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字幕書き起こし ファミリーヒストリー「夏木マリ〜謎の曽祖母るん 外国人との関わりが!?〜」 2017.02.09

おはようございます。
デビューから今年で46年。
俳優歌手そして演出家としてマルチな活躍を続けています。
現在64歳。
幅広い世代から支持を集めています。
さあ今夜のゲストは夏木マリさんです。
どうぞ。
よろしくお願いします!失礼します。
いやぁ〜。
かっこいい!いやいやいやいや…。
すてき!夏木マリさん。
昭和27年東京豊島区で中島家の長女として生まれました。
両親は既に他界。

 

 

 


父方のルーツについて唯一伝え聞いている事があります。
(取材者)鉄工だけですか?戸籍を見ると曽祖父中島啓次郎が暮らしていたのは岡山県津山市。
江戸時代の面影が今も残る城下町です。
戸籍にあった場所ははんこ屋になっていました。
中島という鉄工所を知っているか近所の人に尋ねました。
そこで町内会長を訪ねると通りの古い写真を見せてくれました。
この写真がですね…。
かつてここは町一番のにぎわいだったといいます。
すると町内会長がある事に気付きました。
昭和初期に撮られたパレードの写真。
横断幕に「中島機械店」の文字が。
これが中島鉄工所の事のようです。
当時の中島鉄工所を知っている人が見つかりました。
どうもすみませんこんにちは。
今も現役で店の経理を担当しています。
すごい!
(取材者)お店の名前は中島鉄工所っていう…。
更に取材を続けると中島家の子孫が市内に暮らしている事が分かりました。
マリさんの曽祖父啓次郎の八男の妻です。
明治末期に撮られた中島鉄工所の写真が残されていました。
多くの従業員を抱え農機具の製造・販売を行う店でした。
写真の中央にいるのが曽祖父啓次郎。
すてきじゃないですかなかなか。
(取材者)どこがですか?
(取材者)ふ〜ん結構羽振りがよかった?そうそう。
啓次郎の家はもともと隣町の鍛冶町にありました。
ここは江戸時代から数多くの刀鍛冶が住んでいた地域。
啓次郎の家も鍛冶職人だったと思われます。
それが明治になり刀鍛冶の仕事がなくなると農機具の製造を始めます。
大正時代には最新の農機具を仕入れ販売も行っていました。
市内にある郷土博物館。
中島啓次郎の記録が残されていました。
これかな?大正12年のところ。
この人ですかね?
(取材者)ええええ。
啓次郎は町の名士としてさまざまな寄付を行っています。
ここですね。
中島啓次郎という名前が…。
神社の石畳の修復費用。
更に橋の建設工事にも。
あ〜っ!そんな啓次郎の次男として育ったのが春二郎。
後のマリさんの祖父です。
おじいちゃん!あれ!明治の終わり。
春二郎は次男だったため東京に出ました。
さまざまな仕事を転々とした後春二郎はある仕事に目を付けます。
東京板橋区にあった一興電線。
電線の製造と販売をしている小さな会社でした。
時は日中戦争に向かう時代。
軍需産業が伸びるのと同時に電線が飛ぶように売れ始めます。
会社は急成長。
春二郎はみるみる出世し重役にまでのぼり詰めました。
あっおじちゃん!会社は30年前になくなりましたが創業者の娘さんが見つかりました。
ヨネさんは春二郎の事を覚えていました。
(笑い声)会社で?重役になり仕事に追われなくなると春二郎は会社をサボっていたといいます。
春二郎さん…。
春二郎…おじいちゃん!ある日一人の女性が会社に乗り込んできました。
「夫はどこに行きましたか?」。
それが妻ウヨでした。
(取材者)誰がですか?夫の手綱を引き中島家を支えたのがしっかり者のウヨでした。
あの〜…。
おばあちゃんも…あっ春二郎さん。
なるほど。
悪い事しないように…。
あそうなんですね。
面白いですね〜。
え〜っいいかげんですか?マリさんが?しっかり者で評判だったマリさんの祖母ウヨ。
明治24年松本家の三女として生まれます。
実はその松本家にも興味深い事実がありました。
娘の典子さんが松本家について聞いています。
(取材者)暮らしぶりとかなんかそういうのは…?ウヨの父松本松次郎は栃木宇都宮で時計店を営んでいました。
栃木県立文書館で松本時計店に関する資料が見つかりました。
(取材者)は〜っ。
地元資産家の子孫が保管していた明治時代の領収書。
「金額2円の時計を松本時計店から買った」と書かれています。
(山本)「時計師」とありますね。
時計の先生を意味する「師」です。
「時計師」とはまだ珍しかった西洋時計を修理できる職人の事。
当時時計は輸入品が多かったため壊れると時計師が自ら部品を作り修理していました。
すみません。
こんにちは〜。
松次郎のおいの息子で住職を務める中島存常さんです。
「服部時計店」とは現在の「セイコー」です。
こちらですね。
これは明治30年服部時計店が商品の販売や修理を任せた同盟店の一覧。
全国に110店舗ありました。
こちらに松本松次郎様の名前が載っておりますね。
ところが明治37年。
松次郎はどういうわけか神奈川県の横須賀に移ります。
横須賀…。
松次郎はなぜこの場所を選んだのか?横須賀の歴史を研究している…
(取材者)それはどこですか?松本時計店があった場所の向かいには現在米軍基地があります。
そこはかつて軍艦などを造る横須賀海軍工廠でした。
これですかね。
大正4年発行横須賀開港50周年の冊子に松本時計店の広告が見つかりました。
「クロノメーター」と呼ばれる時計の修理をすると書かれています。
「クロノメーター」とは船の揺れや温度変化があっても狂わない高性能な船舶用の時計です。
軍艦にも多く使われました。
実は松次郎が横須賀に来たのはちょうど日露戦争が始まった年。
海軍からの仕事を任されたのがきっかけだと思われます。
店の経営は順調。
マリさんの祖母ウヨは幼い頃から高級時計など一流品を買い求める客の姿を見て育っていきました。
しかしウヨの人生を変える事件が起こります。
明治43年18歳の時でした。
地元の中学生など12人が乗ったボートが七里ヶ浜で転覆。
全員亡くなります。
亡くなったのは海軍の子息などが通う名門逗子開成中学の生徒だったため大きな話題となりました。
昭和29年に映画にもなった七里ヶ浜ボート遭難事故です。
事故の知らせを聞いてウヨはすぐさま現場へ駆けつけたといいます。
愛する人を失い悲しみに暮れるウヨ。
東京に出る事を決意します。
そして事件から3年後岡山から出てきた中島春二郎と出会い結婚したのです。
2人は9人の子供に恵まれました。
ウヨは子供たちにある事を徹底させます。
それは…フフフフフ…似てるかも。
ハハハハハ…。
そんなある日一つの広告がウヨの目に留まります。
それはある建て売り住宅の広告でした。
板橋区常盤台の高級建て売り住宅。
昭和11年に「第2の田園調布」として東武鉄道が分譲を開始した住宅地でした。
しかしウヨが選んだのはそのすぐ隣の割安な土地でした。
そこに家を建てちゃっかり高級住宅地のステータスを得たのです。
かっこいい!おばあちゃん!あら。
そしてウヨと春二郎の長男として生まれたのが勇。
後のマリさんの父です。
英語が得意だった勇は将来は日本と海外を橋渡しする仕事に就きたいと思っていました。
しかし大学2年生の時胸膜炎で倒れます。
そして太平洋戦争が始まり戦局が悪化すると同級生たちは学徒出陣で次々と出征していきました。
病気を患っていた勇は多くの仲間を見送りました。
勇の日記が残されています。
クラシック音楽が好きだった勇はやり場のない気持ちをレコードを聴いて慰めていました。
だから音楽好きなんだ。
昭和19年更に悲劇が襲います。
かわいがっていた6歳下の最愛の妹宏子が腸チフスにかかり亡くなったのです。
まだ15歳女学校に通っていました。
自宅で行われた葬儀には多くの同級生が訪れました。
その中の1人が勇に声をかけます。
「元気を出して下さい」。
女性の名は…後に勇の妻となる人でした。
さあいかがでしたでしょうか?かわいそうだなと思っていましたけど。
どこの親戚の話か分かんないんだけど…そのルーツについてマリさんは気になる事があります。
和子の義理の妹典子さんは和子本人から興味深い事を聞いていました。
え〜うそでしょ!?そんな。
知らなかった?知らないです。
そのおばあさんとは和子の祖母るんの事。
るんは本当に外国人と関係があるのか?るんの戸籍を見ると幕末の慶応2年の生まれ出身が八丈島と書かれています。
八丈島は本土からおよそ300キロ離れた人口8,000人ほどの島です。
るんの名字は佐々木。
八丈島には現在佐々木姓の人が300人ほど暮らしています。
そのうちの1人を訪ねました。
(取材者)すいません。
現在島の中学校で社会科を教えながら島の歴史を調べています。
古い歴史の本を見ると八丈島の佐々木家のルーツは室町時代に本土から役人として渡って来た……だと書かれています。
ところがるんの佐々木家に関する記録はある事情で残っていない事が分かりました。
太平洋戦争末期米軍の上陸を恐れ島民たちは本土に疎開する事になりました。
その時戸籍など島民に関する古い記録も運び出されました。
しかし米軍の魚雷を受け沈没島民55人が死亡島の記録も海の底に沈んでしまったのです。
他に何か手がかりがないか取材をしたところ興味深い話を聞く事ができました。
(取材者)漂流が多かった?八丈島は周囲の潮の流れが速く江戸時代には外国の船が漂着する事がありました。
島の南西部に漂着して亡くなった外国人を葬った場所が残っています。
しかしるんと島に来た外国人との関係は結局分かりませんでした。
この島で生まれ育ったマリさんの曽祖母るん。
幼い頃に母を亡くし15歳で父を失います。
そして明治の中頃。
るんは親戚を頼り本土に渡りました。
その後るんは6人の子供を産み長女とよのもとに生まれたのがマリさんの母となる和子でした。
残念ながらるんのその後の足取りはつかめませんでした。
しかし分かった事があります。
それは亡くなった場所。
るんは京都にたどりついていました。
亡くなった場所は現在道路になっています。
取材を進めると佐々木るんを知っている人が見つかりました。
(取材者)佐々木さんという方が住んでた?更にるんの孫の事も知っていました。
その孫を訪ねました。
(取材者)こんにちは。
るんの三女の息子です。
マリさんとは遠い親戚だと聞いた事はありますが交流はありません。
残念ながらるんの写真は残っていませんでしたがその容姿は欧米人のようだったといいます。
昭和32年90歳で亡くなったるんは現在京都知恩院で眠っています。
実はこの京都とマリさんとの間にはある縁がありました。
平成23年59歳の時結婚した夫パーカッショニストの斉藤ノヴさんは京都出身。
それがきっかけでマリさんは京都清水寺で奉納パフォーマンスを行うようになりました。
そこはくしくも曽祖母るんが眠る知恩院と目と鼻の先にある場所でした。
(太鼓の音)すご〜い!るんさん。
るんさんの事は。
う〜ん。
フランス語やん。
いや〜うれしい。
八丈島にルーツを持つるんの孫和子と妹を失い悲しみに暮れていた中島勇。
葬儀で出会った2人は次第に引かれあうようになります。
勇の日記です。
フランス人外国人の日記みたいですね。
翌年には長女淳子が生まれます。
後の夏木マリさんです。
勇が勤めていたのは貿易商社の茶谷産業。
仕事は輸出品の開発でした。
力を入れたのがまだ日本の商社がほとんど扱っていなかった…勇はより自然に美しく見せるため当時紙で作る事が多かったのを布に変えます。
へ〜やるじゃん。
へ〜今のスタンダード。
また単色だった花びらに色をぼかすグラデーションを取り入れました。
するとアメリカで人気が出ます。
間もなく日本の造花は米国造花市場を席巻しました。
え〜かっこいいお父さん。
そんな勇の楽しみが長女淳子の成長でした。
昭和46年19歳の時本名の中島淳子で歌手デビュー。
しかしレコードは全く売れませんでした。
そのころ取締役にまでのぼり詰めていた勇は部下の木原さんにある話をしていました。
それまで会社では家族の事をほとんど語らなかった勇が初めて見せる父の姿でした。
勇が弟の孝さんに宛てた手紙が見つかりました。
「ニュースは淳子が今度は『夏木マリ』という芸名で相変わらず歌っています」。
「親馬鹿ですがなかなかバイタリティーがあるので親がなくともやってゆける子です」。

(「絹の靴下」)
(アナウンサー)「すっかり有名になった夏木マリさんが新曲『裸足の女王』を先日東京のあるホテルで発表しました」。
勇は娘の活躍に胸をなで下ろしました。
しかし僅か3年後。
勇は勤務中に倒れます。
若い頃から患っていた胸膜炎が悪化したのです。
そんな中でも気にかけていたのは娘淳子の事でした。
「テレビの出演で果たして淳子の身体がもつか心配だ」。
「ロケにヨーロッパ二週間の旅に発つ」。
「身体が不調なので旅行中大過がないことをせつに願う」。
昭和55年4月勇さんは亡くなります。
57歳の若さでした。
今ほんとにいろんな事知って何かね最初ドキドキで楽しくなってきてで今は感謝ですかねえ。
心を改めましてあしたから頑張りたいと思います。
まずは京都にお墓参りで。
はい知恩院行ってまいります。
千手観音のお顔見てると2017/02/09(木) 19:30〜20:15
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「夏木マリ〜謎の曽祖母るん 外国人との関わりが!?〜」[字]

夏木マリさんは、気になることがあった。東京で生まれた母が、その顔立ちから外国人とよく間違われていたこと。今回、母の意外なルーツが明らかになる。驚きの事実の数々。

詳細情報
番組内容
夏木マリさんは、ずっと気になっていることがある。それは、東京で生まれた母の顔が日本人離れしていて、戦争中は外国人に間違えられ、いじめられたということ。今回、母方の曽祖母るんが八丈島出身であることが判明。そこから、意外な歴史が浮かび上がる。京都との不思議な縁も明らかになる。また、残されていた父の日記。記されていたのは、戦時中の苦悩、母への愛。初めて知る事実に、マリさんは涙を抑えきれなかった。
出演者
【ゲスト】夏木マリ,【司会】今田耕司,三輪秀香,【語り】余貴美子