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字幕書き起こし ETV特集「認知症とともに よく生きる旅へ〜丹野智文42歳〜」 2017.01.14

これは「認知症」と診断された人たちが自分で声を録音し世界に向けて発信するためのサイトです。
ここに去年6月こんなメッセージが載せられました。
メッセージの宛先は…4年前に認知症と診断されました。
(通訳者)あっほらほらほら。
待ってる待ってる。
3か月後丹野さんはイギリスに向けて旅立ちました。
Hello!Hello,goodmorning.Goodmorning.Comein,comein.そこで出会ったのは認知症と診断されたあとも決して人生を諦めない人々の力強い姿でした。
Sorry.工夫のしかたなんだよね。
朝の薬はここ。
で夜の薬は階段。
すごい工夫。
女性は診断後ブログで発信し始めました。
日々の出来事や認知症についての思いを毎日書きつづり世界中から反響が寄せられます。
かつて認知症は「何も分からなくなる病気」と言われました。
しかし近年認知症と診断されたあともよりよい生き方を求める人々が世界中で増えています。

 

 

 


「認知症とともに生きる」。
そんな生き方を選んだ人たちとの出会いに満ちた丹野智文さんの旅の記録です。
仙台市に住む丹野智文さんは地下鉄で通勤しています。
認知症と診断される以前は専ら車で通っていましたが電車とバスを乗り継ぐように切り替えました。
しかしそれも楽ではありません。
どの駅で降りればいいのか忘れてしまうため自分で一枚のカードを作りました。
困った時他の乗客にこのカードを見せ助けてくれるように頼むのです。
仕事は自動車販売店のトップセールスマンでした。
病院を受診したきっかけは得意先の顔を忘れてしまうばかりか同僚の顔も思い出せなくなった事でした。
じゃあ挨拶します。
おはようございます。
(一同)おはようございます。
会社に相談したところ事務職に配置換えして仕事を続けられるようにしてくれました。
今日一日頑張ってお願いします。
(一同)お願いします。
忘れてしまった。
丹野さんにはどうしても仕事を続けたい理由がありました。
2人の娘がいるのです。
診断された当時小学生と中学生でした。
仕事の内容は社員の退職金や会社が借りている建物の家賃の管理などデスクワークが中心になりました。
(取材者)見せてもらえますか?ボロボロ。
ボロボロになってきましたね。
担当業務の手順をノートに細かく書き込んでいます。
仕事のやり方。
この印刷もこれを選んで印刷するんだよとかっていう。
普通の人が書かないような事も書いておかないと自分の中では不安だから。
忘れてしまうんですよね。
こっちが下の娘にもらったノートでこれが上の娘にもらったノートで。
そう。
それを使って仕事してます。
一瞬でも目を離すと忘れてしまうため一つ一つ指で押さえて確認します。
ノートに従い確実に仕事をこなす丹野さん。
しかしどうしても書ききれない事が残ります。
あれ?アハハハハ。
入んないなぁ。
おかしいなぁ。
パソコンのパスワードが分からない。
パスワード?社員番号は?社員番号ここに「C」って書いてあるんだけどさ…。
「D」になってる?「D」になったとか。
あっほんとだ。
丹野さんが認知症と診断されたのは2013年。
39歳の時でした。
物忘れが激しくなった事を訴えて3つの病院を受診しました。
4か月かけて検査した結果病名を告げられました。
「アルツハイマー型認知症」。
医師から現在の症状については説明されたもののこれからどうなるかについての説明は明確ではありませんでした。
不安な想像がどんどん膨らんでいきました。
認知症って何だろうと思って携帯で調べて。
そこで「2年で寝たきり」っていうのを見つけた時に先生から言われた認知症すぐには進まないけど「進む可能性がある」っていう先生の言い方と2年後が一致したわけじゃないですか。
その時に「あっもう2年後に寝たきりなんだ」って思ってしまったんですね自分の中で。
まずは家族の事が心配で心配でしょうがなかったっていうのがあってなんか自分はもう進んだところでそれは自分の中の痛みだけどそれよりも家族に対して学校が行けるのかなとかうちの妻がものすごい大変な思いするのかな。
妻に迷惑かけたらどうしようっていうのしかもう頭になかったですね。
丹野さんは深い無力感にとらわれていきました。
医療にも福祉にも全く希望を感じる事ができませんでした。
丹野さんにとって救いになったのは同じように認知症と診断された人たちとの出会いでした。
認知症になったからといって人生が終わるわけではない。
認知症の当事者が集まりグループを結成したのです。
合言葉は…当事者だからこそできる提言を社会に向けて発信していこうと訴えました。
そして2年前。
丹野さんは首相官邸に招かれました。
この日国は認知症について新たな戦略を発表。
画期的な方針を打ち出しました。
今後認知症に関する政策づくりに認知症の当事者が参加できる仕組みをつくっていくとしたのです。
特に丹野さん…よろしくお願いします。
具体策はこれからです。
しかし丹野さんにとって大きな一歩でした。
当事者がどうやったら前向きになれるかというのを考えていきたいなって実はずっと思ってて。
自分がなった時にもう不安で不安でしょうがなかったのを少しでもこれから認知症になる人が解消できるようなシステムがあれば早期診断も早まるし前向きになるのも早まるしやっぱり早期…診断直後からの関わり合いが今日本では手薄になってる部分だと思うのでそれを何とかしたいなって思ってるので。
自分たちに何ができるのか。
認知症に関して先進的な取り組みを行う国を訪れ手がかりを見つけようと考えました。
去年9月丹野さんはイギリスにやって来ました。
わぁ〜気持ちいい。
旅はイギリスを北から南へ10日間。
休暇をとり貯金をはたいてやって来ました。
全然怖くないんだよね。
いきま〜す。
チーズ。
丹野さんの思いに共感する認知症の医療やケアの専門家も旅の仲間に加わりました。
・いきます。
えいえい…。
(一同)お〜!まずはイギリス北部スコットランド。
認知症の当事者が生き生きと活躍している地域として知られています。
認知症と診断された直後に施されるある画期的な支援策が日本でも注目されていました。
その政策の鍵は「リンクワーカー」と言われる支援者の存在でした。
リンクワーカーを利用したという家族に会いに行きました。
Hello.丹野さんが会ったのは1年半前に認知症と診断されたフラニ・ウォルシュとその妻カレン。
フラニはもともと北海油田の技術者。
出張が続く忙しい日々を送っていました。
私は日本から来た丹野智文です。
認知症本人で39歳の時に若年性アルツハイマーと診断されました。
若いんですね。
トモさんは3年前若年認知症と診断されたんですって。
その時フラニが立ち上がりました。
状況がどうであれ思った事をすぐ行動に移してしまうのがフラニの症状でした。
名前…何だっけ?
(通訳者)フラニさん。
フラニさんはどうやって診断を受けたんですか?私が代わりに答えていいですか?フラニが診断を受けて1年半になりますがその3年ほど前から性格が変わり始めていました。
物忘れではなく性格が変わるのが症状だったのです。
子供たちは私に「悲観的にならないで」と言いましたがそんな事は無理でした。
家の中がおかしくなっていました。
フラニを刺激しないように足音を忍ばせるようになっていました。
そのあとリンクワーカーとはどのようにして出会われたんですか?診断を受けたあと私たちは2人きりでどうしたらいいのか分かりませんでした。
そこで私たちの地域の看護師に連絡を取りスーザンを紹介されました。
診断から3か月後の事です。
このスーザンこそがリンクワーカーでした。
スコットランドでは2010年と13年に認知症に対する国家戦略が発表されました。
「新たに診断された人に対する最低1年間の支援」を保証。
そのために新たにつくられた専門職がリンクワーカーです。
診断された人1人に対しただ1人のリンクワーカーが担当します。
当事者と家族が直面するあらゆる問題を支援の専門家やサービスに結び付けるいわば「つなぎ役」です。
現在およそ300人のリンクワーカーが活動。
こうした診断直後に特化した支援体制は日本にはありません。
フラニの担当者となったスーザンは退職後の生活資金を得るための制度を教えたり当事者と家族に向けた勉強会を紹介したりしました。
症状の変化が起きる度に緊急の相談にも対応してきました。
スーザンには認知症について知識があり人柄もすばらしいのです。
リンクワーカーは当事者や家族が一番大変な時期にその家を訪れる仕事です。
ドアやカーテンを閉めきり診断に向き合いたくなくてベッドで寝ていたいような時期にです。
そこへスーザンが情報をたくさん持ってやって来て扉を閉じる暇も与えず「こんな選択肢もありますよ」と教えてくれるんです。
彼女は決して自分の意見を押しつけません。
「こんな方法もありますけどどうですか?」と聞いてくれます。
う〜ん。
日本には医療と介護はあってもリンクワーカー制度がないので診断後の支援が非常に遅れているんですけどもリンクワーカーは何に責任を持つ仕事なんでしょうか?全てです。
リンクワーカーとは当事者と家族が迷路に入り込みそこから抜け出せるかどうかすら分からないような状況で必要な支援にたどりつくまでの懸け橋になるものです。
それが私たちの役割です。
実際にどうするかを決めるのは私たちです。
でも最善の選択ができるようにスーザンとチームを組んでいるのです。
「大丈夫。
かつての人生とは違ってしまったけどただそれだけの事」そう思うようになりました。
リンクワーカーは認知症と診断された人が絶望から抜け出せるように助けていました。
ああいう人がものすごくいいんじゃないかなと思ってて。
下手にこう難しくかしこまった人ではなくて気軽にしゃべれるような感じの人だったので。
明るくて。
知識はものすごく持ってる。
だからそういう人と出会える事がやっぱり1人じゃなくて認知症と診断された人全員に必要ではないかなって。
そうなってほしいなって。
日本でも。
スコットランドでなぜこのような制度がつくられたのか?今から15年前認知症の人たち自らがつくった認知症の人たちのためのグループが大きな役割を果たしていました。
グループの創設者…Thankyou.Goodmorning.彼こそがスコットランド社会の認知症への見方を変えた中心人物でした。
ジェームズは1999年に認知症と診断されたあと2002年同じ認知症の仲間たちに呼びかけ「スコットランド認知症ワーキンググループ」を結成しました。
ワーキンググループはメディアの取材を積極的に受けるなど認知症と診断されたあとも生き生きと過ごす自分たちの存在を世に伝える活動を開始します。
やがてスコットランド自治政府の大臣と定期的に面会。
質問や提案を続け政策づくりへの参加を求めていきました。
そして彼らの要望を具体化するものとして「リンクワーカー制度」が誕生したのです。
(拍手)おはようございます。
ゆうべはちゃんと御飯を食べよく眠れましたか?皆さんに会えてうれしいです。
(拍手)先週私の所に手紙が来ました。
年に1度の認知症の検査を受けに来るようにと書かれていました。
この検査は全ての認知症の人が対象であるはずなのに受けられない人がいる事が分かりました。
この日話題にのぼったのは健康診断の事でした。
スコットランドでは以前から糖尿病や心臓病について年1度無料の検査が行われていました。
ジェームズたちは認知症も対象に加えるべきだと主張。
3年前に政府は実現させると約束しました。
政府は医療機関に対し費用を支払い私たちがこの健康診断を受けられるよう保証しているのです。
私はこの件について政府が出している資料を全部持って私の掛かりつけ医と交渉しました。
これもアグネスと私で着手し全員で取り組むようにしていきましょう。
デイビッド何か取り上げたい事がありますか?特にありません。
今日はどうやって来られたんですか?
(通訳者)時々難しいんですけどね。
デイビッドさんのこのグレーのこれは何ですか?これは?
(腕時計の音声)わぁ。
すご〜い!そういうのがあるといいね。
でもすごい。
やっぱりそこが日本と違うんだよね。
日本はどうしても1人で出るっていうとダメっていうのが多くて。
丹野さんが出会った人々は工夫をして自らの力でここに集まっていました。
そして当事者ならではの発想を練り上げ国の政策に反映させていました。
本当にこう世の中を変えていきたいっていう話を楽しそうにしゃべってるので何なんだろうと思っててね。
本当に笑顔でね冗談を言いながら。
でも難しい話なんだけどね。
でもそれがものすごくいいなと思ってて。
真面目に真面目にっていう…「真面目に」は必要なんだけどでもこう…本当に政策を変えるためのものを楽しく変えていくっていう。
これがやっぱり日本には求められるなって思ったので何かこう考えていきたいなって。
それを一つまた残りの日数でどうやったらできるのかっていうのを考えていきたいなって思ってます。
スコットランドの旅。
認知症の当事者の視点で支援の仕組みがつくられている事が分かりました。
(取材者)これは何の薬?アリセプトとメマリーなので脳の…活性化させる薬。
丹野さんが毎朝のむ薬には認知症の進行を遅らせる効果があります。
しかし進行を止める事はできないため丹野さんは少しずつ病状が進行するのを感じています。
丹野さんはある疑問を抱くようになっていました。
「いくら支援体制を整えてもどうにもならないものがあるのではないか?」。
それは認知症が進行するという事実がもたらす不安です。
この疑問について考えるうちに丹野さんはある言葉に注目し始めました。
病気と闘い治すのではなく病気とともに生きるという考え方です。
この日訪ねたのは「認知症にやさしい町づくり」を進めているグレンボイグという村です。
アルツハイマー協会の職員から町づくりの中心に一人の認知症の男性がいると紹介されました。
(通訳者)スチュワート・ブラックさん。
…と奥様です。
Hello.Hello.飛行機のエンジンをつくる技術者だった6年前に51歳で認知症と診断。
その後4年間仕事を続けていました。
「Livingwellwithdementia」っていうのはどういう事なんですか?認知症になる前と認知症になったあとが同じ事をやるっていう。
(通訳者)はい。
「Livingwellwithdementia」だと思ってますと。
(山崎)丹野さんはどうですか?ちょっと変わったかな。
やっぱり一番は車を運転しなくなった事で生活がまるっきり変わってしまったけどそれが悪いとは思ってないので。
うん。
車の話になると2人の会話はたちまち盛り上がり始めました。
スチュワートは車好きで3か月後に免許の更新を控えていました。
スコットランドでは認知症と診断されても路上での実地試験などで能力が確かめられれば期限付きで運転を続けられます。
乗りたいんだよなぁランクルとか。
・乗りたい?乗りたいなぁ。
ランクルとかこういう車乗りたいんだよな。
こういう車でこうスキー行ったりキャンプ行ったりしたいんだよなほんとは。
本音はね。
でももう疲れるからやりたくないっていうのも本音だし。
自動車のトップセールスマンだった丹野さん。
自分でも運転技術を競う競技に出場するほど車が大好きでした。
しかし認知症と診断されたあと車の運転を諦めていました。
車好きだからね。
丹野さんたちはスチュワートが言う「認知症になっても何もやめない」という目標は現実には難しいのではないかと考えていました。
僕は医者だもんだから中にはやっぱり少しずつ進行していく人とも出会っていて。
もし仮にですけども運転…3か月後の運転の試験でまあ合格できなかった。
でもその事でスチュワートさんの「Livingwellwithdementia」は損なわれてしまうんでしょうか。
難しいね。
(通訳者)Yesです。
やっぱり運転免許証というのは私にとって非常に価値があって重要なものです。
車に乗ってCDをかけて走っていくという事でやっぱりそういった気分でまた家に戻るっていうふうにすごく私にとって重要なものですので本当にそれによって私に大きな影響が出るっていうのは確かにある意味Yesだと言えると思います。
(スチュワート)OK?
(スチュワート)OK?
(山崎)ごめんね。
丹野さんは今…。
何か言える?いやあの…。
車をすごいこう…。
やめた時はものすごくつらかった。
やっぱり。
でもこう…何だろう進行してってもできない事を工夫しながら生きてる人たちがこのスコットランドにはいっぱいいるしそれを感じると…認知症になっても新しく人生をやり直していく事ができるんじゃないかなって思ってるので今までと一緒ではなくてもいいから少しずつ少しずつ工夫をしながらこう…。
そういう器具っていうのもスコットランドにはあるし時計が見れないならボタンを押せば音声で教えてくれるとかそういうのを使いながらでも普通にこう自分の事は自分でするという事がものすごくここで感じたのでそれが本当に人生を続ける事ができるんではないかなって感じてました。
でやっぱり認知症になったから終わりではなくてこうやってスコットランドにも来る事もできるし新しい人生ができるって確信してます。
認知症への支援策を知るためにやって来た丹野さんの旅。
出会いを重ねいつしか自分の生き方を問う旅になり始めていました。
ぐちゃぐちゃとこう書いてるんですよね。
訳分かんない感じでこう書いてるんですよね。
丹野さんは毎日旅の記録をつけていました。
その場その場で殴り書きしたメモを頼りに記憶を呼び起こしパソコンに文章を打ち込みます。
ほとんど忘れてますね。
何をしゃべったかとか何を聞いたかっていうのは。
やっぱり人の顔がもう全然思い出せないので。
普通の人はやっぱり物事を思い出す時っていうのは少しこううっすらとでも人の顔とかが浮かばれて思い出して打つ事ができるんですけど私の場合スパッて抜けてるので何にも思い出さないっていう時があるので。
(取材者)1日目はワーキンググループとの話し合いでしたね。
え〜っとね…。
これは何だろうなぁ…。
これ誰かと会ったんですよね。
「いいんかいが決める3年にんきで」。
そうですね。
うん。
ジェームズと…ジェームズだなこれは。
ジェームズは知らない。
ジェームズとアグネスと会った時ですね。
ジェームズとアグネスとあと誰と会ったんだっけ?忘れました。
アハハハ。
(取材者)ワーキンググループを訪ねていったんですね。
その中にジェームズとアグネス…いやアグネスいなかった。
あっいなかった。
(取材者)うん。
ジェームズとナンシーとあとアンさんっていう女の人と。
その3人が当事者。
もう1人あの…。
(取材者)それがリズさんって小柄な女の人。
ああそっか。
それじゃあ俺が考えたのは2日目だ。
(取材者)あっそうだね。
2日目にアグネスがいた。
あとデイビッドっていう。
そうです。
(取材者)レビー小体型認知症の。
初日は完全に忘れてます。
フフッ。
でもいいんです。
これでこうやって…うん。
うん。
ハハハ忘れちゃった…。
だからこう書いてるんですよね。
忘れるんですよ。
全然思い出さない。
旅は7日目。
丹野さんはスコットランドを離れて南へ。
イングランドに向かいました。
アルツハイマー協会が主催する催し。
「メモリーウォーク」です。
(一同)Three!Two!One!
(歓声)認知症に対する関心を高め活動資金を得るために各地で開かれます。
この日はお年寄りから子供までおよそ3,500人が参加しました。
今イギリスでも高齢化に伴い認知症を発症する人が増えています。
介護などに要するコストが2009年で年間2兆円。
その後30年でおよそ3倍になるという試算も行われています。
その現実からこの国の人たちは目をそらしません。
自分たちの社会を自分たちの手でつくっていこうとしています。
なんで今日来たの?ああすごい。
バイバイ。
「認知症とともによく生きる」。
この考え方を当事者だけでなく社会全体で受け止め未来につなげていこうとする人たち。
その生き方には明るさがありました。
丹野さんが旅の終わりに訪れたのは「認知症の人にやさしい町づくり」に取り組むヨークです。
ここに丹野さんがインターネットを通じて知り合った1人の女性が暮らしています。
(通訳者)あっほらほらほら。
待ってる待ってる。
看護師として働いていた2年前58歳の時にアルツハイマー型認知症と診断されました。
「自分が自分でいられるうちに生活を楽しみたい」と考えたウェンディは病院を退職してこの家に引っ越し1人で暮らしています。
これは誰が手入れをしてるんですか?あ〜!アハハハ。
認知症のためできない事が起きた時それを乗り切る新しい方法を見つける事をウェンディは「適応」と呼んでいました。
その一つとして始めたのがブログです。
毎日書きつづるブログは彼女の「記憶装置」だというのです。
これはある日娘と共に遊園地に行った時の書き込みです。
乗り物で鼻をぶつけ血の出るケガをしたウェンディ。
…とつづっていました。
近くに暮らす長女と一緒に話し合いました。
いろいろブログで発信してるっていうのは認知症になってから始めたこういろんな…。
パソコンとかもそうですけど始めた事なのかなと思って。
そうです。
認知症と生きる私の人生がこれからどうなっていくか日記をつけたかったのです。
すると娘が「ブログを書いたらどう?」と勧めてくれたのです。
でもその時私はブログが何かも知らなかったんですよ。
やってみて…認知症になってからそれをやってみてどのように自分の気持ちが変わりましたか?1つ例を挙げましょう。
去年この家に引っ越してきました。
その時私は新しい環境に適応するのがとても大変でした。
新しい家では勝手が違いました。
戸棚やタンスがどこにあるのか分からなくなってしまったんです。
そこで適応する方法として入っているものの写真を撮り戸棚やタンスに貼り付ける事にしました。
解決策は必ずあります。
前向きに考えたからといって認知症との格闘が終わるわけではありません。
でも認知症とともに生きる事がずっと楽になります。
(笑い声)ちょっとお嬢様に聞いてみてもいいですか?私にもやっぱり家族がいて妻がいて娘がいるんですけどお嬢様から見て元気になったこのウェンディさんどのように思われてますか?尊敬されてますか?はい。
母を誇りに思っています。
認知症という恐ろしい事を前向きに捉え見事に受け入れています。
母にとって新しい人生が始まったのです。
私は母ができるだけ長く自立して暮らせるよう支えていきたいと思っています。
うちの娘はまだ思春期なのでそういう事を言ってくれないので。
だから聞いてみたいなって思いました。
(笑い声)私は看護師なので認知症が進むとどうなっていくか知っています。
そして母はそうなった時の世話を私や妹にはさせたくないと思っているので介護施設に入る事になると思います。
そこで認知症についてよく分かっている人たちから支援を受けられるならできるかぎり認知症とよく生きる事は可能だと思います。
「よく生きる」というのは誰にとっても難しい事ですが「できるかぎりよく生きる」という事ならば認知症が進んでも可能だと思います。
認知症は死に至る病ですが命とはそういうものですから残された一分一秒を最高のものにすればいいのです。
丹野さんはこの旅で17人の当事者と対話を重ねました。
毎日メモに書き留め記憶をたぐり一語一語パソコンに打ち込みました。
私はほんとにこっちに来る前は初期の支援が必要だとずっと思ってました。
でも支援はものすごく大切だけど支援も大切だけどやっぱり認知症を恥ずかしくないとか進行していっても自分の事は自分でやるっていうその当事者の気持ちをどれだけ持たせるかっていうものがものすごく大切だなっていうのがこちらに来て自分の中でも思ってなかった発見だったと思います。
でリスクを冒しても自分で行動する。
反対にリスクを冒さないで自宅でうつ状態になる。
どっちをとるかって言ったらやっぱり私はリスクを冒してでも自分で行動をする方をとった方がやっぱりその人らしく生き生きと生活するために必要かなって思います。
リスクは必ずあります。
でもそれをサポートする事で少なくする事ができるのではないかなと思ったのでやらせないのではなくてできる事は自分で行う。
それが自分自身のまああの…。
自分自身ですごく感じた事で。
周りの環境を変えていくには認知症当事者が話をして理解してもらう事でやっぱり変わっていくんじゃないかなって確信しました。
10日間に及んだ旅の最終日。
Hello,goodmorning.丹野さんはウェンディが通う認知症の仲間たちとの集まりを訪ねました。
Hello.Hello!Goodmorning.Welcome.Reallywelcome.
(拍手)コンニシ…ワ。
(歓声)ヨウコソ…ヨーク。
「ようこそヨーク」。
・Hello,welcometoYork!
(笑い声)
(拍手)今日来て日本語で挨拶されたりしてすごく歓迎されてる感があってとてもうれしいです。
ほんとにありがとうございます。
生きていれば病気にもなるし「人生が終わった」と思えてならない事もある。
しかしどんな時でも「できるかぎりよく生きる事」は可能なのではないか。
丹野さんの旅は教えてくれます。
私はここに来る前はおとなしかったんですよ。
今では誰も黙らせる事はできませんが。
ほんとですよね。
(笑い声)スピーチも大好きです。
私も家族とうちにいる時はひと言もしゃべらないんですよ。
私もよ。
でもここでは話し始めたら誰も止められません。
私は妻に対して罪悪感があるんです。
私が認知症であるために妻の重荷になっていて申し訳ない気がするんです。
でも奥さんがどう思っているかは話さないと分からないでしょ?話しましたよ。
話した気がする。
(笑い声)確か妻だったような…。
(笑い声)2017/01/14(土) 23:00〜00:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「認知症とともに よく生きる旅へ〜丹野智文42歳〜」[字]

認知症と診断された後、人はどう生きていけばよいのか。どんな支援があるべきなのか。手がかりを求め、一人の認知症の男性がイギリスへ旅に出た。その10日間の旅の記録。

詳細情報
番組内容
旅をしたのは、仙台市の丹野智文さん(42歳)。英国は、医療や介護の専門家だけではなく、認知症の本人を「経験による専門家」と位置づけ、「本人にはどう見えるか」を重視するアプローチを続けてきた先進地。番組では、丹野さんが英国で17人の認知症の人びとを訪ねる対話の旅を追った。認知症の当事者たちが「声をあげられる」仕組みや、それに「耳を傾ける」文化に触れながら、自らの生き様を問い返す旅ともなっていく。
出演者
【語り】小野卓司