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書き起こし ロスト北斎 The Lost Hokusai「幻の巨大絵に挑む男たち」 2016.11.23

数々の芸術家の名が刻まれている星があるという。
水星。
クレーターが発見される度世界的な芸術家の名が付けられる。
バッハモーツァルト。
そうそうたる名前の中にあるのが…。
北斎。
江戸の浮世絵師飾北斎だ。
この事を本人が知ったらさぞ喜ぶに違いない。
なぜなら北斎の名は宇宙に由来しているからだ。
「北」の字は北極星から取った。
真北に輝き星々がその周りを回転する天の中心。
この星を北斎は愛してやまなかった。
天に輝くがごとくまさに宇宙的な高みを目指した。
生涯に描いた絵はおよそ3万点。
その手にかかれば描けぬものはなくまさしく森羅万象を描き尽くした。
代表作はこれだ。
一度見たら忘れられない衝撃的なまでの造形力。
海外ではGreatWaveと呼ばれ世界で最も有名な絵の一つとされる。
そんな北斎には幻の傑作が存在した。
神須佐之男が疫病をもたらす厄神たちをひざまずかせ二度とはやらせないよう誓わせる場面。
それは北斎最大級の作品。
幅は3m近くあった。
しかも入念に筆を振るった極彩色の絵画だったという。
惜しくも関東大震災で焼失。
白黒写真のみが残された。
しかし…失われた大作を復元するプロジェクトが去年始動。
最新のデジタルテクノロジーと伝統的な修復技法を融合した画期的な手法によるものだ。
線一本色一つにも見え隠れする巨大な北斎の影。
男たちは天才絵師といかに対峙し何を見たのか。
北斎幻の大作はおよそ170年前東京・墨田区の牛嶋神社に奉納された。
地域の総鎮守として親しまれてきた社だ。
絵の復元に挑むのは木下悠。
30代半ばに満たない若さでプロジェクトを任された。
写真や画像工学に精通し数々の文化財をデジタルで記録データ化してきた木下。
その確かな分析力を買われての抜てきだった。
(木下)すっごいかっこいいのが出来るんじゃないのかなって期待はしてるのとこれ以上の事誰か言えますか?っていうレベルのところまで持っていこうかなと思ってるので…。
木下に復元を依頼したのはすみだ北斎美術館。
地元ゆかりの作品を原寸大でよみがえらせ展示室の壁を飾ろうというのだ。
復元の出発点となるのは一枚の白黒写真。
最新鋭のスキャナーで写真を読み取る。
肉眼では判別し難い色の明るさの僅かな違いつまり明度差をデータ化するのだ。
木下は残された写真の質が高い事に復元の可能性を見ていた。
撮影時にすごく注意を払って丁寧に撮影されてるっていうのはこの画像見ただけで分かりますよね。
写真は明治時代の末美術品撮影の第一人者によって撮られた。
本来の作品に施されたさまざまな色が白黒写真のグレーの色調の違いに置き換えられていた。
しかもその写真は高度な技法で印刷された。
特殊な感光剤を使う事で写真の情報をほぼ損なう事なく残していた。
木下は同じ写真家が撮影したという作品で現存するものを捜し出した。
当時の撮影条件などを厳密に割り出しカラーでも撮影。
当時の白黒写真と比べてみる。
濃い赤で描かれたニワトリのとさか。
白黒写真では深みのある黒に写る。
ボタンの異なる色も白黒の明度の違いとしてはっきり捉えられている。
こうして作品の色とグレーの濃淡を厳密に比較。
カラーチャートを作った。
木下が考えだした画像工学的な手法だ。
だが木下が頼りにしたのは最新鋭の技術だけではなかった。
文化財修復の専門家…山内は京都御所や四天王寺にある文化財などの修復に30年以上携わってきた一流の修復技師だ。
そんなに薄くなるんですか。
うん。
日本の伝統的な絵の具に精通している。
木下が山内に依頼したのは北斎が使った色の見本を作る事だった。
前例のないデジタルとアナログの融合による復元。
ところが山内の工房で衝突が生じた。
山内はコンピューターで読み取りやすいようあえてふだん行わない筆遣いで均質なグラデーションを作った。
しかしそれは木下が求めるものではなかった。
今多分僕たちが見やすいようにちょっと違うやり方…。
(山内)そう全然違うやり方。
…やってますよね。
(山内)全然それはそういう事に…。
あの〜あくまでもグラデーションを作れという事なんで。
いやでも自然なやり方で出るものの方がいいかもしれない。
木下が求めていたのは北斎の筆遣いをも写し取ったグラデーション。
それだったら誰にでも作れるんで。
う〜んなるほどね。
この絵を再現するのに必要な情報が欲しいんです。
いや分かってますそれは。
言うてはんのはよう分かってますよ。
うんうん…そうか。
分かりました。
ちょっと方向性変えますわ全然。
すいません。
やり直します。
来てよかったです。
すいませんじゃあ…。
東京の木下のもとに山内から色見本が届いた。
さんざん闘っただけあって欲しいものが出来たかなという感じで。
うん。

 

 

 


着彩の作業もいい仕事ができるんじゃないかなと思いますね。
早速コンピューターに取り込み色をつけていく。
そっちに寄って下さい。
ここもうちょっと線が太いかな…?細い線?こういう系かな。
うん。
だが更に大きな問題があった。
白黒とカラーを対照させた際複数の色候補が存在するものがあるのだ。
例えば画面中央のこの男。
その服の色は3種類想定される。
1つ目は赤系統の朱色。
2つ目は青系統の藍色。
3つ目は紫色だ。
デジタル技術では色を特定する事ができない。
やっぱりパターンとしてたくさん出てきちゃうので一回色が無くなっちゃったものに色を足すっていうのはまあ一筋縄ではいかないなという感じですね。
うん…。
木下は再び山内のもとに向かった。
ここもやっぱり青色がこんなに薄くないのかなという感じですね。
(山内)そうかもしれないね。
そういうものでありえそうかなっていうものちょっと考えてもらえますか?
(山内)うん分かりました。
だったらそれを作りますわ。
はい。
幾多の物言わぬ文化財との格闘を重ねてきた山内の経験が試される。
北斎の時代に使われた絵の具で塗ってみる。
それを写真に残る筆跡などと子細に照らし合わせた。
朱ですともう少しこのツブツブ感があるような雰囲気がするんですけれども。
粒子の状態から朱色でないと判断。
残るは藍色か紫。
という事は…という事は…。
そういったとこです。
そこにやっぱり考えると…濃淡が滑らかに推移している事から紫と予想。
では北斎は紫にどんな絵の具を用いたのか?山内が思い浮かべたのはこの代表作。
目を射る波の色を表すのに北斎が使った…ドイツで開発された絵の具で粒子が細かい。
発色がよく美しいグラデーションが出るベロ藍を北斎は愛した。
この青に何かを混ぜて紫を作ったはずだ。
だが当時絵の具を組み合わせ色を作るのは簡単ではなかった。
青と赤の絵の具を混ぜる。
それぞれの粒子が粗いと溶け合わず濁ってしまう。
ただ赤と青を混ぜれば紫が出来る訳ではなかった。
北斎はベロ藍と何を混ぜたのか?試行錯誤の末ある絵の具に思い至った山内は画材店を訪ねた。
こんにちは。
山内先生こんにちは。
ご無沙汰しております。
(山内)わあ!これが綿臙脂…ですか?ええ。
鮮烈な紅綿臙脂。
貴重な絵の具で江戸時代には中国から輸入していた。
今では入手する事さえ困難だ。
絵の具に精通していた北斎はこの綿臙脂に目をつけたはずだと山内は踏んだのだ。
配合の微妙な違いで全く異なる紫になるベロ藍と綿臙脂。
何度も試す。
う〜ん…?写真のように滑らかな変化を見せるには濃い紫でなければならない。
果たして…。
とてもきれいな濃い…。
そうですね。
きれいな濃い紫の発色しておりますね。
まあ回り道しましたけれどもちょっとだけ北斎に迫れたかなという気はします。
1か月かけて北斎の紫にたどりついた。
山内は紫の色見本を自らの手で木下に届けた。
(山内)きれいでしょ?きれいですね。
おっしゃるとおりすごいきれいな色ですね。
鮮やかな色がのり画面が躍動し始める。
こうして一つ一つ北斎の色を探り当てていった。
北斎にはもう一つ幻の傑作がある。
それは隅田川の景観を描いたもの。
明治に海外に流出し行方不明になっていたが去年およそ100年ぶりに発見されすみだ北斎美術館の所蔵となった。
壮年期の北斎が描いた絵巻で全長およそ7m。
そこに丁寧な筆で描き出されるのは北斎の親しんだ場所だ。
始まりは両国橋。
その付近の船着き場から川の上流に向かう。
吾妻橋を通り手前に浅草寺。
奥には牛嶋神社も見える。
目的地は吉原遊郭。
美しい遊女に囲まれたこの男は北斎その人ともいわれる。
北斎の姿を生き生きと伝える伝記がある。
明治になって飯島虚心という人物が詳しく聞き取りをして書いたものだ。
北斎は1760年に本所割下水現在の墨田区に生まれた
生涯に93回も引っ越しをしたがほとんどはこの辺りを行ったり来たりしていたという。
これが晩年の北斎。
実にそっけないいでたち。
江戸の有名人だったが身なりは質素そのもの。
つえ代わりにてんびん棒を持ち常にわらじ履きという飾らなさだった。
人に会っても…
あ先生調子いかがっすか?
ろくに挨拶も交わさない
描く事以外は何の興味もない根っからの画工絵を描く職人だったという
名の知れた浮世絵師に弟子入りをしたのは19歳の時
浮世絵師は人々の憧れや欲求を満たすため人気役者や美人を描くのが仕事だ

修業に明け暮れる若き北斎に転機が訪れる
ある日北斎は店の看板を描く仕事をしていた
そこを通りかかった先輩絵師があざ笑いながらこう言った
こんな下手くそな絵を掲げたら師匠に恥をかかせるようなもんだ。
この時北斎は心に誓ったという
工房を離れた北斎はさまざまな技法を習得し独自の画風を確立していく
一躍北斎の名を広めたのは小説の挿絵だった。
怪力無双の英雄が悪を懲らしめる物語。
緻密で迫力に満ちた筆が人々を魅了した。
かの有名な「北斎漫画」は絵の教科書。
動植物や人々あらゆるものを生き生きと描いて大評判となる
そして72歳の時に描いたのがあの…
富士山を奇抜な構図で描いた一連の作品は江戸中で大人気となった
江戸の人気絵師となった北斎だが決してお高くとまっていた訳ではない
ここは護国寺。
徳川家の菩提寺で庶民にも大変人気があった寺だ。
観音様のご開帳の日ともなると境内は大にぎわい。
そこに北斎が現れた。
足元には紙。
畳120畳分もあった。
酒だるにわらぼうきを浸すとあたかも落葉を払うがごとく振り回した。
観衆は北斎が何を描いているのか分からない
何してるのかなあ。
本堂に登ってみると…
あ〜。
大だるま!
すげえ!とんでもねえ!
北斎は絵で人を喜ばせるのが何よりも好きだったのだ。
人々のために描く浮世絵師。
その姿勢を生涯貫いた北斎。
牛嶋神社に絵を奉納したのは86歳の時であった
「須佐之男命厄神退治之図」は北斎の絵の中でも最大級の大きさだ。
画面上部に日本神話の荒ぶる神須佐之男。
足元には疫病神がうごめき二度と悪さをしないと証文に判を押す。
北斎はなぜ画面を埋め尽くすほど疫病神を描いたのか。
江戸時代の病に詳しい…こんなにたくさんのですねいろんな当時はやった病気を中心に描かれている絵というのは初めて見ましたし北斎が街の中で目にして印象に残った病というものが描かれている。
北斎は厄神にそれぞれがもたらす病を重ねて描いていた。
この男よく見ると鼻が欠けている。
江戸にまん延した梅毒の疫病神だ。
風で膨らんだ大きな布を持つ男はインフルエンザを表す。
江戸の人々が最も恐れていた病気も北斎は描いていた。
(鈴木)この男性は腕のところに発疹が出ています。
おできがポツポツと出ていますしこの絵は疱瘡であろうというふうに考えます。
疱瘡は人々を繰り返し襲った感染症。
体中に吹き出物が出来多くの子どもの命を奪った。
北斎が絵を奉納した…疱瘡よけの神社として知られていた。
そしてこの神社の主祭神が須佐之男命。
八岐大蛇をも退治した強大な力を持つ神だ。
医療が発達していない時代。
病にかかれば神にすがるほかない人々。
その現実が巨大な絵に映し出されていた。
こういった病の絵を非常にインパクトのある形で提示し見つめる中で人間が生きていくっていう事について考える。
そういう側面もあったんではないかなというふうに思います。
山内の工房では北斎への新たな挑戦が始まっていた。
それは写真から輪郭線を起こす事。
西洋画とは異なり日本画は線による表現を重んじる。
中でも北斎の線は濃密な独特の線として知られる。
今回の復元では線を描き起こさなければならない理由があった。
いかに写真家の腕がよくても当時のレンズでは周辺部分のピントは甘くなる。
線への影響は顕著だ。
それを実際に筆で描く事で補おうというのだ。
「果たして本当にこういう線だったんだろうか?北斎は…」というとちょっとやっぱ僕違うだろうなと思うんですけどね。
そう思いません?不鮮明な部分では北斎の線が拾いきれない。
忠実に起こしたつもりでも北斎の線とかけ離れたものになってしまう。
線で取る時にこっからここまでくらいはいけるんですね。
やっぱり相手は北斎なので本当に冗談じゃなくてやっぱり抜群に線がうまいので線一個引くのにも今やって頂いてるようにいろんな迷いを持ちながら引いてもらってる感じですよね。
木下と山内がその目で見たいと願っていた北斎作品の閲覧許可が下りた。
悟りを開いた高僧羅漢の生き生きとした姿。
北斎があの大作の翌年に描いた名作だ。
ここで山内は北斎の線についてある発見をした。
ところどころ墨の仕上げの線を入れてるって事ですね。
注目したのは人体を描く赤い線の上にところどころ墨の線が置かれている事。
それが不思議な存在感を放っている。
北斎以外にこのような表現をする絵師を山内は知らなかった。
あの大作にも同じような表現がなされているのではないか。
改めて線に目を凝らし拾っていく。
肉体を描き出す輪郭線の上に加えられた墨の線や点は数十か所も見つかった。
それは何を意味するのか。
人体の動きの精緻な解析で世界的に知られる研究室を訪ねた。
筋電計というセンサーをつけ外からは見えない筋肉の動きを計測する。
あの羅漢図と同じポーズをとる。
この動きだとどの筋肉に力が入るのか。
その解析画面。
力の入っているところが赤く表示されている。
絵と比較すると墨の部分は赤い表示と一致する事が分かった。
見た目の筋肉の躍動感というのが出ると思います。
筋肉が真ん中が盛り上がるようなそれが全体としてどう見えるかというのが絵に表れてるんじゃないかと思います。
謎の墨線は人体内部の動きまで表し躍動感を生み出していた。
(山内)絵の中では止まってる訳ですけども実際は動いてるといったようなところを描こうとしたんじゃないかなって。
生きてるよっていう事ですよね。
北斎は絵という平面の中で線一本で人体の動きすら感じさせる立体的な表現を行っていた。
前人未到の世界に達していた北斎。
どうしてそんな事が可能だったのか。
晩年の姿を伝える貴重な絵がある。
北斎の弟子が描いたものだ。
こたつにくるまって一心に筆を走らせる北斎。
その様子を見守る娘のお栄だ
ある日北斎は突然筆を止めこう言った
おら6歳から80過ぎまで筆を取らねえ日はなかった。
それなのにいまだ猫一匹描けやしねえ。
意のままにならねえ…。
「天下の絵師北斎が何を…?」と思うだろう。
だが北斎には涙するだけの訳があった
75歳の時に書いた本で北斎は驚くべき決意を表した
「自分は6歳からものの形を写す癖があったが70歳以前に描いたものは取るに足らないものばかりだった。
だが100歳を過ぎれば一点一格にして生けるがごとくならん」
点一つ線一本がまるで生き物のようになる事。
つまり神のごとくに描く事
想像を絶する高みを目指して北斎は描き続けていたのだ
復元作業は最終段階を迎えていた。
そこで木下に助言をしたのが美術史家の…牛嶋神社は関東大震災で焼失したがその後再建。
建物の構造や向きはほぼ同じだという。
北斎の大作は拝殿の西側の壁高い位置に掲げられていた。
木下は実際の空間の中で北斎の絵がどのように見えたのか調査を始めた。
どういう所にあるものでどういう空間をイメージして作ってあったかっていうのをこうやって改めて来てみるとやっぱりなおさらその必要性重要さを感じますよね。
一日観察すると絵は暗がりの中にあるがいっとき日がさし込む事が分かった。
絵にはかつて金ぱくが貼られていた。
この時ばかりは神々しく輝いたはずだ。
絵が暗がりにあった事を念頭に置きつつ木下は画面全体を整える。
1か月をかけて細部の明度などを微妙に調整。
色調が締まり個々の色が際立った。
また背景は光の加減によってきらびやかに映えるよう金ぱくを実際に貼った。
10月29日完成した絵が美術館に掲げられる。
行ける?そのまま。
オーライです。
オーライ。
オーライオーライオーライ。
変な例えですけどね分べん室の前で待ってるような時を思い出しました。
2年かかった難産ですからね。
ハハハハ!せ〜の!よっ!はい。
(拍手)よみがえった幻の傑作。
金色の光の中堂々たる姿を浮かび上がらせる須佐之男。
衣装の白が存在を一層際立たせている。
その足元にひれ伏す厄神たちは多彩な色で描き分けられる。
疱瘡神は朱の服をまとっていた。
朱は魔よけの効果があると人々が信じた色だ。
あの紫の衣装の梅毒の厄神。
傍らに寄り添う者は悲しげなまなざしをまっすぐに向ける。
この絵を見る者が病がなくなる瞬間をありありと感じられるよう北斎は点一つ線一本おろそかにする事なく全てを生き生きと描き出していた。
(山内)北斎86なんですよねこの作品。
で86歳でこんだけその…生命力のあるエネルギッシュな絵を描いた訳ですよね。
あの…感無量ですね。
その事だけですね。
よう出てきはったわという感じです。
単純に白黒だから色が分かんないってそう言い切っちゃう訳では決してないんだよと。
きっともっと見えてくるものがあるんだよっていう事が提示できたかなと。
白黒写真一枚からの巨大絵の復元。
2年に及ぶ北斎との闘いが終わった。
ひっせいの大作を完成させた4年後。
90歳にして北斎は世を去ろうとしていた。
その最期の言葉
もし天があと10年命をくれれば…。
いや5年でも生かしてくれれば…真正の画工になれたのに…!
江戸に生きる一介の職人である画工。
精進し続けた果てにどこまで神に近づく事ができたのか。
それは北斎が残した作品が教えてくれるはずだ
2016/11/23(水) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
ロスト北斎 The Lost Hokusai「幻の巨大絵に挑む男たち」[字]

天才浮世絵師・北斎の「幻の傑作」を蘇らせるプロジェクトが進行中。極彩色の巨大絵だったが、残されているのは白黒写真のみ。先端技術を駆使した復元が明かす北斎の真実。

詳細情報
番組内容
日本が世界に誇る天才浮世絵師・葛飾北斎。最晩年に描いた「幻の傑作」を蘇らせる画期的なプロジェクトが進行中だ。作品は幅3メートル近い極彩色の巨大絵だったが、関東大震災で焼失。残されているのは明治時代に撮影された白黒写真のみ。その画像を最先端技術を駆使して分析、さらに伝統的な修復技術も用いて復元する過程を徹底的に追った。次第に明らかになる北斎芸術の秘密と江戸社会の驚くべき真実とは?語り・堤真一。
出演者
【語り】堤真一,菅生隆之