中国東北部大連。
かつて日本の統治下にあったこの町には当時建設された西洋風の建物が今も見られます。
この重厚な建物だけは今も残ってるんですね。
1人の作家の足取りを追い中国にやって来ました。
ああ〜!あら漱石の写真がありますねここに。
驚きました。
はあ〜夏目漱石がここに。
明治の文豪夏目漱石。
名作「坊っちゃん」などで知られる漱石が中国と韓国を旅していたのです。
漱石が描いた近代に生きる人々の葛藤を「悩む力」として読み解いてきた姜さん。
漱石の知られざるアジアの旅に関心を抱いてきました。
漱石は日露戦争の戦跡を精力的に歩いています。
更にハルビンも訪れます。
漱石が立ったプラットホームでその直後伊藤博文が暗殺されます。
この場所なんですね。
最近漱石が中国の旅を記した文章が見つかりました。
当時中国で発行された新聞に掲載されていたのです。
「韓満所感」。
これですか。
ああ「夏目漱石」。
ハルビンで伊藤が狙撃された事件も記していました。
日露戦争後中国進出を始めた日本。
そのありようを冷ややかな目で見ていました。
「無闇に忙しい人々」。
「事物を能く含味する暇がない」。
日本の行く末を見つめた漱石。
近年中国や韓国でも漱石への関心が高まっています。
姜尚中さんがたどる夏目漱石の旅。
日本とアジアの近代化をどう見つめていたのか。
没後100年漱石の文明批評を読み解いていきます。
漱石が暮らしていた町…今年4月震度6の大地震が襲いました。
これはほんとに何度も何度も。
熊本は姜さんが生まれ育ったふるさとです。
今も震災の傷痕が残っています。
石垣が崩れ落ちてこういう状態になってるんですね。
本当に熊本城の姿が痛々しいですね。
あの日姜さんも熊本にいて被災しました。
度重なる震災に衝撃を受け改めて漱石を見つめ直そうとしていました。
やっぱり5年前…5年以上前になりますけど東日本大震災を経験した。
その事とやっぱりそこから私自身はちょうど還暦だったんですね。
やっぱりこう自分の人生みたいなものを見直すというかまあ個人的な非常に純粋にパーソナルな動機ですけどもただ…やはり5年後にまさか熊本でこのような震災に遭うとは。
で熊本で僕は生まれましたしまた漱石は4年と3か月間ここにいてそして彼もここで過ごした。
彼はやっぱり…少なくとも近代日本においては。
でそれを知りたい。
一体漱石は100年前になぜ今僕が疑問に思うような問題を彼はどんな形で予見したんだろうか。
姜さんがまず訪ねたのは漱石の旧居です。
震災で被害を受け一部だけ公開されています。
ああ〜。
フェンスがたてられてますね。
苔むしてますね。
漱石が暮らした当時の姿をしのぶ事ができます。
漱石が熊本に来たのは1896年明治29年。
東京帝国大学を卒業後松山の中学校で英語を教えた後赴任。
ここで結婚し長女が生まれました。
ああ見えましたね。
赤いレンガで。
いやいや。
かつての第五高等学校の校舎です。
漱石は五高の教授として4年余りここで英語を教えました。
ああ〜開校の。
(村田)記念式典の…。
祝辞なんですね。
そうです。
漱石が五高の開校記念式で読んだ祝辞の原稿です。
このころはまだ「漱石」の号ではなく夏目金之助でした。
「教育が国づくりの基本で教師と生徒の信頼関係が大事である」。
(砲撃音)このころ日本は日清戦争に勝利します。
欧米列強が進出するアジアで日本は独立を守るため「富国強兵」の道を歩んでいました。
明治のエリートだった漱石の危機意識です。
形が辛うじてですけど本当に危うく…隙を見せたらいつ乗っ取られるか分からないというそういう危機意識の中で明治のエリートたちっていうのは国をしょって立ってるという気概があるんですね。
やっぱ漱石は率直に素直に国の元気というものは若者にかかってるし教育にかかっているという。
そういう国家の一大事業に自分はやっぱり関わっているという責任感みたいなねそういうものを感じさせられますよ。
姜さんが漱石に関心を抱いたのは熊本で中学生の時。
日本は高度経済成長のただなかでした。
東京をこの目で見てみたい。
15歳の姜さんは親にないしょで友人と共に憧れの東京へ向かいました。
ああ「三四郎」ですね。
ああ〜。
そのころ出会ったのが漱石の「三四郎」でした。
小説「三四郎」は熊本の五高を卒業した青年三四郎が東京帝大に入学し成長していく姿が描かれています。
上京する時三四郎は汽車で乗り合わせた男に尋ねます。
(汽笛)「『然し是からは日本も段々發展するでせう』。
するとかの男はすましたもので『亡びるね』と云つた」。
五高の教育者として日清戦争後国づくりの一翼を担おうと意気込んでいた漱石。
その後日露戦争の勝利を経た1908年に「三四郎」を発表します。
その中で発した「亡びるね」の言葉。
そこに漱石のどのような思いがあったのでしょうか。
漱石は熊本で勤務した後1900年明治33年ロンドンに留学します。
ここでの体験に漱石が変化していった鍵があるのではないか。
姜さんはロンドンにやって来ました。
漱石はロンドン到着後まもなくテムズ川にかかるタワーブリッジを訪れます。
タワーブリッジの展示館。
漱石が来た頃の映像が上映されています。
当時の貴重なこれフィルムですね。
はあ〜やっぱり馬車が結構多くて。
ああこれ大変な…。
もうすごいね。
人が鈴なりだ。
産業革命を経て近代化を進めたイギリス。
当時ロンドンは人口600万人を超え世界最大の都市でした。
開閉式のタワーブリッジ。
その原動力は蒸気機関でした。
ああ〜!当時の蒸気機関が橋のたもとに復元保存されています。
石炭を燃やし沸騰した水蒸気の力を動力に変える蒸気機関。
18世紀のイギリスで実用化され大英帝国発展の源となっていました。
最初にここに降り立った時はやっぱりとにかく動転したと思うのね。
だからそれは…う〜んまあ結局日本にいる時いろいろな形で知っていた西洋の文明というものを生身で実体験するある種のイニシエーションを受けたわけですよね。
漱石が留学したのは文部省から英語研究を命じられたためでした。
ロンドン大学で聴講を始めますが次第に足が遠のいていきます。
このころ漱石が記したノートです。
その関心は開化や文明の問題更に文芸へと向かい語学研究から離れていきます。
トーマス・カーライル。
欧米の近代化に対抗しようとした漱石は大学へ行かず独学を始めます。
そのころ漱石がよく通ったのがここカーライル博物館です。
Hello.Hello,welcome.MynameisKang.I’mverygladtomeetyou.Thankyou.Carlyle。
19世紀のイギリスを代表する歴史家…漱石が来た頃は既に亡くなっていました。
来館者が記帳した名簿です。
ああ〜!夏目漱石の「Natsume」。
あっKだから「金之助」か。
この時はやっぱり金之助で通してたんですね。
ここに書いてあるように…あっこれ1901年。
漱石はカーライルの蔵書や遺品を見に来ていたのです。
カーライルは近代文明を批判しています。
「現在は…」カーライルはエッセイストヒストリアン歴史家でもあり作家でもあり評論家なんだけど結局大学のアカデミズムとかそういう制度化されたエスタブリッシュメントというんでしょうかそういう中にいる人ではない。
ここに閉じ籠もって世俗に受け入れられる事を自ら拒絶してるわけでしょう。
やっぱり何かこう孤高の人ですよね。
…というのは持ってたと思うからそこが僕はなんかやっぱり漱石を惹きつけたんではないか。
それからねこれ見てほら。
僕がやりたがる…。
近代文明の中心地で見るその現実。
漱石は更に影の部分を感じていきます。
(歓声と拍手)漱石は凱旋パレードに出くわします。
南アフリカのボーア戦争その義勇兵たちです。
当時イギリスは南アフリカに兵を進め現地のボーア人からダイヤモンドと金の利権を奪い植民地にしようとしていました。
凱旋した義勇兵たちが戦勝を感謝する礼拝を行いました。
(鐘の音)漱石の留学中時代は20世紀を迎えます。
インドや中国などアジアの国々は欧米列強の進出に苦しんでいました。
漱石はロンドンで中国人を蔑視する風潮に反発を覚えます。
やがて漱石は下宿に閉じ籠もって読書に没頭するようになります。
ああ〜。
ロンドンの南クラパム地区。
その時の下宿先が今も残っています。
ああ〜そうだね。
ああ書いてありますね。
夏目漱石。
「JapaneseNovelistlivedhere1901」。
あっ1901年から。
ああ〜。
研究に打ち込む漱石。
本国では神経衰弱で「夏目狂せり」とうわさされました。
3階ですね。
I’mverygladtomeetyou.今も個人宅として使われています。
持ち主の計らいで姜さんだけ部屋の中を見せてもらいました。
もう完全に中がリノベートされてるから当時のイメージはなかなかつくり難いですけどでもこの3階の所にいたっていう。
とてもやっぱ狭い。
空間としては3階が一番狭くてやっぱりそういう狭い所に漱石はずっと籠もってたっていうのを考えるとまあやっぱり…それが1年であれ何であれね大変な日々だったんだと思う。
漱石が自らの文学の構想を記したノートです。
やはり近代文明の先進の地で何を見いだしたかというとある種の限界だったと思いますね。
これはどっかに限界をはらんでいる。
それはやっぱり近代日本というものがまだ自分のよって立つしっかりとした基軸を持ちえないまま。
で漱石の言葉を借りれば…でも内実をみると結局ある種の非常に空洞的なものしか見えてこない。
そういう問題意識を持ってじゃあ自分は日本に帰って何ができるんだろうかと考えた時に「自己本位」の立場に立ってそういう日本の中で文学というものを自分なりに納得いくものをつくりたい自分でしっかりと形にしていこうというふうに決意したんではないかなとそう思うんですね。
ロンドン留学を終えた後漱石は東京帝大の英語講師となります。
帰国から2年後の1905年漱石は小説「吾輩は猫である」を発表。
1匹の猫の目を通して明治の社会を風刺します。
「吾輩は猫である。
名前はまだ無い」。
(砲撃音)この時日本はロシアとの戦争の真っ最中でした。
戦争の勝利が伝えられると国民の間に熱狂が広がります。
猫の主人苦沙弥先生はこうした風潮を冷ややかに見ていました。
日露戦争に勝利したよくとし1906年漱石は小説「坊っちゃん」を発表。
更にその2年後「三四郎」を世に出します。
主人公三四郎が熊本から上京する汽車の中で広田先生と出会い話を聞きます。
「…と云つた」。
漱石は近代化に邁進する明治の日本をどう見ていたのでしょうか。
ああ黒川さん。
どうもこんにちは。
作家の黒川創さんは小説家夏目漱石の誕生を歴史や社会の中で考えています。
漱石はロンドンから日本に帰ってやっぱ文学というものとどう向き合うのかという漱石が2年間を過ぎてそこで自分の文学についてどういう根本的なスタンスというんでしょうかねそれは黒川さんどういうふうに見てらっしゃいます?大事なのは1903年の初めに帰ってきてすぐその直後に日露戦争がある。
それは1904年に始まって5年の秋に終わるけども。
それがなんでその間に漱石っていう作家が生まれたかっていう問題なんですよ。
日本の民衆の場合は1905年の9月にポーツマス条約があって「もっと領土をもっと賠償金を」って言ってる民衆の方が国を更に通り越しちゃって。
で「日比谷焼打ち事件」って暴動。
東京各所でも暴動までいくわけですよね。
その時にはもう漱石の戦争への見方っていうのは日本の民衆とは全く違うところにいる。
だからそういうふうに戦争の途中で…「思想転回」って言ってもいいけどもそれが漱石っていう作家を生んだと僕は思いますね。
やっぱ「猫」っていうのが大きくって。
猫っていうのは人間社会に対して傍観者じゃないですか。
だから猫の目を借りて客観的に距離を保って「諧謔の精神」というかユーモアをもってずっと見続ける。
それが漱石のある種のデタッチメントっていうかね社会への。
要するに自己諧謔でもある。
「三四郎」は「だんだんよくなっていくでしょう」なんて弁じると「亡びるぞ」っていう冷や水を浴びせる。
それがやっぱり戦争の出口の時に変わったあとの漱石ですよね。
やっぱり漱石は…そういう形で大きく思想的に転換していくその土台になったものはロンドン留学っていうのは一つの大きな契機だったんでしょうかね。
そう思いますね。
やっぱりそこで必死で勉強したし必死で考えた。
余計な事をしないでね。
やっぱりある意味でそこまで考えたっていうのは日本の文学者の中でいないでしょうね。
漱石は1907年教職を辞め朝日新聞社に入社職業作家となります。
その後友人で南満州鉄道株式会社の総裁中村是公から誘いを受け満州と朝鮮半島を旅します。
漱石の書斎にあった本や資料が保管されています。
満州や朝鮮関連の写真集。
このころ手に入れたと考えられています。
これは「南満州写真大観」ですね。
「SOUTHMANCHURIA」。
ああ〜漱石が船でやって来た時にここにいわゆる苦力のような人と…。
あっこれになるかな。
日露戦争に勝利した日本はロシアから旅順大連の租借権と長春以南の鉄道権益を譲り受けます。
漱石は1909年9月に大連にやって来ます。
その後旅順を訪ね鉄道をハルビンまで北上するおよそ二十日間に及ぶ満州の旅でした。
姜さんは漱石の中国の旅をたどる事にしました。
漱石が最初に訪れた大連は現在人口およそ600万。
中国東北部の海の玄関口として発展しています。
日本が統治した時代の建物が今も使われています。
漱石ゆかりの旧ヤマトホテルです。
ああ〜これはロータリーが…。
ほんとにこういう大きいロータリーはあまり見た事がないですね。
正面に見えるのは…漱石が来たのは日本による大連の開発が始まったばかりの頃でした。
全くこう近代というかこういう形でにわかに出てきたような町。
そういう都市に非常にやっぱり漱石は強い印象を持ったんでしょうね。
ニーハオ。
ニーハオニーハオ。
ああ〜!あら漱石の写真がありますねここに。
驚きました。
はあ〜夏目漱石がここに。
ここでは漱石が宿泊した当時ホテルで出していたコーヒーの味を今に伝えています。
その時はコーヒー飲もうというぐらいに少し胃の調子が良かったのかもしれませんね。
ちょっと飲んでみましょう。
ああおいしい。
これは本格的なコーヒーですね。
おいしいです。
漱石が最も関心を寄せたのが日露戦争の戦跡でした。
最大の激戦地旅順に足を延ばします。
旅順の山側に築かれたロシア軍の要塞が今も残っています。
ロシアが築いた防衛陣地です。
漱石は日露戦争から4年後従軍した日本軍の軍人に案内されここを見ています。
戦闘に備えたロシア軍に対して日本側も地下道を掘ってここを攻略したっていう事になるんですね。
当時の…どういう戦闘状態だったのか。
いやあこれはちょっと初めて見るのでこういう塹壕戦後々の第1次世界大戦の塹壕戦を彷彿とさせるような華々しいものというよりはもう本当にこれは…地の底にいるような感じだったでしょうね。
防衛陣地に迫る日本軍。
漱石は両軍が激突した現場を訪ねています。
あそこに何か書かれてますね。
何と書かれてるんでしょう?ああ〜。
爆破の跡ですね。
そのちょうど口。
ああそうですか。
漱石の中にですねこういう文章があるんですね。
漱石はこの時の見聞を帰国後朝日新聞に「満韓ところどころ」と題し連載しています。
ここに案内されてそうすると僕が今これを見てるよりはもっと漱石にとっては生々しかったでしょう。
それこそ10年もたたない出来事ですからもっとここは雑然としてやっぱりその戦争の跡が生々しかったでしょうね。
そう考えると彼の叙述がなんか非常に生々しく感じられますね。
砲弾のかけらでしょうかね。
ここには日露戦争当時の砲弾など戦争の遺物が展示されています。
漱石は日本軍の戦利品陳列所を訪れています。
普通通りいっぺんに見るならば靴だけが後々印象に残ってそれを書き込むっていう事はないと思うんですね。
恐らくその靴というイメージは最も戦争にふさわしくない女性の靴ですからそこに漱石は何かやっぱり異質なものを感じた。
と同時に多分ですけどいわば…出てるような気がするんですね。
旅順はロシア海軍の基地でした。
艦隊を守るため陸地に要塞を築いたロシア軍に対して乃木希典率いる第3軍が攻撃を繰り返しおよそ6万人の死傷者を出します。
その最大の激戦地となったのが203高地です。
漱石は203高地にも足を運んでいます。
高地の上には日本軍が占領後に据えた280ミリ砲が復元されています。
旅順港の艦隊に壊滅的な打撃を与えました。
向こうですね。
のぼってみて意外と高いとこだなと。
ちょっと…予想とは違ってましたね。
漱石がこの場所を訪ねた時の説明なんですがこういうふうに言ってるんですね。
ですから戦場の中では亡くなったのは敵によって亡くなったんだというそれだけではなくて…実際味方の弾で亡くなった人もいるという事を聞いてちょっと恐らく日露戦争以後の国民の戦争の理解とはやっぱり違う現場の生々しさを知ったと思うんですね。
漱石は他の人と違ってやっぱりその日露戦争や明治という時代に対する見方が非常に複雑だと思います。
そうモノトーンではない。
ですからその意味でもねここで自分の目でそして自分の体で味わった何かっていうのは非常に重要だったんじゃないかなと思いますね。
漱石の満州を巡る旅。
最近現地で発行された新聞に漱石が文章を寄せていた事が作家の黒川創さんによって明らかにされました。
ああ。
ああ〜「韓満所感」。
これですか。
当時南満州鉄道が発行した「満州日日新聞」。
新たに見つかった漱石の文章は旅の所感を記した「韓満所感」。
そして満鉄の職員を前に行った講演録です。
「無闇に忙しい人々」。
現地の日本人の活気を感じつつもその在り方を批判しています。
一方満州に進出した日本の姿をこうも述べています。
「同時に余は支那人や朝鮮人に生まれなくつてまあ善かつたと思つた」。
漱石は中国をどう見ていたのか。
新資料を分析し漱石の中国の旅を読み解いている清華大学教授の王成さんに聞きました。
中国は非常に苦境にあるけどもかつては名誉ある文明国でそこからたくさんのものを日本はもらったというような。
でそういう漱石がもう一方で日本が日露戦争に勝って中国の苦境を見つつ自分はやっぱりその進出する側にいて何となくこうほっとしているというその矛盾したものが漱石の中にあるように思うんですが。
夏目漱石はロンドンにいた時西洋文明の下で受けた差別とコンプレックスから中国とは連帯感を持っていました。
しかし日露戦争に勝利したあと漱石の中で過去に抱いたコンプレックスが中国人あるいはアジアの人々と向き合う時には消えて優越感を感じるようになっていたようです。
「汚い中国人」「中国の水は飲みにくい」などと書いています。
そのような漱石の文章を見ると矛盾した心理が生まれていると感じられます。
と同時に日本人のこのやり方では滅亡を招くとも漱石は感じていました。
だから「三四郎」の中で「亡びるね」と予言が出てくるのです。
漱石は日本の現状を肯定も否定もせずこれからどうあるべきか使命感を持って考えていたと思います。
そうでなければ漱石は作品の中で繰り返し日本を批判し日本は滅びると警告する事はなかったと思います。
漱石はその後満州から鉄道で朝鮮半島を南下します。
大韓帝国の都今のソウルを訪れ王宮など景勝地を見物しています。
日露戦争後日本は朝鮮半島への支配を強めていきます。
義兵運動など抵抗が起きますが武力でおさえていきます。
漱石が訪れた頃は日本人の姿が目立つようになっていました。
在日韓国人2世として生まれた姜さん。
漱石が朝鮮半島へ進出する日本をどう見ていたのか気になっていました。
姜さんは韓国で漱石を研究しているチョンナム科学大学のキム・ジョンフンさんを訪ねました。
漱石はこの時朝鮮王朝のきさきの墓を訪ねていました。
ミンピの墓です。
ミンピは日露戦争前ロシアに接近し日本を牽制します。
1895年王宮に乱入した日本軍人などによって殺害されました。
ミョンソン皇后と諡名され20年以上ここに埋葬されていました。
ミンピが殺害された時漱石は松山の中学校の教師でしたが正岡子規に宛てた手紙では「最もありがたきは王妃の殺害」と書いています。
その記述から考えれば日本に反発したミンピを嫌悪する気持ちがあったと思います。
それにしても非常に小さなこう何かぽつんとこの記念碑が建っていてこれがあのミンピのお墓かという感情とともにどう思われたと思いますかね?日本にいた時と現地であるここを直接訪ねた時の心境は必ずしも同じだったとは言えないと思います。
日記には墓に行った事実しか記されていないので何と言えばいいか難しいのですがその当時のお墓を見て「ああ朝鮮がこのまま滅亡の道を進んでいくんだ」という個人的な思いはあったかもしれません。
漱石は当時の韓国をどう見ていたのか。
キムさんに聞きました。
漱石は「中国人や朝鮮人に生まれなくてまあ善かった」と表現したり「幸いにして日本人に生まれた」と記しています。
こうした点から考えると日本の植民地経営に同調した面がなくはありません。
日本の臣民として漱石はしかたなく読者の事を意識して書かざるをえなかったんじゃないかと思います。
そのような点から見ると漱石は中国や韓国で批判されるべきところもあります。
もう一方で自分が個人的かつ私的に思っている事漱石は当時の韓国に対してこういうふうに思ってたんだというふうにはなかなか断言できなくてそういうところの複雑さが私は漱石に見られるんじゃないかと思うんですが。
例えば朝鮮をたつ4日前に詠んだ歌があるのですがこれは非常に大事だと思います。
漱石が朝鮮への思いを詠んだ歌です。
なんかやっぱりこう長い伝統を持ってここにずっとある懐かしい自然を持ったこの国が何かどこかに消えていきそうだというそういう何かこうある種の喪失感みたいなそういうノスタルジーをねちょっと私自身は感じてまして。
このような歌は個人的に自分の率直な気持ちを打ち明けたという感じがします。
朝鮮に対する同情の気持ち複雑な感情が漱石にあったのではないかと思います。
昔から中国日本韓国の3国が東洋の共同体として存在していたという視点に立って大変複雑な思いを抱いてこの歌を詠んだと思うのです。
満州と韓国の旅を終えた漱石は朝日新聞に「満韓ところどころ」の連載を始めます。
そのやさき大事件が起きます。
1909年10月。
伊藤博文がハルビンの駅で韓国の青年アン・ジュングンに暗殺されたのです。
日露戦争後伊藤博文は韓国統監となり韓国併合への準備を進めていました。
一方アン・ジュングンは独立を求め活動していました。
伊藤暗殺事件に衝撃を受けた漱石。
その思いが新たに見つかった「韓満所感」に記されていました。
「伊藤公が哈爾賓で狙撃されたと云ふ號外が来た」。
「公の狙撃されたと云ふプラツトフオームは現に一ケ月前に余の靴の裏を押し付けた所だから場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた」。
漱石が満州の旅の途中ハルビン駅に降り立ったのは伊藤暗殺事件の1か月前でした。
ああ〜ここ。
あらほんとだ。
ここですね。
1909年10月。
ここですか?この辺り。
ああここ。
はい。
ああ向こう。
伊藤はどのぐらい辺りにいたの?伊藤博文。
ああこの至近距離から。
この距離は僅か2〜3mぐらいでしょうけどこれが歴史を大きく変えて何か日本と韓国との距離を示してるような気がしますね。
へえ〜。
いやいやいや…恐らく下は変わってるでしょうけど…この場所なんですね。
伊藤暗殺事件の裁判は旅順で行われました。
その間アン・ジュングンが収監されていた旅順監獄が今も残っています。
ああここにいたんですね。
はあ…。
アン・ジュングンの独房が復元保存されていました。
この旅順刑務所の中に刑の執行場があるんでしょうか?アン・ジュングンは独房で「東洋平和論」を書きました。
日本と中国韓国の3国が団結し西欧列強に立ち向かうべきだと主張します。
「安重根事件公判速記録」。
実は漱石は裁判の記録を入手していました。
表紙の裏には「材料として進呈夏目先生」と記されています。
送り主は満州日日新聞社長の伊藤幸次郎でした。
私自身はそれは…漱石が文字として残したものと残してないものがある。
しかしいくつかの状況証拠的なものもある。
どうして公判記録をわざわざ漱石は手に入れたのか。
伊藤公を射殺したアン・ジュングンという人物が韓国の人間だというのは知ってる。
実際に自分が見たその光景それから人の暮らしそこから重ね合わせていくとやっぱりアン・ジュングンという人物について彼がなぜそれをそうせしめたのか。
これは当然の事ながら小説家的な発想からすればその動機という事をやはり知りたいと思うんじゃないでしょうかね。
漱石は伊藤暗殺事件について小説「門」の中で触れています。
主人公宗助と妻のお米宗助の弟小六の3人が食卓を囲みます。
小六が切り出しました。
漱石が「門」を書いた1910年韓国併合が行われます。
同じ頃国内では社会主義者が次々と検挙されていました。
日露戦争に反対した幸徳秋水は韓国併合のよくとし大逆事件で処刑されます。
社会主義運動への弾圧が厳しくなっていました。
漱石は小説「それから」の中で幸徳秋水に触れています。
幸徳の動向に目を光らせる警察の慌てぶりを記しました。
大陸への進出を本格化させていく日本。
漱石はこの時代をどう見たのか。
作家の黒川創さんは小説「暗殺者たち」の中で伊藤暗殺事件や大逆事件と漱石との関わりについて読み解いています。
幸徳を取り上げるあるいは伊藤を取り上げるこれはもう取り上げざるをえない。
ただそれにしてもどうして伊藤をあんなふうにちょっとこう突き放すようなね言い方をするんだろうかとか日本の大陸への進出がまさしく本格化する突先そういう中での漱石はどういうスタンスを取ったんだろうかという。
大事なのはやっぱり当時の漱石っていう問題ですよね。
日露戦争一応勝った事になってるわけだ。
すると日本中に凱旋門ってあるんですよ。
パリの凱旋門みたいなね。
新橋の駅前にもあるんですけど。
あれ石造りに見えるんだけど大体中はほんがらで竹で造ってあってだからもう張りぼての凱旋門ですよね。
だからそういうあさましさっていうのに漱石は相当嫌だったっていうのは一つありますね。
そういう意味では例えば民族差別っていう意味ではどうですかねっていうかやっぱりそういうのはあんまりなかった人だと僕は思いますね。
僕もそう思います。
そういう点ではやっぱりあれでしょうかまあその張りぼての近代をどんどんつくっていく果てにこれはやっぱり人間が内側から壊れていくんじゃないかという。
それは漱石の中にあったんでしょうね。
そうですね。
それが文学の問題ですよね。
ある意味でね漱石が考えた。
文学っていうのは黄表紙みたいにね小説読んで楽しむっていう問題じゃない。
社会それこそ世間って何か。
そこでものを考えていく時に共通のものっていうのは何…。
共通の言語っていうかな。
社会観という。
その時に日本はまだないっていう中でつくったのが漱石であり鴎外でありそういうまだ「私」っていう言葉もないし僕とか君とかっていうやり取りもない中で漱石は僕とか君とかっていう今普通に僕らが読める作品をつくったんだっていうのは非常に大きい問題で国際語なんですよね。
当時のある意味では東アジアのね。
文学で社会を見つめようとした漱石。
黒川さんは漱石が東アジアの近代文学に果たした役割が大きかったと言います。
日露戦争の前後日本では中国韓国台湾の1万人を超える留学生が学んでいました。
その中には漱石の文学に親しんだ人も少なくありませんでした。
後に「朝鮮近代文学の祖」と言われた韓国の…「阿Q正伝」を書いた中国の…お互いに漱石を読んだ例えばイ・ガァンスはそれを応用して自分の近代文学自分の私っていうのはまた朝鮮語で書くわけでしょ。
中国では要するに…少しあとにね。
そういう点で日本という磁場が近代というものの中での自分たちの国の言語をつくっていかなきゃいけない時の一つこう大きな発酵しているそういう場の中に中国からも朝鮮半島からも台湾からもいろんな人が。
でそういう中での漱石文学の果たした役割っていうのはものすごくあると思うんですが。
要するに中国からの留学生韓国からの留学生みんな使う「共通のハブの言語」として…言語ってそういうものだから。
だからもうちょっと日本の国境を超えた問題として文学っていうのは何だったのか。
社会の共通の言葉であり…それが大事だったわけですね。
そういうもんとして漱石は文学に興味があったわけで。
そこのとこはもうちょっと真面目にっていうかね国境をまたぐ問題として考えていく必要がある。
国境を超え東アジアに影響を及ぼしたという漱石の文学。
姜さんは北京の魯迅博物館を訪ねました。
魯迅と漱石の関係を研究している…魯迅が東京で住んだ家の写真。
そこは以前漱石が住んでいました。
魯迅は漱石をとても崇拝していたので弟たちとこの家を借りて住んだのです。
この2人のそれぞれを代表する国民的な文学者が東京であるすれすれの近い所にいたという事が何か一つの歴史の奇跡みたいなそういう感じがしますね。
夏目漱石の「吾輩は猫である」が雑誌に連載された時魯迅はちょうど日本に留学中でした。
彼の弟の周作人の回想では魯迅は必ず毎回読んでいたといいます。
特に影響が大きかったのは「吾輩は猫である」に見られる創作の態度社会に対する批判精神です。
漱石と魯迅は反体制の色を持っていました。
当時の政権と一定の距離を置き政府が進めた近代化政策に批判的でした。
ですから魯迅は漱石の影響を明らかに受けたと言えるでしょう。
漱石を今もう一度この東アジアというこれは中国朝鮮半島韓国日本も含めて見直す時にどういう意味がおありになるとお考えですか?漱石は非常に重要な問題提起をしています。
近代化の性質を2種類に分けて論じています。
1つは外発的。
もう1つは内発的な近代化です。
漱石は「現代日本の開化」と題する講演の中でこう述べています。
実はこの問題に関しては中国も同じです。
同じ東アジアの国から見れば近代化は西洋から来たものです。
魯迅と漱石の認識はとても似ています。
魯迅は中国の国民が全部奴隷だと思いました。
自分なりの考え方や価値観がない。
統治者に好きなだけ操られる。
漱石も…外発と内発という漱石の問題提起は今も考えなければならない東アジアの重要な課題なのです。
漱石の文学は韓国ではどう評価されているのでしょうか。
韓国における漱石研究の第一人者ソウル大学教授のユン・サンインさんに聞きました。
日本留学から帰国した韓国の文学者の多くが夏目漱石を読んでいたと考えられます。
漱石の影響あるいは漱石のそういう近代と向き合ったアジアのテーマっていうのはイ・ガァンスのような文学の中にも共通して流れてるんじゃないかと思うんですがその辺りはどうですかね?先生。
私も同じ意見です。
その結果を日本語で文学として表現しました。
その事は…ですから夏目漱石をアジアという観点そして世界文学という視点に基づいて分析し今一度読んで評価する事が必要だと思います。
夏目漱石は1916年49歳で世を去りました。
小説俳句から文明批評に広がる漱石の世界。
姜さんは旅を通して近代を鋭く見つめ東アジアに影響を与えた漱石の姿を改めて感じていました。
当時の満州やそして韓国朝鮮半島。
奴隷になっていくかもしれないその地域や国々から例えば中国の場合であると漱石に影響を受けた魯迅がおりそして韓国では後々もう少し時代が下りますけどもイ・ガァンスがいたりする。
で辛うじて日本はいわば主の側に回りつつある。
それは漱石はよく分かっていたと思うんです。
でもこれでいいんだろうかこのまま行けば自分がかつてロンドンで感じた…漱石であればたとえ今この韓国や朝鮮半島が日本によって他律的にあるいは外圧的に近代へと引き込まれていくにしてもやはりそこに何かアクションがあればリアクションがあるように何かが起きてくるかもしれないと。
そういう事も含めて私は……と思ったと思うんですね。
その上で私はそれはやはり…その漱石の中にある隙間そこに何か我々が今この東アジアの一角に生きていて彼が抱えた問いを我々もやっぱり今抱えざるをえないし…やはり私は日本にいる漱石に私淑している一人の人間としてそれをしっかり受け止めながら…2016/12/03(土) 23:00〜00:30
NHKEテレ1大阪
ETV特集「漱石が見つめた近代〜没後100年 姜尚中がゆく〜」[字]
夏目漱石没後100年。政治学者の姜尚中さんは留学先のロンドンや漱石が訪れた旅順、大連、ハルビン、ソウルをめぐった。文明批評家・夏目漱石の新たな姿に迫る思索紀行。
詳細情報
番組内容
夏目漱石没後100年。政治学者の姜尚中さんは「漱石は近代化の行く末を見抜いていた」という。留学先のイギリスで西洋近代の光と影を体験した漱石。日露戦争に勝利して大陸に進出する日本の姿を旧満州・中国東北部と朝鮮半島への旅で見つめていた。新発見の資料をもとに姜さんがロンドンから大連、旅順、ハルビン、そして韓国を訪ねる。文明批評家・夏目漱石の姿をアジアの研究者や作家・黒川創さんとの対話から探ってゆく。
出演者
【出演】東京大学名誉教授…姜尚中,作家…黒川創,【朗読】村上新悟,【語り】中條誠子