ある道ある部門で最も優れた4人を「四天王」と申します。
各地の武将たちが覇権を争った戦国の乱世。
その頂点に立った徳川家康には天下取りを支えた4人の重臣がいました。
その名も「徳川四天王」。
前回に引き続き徳川四天王の知恵をご堪能頂きましょう。
まずは本多忠勝。
戦国最強とうたわれ生涯50余りの合戦で一度も傷を受けなかったという猛将。
続いて榊原康政。
四天王一の切れ者で常に先を読んで手を打つ策略家。
井伊直政。
「赤鬼」の異名を持ち強敵との決戦では常に先陣。
最後は酒井忠次。
徳川家臣団の重鎮にして組織のまとめ役。
この4人弱小だった若き日の家康をどう支えたかというと…。
19歳の時岡崎城主として独立した家康がまず直面した…ここで榊原康政は…一揆を平定に導きます。
家康が生き残りを懸け信長と同盟を結んだ時信長から嫡男の信康に謀反の疑いをかけられます。
その時酒井は嫡男・信康の命より信長との同盟を守り徳川家の生き残りを優先するという苦渋の決断をします。
そして天正10年。
信長が明智光秀に討たれた本能寺の変が勃発。
その時本多忠勝は絶望に打ちひしがれた家康を立ち直らせ「伊賀越え」という大移動を決行。
家康生涯最大の危機を救ったのです。
こうして家康と四天王は信長死後の新たな時代に直面。
組織の力をアップさせながら天下を目指していきました。
そこにはいかなる知恵が隠されているのでしょうか?先週に引き続きそれを読み解くのが眞鍋政義さんです。
「ちょっと乱れた。
さあ頑張れ!決まった〜!」。
眞鍋さんはオリンピックの舞台で28年間表彰台から遠ざかっていた日本代表に銅メダルをもたらします。
就任から4年でチームをメダルへと導いた背景にはいかなる成長戦略や組織の活用術があったのでしょうか?今宵も歴史と現代の知恵の二重奏。
弱小大名からスタートした家康とその四天王たち。
今週もですねこちら「トップを目指す組織とは」と題しまして家康と共に天下を取りました徳川四天王の知恵をたっぷりとご堪能頂きたいと思います。
前回まではね3本知恵を味わって頂いたんですけれども今回はその残りをたっぷり味わって頂こうと思っております。
その前に今日もつきだしをね用意してありますのでさあ召し上がって下さい。
何かといいますと赤こんにゃくとキムチとそれからパプリカですね。
全部赤いですね。
そうですそこです。
「そこです」ってもう見たままじゃ…店主!井伊直政で四天王の中では最年少。
「赤鬼」とかね言われた武将なんですけどね。
そうなんですよ。
赤は赤鬼。
赤鬼の異名をとりましたこちら井伊直政の知恵でございます。
天下を歩まんとする徳川家にまず大きく貢献する事になるんですね。
年がですね家康の19歳も下なんですけれどもなかなかいい味わいを出しているんですよこちら。
巨大な勢力を誇った織田信長が本能寺で命を落とした事で時代は群雄割拠に逆戻り。
各地の武将が信長の領地の獲得合戦を繰り広げました。
伊賀越えに成功した家康もこれに加わります。
信長亡き後空白地帯となった甲斐と信濃に注目したのです。
この地はもともと「風林火山」で有名な武田家の領地でした。
武田家は信長によって滅ぼされていましたが有能な家臣たちは地元で生き延びていたのです。
「武田の旧臣たちを取り込む事ができれば一気に勢力を拡大する事ができる」。
しかし北条家も狙っていたため両者の間で衝突が絶えず四天王たちが前線で体を張り一進一退を繰り返していました。
この状況を打破したのが四天王の中で最も若い井伊直政でした。
勇ましい姿ですね。
井伊直政公の像がある彦根駅前に来ました。
ここで直政の知恵を2代目店主自ら仕入れに行ってまいります。
井伊直政が武田の旧臣たちをどのように取り込んだのか。
それがうかがえる史料が残されています。
これは井伊直政が武田の旧臣丸山半右衛門尉に宛てた書状でいわば収入の保証書です。
丸山は武田家に仕えていた時駿州や甲州から合計39貫文現在の価値にしておよそ350万円の貨幣と毎月米30俵を得ていました。
井伊は丸山が徳川の家臣になれば武田の時代と全く同じだけの収入を保証すると約束したのです。
その時代大名が新たな領地を得ると相手から根こそぎ奪い自分の家臣たちに分け与えるのが普通でした。
それに対し井伊のこの行動はとても珍しいものでした。
更に井伊は彼らの誇りや伝統を尊重していきます。
それを物語るのが赤一色の「赤備え」です。
赤備えの軍団はそれまで武田家の代名詞とも言うべきものでその見た目と強さから恐れられていました。
井伊はいわばそのキモを取り入れる事で彼らの心をつかんでいったのです。
こうして井伊は武田の旧臣たちを自らの傘下に収めました。
徳川家は甲斐と信濃も手中に収め一気に五か国を支配する大名として急成長を遂げたのです。
しかしその裏でトラブルが発生します。
なんと井伊に対し冷静沈着で知られた四天王の一人榊原康政が嫉妬の炎を燃やすのです。
活躍が華々しいほど周囲の嫉妬も強くなるもの。
これを仲裁したのが四天王の最年長…ふだん温厚な酒井がこの時ばかりは激怒しました。
酒井のけんまくに押された榊原康政はその後不満を一切言わなくなります。
意外と人間くさいですよね。
人間くさいですね。
どういう心境だったんですかね?やっぱり自分より若いのが家康に取り立てられてやっぱ面白くないっていうね。
それとやはり榊原あと本多は酒井もそうなんですがいわゆる三河武士なんですよね。
だけど井伊は遠江元今川の家臣の子供ですから何でそんなのが家康によって取り立てられるんだっていうねそういう思いで嫉妬が生まれたと思います。
向上心の裏返しかもしれないですけどね。
その「赤備え」なんですけれどもこちらです。
もうご存じですよね。
ひこにゃん。
かぶってるもの見て下さいこれ。
赤いでしょう。
直政は晩年彦根の藩主になるのでその伝統を受け継いでひこにゃんもかぶっているという事なんですよ。
じゃここにも武田家の…イムズが残して。
伝統が残ってるんですよ。
ひこにゃんも。
不思議に思うのは当時だと力でねじ伏せればいいように思うんですけれどもそこを直政はくみ取りに行ったわけじゃないですか。
これはね…信長…要するに武田滅ぼしたあとね武田家臣たちは使わないんですよ。
自分の家臣には組み込まない。
だからそのあと河尻秀隆っていう信長の家臣が甲斐国入るんですけどそれは信長が殺されたあと本人も武田の元家臣によって殺されちゃう。
だからそういうのを見てますのでやはり家康及びその家臣団たちはむしろ…武田家臣たちにしてみても自分たちの誇りがねあるんでそこでまた活躍できるっていうね武士として生きていけるというそういう両方の思惑が一致してます。
それもじゃあ踏まえてなのかな?やっぱ結局双方のメリットですよねこういうのはね。
そうですね。
うまい具合に取り込んだわけですよ。
相手のキモの部分となるところは非常にこう吸収してっていう…。
それバレーじゃなく例えば他の競技から取り入れたりする事はあるんですか?2年ぐらい前にいろんな違うスポーツを見て非常に勉強になったのはシンクロ。
プールのシンクロです。
眞鍋さんがバレーボールのプレーの参考にしたのがなんと…それにびっくりしましたね。
現在日本代表が取り組む新戦略。
それはセッター以外の全員が一斉にスパイクを狙い相手を惑わそうというもの。
そこで重要になるのが助走をとる時の動きです。
全員が同じタイミングでまさにシンクロして飛び込めば相手は的が絞れずスパイクが決まりやすいと考えたのです。
やっぱり世界の頂点になるためにはそんな簡単になれないと思いますし。
私はもう日頃からできるだけ…少しでもどっかにアイデアが落ちてないのかなというようにはしてますけどね。
家康は五か国の領主になるんですがそこにあのとてつもない敵が立ちはだかるわけです。
そこで今度味わって頂くのがこちら。
なんとですね四天王の知恵を一緒に味わえるセットであります。
このセットがあるんですか?本能寺の変から2年後の天正12年。
家康は天下取りレースのトップを走る強敵羽柴秀吉と衝突します。
このころ秀吉は畿内を中心に19か国を支配するまでに成長していました。
これに危機感を抱いた信長の次男信雄は家康に援軍を要請します。
こうして家康・信雄の連合軍が秀吉と激突します。
合戦の直前家康が領民たちに配った手紙が焼津市の旧家に残されています。
弓鉄砲槍を集めてそれから16歳から60歳までの男子を集めて合戦に参加した。
相手は強敵。
家康は領内にある武器と男を根こそぎ集めまさに総力戦で挑まなければなりませんでした。
しかし家康ら1万7,000に対し秀吉軍はなんと10万。
圧倒的に不利な状況をどう覆したらいいのでしょうか。
最初に素早く動いたのが四天王の中で最年長…酒井は事前に戦場となりそうな場所へ偵察に行きます。
広大な濃尾平野。
そこに1つだけ信長時代からの城小牧山城がありました。
酒井は小牧山城を真っ先に占拠すると僅か数日で幾重にもわたる堀や土塁を築き家康本隊をここに呼び寄せます。
見晴らしのいいこの場所は敵の動きが手に取るように分かるため戦況を有利に運べると考えたのです。
しかし兵の数は圧倒的に劣るため小牧山城を包囲されてしまえば勝ち目はありません。
そこで酒井の次に切れ者の榊原康政が力を発揮します。
榊原の策は書状で敵を挑発する事でした。
挑発に乗ればミスが生まれやすくなります。
実はこの時秀吉には弱みがありました。
以前仕えていた織田信長の身内を容赦なく排除していたのです。
天下取りへの布石だと考えられます。
榊原はこうした経緯を檄文にしたためばらまき大義は家康側にあると訴えます。
榊原の読みどおり秀吉は激怒します。
「榊原を討ち取った者には褒美を好きなだけ与える」。
秀吉側の武将たちは暴走を始めます。
秀吉に次ぐ副将格の池田恒興もその一人でした。
池田は小牧山城に籠城する家康軍をそのままにひそかに2万の兵で移動します。
およそ40キロ先にある徳川家の岡崎城を攻め落とし一気に勝敗を決しようとしたのです。
しかし家康は小牧山城で池田の動きを察知。
ひそかに敵の後方に忍び寄ります。
家康本隊の先頭は井伊直政の赤備え。
武田の旧臣たちで固めた軍団でした。
そして…家康軍が背後から奇襲した時の様子が当時の屏風に描かれています。
井伊の赤備えが山を駆け下り戦場に突撃します。
そして敵の副将格池田恒興を討ち取りました。
秀吉軍に大損害を与える事に成功したのです。
しかしこの屏風にはあの戦国最強とうたわれた本多忠勝の姿がありません。
どこにいたのでしょうか?前線が劣勢にあると聞いた秀吉は自ら2万の兵で援軍に走っていました。
そこに立ちはだかったのが本多忠勝隊500騎。
秀吉本隊をここで足止めするのが使命でした。
2万の兵を相手に本多は日が暮れるまで槍を振りました。
有力な家臣を次々と失った…一人一人得意分野を持つ四天王の畳みかける連携によって圧倒的に不利な状況を覆した徳川家。
それはまさに組織の連携の勝利でした。
はぁ〜組織の力か。
これは家康と秀吉にとってどういう影響があったんですか?このあとそれこそやっぱり家康に勝てなかったっていうね。
秀吉にしてみればやっぱりそれがちょっと負い目になっていきますね。
だからある意味では家康にちょっと頭が上がらないという事と…。
もし完全に力で家康をねじ伏せてればもう東に敵対する勢力ほとんどなくなりますので朝廷ももしかしたら「征夷大将軍もいいかな」というねなったと思うんですけど結局秀吉は征夷大将軍にはなれなくてしかたなく次の手という事で関白を選んだわけで…。
そういった意味で言うと関白・豊臣政権が生まれてくるちょうどこの小牧・長久手の戦いというのはまさに分水嶺の戦いですね。
スポーツの世界ではそれこそいろいろなね連携する事がトップを目指すのに必要になってくると思いますけれども。
我々もコーチが5人いてるんですね。
コーチ5人が分業制にしてますから一人一人練習メニューもコーチ陣が今考えるようにしてます。
そして私がいないところでもコーチだけのミーティングもやってますしそういった意味では非常にコーチもまとまってるかなというふうに思いますね。
連携するうえで重要になってくるのはどんな事ですか?やはり同じ目標をもって夢をもってまず4つの世界一が必要なんですね。
4つ。
それ何ですか?この4つだけは世界一になろう。
これをずっと言い続けてます。
ロンドン五輪の時はその…。
1つだけです。
どれが世界一になったんですか?サーブですね。
ああ…すごい!それであとは2番3番でチームとしては3位ですから。
だから必然的にその4つが世界一になると私はもう間違いなく世界一になるなというふうに思ってます。
そこは日本の強みなわけですかねやっぱり。
ええそうですね。
…というふうに思ってます。
はぁ〜なるほど。
さあいよいよですね最後の知恵であります。
あら?3人。
3人!?先ほどの小牧・長久手の戦いの後酒井忠次は亡くなってしまうんですよ。
あら何で?病気で。
あらまあ。
3人になって寂しいんですけれどもいよいよ家康は天下をその手にする事になるんですが非常に心にしみるお味となっております。
ふ〜ん。
天下を治めていた豊臣秀吉が亡くなります。
関東で着実に勢力を固めていた家康。
ついに「天下」の二文字が目前に見えてきました。
ところが家康の動きを阻止しようと石田三成が立ちはだかります。
そして慶長5年。
東軍家康西軍三成が関ヶ原に集結。
徳川家最大の決戦その組織力が試される時でした。
この時勝敗のカギを握ると見られたのがおよそ2万の兵を率いた西軍の毛利家。
両軍の兵力がきっ抗する中家康がどうしても味方に寝返らせたい相手です。
しかしそれは容易な事ではありませんでした。
このころ両陣営には寝返りを誘う密書が飛び交っていました。
誰のどの書状を信じたらいいのか?疑心暗鬼が渦巻いていました。
この状況でいかにすれば毛利を寝返らせる事ができるのか?両軍は配置につきます。
毛利軍が布陣したのは関ヶ原を一望できる南宮山。
山頂に毛利秀元1万5,000その下には毛利一族の事実上の指揮官を務めた吉川広家3,000。
すると吉川に徳川方からの書状が届きます。
その時の書状には家康の考えが記されていました。
この書状の内容に対し誓いを立てたのはこの2人でした。
本多忠勝と井伊直政。
実はこの2人が連名で署名しているのは確認されているかぎりこの一通のみ。
家康の重臣としていわば生きる伝説となっていた2人の名を使う事で内容に偽りがない事を証明しかつ相手を特別扱いしている事を強調したと考えられます。
徳川の…そしてついに決戦の火蓋が切られました。
まずは井伊直政率いる「赤備え」が東軍の先陣を切り敵に突撃します。
本多忠勝も奮戦。
そしてあの誓約書が戦の命運を決します。
吉川は西軍からの度重なる要請を受けるもその場を動かず毛利本隊を阻止し続けました。
毛利軍総勢2万は戦に参加しなかったのです。
そして開戦から7時間。
西軍が総崩れし家康軍が勝利を収めます。
しかしその直後肝心の徳川家が分裂の危機に瀕します。
原因をつくったのは家康の跡取り秀忠でした。
秀忠は関ヶ原の戦いの直前別動隊3万8,000の軍勢を預かり中山道を進んでいました。
しかし……という大失態をおかしたのです。
家康は激怒。
遅れて到着した息子秀忠に対し会う事すら拒絶したのです。
「徳川家のために親子を対立させてはならない」。
ここで切れ者榊原康政が動きます。
榊原自身もまた秀忠と行動を共にし決戦に間に合いませんでした。
榊原は家康に会うとすぐにこう言います。
「自分の責任が最も重いものです」。
榊原は責任回避をしませんでした。
そのうえで家康との話し合いの中で遅れた理由を明らかにしていきました。
それは「急いで来るように」という家康の伝令が雨による川の増水のために大幅に遅れて到着した事。
それを知って急いで兵を進めたが秋雨や無理な行軍で人馬が疲れ果ててしまった事などでした。
そして最後榊原は涙ながらにこう訴えます。
「家康様がこのまま秀忠公を拒否し続ければ家臣たちは秀忠公を侮りひいては徳川家の将来が危うくなります。
どうか秀忠公をお許し下さい」。
榊原の懇願によってついに家康は秀忠を許しました。
徳川の分裂が回避されたのです。
こうして家康は三河の弱小大名からスタートして45年ついに武家のトップに立ちました。
そして徳川家は260年にわたり天下に君臨し続ける事になるのです。
さて関ヶ原のあと四天王にはこんなエピソードがあります。
家康と秀忠が仲直りをしたあと四天王たちは一晩中酒を酌み交わしました。
長年の労をねぎらう3人。
そして関ヶ原で命懸けで戦った本多と井伊の2人は榊原康政に対しこう言います。
これが彼らの集結した記録に残る最後の場でした。
はぁ〜…。
一応じゃあ公式で3人で酒飲んでるんですね。
しかしやっぱ家康は勝っても我が息子を許さないですね。
そうですね。
この時やっぱりほんとの徳川本隊というのは秀忠が率いてたんです3万8,000。
ですから家康が率いていたのはむしろどちらかっていうと元の豊臣大名ですからそういった連中に手柄を立てさせちゃったわけですから家康の思いとしてはね「何やってたんだ」っていうねもうほんとに頭にカッカカッカ来たと思いますよ。
家康自身ももうどうせ許さなきゃいけないというのはあるんですよね?うん。
あるんだけどやっぱちょっと怒った手前ねそう簡単には許せなかったんである意味では榊原康政が中に入ってくれたんで家康の方も救われたっていう気持ちもあったでしょうね。
じゃあ拳のちょっと落としどころが…。
落としどころがなかったのを間に入ってくれたんでそういう役割もやっぱ四天王やってますね。
ここぞという時には家康もねレジェンドの威光を使うわけですがレジェンドと呼ばれる選手が投入される事によって周りっていうのはどういう影響を受けるんですか?やはりチームがピリッとこう引き締まりますよね。
引き締まる。
はい。
監督の頭の中では計算はされてるんですか?大事なカードですね。
今まで特にロンドンオリンピックの時は一番年齢が高かった竹下。
まず竹下はね2000年。
2000年。
シドニーオリンピックで一回オリンピックに行ってないんですよ。
日本女子バレーがオリンピックに行けないのは背の低いセッターを使ったからいけないっていうもう相当やられたんです竹下は。
いろいろ苦労してそしてまた復活していった。
そういう竹下にはこう何て言うんですか苦しいそういうのをずっとこの胸の奥にしまってたんですね。
そしてロンドンオリンピックで開会式の1週間前にレシーブ練習の時にアタック打ったボールが下からパーンとはじいたんですよ。
そして検査をしたら第一関節がひびが入ってたんです。
ほぼ骨折です。
でも竹下は隠し通してロンドンオリンピックやり通しました。
これ普通じゃ考えられないですよ。
女性の執念です。
ベテランの力。
ロンドンオリンピックはそういった竹下の力がやっぱりチームとして大きかったのかなというふうに思いますね。
もう一つの知恵トップも動かせってありましたよね。
眞鍋さんにとってのトップっていうのは協会…。
そうでしょうね。
協会。
その協会を動かしたり選手から眞鍋監督が動かされた事というのはありますか?それもロンドンオリンピックのもう最後の最後なんですけどもメンバー選考の時に石田瑞穂という選手を私は最後しょうがなく1人落としました。
そしたらですねスタッフと選手全員が私のところに来て「眞鍋さん石田だけはね一緒にオリンピック行きたい」と。
それはね理由はねその石田っていうのは3年半同じ苦しい練習をして毎日ですよもうね雑用も全部やるんです。
練習中もムードメーカーで声を出して…。
でも私はしょうがなく石田を最後切って…。
でも選手たちが…それを言われたので私は協会にお願いして「何とかもう1人石田を連れていってほしい」ってお願いしたらバレー協会はOKしてくれました。
やっぱりそういう選手が控えの時はいい成績を収めるんですよね。
これ不思議なんですよ。
だから目に見えない力が発揮する時なんですよ。
それはやっぱりチームの結束力輪を見えない力が高めるんですかね。
さあ2回にわたってたっぷりと徳川四天王の知恵を味わって頂いたんですけれども改めて小和田さんいかがでしたでしょうか?やっぱり徳川幕府っていうと家康が作ったってね普通みんな思っちゃうんだけどもやっぱり四天王みたいなそういう支えがあって家康も天下取れてったっていうね。
多分信長秀吉がそのまま天下取ってれば今みたいな我々日本人のね心情というか感性というかそれはなかったと思うんですよね。
それはやっぱり…その辺もある意味ではこの時の四天王が日本人のね心の源流というのかなそういったのを見る思いがいたしますね。
そして眞鍋さん。
はい。
世界のトップを目指す組織に必要な事何だと思いますか?まずはやはり私も世界にいろいろアンテナを張りながら…。
いろんな困難が出てくるとは思うんですね。
でもその困難をですねやっぱりチームとして一致団結して全員で苦しい事もあると思いますけども克服して最後は一番高い表彰台にのぼりたい。
まあそれしかないですね。
はい。
いやいやほんと…。
勉強になりました。
ありがとうございます。
今度是非選手の皆さん連れてきて下さい。
ここにですか?フフフ…。
2017/02/07(火) 22:00〜22:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉 トップを目指す組織とは「徳川四天王」(後編)[解][字]
徳川家康の天下獲りを支えた「徳川四天王」。豊臣秀吉との争いや関ヶ原の合戦における彼らの活躍とは?戦国最強の幹部チームから、トップを目指す組織に必要な知恵を学ぶ。
詳細情報
番組内容
戦国の世を制した徳川家康。地方の弱小大名だった家康が天下人にまで登り詰めることができたのは、「徳川四天王」と呼ばれる4人の重臣たちの活躍が大きかった。豊臣秀吉との「小牧・長久手の戦い」や、天下分け目の関ヶ原の合戦でも、彼らはその力を存分に発揮。ついに、家康を天下獲りレースの勝者へと押し上げる。その行動哲学とはいかなるものだったのか?戦国最強の幹部チームから、トップを目指す組織に必要な知恵を学ぶ。
出演者
【出演】静岡大学教育学部教授…小和田哲男,バレーボール全日本女子監督…眞鍋政義,ビビる大木,【司会】近田雄一