ドリームランド!俳優市村正親さん67歳。
ミュージカル「ミス・サイゴン」など40年以上第一線で活躍してきました。
現在放送中の朝ドラ「べっぴんさん」にも靴職人役で出演し存在感を示しています。
思いを込めたら伝わるんです。
2人の子供の父親でもある市村さん。
自らのルーツについて改めて考えるようになりました。
今夜は市村正親さんの知られざるルーツに迫ります。
さあ今日はいつもと違いまして都内の帝国劇場の稽古場にお邪魔しています。
ねっ。
すごいですね。
帝国劇場の稽古場になかなか我々来れる事がないですからね。
そうですよね。
では早速本日のゲストお招きいたしましょう。
市村正親さんです。
どうぞ!よろしくお願いします。
ありがとうございますご丁寧に。
いかがですか?いや「どないしよ」じゃないです。
市村家のルーツを探るためまず向かったのは正親さんのふるさと川越市。
市村家の本家を守るいとこの悟さんです。
悟さんはサラリーマンでしたが市村家は50年ほど前までは農家だったといいます。
そういう事は聞いておりますけどね。
曽祖父の資料が残されていました。
明治39年曽祖父安衛が日露戦争の勝利を祝って県に送った寄付金の証明書です。
(悟)「埼玉県士族」って書いてある。
市村家は幕末まで川越藩松井松平家に仕える武士でした。
明治に入ってから農家になったといいます。
正親さんはかつて武士だった市村家について亡くなった父信行さんからある話を聞いています。
市村家は川越に移り住む前福島更にその前には島根県浜田にいたというのです。
そこで市村家のルーツをたどるため島根県浜田市に向かいます。
幕末川越藩を治めていた松井松平家はそれ以前この浜田藩を治めていました。
鍵本さんはこれまで松井松平家について調べてきました。
正親さんの市村家に関する記述が古文書に残されていました。
(鍵本)大きいじいちゃんかな。
要するに曽祖父さんですね。
更に興味深い事実が分かりました。
江戸後期に書かれた…松井松平家に仕えた家臣たちの記録です。
(鍵本)元祖与左衛門。
市村与左衛門。
市村与左衛門家から分家したのが正親さんの市村家だと考えられます。
この与左衛門は戦国時代を生きた人物。
あの真田幸村の父昌幸とも戦っています。
(鍵本)「真田安房守昌幸を攻むるの時進撃して功をなす」とあります。
そして江戸後期の天保6年浜田藩を揺るがす大事件が起きます。
藩主が親族の跡継ぎ問題に巻き込まれたのです。
この時藩主は御家騒動を起こした親族とともに罰せられ失脚します。
その結果松井松平家は1,000キロ離れた東北の地棚倉への国替を命じられました。
天保7年松井松平家の家臣たちは福島棚倉に到着します。
しかし時は天保の大飢饉の真っただ中。
東北棚倉での暮らしは厳しいものでした。
棚倉で松井松平家の歴史を調べている…「壁土に使用する藁までふかして食べたとの話も残されている」。
山田さんが市村家のルーツにかかわる場所に案内してくれました。
今はほとんどが無縁仏となっている松井松平家の家臣たちの墓を調べてくれました。
(山田)戒名がですね…現在墓石の裏を見る事はできませんが調査記録が残されていました。
(山田)この「市村倫太郎」と彫ってあったのは間違いなくそういうふうに刻んでる。
そこで市村家の戸籍を調べると4代前の高祖父林太郎の名前と一致しました。
更に川越の市村家本家にあった位牌。
あった!同じ戒名がありました。
ところが福島に来て30年後松井松平家はまたしても国替を命じられます。
時は幕末。
棚倉から程近い水戸藩である事件が起こります。
幕府に反感を抱いた水戸藩士たちが起こした「天狗党の乱」です。
その討伐を命じられたのが松井松平家の棚倉藩でした。
そして鎮圧に成功。
するとその功績が認められ慶応2年松井松平家は江戸を守る重要な場所川越への国替を命じられます。
ところが川越に国替した翌年。
明治に入り廃藩置県で川越藩は廃止され武士という身分もなくなりました。
この時市村家は曽祖父安衛の時代。
刀を捨て農業を始めます。
ここに曽祖父安衛の事が書かれた記録が残されていました。
「秩父事件」とは明治17年埼玉県秩父の農民たちが政府に対する不満から起こした武装蜂起事件。
農民たちは秩父から川越に迫ろうとしていました。
そこで鎮圧のため元武士だった士族が急きょ集められます。
その中に安衛もいたのです。
戦国時代から現在に至るまで市村家の先祖は島根福島そして川越と移動し過酷な時代を生き抜いてきたのです。
さあ市村さんいかがでしたか?ねえ!大河ドラマですよ。
真田と戦ってましたよ。
ほんとにもう。
ほんとですよ。
棚倉にね。
知らないですよ。
そうです。
それがもう言うたら…江戸時代までは武士で明治維新後川越で農家に転じた市村家。
その長男として生まれた正親さんの父信行。
実家の農業はきょうだいに任せ戦後地元川越で小さな新聞を発行していました。
ここに信行の新聞が保管されています。
編集兼発行人として市村信行さんが発行されています。
この中で自らの半生をつづっていました。
今から84年前の昭和7年。
中国東北部に満州国が建国されます。
高等小学校を卒業し16歳になった信行は軍人を目指し川越市の青年訓練所に入ります。
青年訓練所とは各市町村に設置された軍人養成のための機関でした。
(悟)「第一回射撃大会において成績優秀」。
昭和12年信行は第一師団歩兵第一連隊に配属されます。
これは出征の時に撮られた写真です。
旧満州に送られソ連との国境警備を担いました。
信行はその働きぶりが高く評価され二等兵から伍長軍曹へとスピード出世を果たしていきます。
あっこれ書いたの信ちゃんでしょ。
信行が戦地から持ち帰った写真が残されています。
(道雄)「急がないと急襲される」。
当時国境地帯には抗日ゲリラ活動をする匪賊が横行していました。
度々反撃に遭い多くの戦友を失いました。
「戦死9トラック2台爆破さる」。
昭和15年信行は中国大陸での過酷な3年半の任期を終えました。
軍隊に残る道もありましたが北京で仕事を探します。
戦友に誘われ入ったのは華北交通株式会社。
この華北交通は昭和14年に日本と中国の合同で設立された会社。
実際には日本の国策会社でした。
従業員は日本人中国人合わせて10万ほど。
中国華北地方の鉄道バスの運行を担っていました。
軍事物資や燃料の輸送も行っていたため沿線を警備できる信行のような元軍人が集められていたのです。
昭和16年信行は会社の専門学校鉄路警務学院に入ります。
そこで熱心に中国語を学びました。
中国語を身につけると重要な役割を任されるようになります。
それは沿線の住民に鉄道敷設を受け入れさせる事。
つまり治安工作でした。
しかし反日感情が強くなかなか思うようにはいきませんでした。
そこで信行は自警団を持つ地元の有力者に近づきます。
信行は楊団長と酒を酌み交わし親交を深めていきました。
ところがある日…。
楊団長が反日感情を持った中国人ゲリラに襲撃されたのです。
「自分と親しくしていたばかりに楊団長が殺されてしまった」。
信行は9年間過ごした中国をあとにします。
ふるさとの川越に戻った信行にすぐ見合い話が舞い込みました。
相手は隣村の農家の娘。
後に妻となる21歳の…さあ…。
いやぁ〜。
9年間。
9年も行った…。
やっぱり……と思ってねすごくうれしくなっちゃった。
きれいでしたね〜!正親さんにとってもう一つの大切なルーツ。
4年前に亡くなった母こうさんの栗原家。
栗原家があるのは…代々この地で農業を営んできました。
この地区に暮らす伊原さんが江戸時代に作られた「馬頭観音」に案内してくれました。
(伊原)元次郎元次郎だね。
栗原家の戸籍を遡ると最も古い名前が元次郎。
正親さんの5代前の先祖です。
地域でも有数の農家だった栗原家。
現在は正親さんのいとこ春夫さん一家が暮らしています。
春夫さんは栗原家の屋号がずっと謎でした。
…って言ってますね。
栗原家は代々「トオカモリ」という屋号で呼ばれてきました。
この屋号の謎を知る人が見つかりました。
地域で生まれ育った……って言ったんじゃないかな大きい森があったから。
江戸時代の「風土記」には地域を守る鎮守として栗原家の稲荷社の事が記されていました。
その後本殿はなくなりましたが今も庭には小さな祠が残されています。
大正14年栗原家に女の子が生まれます。
こう後の正親さんの母です。
4人きょうだいの一番上で11歳年の離れた弟の面倒もよく見ました。
そんなこうに縁談が持ち上がります。
その相手が中国から帰ってきたばかりの…2人は結婚。
当時信行はこれから自分は何をすべきか悩んでいました。
戦争中の壮絶な体験。
生き残った自分がやるべき事は何か。
「私は…」。
間もなく長男正親が生まれます。
そこで信行は決心します。
「子供に恥ずかしくない仕事がしたい」。
そして思いついたのが地元で新聞を発行する事でした。
昭和25年10月信行は一人だけの新聞社「武州新報」を立ち上げます。
新聞設立の理由をこうつづっています。
新聞は1部4ページ。
値段は月額30円。
その他広告で収入を得る事にしました。
取り上げるテーマは地元の川越市と川島村の話題が中心でした。
新聞に広告を載せていた和菓子店の…岩井さんの息子も信行の事をよく覚えています。
こういう感じで…。
…ってやるんですよ。
しかし小さな地域。
発行部数は伸び悩みました。
その時苦境の夫を支えようと立ち上がったのが…小さな店を借り居酒屋を始めたのです。
近所に住んでいた…こうの飾らない人柄と面倒見のよさで店は繁盛しました。
居酒屋で働いていた清水かつ子さんと常連客だった夫の照夫さんです。
そんなある日。
信行に軍人恩給支給の知らせが届きます。
ところが信行は受け取りを拒みました。
「戦争で生き残った俺にもらう資格はない」。
それを聞いたこうは夫の考えに賛同しました。
…ってねえさんは言った。
そのころ小学生になっていた正親。
両親が共働きだったため学校が終わると母の店近くの映画館に足しげく通いました。
連日映画を見る正親。
いつしか華やかな役者の世界に憧れるようになります。
「いつか俳優になりたい」。
父信行は思わぬ行動に打って出ます。
当時47歳の信行が突如埼玉県議会選挙に立候補すると言いだしたのです。
出馬する候補者が少ない事に憤り締め切り間近自ら立候補しました。
こうは居酒屋の売り上げを選挙資金に充て更に自ら選挙カーに乗り込みうぐいす嬢を買って出ました。
しかし夫婦の奮闘むなしく落選。
それでも信行は諦めませんでした。
今度は川越市議会選挙に出馬。
しかしまたしても落選。
更に3回目に挑戦します。
結果は今度も落選でした。
選挙後信行は妻こうが漏らした言葉を新聞に記しています。
「私の母ちゃんは…」。
おじちゃんはね。
そんな夫の事を妻のこうは周囲にこう語っていました。
「父ちゃんは思い込んだら曲げない人だから」。
ある日信行は当時中学生だった正親に言います。
「飢えてろ」というふうに言ったんですね。
正親は高校を卒業すると俳優を目指します。
俳優西村晃の付き人をしながら下積みの日々を送っていました。
そして昭和48年24歳になった正親は劇団四季に入団します。
すると持ち前の表現力で次々と話題作へ出演するようになりました。
その活躍ぶりを知った川越のある地方新聞は父信行にこんな賛辞をおくります。
新聞を読んだ信行とこう。
息子の活躍がうれしくてたまりませんでした。
いや〜。
いや〜。
いやいやねえ。
そう!母ちゃんね。
ああ〜選挙!あれはねあれは…お父さん的にはもう…相当相当支えたんですよね。
さあ改めてですが…だからやっぱり…正親の父信行は肝硬変で倒れ入院します。
病床の信行にある知らせが届きました。
正親が芸術選奨新人賞に選ばれたのです。
今回の取材で一本のビデオテープが見つかりました。
正親の芸術選奨新人賞を祝う記念パーティーの映像です。
(拍手)うれしそうな正親と母こう。
しかし父信行は入院していたため出席できませんでした。
せ〜の!信行はこのビデオを病院のベッドで繰り返し見ていたといいます。
その後信行の病状は悪化します。
それでもベッドの上で記事を書き新聞の発行を続けました。
そして信行は妻への感謝の言葉を初めて新聞に書きます。
妻のこうは取材や原稿の執筆を手伝い夫を献身的に支えました。
しかしついに廃刊の時を迎えます。
昭和61年信行は70年の波乱の生涯を閉じました。
実は信行は生前ある遺言を残していました。
「自分の遺体を献体してくれ。
医学の役に立ててほしい」。
その話を聞いたこうは言いました。
「父ちゃんが好きなようにすればいいよ」。
献体した大学にはその時の記録が残されています。
そして母こう。
4年前87歳で亡くなりました。
今回こうの遺品を整理していたところ長年使っていた財布の中から一対の写真が見つかりました。
それは結婚して10年ほどたったころ花見に出かけて撮った記念写真。
二人寄り添い仲むつまじくダンスする姿でした。
すばらしいですね。
所さん今日はとっておきの珍風景からご覧頂きます。
2016/12/01(木) 19:30〜20:15
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「市村正親〜流転の武士 父と母の知られざる愛〜」[字]
市村正親さんは、亡くなった父から「先祖は元武士で、福島、島根、川越と移動してきた」と聞かされてきた。果たして本当なのか。時代に翻弄された先祖の姿が明らかになる。
詳細情報
番組内容
埼玉川越出身の市村正親さん。亡くなった父から「先祖は元武士で川越に来る前は、福島、島根にいた」と聞かされてきた。果たして、それは事実なのか。取材で判明したのは、市村家は松井松平家の下級武士で、国替えの度に各地を転々としていた事実。また、母の遺品の中から見つかった1枚の写真。父と母がダンスする姿だった。そこには、戦争を乗り越え、戦後、手を取り合って生きてきた夫婦の物語が隠されていた。
出演者
【ゲスト】市村正親,【司会】今田耕司,三輪秀香,【語り】余貴美子