃っていうのは「ピンポン」やって少し名前を皆さんに知って頂けるようになって。
やりたいっていう気持ちばっかりで…。
たまたまオーディションで受かったのが「ピンポン」だったんだけど。
なんとしてでも…おやじがもう廃業しちゃってるから。
18〜19だったかな会社の方に…ものすごい少年だからさ多感な時期だから傷ついて。
ちょっと待てよ。
じゃあその「主役無理ですよ」って言われた…当たり前の人生っていうのは4050になって「いや〜俺おやじが歌舞伎役者じゃないから主役はなかなかできないんだよね」って言ってる自分になるのか。
いや…だからその時はちょっとカチンと来たけど今から思うとすごい…俺の場合は学生時代にシューズデザイナーを始めたんだよね。
22〜23の時に。
うん。
その時まだ大学生で美術大学生でね。
何かねすごく…。
そうだよね。
だから俺も歌舞伎役者なんだから…今だからこそ結構映像やる人たちもいるけどあの当時まだまだねそんなに映像やる人そんなにいなくて。
すごい言われて…。
やっぱりどこかまあ何を言われてもやっぱり人間だからへこたれる時もあるんだけど。
だからそのころは本当に疎ましいっていうか自分でも本当に心折れそうになる事何回もあったけど…。
まあ言えば人生一度っきりでね自分自身の人生だから切り開くもそうじゃないも…。
別に自分は何て言うの…ロックやってるっていうだけでビックリされた時代だったから。
何かもともとそういう意味…。
かぶいてるとか何とかとか…。
やっぱり…まあそれこそ…不良になっちゃうからって言われたけど。
いまだに残っててさ世界中の方たちに愛される音楽になってる訳じゃない。
やっぱり最初に…ちょっと変わった事をやった人って必ず否定されるのがやっぱり社会なのかなと思う。
そうだよね。
そうだよね!歌舞伎を演じる時中村は楽屋に必ず置いておくものがある。
2013年に亡くなった母陽子さんの写真だ。
中村が幼少の頃からいつも舞台に付き添い役がつかないつらい時代も支えた母。
「あらしのよるに」の歌舞伎化は陽子さんの願いでもあった。
お久しぶりですおかあちゃん。
いまだにず〜っと置いてて出る前とかに何か話したりとかするの?うん。
何かね…そういうのありますね。
「てれび絵本」をやった14年ぐらい前かな…の時に家帰ってさおふくろと芝居の話する中で「今やってる『てれび絵本』ってこれいつか歌舞伎になるよね」なんて話してたの。
それでまあ3年前におふくろが亡くなって去年の9月に京都の南座で「獅童座頭で何か」っていう時に演目を何にしようって。
何にしようかな。
あっ!それの企画が通ってやらせて頂く事になって初日の前々日ぐらいかな松竹の方に呼ばれて「何ですか」つったら14年前にうちのおふくろが企画書を作って持ってきてたんだって。
「いつか獅童にやらせてくれ」つって。
知らない…俺はそんな事聞いてないから「持ってったよ」なんて。
死んだあとで見せる事はできなかったんだけど…。
うん…。
すごい母ちゃんだったよね本当に。
おふくろに助けられちゃったなっていうか。
そういう…すごい母ちゃんだと思う。
何かほら言う事なす事やっぱり面白かったからね。
もう本当に…。
俺たちを楽しませようと思って言うひと言ひと言も。
何かほら獅童の…すごいやっぱり「いや獅童の母ちゃんってやっぱかっこいいなあ」って俺…。
最後まであれだったもんね。
だからその…衰えるとか大病をするとかなくもうワ〜っと笑いながら旅立っていったような感じだったよ。
まあビックリはしたんだけど…。
だからもう子孝行だよ。
本当に…。
いやいや…。
出会った人がよかったの。
やっちんもそうだし勘三郎兄さんもそうだし亡くなった三津五郎兄さんもそうだけど團十郎のおじさんとか…本当にこうやってやっぱり歌舞伎座で自分のこうやって企画した出し物をやらせて頂ける。
皆さんは苦労したって言って下さるけどそんな大して苦労したと思ってないしやっぱり先輩の言葉であったりとかやっぱり親が死んで思うのはやっぱり俺は本当にどうって事ないっていうか駄目だけど…やっぱり両親に感謝とかやっぱり人に恵まれてたんだなっていうふうに思うだけで。
いや俺が助言するよ。
はっきり言う。
中村勘三郎さんは中村獅童が役に恵まれなかった時代その熱心さと才能を買って自分の舞台に積極的に起用してくれた。
後ろ盾がなく歌舞伎界になじめなかった中村にとって大きな心の支えだった。
勘三郎兄さんに言われたのは…その言葉はもう本当に忘れられなくて。
「それは誰でもできる事じゃない。
お前さんはできるんだそれが」。
もういいんだ自分らしくいけばっていう…。
いいんだ自分らしくしてっていうのが…。
40代になり中村はこれまでにない新しいタイプの歌舞伎に取り組んでいる。
初音ミクと競演する最新テクノロジーを駆使したデジタル歌舞伎だ。
演じる姿をリアルタイムで記録しスクリーンに表示。
分身の術を用いた立ち回りなどこれまでにない演出が盛り込まれている。
2016年4月に行われた公演はインターネットで中継され2日間で12万人がアクセスした。
アリーナ席どうしたんだよ?おいおいおいおい!伝統芸能とは一見相反するデジタル技術の進歩。
中村はそれを積極的に取り込んで歌舞伎のだいご味をより多くの人に知ってほしいと願っている。
デジタルを否定する訳じゃないしデジタル的なデジタル歌舞伎みたいな事もチャレンジしてるしそれ両方あっていいと思ってるのね。
だからあれなんだよ。
造る時にはすげえ大変だけど後の人は通りやすくなるじゃん。
それをもっともっと先に伸ばそうという獅童の思いとか俺もそうだけどやっぱり自分がこうデザイナーとしてほかのね人たちがどうであれやっぱり作るのは大変かもしれないと。
ただ…またその次の世代たちが新しい道を作ればいいなと思ってるし。
折り返し地点とかって嫌で。
何か。
もうちょっと折り返せないな。
ねえ。
だって振り返ってるあれもねえからね。
まあ今一番楽しいしいつでも今楽しいって言っていたいし本当に何か…30代は30代で楽しかったと思うけど…同じ事50代になった時も言っていたいし80歳になっても言っていたいなって思うんだけどね。
後半は舞台をスイッチ。
ファッションデザイナー三原康裕。
ヨーロッパ各地のコレクションで2004年から毎年作品を発表。
その発想やデザインが高い評価を得てきた。
例えば京都の老舗とのコラボで西陣織の迷彩柄の生地を開発。
ドレスやスーツを作りヨーロッパに日本の技術や美意識の高さを発信した。
遊び心あるデザインにも定評がある。
こちらのコートには引き手11センチの特大ファスナーをつけた。
靴のデザインでもオリジナリティーを発揮。
表面に薄さ0.2ミリの革を張りわざと破れるように作った靴。
はかなさに宿る美を表現したという。
固定概念にとらわれない三原の創作は世界の注目を集め続けている。
今度は中村が三原の仕事場に向かう。
26歳の時会社を立ち上げた三原。
現在のオフィスは原宿にある。
ちわ〜。
俺初めて来るなここ。
ここです。
熊手ね。
こっちがPRとかあとはセールスチーム。
えっ?パタンナー。
パターンを引くの。
こういうほらおいらが描いたデザイン画があるんだけどまあ手書きで描いたものをパソコンでもう一回描き直してでパタンナーが引いてって感じかな。
分かった?分かった。
分かるに決まってるじゃん。
分かった?これ全身…中村が着てきた服は上から下まで三原ブランド。
これは2人が出会った頃の若手の歌舞伎公演のポスター。
中村は今日と同じ服を着ていた。
これだから当時もっと…靴も。
ありがとう本当。
すげえうれしい。
全身。
ちょっと何か…大きくなったなとかね…いう感じだね。
これがまあ次のサンプルで…。
部屋には次のコレクションで発表する服のサンプルが並べられている。
今回ちょっとデフォルメしたシルエットとか形。
今回の服は内側にも三原のこだわりがある。
WEARINGINSTRUCTIONSってやってんだけど…着方。
でもここに書いてるのは説教で「WEARYOURWAYOFLIFE」とか。
要は「生きざまを着ろ」とか。
「NEVERFORGETTOLOVE」とか。
「HAVEFORTITUDE」不屈の精神を持てとか。
僕らは洋服を通じたり靴を通じてやっぱり…クリエイションしていきたいという気持ちがすごくあるから…単純な気持ちだけど…。
三原君の作る靴とか洋服ってあの…僕はいつも思うのは何か…今だからこそ生活も西洋化してきてエレガントもあるかもしれない。
本来…そのかわり…何か三原君の靴とか洋服に僕は粋だねっていう…しゃれてんねっていう…。
やっぱり粋ってまあもちろんねエレガントっていう言葉だったりエスプリっていう言葉とかヨーロッパだったら言うかもしれないけどやっぱり日本って本当に粋って言葉だと思うんだよ。
当てはまるのは。
でもそれってやっぱりある意味…そういう部分に対してもやっぱり…俺持ってきたんだよ今日。
ベルトも持ってきたんだよ。
何かすごい懐かしいけどうれしいよね。
金属の飾りボタンをあしらったこのベルト。
途中からバックルまで白い革で覆ってあるのが三原ならではのデザインだ。
これだってさここはさ見せるのにこれをあえて隠しちゃうとかさ。
靴もさ靴ひものとこをコーティングして結び目のとここうやって隠しちゃったりするじゃない。
全部ね見せたいとこだけどわびさびじゃないけどさ…。
何かこう…何かその今の時間軸と過去の時間軸剥離されたような。
靴も持ってきたよ。
俺が愛用してる。
鼻水出てきちゃう。
これ…これ宇宙。
これは単純にあれだよもう…要はこういわゆるさスニーカーじゃん。
もうみんなが見て分かるとおり…。
スタンダードな。
それがここで…じゃあこれがね俺がねこういうのを作ってじゃあ…言うかもしれないけど…100人が見てこれを見た時にさっきみたいに「前から見ると学生みたいだけど後ろから見ると宇宙人か」とか。
「みたいだな」とか。
ある種こういうのは哲学的なんだよ自分が作ってても。
100人いたら生い立ちも違かったり国も違かったり性別も違う人たちが見たら違うと思う。
だから…三原は1972年長崎県で生まれた。
母は油絵画家。
子どもの頃から芸術を身近に感じて育った。
東京の美術大学に在学中独学で靴作りを始め22歳の時シューズデザイナーとしてデビューした。
これは20代の三原を取材した映像。
三原は靴職人の街浅草にアトリエを構えていた。
シューズデザイナーには珍しく自ら木型を削り靴を制作。
オリジナルの木型から生み出される斬新なデザインの靴は流行に敏感な若者たちから圧倒的な支持を得た。
三原の名が世界に知れ渡る事になるのは2000年に始まった世界的なスポーツブランドとのコラボレーション。
当時まだスポーツシューズにすぎなかったスニーカーをファッション性豊かなものに変えた。
機能と美しさを併せ持つアイテムは世界中のスニーカーフリークたちを熱狂させた。
だって靴でスタートしたじゃんもともと。
そう。
福岡から東京の大学に多摩美術大学っていうところに行った時もアートで生きていこうと思ってたんだよ。
でも一つずっと信念っていうか使命感。
何かやっぱりちっちゃい時にさ親に連れられて行った美術館とかに行った時に何か絵を触りたくなって手を伸ばした瞬間にやっぱり「駄目です」って怒られる訳じゃん。
彫刻とかもそうだけどきれいなものを触ろうとした瞬間に。
それってやっぱり自分の中ですごくトラウマがあって。
逆に言うと剥離されているようなものであって。
何か人と芸術は調和しないものなんだっていう。
それこそ何百万何億の絵画を描くから芸術家としてはすばらしいのかっていやそうではないと思っててもっとこう…。
靴ってさ例えば外国に行ったらその地その土地を何て言うのその土地の地面を踏んだっていうそれがさこの靴は一緒にロンドン行った靴だとかさ何か海外行った時に履いてた靴とか…。
思い出すもん。
俺もそうなんだけどやっぱり学生で初めて海外に行った時か。
やっぱり石畳だったのがまずビックリしたんだよ。
すんげえ痛かったの革靴履いてって。
足の裏がもう本当に痛くてもうどうしようかなっていうぐらい痛くて。
でも何かその記憶ってすごくいまだにあってその時履いてた靴も実は持ってんだよ。
自分で作った靴を履いてったんだけど何かすごくあの…忘れられないかな。
革靴とかうちのおやじなんかも特別なご褒美に…。
銀座ワシントンでローファー買ってもらったの。
中1の時に。
しかも俺やっぱり靴が好きだったんだよ。
だから何か続けてず〜っと見続けられるような気もしたし。
足に入れて走ったり歩いたりしなきゃいけないし痛かったらもう嫌だし。
ただ何かそれがこう…それはいい意味でね。
ちっちゃい器で。
その中に…そうそう何で靴やってて洋服もやろうと思ったのは…。
何かそれがねまたくだらない理由でもあるんだよ。
シューズデザイナーとしてこれからずっとやっていくにあたって何かファッションデザイナーとシューズデザイナーでいった時…よしシューズデザイナーの地位を高めてやると。
簡単な事言うと…本当に若い発想だったと思うけどでもそのとおりで逆にすごい勉強したんだよ。
それこそ本当に洋服を知るためにテーラー屋さんとかにさ自分が持ってるブランドものの洋服からあとは普通のテーラードジャケットとか持ってってさ。
浅草の駅前にあるんだよ。
ちっちゃいテーラー屋さんがいまだに。
でそこ持ってってさ…聞いてみたの。
そしたら「う〜ん」とか言って。
おじちゃんが言っていくんだよ。
「これはあれだな」とか。
そういう話を聞くだけ聞いて手ぶらで帰ってきちゃったりして。
でも何かやっぱりそういういろんな職人に会うようになってみんなやっぱり雄弁なんだよ。
例えば靴の職人だって……って俺に言うんだよね。
「ほう〜」と思ってさ。
それまではやっぱり革をきれいにきれいにしようっていう気持ちがじゃあ変な話そのライダースジャケットもそうだけど…何か本当に「化かす」。
職人って感じするもんね。
俺も好きなんだよ職人っていう。
自分もそうありたいと思うしそれをやっぱり答えを見つけようとしてるとこもずっとあって。
例えばじゃあいわゆる伝統と呼ばれてるさっきの歌舞伎の話と重なるんだけど例えばイタリアに行きましたと。
イタリアの靴屋に行って。
イタリア人もイギリス人も。
でもふと思ったんだよ。
みんなセールストークのようにそれを言うが…やっぱりその時に生み出した技術が最先端であり彼が思う新しい事であって。
それでいて新しい事にチャレンジしていこうとする姿が正直僕は靴職人に願いたい事だったんだよね。
革新を求める事を自らに課す三原。
最新のコレクションではシンプルを追求した。
華美な装飾ではなく素材やシルエットを生かしてインパクトあるスタイルを作った。
森の木一本一本にインスピレーションを受けて今回のコレクションを作った三原。
それを発表するのにふさわしい場所としてロンドンにある巨大な温室を選んだ。
ショーの終盤に登場したのは「これが明日だ」と縫い付けたコート。
一人一人が自分の存在感に気付くと違う未来をつくる事ができる。
それが三原のメッセージだ。
だから何かすごく…何だろうインスピレーションって言葉どおりに言っちゃうと本当にひらめき的な事があるんだけど。
ただ自分がやっぱりあの…結構真面目に考える時もあるの。
ず〜っと考えて何も湧かなかった一日とかもあるんだけどそうじゃなくて…そっちの方が俺は多いんだけどな。
俺も結局…。
何か違う事やってる時とか…。
言葉でね。
なるべく言葉と…。
絵も描くけど…その瞬間に思いつく事ってあるじゃん。
あるある。
それをこう…そっちの方が…だから何かそういうように心がけるようになったかな。
「何だ?何?」って。
子どもの頃とかね学校が吉祥寺…井の頭公園だったから池をずっと見てると晴れた日になると水を見てると空が映ってる訳じゃない。
ず〜っと水見てたりさいろんな事考えたり…。
1,000人いても1,000人とも違う事を考えるべきだと思うし。
その想像を鍛えるために何かやってる?大人になってから。
いろんな訓練のしかたがある。
例えばノートのこっちに好きな事例えば…丈が短いとか何とかとか色がなになにとか。
こう書いていくんだよ。
いわゆる流行ってる事ね。
要するにこっちが流行ってる事だったらこっちは流行ってないはずなんじゃないかっていう感じになるじゃん。
自分にとってはそっちの…あ〜なるほどね。
もちろんちょっとひねくれてる部分もあるかもしれないけど…いわゆるそのきっかけになる…要するに自分のこう…想像をかきたてるような事を文章にしてみたり絵にしたりするんだけど。
例えば歌舞伎って何なんだろうって。
思ってる思ってる。
でしょ?でも見てる人たちは「歌舞伎だ」って見てんだよ多分。
だから…やっぱりそこだと思う。
僕らの仕事っていうのは結局ファッションとは何かとか歌舞伎とは何かとか音楽とは何かとか。
それこそ芸術とは何かとか。
そういう心のどっかに引っ掛かる事であったり…やっぱりそれしかないのかなと思う。
不惑の40を過ぎて自らの仕事を語り合った同い年の男2人。
この先その仕事と人生にどう向き合おうとしているのか。
31〜32で知り合ってそれで40代迎えて今日の芝居見てもらって…。
まだまだ未来に向かって突っ走っていきたいって思いが強いけど…。
僕は本当にもう本当首突っ込んじゃった世界だから。
ファッションにおいて。
例えば僕の…30代の時に作ったものを大事にしてくれてる人が50代60代になってもその時の自分の作ったものに何かを感じて着たいとか履きたいとか思ってくれる事をやっぱり考えたいし。
だから自分のこれからって考えた時に簡単に言えるのは日々精進としか言えないかな。
また壁にぶつかってってやっぱりそれが楽しいからね。
獅童の芝居を劇場まで足を運んで見に行こうって思って頂けるような役者…うん。
これだけは本当に思う。
またねこの12月っていうのが運命的で。
あそこなの。
3年前も。
本当に出番は一瞬なんだけど悪役で。
殺されて回り舞台が回ってって次の場面に転換していくんだけど。
だけどやっぱりお客様っていうのは本当にありがたいなと思って。
また今月同じ楽屋でうちのおふくろと一緒に夢を語り合ったそういった作品をやらせて頂けてるっていうのはもう本当に…助けてもらってるとしか思えない。
俺なんかもう何にもできてないけど本当にもう皆さんに助けて頂いてるなって思う。
獅童とか今日見た時にすごく愛されてると思った。
いや俺本当にそう思うよ。
もう本当に。
うれしい時悲しい時いろんな感情になるけどやっぱりいつも…いつもそばに歌舞伎っていう演劇が…。
結構いろいろあったもんね。
いろいろ…。
あったね。
いろいろあったね。
いや〜何か…泣くとさ俺今も泣きたくないけど泣いちゃったんだけどさ。
いろんな気持ちの流れで。
体力使うね。
疲れちゃった。
今後ともよろしくお願いします。
今日はありがとうございました。
こちらこそありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
すげえよかった。
おいらも頑張る!2017/02/18(土) 22:00〜23:00
NHKEテレ1大阪
SWITCHインタビュー 達人達(たち)「中村獅童×三原康裕」[字]

歌舞伎だけでなく映画・ドラマと幅広く活躍する中村獅童と、世界を舞台に活躍するファッションデザイナー三原康裕が、伝統の中で改革を続ける意味など仕事術を語り合う。

詳細情報
番組内容
歌舞伎界の“異端児”と呼ばれながら精進し、今や歌舞伎俳優としてゆるぎない地位を確立した中村。靴のデザインからキャリアをスタートし、ファッション界の“異端児”と見られてきた三原。伝統の壁を越え、新たな挑戦を続ける2人が、新作歌舞伎を上演する楽屋、デザイン事務所のアトリエという互いの仕事場を訪問し合い、逆境を力に変える方法など、これまでの交流でも語り合うことのなかった本音をさらけ出す。
出演者
【出演】歌舞伎俳優…中村獅童,ファッションデザイナー…三原康裕,【語り】吉田羊,六角精児