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字幕書き起こし 100分de手塚治虫 2016.11.12

次の開催地東京をアピールするセレモニー。
その映像に現れたのは?今や日本の漫画やアニメは世界中の人々を魅了しています。
その土壌を育んだのが日本の漫画文化。
その歴史を遡ると今から70年前子供たちの前に現れた一つのまばゆい光に行き当たります。
「漫画の神様」と呼ばれた男。
60年の生涯で生み出した作品700タイトル以上。
描いた原稿15万枚。
圧倒的な仕事量は今も他の追随を許しません。
日本初の長編テレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」。
長編カラーテレビアニメシリーズも手が初めて手がけました。
戦後日本の漫画テレビアニメの生みの親。
その後の世代に絶大な影響を与えた手。
彼が世を去って27年。
変わりゆく時代の中手治虫の作品はいかに読む事ができるのでしょう。
各界で活躍する論客が独自の視点から手治虫作品を「名著」として読み解いていきます。

 

 

 


伊集院さんいかがですか?これ全部手治虫さんが描いたものなんですよね。
いや〜もう数えきれないほどありますからね。
膨大な作品の数なんですね。
ふだんは毎週月曜日にお送りしています「100分de名著」。
今日はその拡大版です。
今回は漫画の神様手治虫スペシャルですよ!いやこの番組で名著として漫画を取り上げるというのは初めてなんですけどまあその1回目が手治虫先生なら誰もまあ文句はないでしょという事で。
実は今年が手治虫さんの漫画家デビュー70年の年なんですね。
100分たっぷり語ってみたいと思います。
それでは早速ゲストの皆さんのところに行きましょうか。
では今日手治虫の作品をとことん読み解いて下さる皆さんをご紹介します。
はい。
よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
いたします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
園さんは手治虫作品というと?生まれた時から僕の身の回りに空気のように存在しててもう自宅には手さんの漫画が特に「鉄腕アトム」なんか本当に普通に並んでて本当にもう手治虫がない生きざまというのがないぐらいの。
当たり前のようにそこに存在した。
そうですね。
園さんはね僕のね5つ6つ上なんですけど僕の世代はその手さんから分派してく藤子不二雄さんとか石森章太郎さんとかブルボンヌさんも多分ねそうですけど。
その人たちが尊敬する手治虫みたいなワンクッションありますよね?私ちょっとだけ若い方なのでそうするとちょっともうチルドレンな皆さんの時代になってたんですけどただ再放送とかも多かったので夏休みになぜか必ず「ふしぎなメルモ」と。
やってた!「キューティハニー」のセットで女性主人公かつちょっとエッチみたいなのをいつも見せて頂いてたのでそこからじわじわ遡ったタイプですね私は。
斎藤先生は手治虫というと?僕の子供時代は専らアニメで接してたんですけど当時一番まずい出会いだったのは「COM」で出会っちゃったんですよね。
「火の鳥」ですかね。
まずい出会いですか「COM」で「火の鳥」から出会うってのは。
非常にまずい。
漫画というのはもっと笑える楽しいものだと思ってたんですけど何か人はバタバタ死ぬしみたいな。
私は死なない人という意味じゃすごい怖くてですね。
死なないのっていい事なように子供って感じるじゃないですか。
でも「火の鳥」って死なないのって嫌だなって。
そうそうそうそう。
子供心にね死なないって恐ろしいなって感じさせてくれた恐怖体験でしたねあれはね。
釈さんですか。
(釈)はい。
物心ついて初めて読んだ絵本が多分「アトム」なんですよね。
小学校の低学年ぐらいに漫画を読み始めた時にはとにかく重いんですよね。
友達は「読んでも面白くない」って言ったのを覚えてるんですよね。
手治虫としては苦難の時期だったようで。
その後もう一度あの「ブラック・ジャック」で出てきたというそういうイメージですよね。
私大人になって初めて「ブラック・ジャック」を読んだのが手作品の初めてでアウトローで人の命を救ってかっこいいって本当に恋心を抱きましたね。
個人的にすごく印象に残ってる作品があって今回この番組をやる事になってもう一回読み直したんですけどここに出してもらった「日本発狂」という。
当時UFOとかこれもオカルトで幽霊お化けみたいなそういうものがいっぱいはやってる中でこの漫画はこの世ってあるじゃないですか。
この世で人が死ぬとあの世に行くんだけどあの世でも戦争をやっててその兵隊が足りない。
だからこの世でバンバン人を殺してくれなきゃ困る。
あの世で人が死ぬとこの世に生まれ変わる。
この世でも戦争をやってるみたいな。
しかもUFOというのはこの世とあの世の間の兵隊を運ぶ装置として出てきたりとかしてて。
全部こう中にはやってるものを入れながら今読み直してみるとまたちょっと一回りすごいみたいな。
手作品の大半はやはりすぐに消化できないものが多くて年を重ねて読むと新たなものが見えたりというのは大きな特徴じゃないかと。
何か引っ掛かってるとこはちょっとあってモヤモヤする割り切れない何かが何割かあるんですよね。
手治虫の名著をひもとくトップバッターはブルボンヌさん。
女装を表現行為として捉えLGBTの存在を社会に発信。
最近ではテレビのコメンテーターとしても活躍しています。
ブルボンヌさんが今回名著として取り上げる作品は何でしょうか。
今日ねこの中で明らかに浮いちゃってる格好をしてると思うんですけどそれはこの作品をイメージしての事だったんです。
こちらです。
「リボンの騎士」でございます。
ヒラヒラの飾りなんかはそういう事なんですね。
(ブルボンヌ)この主人公が王家に生まれた。
本当は女性だけれども王子のふりをして生きる少女という事でね私も女性のふりをして生きているおじさんですからまあシンパシーを抱かずにはいられなかったわけですけども。
作品としても1953年に最初の「少女クラブ」版が出て次が10年後に「なかよし」でリメイク版が出たんですけどその時代にしてはもう本当にいろんな新しい事にチャレンジしていて。
そもそも少女漫画の世界に長いストーリーを持ち込んだのもこれが最初だという事だったんですよね。
でも何か少年時代の…少女時代のブルボンヌさんが。
少年。
そのころ少年時代。
少年時代のブルボンヌさんがそれこそアニメでね「リボンの騎士」に何か揺さぶられるのはちょっと運命的ですよね。
そうですね。
だから何だろう最初の物心ついた時にこういう形があるんだって教えてくれたというのはものすごい種を頂いたと思います。
斎藤さんは「リボンの騎士」についてはいかがですか?これは歴史的にすごくエポックな作品でいわゆるアニメカルチャーとかサブカルチャーの中で少女が戦うというねアイコンがあるわけですけどこれは相当日本独自の文化なんですよね。
小さい中学生以下ぐらいの女の子が戦うというですね。
「戦闘美少女」という名前を付けたんですけれどもその源流作品。
今の若い方たちがご覧になっているアニメも恐ろしく戦う少女が主人公ばかりですよね。
ほとんどそうです。
8割そうです。
手治虫さんが宝塚歌劇が大好きなんですよね。
(斎藤)その影響はすごい大きいと思います。
では「リボンの騎士」のあらすじを見ていきましょう。
長編少女漫画の草分けとして少女雑誌に度々連載された「リボンの騎士」。
今回は1963年発表の「なかよし」版であらすじをご紹介します。
物語は天国から始まります。
これから地上に生まれてくる子供たち。
男の子になるか女の子になるか神様がハートをのませて決めています。
しかしここで事件が。
いたずら天使チンクが一人の子に勝手に男の子の心をのませてしまいました。
そうとは知らない神様はその子に女の子の心を。
さあ大変です。
こうして男の心と女の心その両方を持って生まれてくるのが主人公サファイアなのです。
とある王国の世継ぎとして誕生したサファイア。
女の子なのに間違って王子が生まれたと発表されてしまいます。
しかし王様には訂正できない事情がありました。
この国の掟では男しか王になれません。
サファイアが男の子でなければ王位は悪徳大臣ジュラルミンの息子が継ぐ事になってしまうのです。
こうして王子として育てられる事になったサファイア。
ふだんは騎士の装いです。
しかし女性の心も持ち合わせるのできれいなドレスを着る時間も楽しみ。
サファイアの正体を暴こうと画策する大臣との戦い。
乙女に変装したサファイアと隣の国の王子との恋。
更にサファイアの女の心を狙う魔女も登場。
男と女二つの心をめぐる波乱万丈の物語が展開していくのです。
こうやっておさらいしてみるとちょっと興味深いのは何かね単純にね王位の問題があるから女の子なのに男のふりをしてるみたいな事だと思ってたの。
ちょっとそうじゃないですよね。
その前の方が重要なんですよね。
男のふりをしなきゃいけなかった事は王位継承の問題もあるんですけど実はそれ以前に神様のね心をいれる場所で天使チンクのいたずらで女の子の器に男の子の心をいれちゃった。
神様は神様で女の子の心もいれたっていう男の心と女の心が一つの体に入った状態から始まってるんですよね。
それって「トランスジェンダー」と言われる性的少数者の中の一つの性別を移行したい感覚を持ってる人たちをまさにこの時代にもう表してたって事になると思うんですよね。
斎藤先生医学的な見地からいくと…。
心の性がジェンダーで体の性がセックスで一致しない場合一致しなくても別にそれ自体は病気じゃないんですけど一致しない事に悩んでいるとか一致しない事がいろんな葛藤のもとになっていて何とかしたいという方に対してはまあ性同一性障害みたいな診断を下して今はジェンダー心の方ですねそれに合わせて体の方を手術したりする場合もあるという事でそういう治療をする事もあるけれども特に葛藤しない人は別に病名を付ける事も特にないという事になりますね。
その治療という文脈で言うと男の体なのに女の心が入ってるからじゃあ体も女にしましょうというある意味また極から極に移行する話じゃないですか。
それがもちろんしっくりくる当事者の方もいると思うんですけどそうすると「リボンの騎士」の主人公のサファイアのコロコロ男と女を行ったり来たりする感じは結局自分がないじゃないかみたいな感じにも見えたと思うんですよ。
でも最近の若い性的少数者の子たちに多いのが「Xジェンダー」という言葉でジェンダーは男か女かの二元論じゃなくてそのどちらでもない感じだってあるんじゃないかというのを自認する人たちが今すごく増えていてだからこそ「リボンの騎士」の中でどっちの性も入れ代わるしどっちの性の性的役割らしさを演じる時間だってあっていいじゃないという揺らぎがむしろ本当に最新の感覚に近いんですよね。
(斎藤)すごい先進的ですよね。
ジェンダー・フルイディティというじゃないですか。
性的流動性って最新の流行語があるんですけどこれはもう場面によってジェンダーを切り替えるみたいなね新しい生き方がありますよね。
これがむしろこの漫画の一つのテーマみたいな感じ。
当時ね子供の俺は分かんない。
騎士としての僕をバカにするんじゃないみたいな時ってとても男性的じゃないですか。
にもかかわらずそのお姫様の格好をしてる時のうっとり具合はとても女性的でどっちなのってなっちゃうんだよね。
(ブルボンヌ)私もね女子になっちゃってる時は「え〜何?ちょっとつまんない」と思いながら見てました。
「ハッキリして!」って。
でも今ハッキリしてっていうのもこっち側の押しつけなんだなという事がやっぱその世界に長くいる事でこういう人たちがいるんだって今実感がやっと合致した感じです。
園さんの作品も性に対しての要素が強い作品が多く撮られてらっしゃいますけども。
僕はずっと手治虫の漫画を読み続けてきて潜在意識の中でも影響がものすごいので僕の映画でも変装して男装して女装してというのはよくあるんですけどそれも別に何が何でどうなったかというと多分手治虫なんですよね行き着く先は。
「リボンの騎士」の魅力は衣装をかえる事でサファイアが男性性と女性性を行き来する事。
この「異性の服を着る事による変身」も画期的な要素だと言います。
装いの魔術みたいなところってその後のいろんな漫画が「変身」というキーワードを使うようにものすごく漫画文化の中では重要な要素だと思うんですけどさっきのジェンダーって性的役割ってまさしく装いにも表れててスカートは女の子が着るものとか学ランみたいなのは男の子が着るものというのがあった時にその本来の性別に与えられてない装いを着る事の越境の喜びって特にそれは女性がそこを楽しめる人が多いみたいなんですけど私たちもそれを取り込もうとして結果ちょっと間違ってこうなっちゃったというのもあるみたい。
女装パフォーマーになっていくわけだ。
そうなんですよ。
もしかしたらここで女装って装いを極端に変える事って自分のスイッチの入れ替えができる。
解放できるものなんだというのを学んでるのかも。
いや確実にあったと思います。
だって同じ人だとは思えないぐらいちょっと金髪のロングヘアをかぶった途端に「あま色の髪の乙女です」みたいになっちゃって。
急に王子にデレデレしてそんなものなのって思ってたんですけど今日私も楽屋に入る前はほんとただのじじいだったんですよ。
それがちょっと装った途端にみんなの前でエレガント演じちゃってるわけですからやっぱ装いってものすごい要素だと思いますね。
今装いの話題が出ましたけど…一人の人間だっていろんな人格が潜んでるし。
この性別に関しても恐らくその男女という二大別などはできないという感覚は恐らくあったと思います。
これ最終的にサファイアってどうなっていくんでしたっけ?そこはね何か悔しいけど最終的には割と…まあ本当にステレオタイプな感じに収まってしまうのが時代でもあり王女様として落ち着いちゃうんですけれども。
ハッピーエンドなんですよね。
王子様と結ばれて。
なるほど。
王子様と結ばれてお姫様として生きるのがハッピーエンド。
今のそのサファイアのオチに関してはまあ主人公だし時代を考えたらそういう落ち着き方しょうがないねと思いつつちゃんとヘル夫人という魔女がいるんですけれどもその娘のヘケートという子が割とよりサファイアよりも自覚的にジェンダーにとらわれないキャラクターなんですよね。
ヘケート全然覚えてない。
こちらです。
(ブルボンヌ)王家の継承権の問題での男女の問題じゃなくてこちらはお母さんが「あなた女の子なんだから女の子らしくしなさい」って言って女の心をいれようとするというところでまたサファイアとは違った意味で自分の中に男なのか女なのかみたいなテーマを抱えてる子なんですよ。
ただ面白いのがサファイアが分かりやすく男性ジェンダー的な格好をしたりもするのに対してこの子はいわゆる男勝り的なキャラクターなのに見た目はとってもフェミニンなんですよね。
ロングヘアだしかわいいラインの服を着て会話とかもサバサバはしてるけど無理に男ぶる感じではないんですよ。
ただすっごく筋が通ったかっこいい女の子でそして「少女クラブ」版では最後ヘケートちゃんが亡くなる時に体の中からサファイアから取っていれられた女の子の心と本人の中にあった男の子の心の2つが出てくるという描写があって。
…というふうに読み取れるんですよね。
って考えると外見とか関係なく男の心を持ってしかもそれを伸び伸びと。
女らしい男らしいを超えてる。
超越してるんですよ。
まさに自分らしさを貫いてるんですよね。
その生まれとしては悪魔の娘でありながら主人公を助けるという善行をしちゃうところも含めて…もう一つブルボンヌさんが取り上げたい作品があるそうですね。
(ブルボンヌ)いいですか。
もっとディープな感じになっちゃいますけれども。
いきましょう。
こちら「MW」でございます。
タイトルだけしか知らないな。
これは?これは子供向けの健全なものを巷では「白手」なんて言ったりするらしいですけどこちらは多分「黒手」の筆頭なんじゃないかという作品で。
大人向け?はいもう主人公が猟奇殺人者ですから。
そういうやつなんだ。
そして主人公と双璧を成す二人が同性愛の関係で結ばれているという。
もうどストレートですね。
どストレートなんです。
1976年に連載された「MW」は手が徹底して人間の「悪」を描いたダークな作品。
主人公・結城美知夫はその端正なマスクとは裏腹に冷酷な殺人を繰り返す希代の犯罪者。
そんな結城を悪の道から救おうとするのが賀来神父。
二人には人知れぬ過去がありました。
かつて某国がひそかに貯蔵していた化学兵器MWが日本のある島で漏えい。
事故の唯一の生き残りがまだ幼い結城と賀来だったのです。
闇に葬られたこの事件。
結城は毒ガスMWの影響なのか良心のかけらもない男になりました。
後遺症に苦しみながらも結城は恐ろしい計画を実行していきます。
それはどこかに隠されているMWを手に入れ大規模テロを起こす事。
神父として結城の犯罪を憎む賀来。
しかしあの事件の日以来二人は特別な関係にありました。
賀来は罪の意識に身を焼かれながら結城の愛を拒む事はできません。
毒ガスをめぐる犯罪劇に男同士の愛が複雑に絡み合った手治虫の問題作です。
1976年という事はそれこそ僕が「リボンの騎士」の再放送を見てるぐらいの時ですよ。
そのころにこれを描いてるんですか。
すごいでしょ。
すごいですね。
まあ主人公が悪役っていわゆるピカレスクものなんて言われるジャンルだと思うんですけど今でこそね男性同士の関係をボーイズラブって名付けてそれこそ一大ジャンルを築いてね「あさイチ」でも特集されるぐらいになってますけどこの時代にね青年誌でそれをやったってすごい事だと思うんですよね。
当時の一般的な価値観って気持ち悪いか面白いのどっちかにしかされてないでしょ男男の関係って。
私も今でもほぼその2つなんですけれども。
世の中そういう見方はまだまだ残ってますからね。
それまで70年代80年代のメディアに登場するのはまさしく伊集院さんがおっしゃったようなキャラクターばっかりだったんですよね。
その中でシリアスに描き意外なほどニュートラルに描いてくれてるんですよね手先生は。
またキャラクターが立ってるというか。
ねえ。
梨園の息子の美男子と昔ヤンチャはしてたけれども今は神父である。
また見た目もそれこそ最新のボーイズラブとかにも通じるような女性かと見違えるようなきれいな子と男っぽくてどっちかというとその子に引っ張られちゃうタイプという組み合わせももうこの時点で完成されてて正直私目線だとたくましい賀来神父超イケです。
そうなんですか。
(ブルボンヌ)そう。
主人公が悪役だって事でイコール同性愛は悪というふうに描いてるって感じちゃう人もいるかもしれないんですけどそれはあくまで設定がそういうふうになってるだけで今度は逆に賀来神父の方がそれこそ70年代80年代に一番主流だった下世話にそういうものを取り扱おうというマスコミが下世話なスキャンダルとして彼の同性愛を暴くみたいな記事を書こうとするとマスコミの中の女性記者がそれを上手に差し止めてくれるんですよ。
何でこの人こんな事するのかなと思ったらそのあとその人が自宅に帰ると女の恋人が待ってたという。
シークエンスが入ってるんですよね。
あれはすごいですよね今見てもね。
(ブルボンヌ)あの時代にあれをやれるって本当にすごい事だと思います。
確信でやってるんですよねだからねちゃんと。
彼はよく映画も見てらっしゃったんで西洋のヨーロッパのフェリーニとかパゾリーニの映画とかいろんなのが来て時代の波が。
そういう中でやっぱりどんどんそういうのを取り入れたいという気持ちが多かったと思うんですよね。
「MW」の中でも「海外じゃこんな事常識よ」ってセリフがあるんですよね。
斎藤先生は「MW」どうお感じになられますか?大好きで今読んでも非常に面白いですよね。
こういうものが広い文脈で共有されたのは恐らく日本だったら80年代の「BANANAFISH」とかですねあのぐらいにならないとこういう感じにならなかったんだろうなと思うんですけど。
すごく先進的な感じというのはよくありますよね。
これ国によっては相当問題になったはずですよ。
神父さんと同性愛というのは今なお大変難しい問題ですから。
発禁かもしれませんね。
最近アカデミー賞をとった「スポットライト」という映画ありましたけどカトリック神父の幼児虐待性的虐待の話なんですよね。
カトリック神父ダークサイドを描ききったという捉え方もできるかなと。
主人公がやっぱり悪魔的な人じゃないですか。
それに対峙する賀来さんはまさに神の子である神父という役割じゃないですか。
その対照的な感じって性の男と女であったり何か一説では「MW」って「M」が「MAN」で「W」が「WOMAN」のそこからとってるんじゃないかという言葉があったり。
あとこれ反転すると形変わんないですよね。
「M」と「W」って。
そういう何か極と極がでも実はつながってたりそれこそどっちがどっち正しいんだろうねみたいな感覚がこの中には詰まってるんだろうなというのは。
悪魔の所業になってしまうって神父さんが悩みながらもでも彼の事を憎みきれない感じとかやっぱりここでもそんな簡単に割り切れるものじゃないんだよという事を常に訴えてらっしゃる感じがするんですよね。
これだけのヒットメーカーの手治虫がここまでのキワキワの問題作をなぜ描けた?やっぱり一時期低迷していた人気がちょっと陰りが見えたというところからのいろんな事にかなりきつい事もやってやろうというお気持ちもあったと思うんですけど。
(園)負けん気があったと思うんですよ。
そうですよね。
劇画タッチだったら何でも劇画なのかと。
もっと俺の方がハードだぞという事を言いたかったと思いますよ。
劇画とかもどんどん出てくるわけですよね。
その園さんの説で言えば「できますよ。
もっとすごい事を僕はできますよ」というその負けん気。
そうですね。
あと多分なんですけど有害図書指定とかも当時結構「やけっぱちのマリア」とかでも受けちゃってますよね。
性みたいなものとか悪みたいなものを一世代を築いた大家がチャレンジするって事はすごいリスクがあるんだけれども逆にそれに対する反骨精神というのが常にある方だったんだなって。
政府の陰謀みたいな事をテーマにしてる事も含めて。
「有害」なんて言うんならこんなもんじゃないぞと。
俺が本気で描いたらっていう。
それもちょっと負けん気ともしかしたらつながるかもしれないですね。
僕は園監督にそれが流れてるのがよく分かります。
これでもかっていう。
有害であればあるほど燃えるっていうか。
それこそ表現だと思うところもありますから無害であるなんてちっとも面白くないし。
そういう意味では手先生はいつだって「アトム」の時代からずっと有害な漫画ばっかはきちらかしてたと僕は思ってますけどね。
なるほど。
続いて手治虫を語るのは映画監督の園子温さん。
数々の問題作話題作で世間を刺激し続ける園監督。
手治虫のどこに魅力を感じているのでしょうか。
園さんはどの作品を取り上げられますか?
(園)いやほんとに全部好きなんです。
どれと言わずほんとにどれもこれも好きなんでもう面倒くさいんで「鉄腕アトム」を選びました。
1周も2周もして「アトム」という。
そうです。
「鉄腕アトム」ここから入っていこうかなと。
まあ「アトム」は気が付いたらこれは僕の生まれる前からありましたから物心ついたらその辺の本棚にもあったしいとこも読んでたしで。
まあ空気のようになじんでたけどもある瞬間に一生涯僕の心に魂にまとわりつくような存在になってたという事ですね。
でもその空気である「アトム」がこれは事によるとすげえぞって最初に思うのは何ですか?ここ非常に複雑なんですけどどっからというのが僕には実は分からないんですね。
でも手治虫がすごい好きな理由は一個しかなかったです。
それは絵なんですよ。
絵?もう描写「線」ですね。
線。
しかも絵でもなく線ですか。
僕物語もどうでもいいんです大げさに言っちゃえば。
同じストーリーで違う人が例えばさいとう・たかを先生が描いてたりしてたら全然興味ないですよ僕は。
あの線じゃなきゃ駄目?あの線だから僕はいいんです。
線であって彼のタッチが一番重要だったんです。
そこからきますか。
はい。
手治虫の線の特徴ってどんなところなんですか?手先生は…それが物語るようにすごく曲線が美しいんですね。
そしてコンパスを使わずに円を描けるという事は最後終わりですよね。
そこが完全に最初の描き出しとピッタリくっつくわけですよ。
もう何も使わずに。
だから迷いがない。
常に一筆書きのごとく描いてって最後までず〜っと描いてる。
そういう絵なんですよね。
それはもう誰にもまねできないし少しずつみんないろんな人のドキュメンタリー見るとやっぱり上から試しながら描いてんなと思う。
僕は手先生は絶対こう描きだしたらスーッてね「アトム」とかも全部描いちゃったんじゃないかなと。
小さい頃から絵をまねしてたそうですけど。
完全にコマごとまねしてました。
っていうか今読むと「あっこのカット何回も描いたな」という。
そのころから結局何を勉強してたかというとカット割りとかカメラの構図とかこういう時は俯瞰で撮るべきだなとかあおって撮るべきだとかそういうのが手先生の絵には全部そろってるので。
あの時丸が描けてたら漫画家だったかもしれませんね。
もうほんとに漫画家になりたかったんです。
僕は漫画家になりたくて手治虫のせいで漫画家になりたかったんですずっと。
なのにもう壁がはるかなる壁のせいで。
一番高いものの一番高い技術にチャレンジして諦めちゃったみたいなとこが。
諦めた。
だからビートルズもそうなんですよ。
もう音楽も無理だ。
そうすると映画はちょうどなかったんで。
まさに表現の原点なんですね。
そうですはい。
手治虫が描く曲線の美しさ。
それがロボットであるアトムに特別な質感を与えていると園さんは考えます。
「アトム」は一応硬い設定らしいんですけどどう見てもゴムっぽくやわらかい皮膚感がすごくあってすごく親しみやすいというかそもそもロボットの漫画ってそれ以前ほとんどなかったにもかかわらずいきなりこの最新型というかそのあと「マジンガーZ」とか硬そうなロボットの漫画がいろいろ出てくるけど当時いきなりやわらかいとこからいくというのがもう異常だったと思うんですよ。
やっぱり人間としか思えないじゃないですか。
僕もすごく影響を受けて去年作った映画なんかはどこから見ても人間でここをパカッと開けると乾電池が入っててそれを単三なんですが取り替えるシーンがあるんですけどそれ以外はもうほとんど人間だっていう「ひそひそ星」という映画を撮ったんですけど。
だからそれは何の影響だろうと思うとやっぱり手先生の「アトム」から来てるんですよね。
ロボットなんてカチカチやってるもんじゃないというか人間と全然変わらないぞというもう刷り込まれてるんですよね。
そういうものがふいにロボットの悲しみを見せたりとかするからドキドキしたりとかその事が多分タッチに入ってるのかな。
手さんの作品には「アトム」以前から丸い線で描かれた人間ではないキャラクターが登場していたんです。
手治虫の丸い線は初期のSF作品の中でも特徴的なキャラクターを生み出していました。
1948年に描かれた「地底国の怪人」ここに登場するのは人間並みの知性に改造されたウサギ耳男。
彼の得意技それは変装。
帽子をかぶれば男の子に。
カツラをかぶれば女の子に早変わり。
翌年描かれた「メトロポリス」。
ここには10万馬力の人造人間ミッチィが登場。
喉の奥のスイッチで男にも女にもなれるロボットです。
このミッチィがアトムのルーツだと手は述べています。
そして誕生した「鉄腕アトム」。
そこにも意外な事実がありました。
アトムをはじめ手の「丸い線」が生み出したキャラクターたち。
それらは皆どこか女性的な雰囲気と色気を漂わせているのです。
いや〜今の短いVTRの中に興味深い事いっぱい入ってましたね。
ええ。
もともとアトムは超美人の女性のロボットにする予定だったんだけど少年誌だしという。
制約がなくて自由だからできるのか傑作が出来るのかというとちょっとそれも違って何かしらの制約が天才を刺激して出来るんだなっていう。
それが「鉄腕アトム」だったんですね。
ある意味最後の最後に男の子になったからそれこそ女性の魅力みたいなものを感じるのはおかしくもないという。
アトムのやわらかさというのはそういうとこから生まれたんですね。
つまり色っぽく思っていいという事ですね。
そうですよね。
間違った受け取り方ではないと。
微妙ですよねそれね。
アトムで色っぽく思ってる俺って何だろうとかモヤモヤしちゃって。
いいの思って。
昔ですねシンガーソングライターの谷山浩子さんが文庫の解説か何かで「アトムはエッチだ」と書いて目からウロコだったんですよこれは。
何で僕は「アトム」のアニメを親と見るのがいたたまれないんだろうとずっと謎だったんですけどそこで謎が解けたわけですよね。
何か自分はあの時性的なものを親と見てるというシチュエーションが耐えられなかったんだという事が分かってちょっと感動したんですけどそういう目で見るとほんとに手治虫キャラというのは両性具有的。
どちらかというと女性寄りに男子も描かれていたりとかそういうエロスがすごくありますしもっと言うとですね手以降の日本の漫画ってみんな多かれ少なかれエロいところがあってですね。
ほ〜。
ジブリが典型ですけど少年もちょっと女性っぽく描いたりあと例えばピカチュウに色気を感じたりする人もいるわけですよね。
だからいろんな要素にちょっとずつ…やっぱり僕の中では漫画いろいろ読みましたけど手治虫の描く女性が一番エロティシズムを感じるんですよ。
それと同じように彼の描く動物もみんなエロいんですよね。
いくつか集めましたので見て頂きましょうか。
(ブルボンヌ)あらセクシー。
夜の番組ですのでこれは。
ちなみにこの「リボンの騎士」の馬だったり動物。
(釈)それ「バンパイヤ」ですね。
あほんとだ「バンパイヤ」の一コマ。
それはね下がエロいのは分かりますよ。
下段は夜ならではのエッチな絵ですけど。
ずるいなこのグラデーションはずるいなず〜っとエロいエロいエロいエロいってやってくとここウサギだからな。
(園)かわいくてエロいというかエロいのかかわいいのか両方混ざったような。
俺でもねうちはすごく理屈っぽい親の下で理屈っぽく育ったからこれは戸惑ったと思うな。
要するにこの記号はウサギなのにもかかわらず俺は何をちょっと反応してるんだと思うでしょ。
斎藤さんこのエロティシズムについてどう思われますか?手はだからいわゆる「萌え」の元祖みたいなとこがあって萌えって要するに描かれた女の子をかわいく思う感覚とここでは考えて頂きたいんですけど手僕らが子供の頃ってさっきの黒手が前面に出てきてちょっと凋落傾向。
だけど手の描く女の子だけはかわいいというのは有名な話で。
そのエロスが例えばそれをパロディにした吾妻ひでおさんという方がいますけれども吾妻ひでおさん何をやったかと言うと手のかわいい絵柄でまあありていに言えばポルノを作ったわけですよねパロディとして。
描いたらこれがまたすごくウケて笑うための目的だったものが別の目的に消費されちゃったみたいな事があって。
へ〜!手はだからオタクの元祖でもあるんですよ言ってみればね。
この動物エロスって今のオタク業界ではやってるケモナーですよね。
(斎藤)ケモナーですよね。
猫耳少女とかもそうだし私たち界わいは熊系男性が人気だったりとかねそういうものがもうここで原点出てますよね。
これで興味が出てくるのはじゃあ手先生自体は何をエロだと思ってるのか。
手自身がその答えを語る貴重なインタビューが残されていました。
僕はね生物にですね特にその生身の動いてる生物にすごいエロティシズムを感じるんです。
生きてる特に例えば猫とか犬とかが歩いてる時にそれは動物だからっていうんじゃなくて…だから僕の言うエロティシズムというのは生命力のエロティシズムですね。
いわゆるその性的なものじゃないんです。
もっとこう何か根源的なエロティシズムを感じるんですね。
僕は円運動っていうものにねこれはもう根源的に宇宙というのは円運動で始まってる。
例えば地球なんていうのは太陽の周りを丸を描いて動きますね。
あと世の中の生き物の動きというものは大体円が基調の動きなんですよね。
この円っていうのは角がないでしょ。
非常に滑らかでツルッとしてるんですよ。
だからディズニーのスタイルに僕が惹かれた一つの理由としてねディズニーというのは丸から始まってるんですよ全て。
キャラクターも丸であれば動きも全部円から始まるんですね。
決して巨大ロボットのアニメみたいにガツガツしてなくてですねもうとにかく非常に全体に滑らかなんですね。
その滑らかさとそれからその流麗さみたいなもの。
そういったようなものが動いた時の動いた時のですよね動いた時のエロティシズムこれを追求したいんです。
そんな手の線にはアニメに憧れた彼ならではの特徴があると語るのが夏目房之介さん。
線がもう漫画の中で手さんがあれを動かしたいという思い。
だからもう動いてるんです。
それはもちろんコマのカット割りや何やらって言うけどその線自体がもう動こうとしている。
だからその線は次にはこうなるあるいはこうなるかもしれないという運動感みたいなのが線に集約されてるんですよ。
それは僕にとって色っぽかったんですよ。
そんな夏目さんが注目するのが手が中学生の頃に見たこんな夢。
(夏目)形としては何だか分からない。
グニャグニャグニャグニャ変わっていく。
それがすごくエロティックでそれを連れて帰って育てるんだっていう話をしてるんですよ。
そのモヤモヤって彼が線を一本引く事と同じなんですよ。
彼が線を一本引く。
これは人間になるかもしれないが途中で動物になるかもしれない。
実際そういう漫画をたくさん彼は描いているわけですね。
その一本の線が描かれてる時に…描いてる時にそこに何かが生じつつあるんです。
だからこれ生きてる事であり生命なんですよ。
だからもうその線を描いてる時に生命がそこに立ち上がってしかも手さんはそれをグーッとこう…。
手にとっての…でも何だろうな壮大な話だよな。
全ての生物が円運動をしてるわけ。
そうですねそこに魅力をエロスを感じるっていう。
(釈)もともとのエロスってそういう意味でもありますよね。
エロスってそもそも生命力というような意味もありますし躍動というような意味もありますしね。
本人はそのね丸という事にエロティシズムを感じてる。
性的な事にかかわらず快感を感じてるわけじゃないですか。
それを自分で生み出していくという快感ったらそれはすごいしその出来上がったものが皆に伝播していくって事は何かとてもいいですね。
何かやっぱり聞いてると変態ですよね。
(笑い)
(園)間違いなく。
子供の頃に見た夢の話もねえ誤解を恐れずに言うならばかなり変態な話。
変わってますよね。
不定形のえたいの知れないものがプルプル震えてて。
女になったり男になったり化け物にもなったり。
確かにいろんな作品にこの要素は。
ありますよね。
「火の鳥」で出てくるムーピーはそういう感じですよね。
夏目さんの指摘してる夢にも出てますけどこれフロイトの説ですけど子供時代の性欲ってあるわけですけど多形倒錯的と言いましてねあらゆる要素がそこに入ってると。
だから同性愛もあり異性愛もありそれこそ獣もありとかいろんな要素が入っていてそれがだんだんと分化していくという説なんですけどそれがほんとに見事に表れてるなという感じで多分ここがルーツだろうと思いますしこういう原点をずっと抱えて作り続けてた人なんじゃないかなという気はしましたけれどもね。
デビュー以後次々と連載を増やし漫画を量産した手。
彼はそこで得た収入を一つの目的につぎ込みます。
それはディズニーに憧れた手念願のアニメ作り。
会社を立ち上げ取り組んだのは日本初の長編テレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」でした。
毎週の放送に間に合わせるためコマ数を減らしたリミテッドアニメ。
それでも膨大な作業量。
手は昼間はアニメの原画夜からは何本も抱えていた連載漫画と尋常ではない量の仕事に追われます。
この事が手の漫画の線に影響を与えたと夏目さんは分析します。
「ジャングル大帝」なんですけど「ジャングル大帝」って何度も描き直しがあってこれがほぼ最初の頃の一番最初に出た単行本のバージョンのレオなんですね。
こちらが同じ場面を描いた後に60年代に描き直されたレオなんですよ。
同じ場面なんです。
はっきり言ってライオンの耳の輪郭の中に子供の顔をはめ込んだと。
記号的でしょ。
でもこっちはライオンにしようとしてるんですよ。
ライオンの子供なんですよ。
アニメの仕事が始まったあと描き直されたレオの顔。
立体感がなくなり眉毛や輪郭も単純な線になっています。
更に夏目さんは目の描き方の違いも指摘します。
こちらは完全に全部線で閉じてますよね。
こちらは下があいてます。
もちろん昔からこういうあけ方もありますけれどもどちらかというとやっぱり後で描かれた方が記号化されてると。
「鉄腕アトム」の描き方にも変化が起きました。
やっぱり線が流れ始めている。
つまりここからこういう丸い線を均質に同じ内圧でこう描いていくんじゃなくてシュッとまっすぐ楽に引いてここで曲げてヒュッといくという手の描き方があるんですけどだんだんそれに近くなる。
うがって言えばあの執着に執着を重ねたような閉じ方というのは漫画でしか何も表現できなかった。
本当はアニメをやりたいという気持ちがありつまり絵を動かしたいという気持ちがありでもそれができないから漫画でやってたんですよ。
だから100%そこに集中して描いてるわけじゃないですか。
こっちでアニメが作れるようになっちゃったわけでこっちでアニメが作れるようになっちゃったという事はいわば彼の中でも…一種の仮説ですけどね。
こだわりの丸い線でこまやかな感情を表現していたアトムはアニメとともに描き方もその性格もよりシンプルになっていったというのです。
このアニメになった以降のアトムも比べてみるとちょっと違いが分かりますよね。
僕なんかアニメから入った世代だから右側の後期のアトムの方がああアトムだという感じはするんですけどね。
左のタッチって私も実は子供の頃漫画描いてたんですけどいわゆる顔のパーツの配置としてはより赤ちゃん的な中心より下に目を置くという描き方なんですよね。
もうほんとに赤ん坊の顔で始まるんですね。
確かにかわいらしいですよね。
もともとディズニーが大好きな人でその模写から入ってるわけですよね。
動作とか仕草のデフォルメのしかたとかあの辺は非常に色気を感じる線だと思いますのでプロの漫画家さんが見ると左の絵のファンが多いというのはよく分かる気がしますね。
やっぱりものすごい量アニメの仕事をするわけですよ。
夏目説ではその忙しさがもしかしたら手治虫の腕をおとしたんじゃないかという説でしたけどこれ園子温説だとどうですか?僕はそんな悲劇的な感想はなくて後期もずっと手さんの絵はすごく僕大好きだったしあと手先生はねピカソ的な所があると思うんですよ。
一回安定してこのタッチが手治虫かなと思ったらどんどん「いやあんなもの」って言ってどんどん否定していった人だと思うんですよね。
劇画の登場など漫画の流行が変化する中「もう手は古い」と言われる度画風を変えていった手。
しかし晩年彼はある深刻な悩みを告白しています。
最近もう本当に苦しむのは丸が描けなくなった事ね。
昔僕の漫画というのはヒゲオヤジにしてもアトムにしてもみんな丸から発想したもので丸というのはいとも簡単にお月様でも太陽でも描けたんだけども今その丸が描けなくてこの上へパッと勢いづけて持ち上げる線は描けてもそれからきれいにこう下へ持っておりる時にペンが震えるんです。
その震えというのは目に見えて震えるのね。
それ見てもう本当にもう俺もおしまいだなという気がしてすごいジレンマを感じるんですね。
本当に描けない僕は絵が。
描いてて苦しくてしょうがない。
年齢いって丸がなかなか描けなくなりましたという話はちょっとまた興味深いというかね。
そうですね。
まあ衰弱とか下手になったとかじゃなくて私はある種の洗練かもしれないとも思うわけですよね。
つまり劇画以降の絵になってくるとまあエロはエロでしっかり描き分けるというかさっきの女性の体としてちゃんとエロを描くしある種の洗練としてその方向に進化していったのかもしれないので丸が描けないという話も衰えの証しではないのかもしれませんけれどもただご本人からすれば結構残念な事だったのかなという気はしますけれどもね。
僕なんか見やすくなったのはむしろちゃんと描き分けてくれるからエロはエロで描き分けてくれるから見やすくなって昔の絵のように未分化の状態でエロに不意打ちされる事がなくなった分だけ安心して読めるようになったとも僕は言えますけどもね。
何だか分からないムズムズではない僕の少年時代の戸惑ったムズムズではなくて。
そういう不意打ちはちょっと困るので。
そこをちゃんと描き分けてくれた方がストーリーは入ってきたりとか。
(園)とにかくいっぱい描いた人なのでたくさん作る事に関しては質より量といいますけど彼こそが量が質を呼んだと。
だから量を描く事によって質がどこかで出来上がって彼はもうその時傑作を作る気もなくてもなぜかどんどん傑作が生まれてくるってこういう状況があったんだと思うんですけどそこがすごく。
みんなそうです。
モーツァルトもそうだしドストエフスキーもそうだったと思うんですよね。
とにかく描く事による中での向上というのはやっぱり天才の証しだと思いますね。
続いては漫画・アニメ文化から引きこもりまで幅広い事象を分析している斎藤環さん。
斎藤さんが指摘する手のすごさとは?斎藤さんが注目してるところはどんなとこなんでしょうか?はい。
手作品で初期から一貫して私が魅力を感じるのはちょっと極論を言いますけれども本当の意味でと言いますかね…「しか」ですか?しかいないと思っていて長い漫画いっぱいありますけれどもそれは一話完結をいっぱいつないだ漫画だったりとかあるいはいろんな意味で長丁場になっちゃった漫画だったりとか。
起承転結がはっきりしていてしかもテーマ性があるようなその意味で「文学」と言ったんですけれどもそういう長編漫画作品コクのある長編漫画作品を描けたのはやっぱり後にも先にも手じゃないのかなというそういう気はしています。
そこにどんな特徴があるんでしょう?一番の特徴は私は「ポリフォニー」だと思ってるんですね。
多声性とも言いますけれども。
耳慣れない言葉ですけども。
解説を是非お願いします。
(斎藤)もともと音楽用語なんですけれどもねいろんな旋律が同時進行してある種のハーモニーを作り出すような。
「ポリフォニー」という言葉の元ネタはロシアの文芸評論家で思想家でもあるミハイル・バフチンという人なんですけどもこの人が「ドストエフスキーの詩学」という本を書いててそこでドストエフスキーの小説はなぜ特別なのかという事を解明する時にこのポリフォニーという言葉を使ったんですね。
どういう事かと言うと他の小説家バフチンの例えですけどトルストイとかそういう小説家はいっぱい人が出てくるんだけどみんな作家の独り言を人物に振り分けてるだけだという言い方をしてるわけですよ。
すごくその空間はポリフォニックに感じられるという論説を展開したんですよね。
手作品ってひょっとしたらこの漫画界でポリフォニックな作品を作りえた最初でひょっとしたら最後かもしれないそういう人かもしれないなというふうな。
興味深いのは単に登場人物の多い漫画はあるじゃないですか。
あるけどもそれは何かの一つの都合によってるものではないと。
手さんがいわゆるモブシーンがすごい上手って有名な話ありますよね。
群衆がいっぱい何かしゃべってるんだけどもみんなそれぞれのコマに独特の言葉が入っていてそれを拾って読むだけで面白いと昔から有名な話なんですけども。
いろんな登場人物がたくさん出てくる群像劇が非常にお得意でみんなそれぞれの人生があってそれぞれの生き方をしてる人たちがてんでに勝手な事を言ってると。
その声が響き合う中でストーリーが紡ぎ出されていくといったそういう印象がありましてこういう空間は本当に稀有なものだと思いますね。
今日名著として取り上げる作品は?「奇子」というこれまた結構猟奇的な青森県のある名家の没落の話なんですけれどもその中のドロドロした人間関係が非常にある種のリアリティを持って描かれるという作品ですね。
70年代初め青年誌に連載された長編「奇子」。
終戦直後の東北。
大地主天外家に一人の男が戦争から復員してきます。
天外家の次男仁朗。
彼のいない間に妹が誕生していました。
あどけない末娘奇子。
しかしこの子は母が生んだ子ではないというのです。
間もなく仁朗は事情を察知します。
奇子は長男・市朗の嫁に父作右衛門が手を出して生まれた不義の子でした。
おぞましい家の事情を知り軽蔑する仁朗。
しかし彼もまたGHQのスパイとして左翼活動家の謀殺に関わる身でした。
ところが仁朗が血のついたシャツを洗っているところを近所の娘お涼と共にいた奇子が目撃してしまいます。
奇子の話を聞いた警察は仁朗に疑いの目を向けます。
やむなく仁朗はお涼の口を封じました。
しかしそれを奇子に見られてしまいます。
仁朗に追われ身を隠した奇子。
そこに現れたのは長男市朗でした。
家名が汚れる事を恐れ市朗は奇子を土蔵の地下に幽閉します。
奇子は死んだ事にされました。
こうして何の罪もない奇子は闇の世界に閉じ込められたのです。
長い月日がたち…。
奇子は特異な環境の中で純粋さとそれゆえの危うい色気を放つ女に成長しました。
その後地上に出る事になる奇子をめぐってさまざまな人々の運命が変転していくのです。
(斎藤)敗戦直後のドロドロしたストーリーなんですけれどもみんなある意味欲望が分かりやすいと言えば分かりやすい。
お金があれば欲しいと思うし女がいれば抱きたいと思うしみたいな結構打算的な欲望をみんな持っていてそれぞれの立場から自分の欲望を非常に素直に追求していくんですけどそれが非常にこう巧妙に絡み合ってですね結局みんな自己中心的に動くんだけどもそれが織り成していく非常に複雑なストーリー展開がこれが魅力と言っていいんじゃないかと思いますけれども。
なぜそんな複雑に多声性を描く事ができたんでしょうか?私の一つの仮説は手治虫というのは最後の教養人だったんじゃないかと。
最後の?最後の教養人だったんじゃないかと思うんですね。
教養っていうのはそれまで吸収したいろんな文学とか映画とかですね非常にたくさんインプットもすごい人ですから膨大なものを吸収してそれを自己流に消化して出力できるというふうなそういう回路を兼ね備えた人と。
あんまりだから教養主義の人というのはそんなに綿密な正確さにはこだわらないところがあると僕は思っていてこの話も舞台は青森になってますけど私東北出身なんで登場人物の東北弁はでたらめなんですよ結構ね。
いわゆる土着的な言葉というぐらいの印象で描いてるんですけどそういう言葉であるにもかかわらずたたずまいが非常にリアルに感じられると。
それが教養って言われると何かすごく分かるような気がして。
昔映画監督の伊丹十三さん。
はいまさに教養人ですね。
あるところは沿ってるあるところでは沿ってるけど突然そのリアルを大事にするがゆえに全く説得力がなくなるシーンが出来上がるというお話をしてて。
園監督で言えばよく言う例えば映画の嘘ってあるじゃないですか。
実際よく僕ら取材して経験するのは本当の事なのにこれ漫画みたいだなと思う事あるんですよ。
はい。
例えばボスが猫を抱いてたりする。
ほんとに抱いてんだ。
だからやめたりするんですけどリアルだけだとリアルじゃなくなるという不思議な事がいろいろ起きると思うんですよね。
登場人物の群像が重層的な物語を織り成す「奇子」。
一人一人は普通の人間でヒーローはいません。
にもかかわらず作品が魅力的なのは手治虫のある資質が関係していると斎藤さんは考えます。
これは諸説あると思うんですが手さんはいわゆる立ったキャラを作るのあんまり上手じゃなかったという説があるんですよね。
アトムがいるじゃないかと言われればそれまでなんですけれども全体的に見ていくとそんなに何と言いますかねドラえもん的な意味でとか立ったキャラはあんまりいない。
伊藤剛さんという方が言ってるんですけどもキャラとキャラクターの違いという事なんですよね。
それは?キャラというのはアトムやドラえもんはキャラの方なんですよ。
これはどういう文脈に持っていってもその元のキャラとして意味を持ちますよね。
だから未来に行ったり歴史の中に入り込んだりしてもドラえもんはドラえもんなわけですよね。
ところが「きりひと讃歌」の桐人とかは…
(斎藤)ストーリーと一緒に成長したりする。
だから群像劇の印象というのはどちらかというとそのストーリーの中で成長したり葛藤したりできるようなストーリーと一体化したキャラクターが多数出てくると。
大ヒーローとかではなくて「きりひと讃歌」だったら医者の一人であったり「奇子」だったら閉じ込められてしまった普通の女の子だったりというところで話が膨らんでいくわけですね。
よく漫画家さんがおっしゃるのはキャラを立てたらあとは勝手に動きだすからそれに任せましょうという表現あるじゃないですか。
多分僕は手さんはそれをしなかったんじゃないかと思うんですよね。
まずストーリーがあってそれを場としてそこにキャラクターをはめ込んでいくという印象の方が強いんですよ。
だから今おっしゃったように…その一つ一つのキャラがご都合で動いてるように全く見えないのにカチッとはまる瞬間の快感。
最も重要なキーワードだと僕は思ってて。
ほんとにね何かもう1ページ目から全てがあらかじめ決まっているそのすごい悲しさというか。
海外のすごい短い文章があって磁石が近づいてきたと。
その時に砂鉄がみんなであれはいかがなものかと行くべきなのか行かざるべきなのかと長老からみんなで語り合う。
やっぱり行こうっていうのが「かくて砂鉄は磁石に走った」。
最後にちょこっと一行あるんだけどそれは普通だろうと思うじゃないですか。
でもほんとは内面が彼らにはあってめちゃくちゃ熱く語り合ったらしいよというその俯瞰した運命の中での砂鉄が磁石にくっつくというその哀れさというかそれが常に僕は手治虫のテーマじゃないかと。
確かに手は登場人物に悲劇的な運命が待ち受ける作品を繰り返し描いてきました。
「ロストワールド」では地球から遠く離れた異星に取り残されてしまう少年を。
「来るべき世界」では世界の終末を。
なぜ彼は悲劇的な物語を繰り返し描いたのでしょうか。
晩年その理由を語っています。
九死に一生を得た大阪大空襲の体験から運命的な視点を持つようになった手。
一方でそんな自分の漫画の弱点についても述べています。
このご本人の発言はすごいですね。
いわゆるキャラクターものは描けないんだって。
(斎藤)おっしゃってますね。
おっしゃってますね。
本音でしょうねこれは。
本音だと思いますこれは。
物語優位の人ってやっぱりキャラは弱くなってしまうというのは必然なんだと思いますね。
やっぱり戦争体験。
確かに空襲に遭ってるわけで非常に過酷な体験されてると。
ただまあ精神医学的に言えばですけど体験したから描けないって人も当然いるわけですよ。
ところが彼は体験したから描くんだと言い切っちゃってるわけですよね。
これを捉え方によっては自己治療とも言えるしもう一つ大きなのはやっぱり戦後の飢餓体験と言いますか飢餓といっても食料の方じゃなくて娯楽というかフィクションが枯渇した時代があってこの時に非常に「物語」に対する飢えが高まっていったと。
敗戦でそれが解放されてこれから何でも描けると。
紙とペンがあればいくらでも表現できるという解放感もあって。
そこからもうとめどなく物語があふれ出してくると。
ただ戦争体験の影としてはやっぱりそこで先ほど触れた俯瞰的視点ですよね。
人は運命に抗えないという一種の諦観も交えた俯瞰的視点がそこで育まれたのもあるでしょうし。
だから悲劇が多いと。
最初期に漫画に悲劇を持ち込んだ人だと言っていいと思うんですけれどもそれは主人公枠の人が耳男とかそういうサブキャラクター的な人までが死んじゃったりとかですねそういう事が描かれてしまうと。
簡単に殺しちゃうのはほんと驚くほど冷酷ですよね。
(斎藤)そうなんですよね。
でもきっと生命というのはそういうものじゃないかというそういう目があったと思いますよ。
これ虫とか見てるとあっさりと亡くなっていくしそこにリアリティを感じてるという。
生命思想ってすごく手にはずっとあったと思うんですけどいわゆるヒューマニズムというよりは生命賛歌という方が強いと思うんですよね。
その場合の「生命」というのは人類全体の生命みたいなものでそれを維持していくためにはむしろ人は死ななきゃならないわけですよね。
新しい命を場所を与えなきゃいけないわけですから。
そういう連続性の方に手は寄っていったのかというふうな気がしますね。
これちょうどあるんですけど「アポロの歌」って僕大好きなんですけどこれしょっぱな精子が人格化しててものすごい数でスペクタクルで走ってくんですよ。
卵子に向かって。
もちろん全員死ぬ1人を除いて全員死ぬシーンがあるんですけどこれなんかもはや俯瞰した。
生命賛歌ではあるけどもたくさん…ほぼ全員死ぬという典型の例だと思いますけど。
やっぱりその独白の中で言ってた自分は「あしたのジョー」みたいなものは作れない。
要するにキャラクターが立ってるようなものは作れない。
でいて運命的なその場とストーリーが支配してるみたいなものを作るどっちが上というのはまあ難しい話ですけど。
どっちが上はないですよね。
どっちも日本の漫画アニメ界に多大に貢献した技法だと思うので。
でもやっぱりその運命の中に人をちりばめていく。
ストーリーが先に強烈なものができて人が目立たないぐらいにくるものというのは難しそう。
難しいと思います僕は。
とても作る事は難しそう。
キャラクターに依存して話を動かすというのはコツをつかめば結構いろんな人ができると思うんですけど手さんのように湯水のようにストーリーがあふれてくるというのはやっぱり才能としか言いようがないですよこれはね。
漫画家という枠組みじゃなくて歴史小説とか大河小説家みたいな印象をお話を聞いてると受けますよね。
非常に構えが大きいんですよ。
余談といいますか突拍子もない感じかもしれないんですけど庵野秀明さん「シン・ゴジラ」大ヒットしてますけれども庵野さんってもともと「エヴァンゲリオン」の人ですよね。
「エヴァンゲリオン」というのはいわゆる「セカイ系」の元祖と言われてるんですよ。
セカイ系というのは君と僕の恋愛ですねこの恋愛沙汰が宇宙を変えるみたいな話なわけですよね。
最近で言えば「君の名は。
」の新海誠さんなんかもその作風の人なんですけどもこういう作風だった人が「シン・ゴジラ」で突然社会を描き出したんですよね。
セカイ系では社会を描かないんですけど「シン・ゴジラ」に至っては今度は徹底して会議と組織と。
日本の集団主義みたいなもので怪獣を倒すみたいな話に突然なってくるわけで私はこれはひょっとしたら庵野さんの成熟ではないかという感じがしたんですよ。
確かに前までは正直「なにうじうじやってんだ!」って言いたくなるシーンが多かったですけどね。
まさに立ったキャラのうじうじした葛藤が主役だったんですよ。
それが何か組織のダイナミズムが主役になってくる。
(斎藤)ヒーローいないんですよ今度の作品は。
今までの話とつなげてみると決してゴジラ自体も主役のキャラクターではなくてゴジラという「運命」みたいな話じゃないですか。
まさに「運命」なんです。
もうキャラじゃなくなっちゃってるんですよね。
それに対抗するまあ一人一人は無力だけど組織力で抵抗する人々の群像劇というふうな形になってると思うんですよね。
これはまさに手作品じゃないのという印象を私は持ちましたけれども。
何かでもちょっとその比べ方は興味深いですね。
最後に語るのは釈徹宗さん。
宗教学者の視点から読み解く手漫画とは。
私は「火の鳥」を取り上げようと思います。
「火の鳥」は手治虫が20年以上にわたって描き続けた未完の連作長編漫画。
過去から未来までいつの世も苦しみに満ちた人類の歴史。
永遠の命を持つ火の鳥と人間との関わりを描く壮大なストーリーです。
ご本人もライフワークというふうに公言しておられましたし壮大すぎてめまいがするような子供の時に時を忘れて読んだのをすごく覚えてるんですね。
僕「火の鳥」はすごい面白いからってお兄ちゃんに言われて読んだんですけどそれは小学校だと思いますけどね「火の鳥」ってタイトルじゃないですか。
もうねすごい鳥が活躍するんだと思ってたの。
キングギドラかラドンかというようなのが活躍する話だと思ったら意外に出てこないというか今こうやって話すとあれこそが運命みたいなもんじゃないですか。
理解できるんですけど当時は何にも入ってこなかった。
何だこれっていう。
火の鳥は何ページで出てくるんだって。
本当にたくさん描いていまして。
(釈)はるか古代から人類滅亡の未来からですね行ったり来たりしながらこの大きな振り幅の中で永遠の象徴といいますか。
もう宇宙全体の生命の働きの一部である火の鳥が関わってくる。
全部の中に火の鳥という運命というか火の鳥というストーリーが。
全部リンクしていくんですよね。
少しずつ「未来編」で出たやつが「復活編」で出てきたりとかあそことあそこは時代がリンクしてるんだみたいな気の遠くなるような時間の流れのすごいゆっくりと進んでいく感じ。
これはね僕小説でも体験した事ないですね。
ドストエフスキーなんかでもこれは経験した事のない世界観でこれは唯一手治虫の「火の鳥」でしか一切経験した事のない。
この全てが一つの生命体じゃないかというのは例えばガイア理論ってありますでしょ。
地球を一つの生命体と見てそこの小さな生き死にというのは細胞の…こう生まれたり消えたりするのと同じだという1970年代から80年代にかけてこういうニューエイジャーといいますか来世も含めて輪廻も含めて生まれ変わりも含めてですね流れはあったのはあったんです。
それをいち早く作品に盛り込んでるんだろうというふうに思いますしどこかね「華厳経」があるような気がするんですよね。
「華厳経」?部分は全体だとか全体は部分と同じなんだという入れ子構造ですよね。
これは仏教が早くから割と思想的に構築してきたところでマクロなものとミクロなものが同じ形をしてるというのを「華厳経」って説いてるんですけど「火の鳥」を見てるとそれをちょっと連想しちゃうんですね。
「火の鳥」自身が何かものすごいマクロな視点とミクロな視点を旅して見せてくれるシーンがあるじゃないですか。
それは「未来編」の中の一場面。
火の鳥が主人公に世界の成り立ちを見せて回ります。
小さな素粒子の世界の仕組み。
そして大宇宙。
世界はあらゆるレベルで同じ構造を持ちその全てが生きて活動していると火の鳥は説くのです。
(ブルボンヌ)子供の頃に本当にその尺度みたいなものをどんなふうにでも視点って変わるんだって事をすごい教え込まれてそれからは何かちょっと心が大きくなりましたよ。
今回取り上げるのが…。
(釈)「鳳凰編」ですね。
この「火の鳥」全体の生命観でありますとか人間観あるいは宗教観がすごく表現されてるのでこれを取り上げようというふうに思いました。
これ僕も手治虫の最高傑作だと思ってます。
「鳳凰編」が。
一番すばらしいと思ってますね。
物語の舞台は奈良時代の日本。
生まれたその日に事故で片目と片手を失う運命を背負った我王。
周囲の心ない仕打ちに怒りに震えた我王の心はついに一線を越えてしまいます。
そんな我王と出くわしたのが仏師を志す善良な青年茜丸。
これが二人の因縁の始まりでした。
我王に利き腕を斬られ絶望しかけながらも仏師の修業を続けた茜丸。
やがて権力者に命令され伝説の鳥鳳凰像を彫る事になります。
3年で完成させなければ殺されるという中ある日彼は夢で火の鳥と出会います。
心に焼き付けたその姿を見事に彫り上げ茜丸は名声を手にしました。
一方我王にも転機が訪れます。
妻のように愛していた女速魚を疑い怒りに任せて手をかけたところ…。
彼女はかつて自分が助けたてんとうむしの化身だったのです。
大きな衝撃を受けた我王は僧侶良弁と諸国を巡る事になりました。
そこで目の当たりにしたのは庶民の苦しみ。
我王は身の置き場のない怒りにとらわれます。
彼が思わず彫った仏像は圧倒的な迫力。
仏を彫る事が悪人だった我王を変えていきました。
やがて茜丸と我王は国家的大事業東大寺大仏殿を飾る鬼瓦作りをめぐって対決する事になります。
築き上げた名誉を失う事を恐れる茜丸。
すさまじい経験を経て達観の境地に至った我王。
二人の運命が激しく交錯するのでした。
そうなんですよ。
いわゆる小学生的な観点での活躍を「火の鳥」一切しないですよね。
不思議な存在として。
夢で運命的に。
そうですねそういう描かれ方ですね。
「火の鳥」自体はむしろものすごい自分勝手な人間の欲望であったりというのが「火の鳥」で描かれてるところなんですけど。
「鳳凰編」であれば特に極悪人だった我王が聖人のようになっていったり本当に純粋な茜丸が我執から腹黒くなって欲望を振り回し始めるというようなところで読者は揺さぶられる事になります。
この「善悪」みたいな考え方も僕らはよく親とかに「罰が当たるぞ」と言われる。
漠然とした宗教観で言われるわけでしょ。
こういう事も宗教とはリンクするんですか?善も悪もないというか。
そうですね。
その我々が善というふうに判断してるのはいわば我々が設定した文脈に沿って善だ悪だというふうに考えるわけですけども更にこう大きな目で見れば何が善で何が悪かというのはかなりグラデーションのあるものですよね。
もう手のように生命となってくるとですねどんな行為が善でどんな行為が悪なのかというのは相当揺れるわけですよね。
なるほど。
それも一つ大きな生命の連続性から言えばですねあっちこっちに起こる現象なんだという感じの描き方なんですよね。
「火の鳥」の生命観なり宗教観なりを私が口で説明すると「あああるよねそういうの」っていうふうになりがちなんですよ。
「火の鳥」の良さの万分の一も伝わらないといいますか例えば生命は全てつながってるでしょとかそういうのを言ってもまあそうかもしれませんねという話なんですよね。
だから「火の鳥」で描かれてる宗教性なり生命観というのはそれほどとっぴなものでもないんですよ。
ところがですね漫画にするととてつもない力を発揮するという。
やっぱり漫画ならではの部分はあるんじゃないかと思うんですね。
監督が「線なんだ」というふうにおっしゃったように例えば文章にしてもうまく表現できないものが漫画が一コマでバーンと出てこうダイレクトに宗教性に届くという事が起こるって思うんですよね。
「鳳凰編」では仏教的な輪廻の思想を漫画ならではの表現で描きます。
読者はとてつもない雄大な時間の中で何度も生まれ変わる様を神の視点から体験するのです。
圧巻なのは我王が僧侶良弁の即身仏と対面する場面。
彼が自分の心と深く向き合う様が描かれていきます。
いやまさにこう漫画ならではの。
そうですねそれまでの自分が崩れて新しい自分が生まれるというような宗教体験って起こるんですけどもなかなか言葉で言語化するのは難しいですしビジュアルにするとかえって陳腐になったりするんですが漫画だと伝わるというそういうものがあるんじゃないかなってちょっと思ってるんですね。
今の見たら今漫画堕落してんなと思った。
あんな格好いいカットバックしなくなった。
しないですね。
あんな蝶と顔の寄りのようなあんな緊張感のある…。
だからいつか堕落したんだと思う。
でも僕はね開いた時にね順番にも見てるんだけど実はここも目に入ってたりとかあのコマ下手したら30秒見つめてるコマと一瞬しか見てないコマもあるみたいな事がその漫画のスピードのセルフサービス的なところとかより多分あれが自分のものになるというか。
やっぱり没入感がすごいのでああいうふうに描かれると本当に時間が止まって強烈な体験を濃密で非常に高い強度の体験をしてるなという感じが伝わりますしそれともう一つ思うのは漫画ならではだと私が思うのは回心の体験という事ですけれども笑ってますよね。
最後「ワハハハハ」って…。
なかなかこれ同時表現って難しいと思うんですよ。
絵で笑わせてセリフでは何か気付きが起こったと分からせると。
これを同時に表せるのはやはり漫画というメディアならではだと思うのでその特性がすごく最大限に引き出されたそういう意味でもすごく特異な描写じゃないかと思いますね。
漫画というのは記号の組み合わせで随分たくさんの情報を発信する事ができますので吹き出しの形からセリフからコマ割りから全部記号化して顔に一つ汗かくだけで焦りとか嫉妬とかいろんなものが一気に伝わるんですよね。
もう記号って基本的にダイレクトにくるので頭で一旦消化してという腑に落ちるというんじゃなくてもう直接くるものですから日本漫画ほど…一つ思うのは永遠がテーマじゃないですか。
でも一説によれば日本人ってなかなか永遠を理解できない説があってこれはキリスト教文化がないので時間の始まりと終わりというものがイメージできないんだという説があるんですけど…「火の鳥」というのはそちらの方の輪廻的な生命の象徴で私がこの輪廻的なものをものすごく感じるのはまさに手のスターシステムのおかげなんですよ。
同じ顔をした登場人物が繰り返し出てくる事で歴史の反復をすごくこう漫画という表現によって理解できるところがあって。
これが歴史は繰り返すじゃないですけど人の生命が循環して歴史が作られてるなという感じを直接子供心にも与えてくれるというところがありましたね。
猿田彦が生まれ変わってはつらい目に遭わされますもんね。
あれずっと苦しむ役ですよね。
苦しみ続ける。
登場人物が次々と理不尽で過酷な運命にさらされる「火の鳥鳳凰編」。
しかしそれでもこの物語には読む者に「救い」を感じさせる要素があるといいます。
それは二人が仏像づくりに打ち込む姿。
無心に観音像を彫る茜丸。
我王はあふれる思いを形にする事に自分の生きる意味を見いだします。
表現するという行為の深い意味。
手自身の姿にも大きく重なります。
この救いのない話に救いといいますか一つあるとしたら表現するという事ですよね。
なぜこの世に生まれたか。
生命の働きとは何かというところで表現するというこの一点で扉が開くというような。
ブルボンヌさんとかどうですか?この表現をする事で。
私もこれがね果たして人に自慢できる姿かどうかは別として表現をした事で人にこの気持ちを伝える事もできるしそれを受け取った人からまたリレーのようにつながる事ができるなという事に気付いてから私はパッと見少数者というデメリットを得て生まれたような感じはしたけども今はものすごい人より扉を頂いたんだと思えるようになりましたし。
そういうパワーってものすごく手さんの作品には満ちあふれてる気はします。
斎藤先生心の見地から言うとこの表現する事で救われるというのは?まず表現療法ってそのままズバリのがあって芸術療法とも言いますけれどもまあ絵を描いたりとか音楽を奏でたりとか中にあるドロドロしたものを表現という枠にはめて出していくとですねそれだけでモヤモヤが晴れるとか症状がおさまるとかですねこれは昔から知られてる事でもあるんですけどもっと突っ込んだ見方をするとこれは私の考えですけど表現というのは一つは自分の価値を創造する事自分なりの価値をつくり出す事だと思うんですよね。
そのまま自己肯定になってしまうという部分が一つあるのとそれからもう一つはどんな表現もコミュニケーションだという事ですね。
先ほどブルボンヌさんがおっしゃってた事につながるんですけれども中でモヤモヤ考えてた事を形にすると誰か人とつながるきっかけになるという事があってつながる事自体もすごく支えになったりとか自己肯定感をもたらしてくれたりするという事でいろんな意味でだから表現というのは心を支える力を持ってると思いますね。
二人がね自分の内面みたいなものを彫刻にするわけじゃないですか。
彫って彫って彫って表現するわけじゃないですか。
これもちょっと何か表現者としての手治虫の…。
そうだと思うんですよ。
恐らく手自身の実感でもあったと思いますね。
戦時中に表現できない時期を通ってそして表現する喜びを実感したわけですし。
我々はそのおかげで残された作品を読ませてもらえてそれこそ園さんはそれを体の中にしみ込ませてまた表現してくわけじゃないですか。
そうすると手治虫が表現する事というのが何かちょっと「火の鳥」っぽい話というんですかね。
その表現の輪廻というかつながったものだったりとかして。
脈々とやっぱり受け継がれてますよね。
それぞれ皆さんに感想を伺っていきたいと思うんですけれども。
もともと好きな作品もあったし膨大なので読みきれてはいなかったんですけど新しい魅力も皆さんに教えて頂きつつ自分で今回読み返してみてこの段階でようやく気付けるものもいっぱいあったという事が何か末恐ろしいというかまだ発掘できるのかしらみたいなすごさを感じましたね。
本当に未来に向けて描かれているものが多いと思うんですよ。
「鉄腕アトム」ですらかなり向こう側の未来のロボット社会におけるいろんな不安というものも既にこの時代に描かれてるしこれからも本当に読み継がれていくべき漫画だと思うんですよね。
だからずっと読んでいきたいですね。
園さんと何度かお話しさせてもらった印象で言うとねそんなに素直に「僕は影響を受けました」って認める人じゃないと思ってた。
でも手治虫に関して完全に別格なんだなと思ったのは僕の中には流れていますというそこにまた園さんを通して手治虫すごいんだってちょっと思いましたね。
ちょっと他の漫画家とは関係…もう離してほしいぐらいですよ。
切り離してね。
ああなるほど。
さっきからちょっと他の人の事を話す人もいらっしゃるので。
すいません。
(園)それは違う!「漫画とは」とか言われたくないって思ったの。
「漫画という表現は」とか言う時に「漫画じゃないんだ!」って。
「手治虫とは」。
失礼しました。
斎藤さん改めていかがでしたか?本当漫画の化身というか何しろ最後の言葉が「仕事させてくれ」という人ですから。
いくらでも物語が生み出されてきたんだろうなというふうな意味で改めてすごい人だなと。
正直私ポスト手世代の漫画に親しんできた時代が長いので園さんに叱られちゃうかもしれないけれどもちょっとうっとうしいという面も。
すごすぎてですね抑圧的じゃないかと感ずる面もなきにしもあらずだったんですけど改めて今回この機会にいろいろ読み直してみるとそういうせこい抵抗してもしょうがないと。
すごいものはすごいと認めるしかないなという。
そういう人の作品が今正直あんまり読まれて…その価値に見合ってるほど読まれてないんじゃないかという危惧もすごく感じますのでこの番組を見た人たちが読んで頂く事を期待したいですね。
ある新聞の論説にですねなぜ海外は日本ほど漫画文化発達しなかったのかというのに対して答えはまあただ一つ「海外には手治虫がいなかったから」という言い方がありますよね。
こんなに一生懸命しゃべってもテレビの向こうで「違うんだよな」とかみんな言ってると思うとそれがちょっと嫌というですね。
そういう意味では手治虫もうほとんどの人がなにがしか語れるというだけのそれだけのものを残してますよね。
今回「名著」で漫画を取り上げるのは初めてでしたがどんな感想でしょう?何か名著の特徴って何回読んでも新しい発見がある。
その究極的なところだなと思うのは昔は全く分かんなかったけど今分かるというのとまたちょっと違うじゃないですか。
昔は普通にもちろん大人向けの作品は別だけど普通に親が俺に買ってくれたものばっかりだから9割は楽しめて何かモヤモヤちょっとあったものが今度何か読むとあのモヤモヤにはこれが隠れてたんだというのって。
いや何か自分はこの「日本発狂」だけは語れると思ってたのに楽屋でパラパラって見たら「あれ俺が思ってたのと違う」という。
また面白いというのがあったりするんで片っ端から読んでみたいなと思っております。
まだまだ100分では本当に足りませんけれども今日は皆さんどうもありがとうございました。
2016/11/12(土) 23:00〜00:40
NHKEテレ1大阪
100分de手塚治虫[解][字]

手塚作品が誕生して2016年で70年。手塚治虫をこよなく愛する論客たちが一堂に会し、手塚作品を徹底的に読み解き討論する番組「100分de手塚治虫」を放送する。

詳細情報
番組内容
生涯で15万枚もの原稿を描き上げ「漫画の神様」と呼ばれた巨匠、手塚治虫。「鉄腕アトム」「リボンの騎士」「火の鳥」「奇子」等、今もその作品は多くの人々に愛され、幅広いクリエイターたちに影響を与え続けている。その手塚作品が誕生して2016年で70年。そこで、手塚治虫をこよなく愛する論客たちが一堂に会し、手塚作品を徹底的に読み解き討論する番組「100分de手塚治虫」を放送する。
出演者
【司会】伊集院光,礒野佑子,【講師】精神科医…斎藤環,映画監督…園子温,女装パフォーマー…ブルボンヌ,宗教学者…釈徹宗,【語り】加藤有生子