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字幕書き起こし NHKアーカイブス「夫婦 最後もふたりで」 2017.02.19

終活ね皆様すっかりおなじみだと思います。
先月千葉県で行われた終活イベント。
人生の終わりをどう迎えればいいのか考える催しです。
専門家による相続やお墓の個別相談。
お坊さんによるお悩み相談も行われていました。
こちらは遺影の撮影会
それでいいんじゃない?笑ってる。
曲がってる?笑ってる。
自然な笑顔ですよね。
およそ200人が参加したこの日のイベント。
夫婦で参加する姿が多く見られました
晩年を2人だけで迎える夫婦が増えています。
今65歳以上の高齢者がいる世帯数はおよそ2,372万。
そのうち夫婦のみの世帯が最も多くおよそ747万。
20年前の2倍以上に膨れ上がっています
人生の終盤を2人でどう過ごすのか。
多くの夫婦が向き合うテーマです

共に支え合うパートナーとして別れの時をどう迎えるのか。
夫婦の最後の日々を描いた番組があります。
妻の認知症に気付いた老作家。
支えてきてくれた妻の介護に人生の最後をささげました
「考えてみると私は家内と一緒になって50年何一つ亭主らしい事をしていなかった」。
映画監督新藤兼人さんと女優乙羽信子さん夫妻。
妻ががんに侵された事を知った夫は2人で過酷な映画作りに挑みました
夫婦最後の形とは。
アーカイブスの映像から見つめます
こんにちは。
長く共に暮らしてきた伴侶の老いや病気そして別れ。
誰もが直面するその時をどう迎えるのか。
そしてその時に大切なのは何なのか今日は考えてまいります。
ゲストの方をご紹介致しましょう。
シンガーソングライターのイルカさんです。
ようこそお越し下さいました。
よろしくお願い致します。
イルカさんは夫で音楽プロデューサーの神部和夫さんがパーキンソン病と診断されてから10年前に亡くなられるまで20年間介護看護をされてきましたね。
公私ともにわたるパートナー。
そうですね一緒にずっと仕事をねまあイルカというものを2人で作ってきたなっていうふうに思ってますのでねはい。
出会いはどんなものだったんですか?私あの〜女子美という美大に行ってたんですけどそこのフォークソング同好会に入ってまして。
夫は早稲田のフォークソングクラブの幹事長としてですねまあコーチみたいな形でやって来てそこで初めて出会いました。
初めてパッと目が合った時にすごく懐かしい人に出会ったような気がしたんですよね私は。
まあ好きな人と同じ世界を一緒にね2人で作っていけたらこんな幸せな事はないなというのがじゃあ結婚だっていうふうな…。
その目的が一緒ですと家事も分担しながら…。
いえ!いいえ!違うんですか?違うんです。
私は私が一人で「ソロで歌え」って夫が言ってくれた時に家の中グシャグシャになるのは私はとても耐えられないから「私にはできない」って言ったんですね。
そしたら「いいよ。
うちん中グシャグシャになったって全然構わないんだからやっぱりね2人の持ってる力を試そうよ」って言ってくれたのできっと手伝ってくれたりするんだろうと思ってましたけど実際やってみたら一切そういうのはなかったですね。
もう夫は。
もう洗濯機のボタンここっていうのも「え〜分かんない」みたいな人でしたね。
あ〜。
そうですか〜。
いや今日これからご覧頂きますのは二組の夫婦の人生の最後を描いた番組なんですね。
どんな夫婦でも避けて通る事ができない時間ですよね。
そうですね〜はい。
愛する人がいるって事は人間にとって一番幸せな事なんですけどだからこそその人を失うっていう事の最大の悲しみっていうんですかね。
それは私もず〜っとずっと夫がやっぱり具合悪かったのでそういう日々の中で自分の中でどう捉えたらいいんだろうって事をず〜っと考えながらね生きてきたところありますね〜。
今日最初にご紹介しますのはいわゆる老老介護に直面したある作家と妻の最後の日々を描いた番組です。
ご覧下さい。
(電車の走行音)東京都中野区野方4丁目。
この町で今年の1月一人の老作家が亡くなりました。
作家の名前は耕治人。
珍しい名前ですが本名です。
生前はあまり知られる事のなかったこの作家がどのような原稿を残していたのか分かっていません。
耕さんが亡くなって半年。
耕さんの家ではこれまで日の目を見る事のなかった原稿をまとめ全集を作る作業が始まっています。
この3年の間10坪余りのこの家を舞台に思いもかけぬ出来事が起こりそれが一連の小説になりました。
「ある夜の事である。
コトコトいう音やガチャガチャいう音家の中を歩き回るらしい足音などを夢うつつに聞いた。
突然ピシャッという激しい音で覚めた。
ふすまがいっぱい開き電灯の光を背中に受け家内が立っている。
『ごはんの支度が出来たのよ。
起きてちょうだい』。
寝ぼけ頭でベッドを下り板の間の方へ行きテーブルを見ると私と家内の茶わんやおわん箸いくつかの皿がいっぱい並んでいる。
しかし中身はないのだ。
白々と寒そうな感じだ。
時計を見ると3時だ。
私は悪い冗談だと思ったのだ。
家内はきちんと着物を着ているが私は寝巻きだけだ。
ひょいと台所の方を見るとコンロの口が真っ赤だ。
火事になった場合の事が頭をよぎり体が震えいきなり家内の顔を殴った。
家内は顔色を変え震える声で『私親からも殴られた事はないわ』と言い声を上げて泣きだした。
『殴ったのは悪かった。
勘弁してくれ。
3時間もすれば夜が明けるからそしたらごちそうを頂くよ。
それまで一眠りしよう』。
そのころは正常に戻るだろう。
家内の背中に手を回し抱えるようにしてベッドへ連れていった」。
耕さんが生まれたのは1906年明治39年ですが実は私と同い年にあたります。
耕さんの小説は素材を自分の身の回りに求めたいわゆる私小説でした。
この四畳半の部屋で耕さんはただひたすら自分と奥さんの2人だけの生活をテーマにして小説を書きつづってきました。
こうした小説の数々は初めあまり人々の注目を集めませんでした。
しかし3年前奥さんがぼけの症状を現して以来ぼけを巡る老夫婦の心の葛藤を描いたこの小説は人々に大きな衝撃を与えました。
「台所と六畳の部屋の間に板の間があってテーブルを隔て2つの椅子が向かい合っている。
そのテーブルで食事をとるが新聞を読んだり原稿を書いたりする事もある。
今年の夏は何十年ぶりの暑さというが9月に入っても残暑は厳しく昼頃になると額に脂汗がにじみ出た。
ところがその日は前日までの暑さがうそのように秋を感じさせるような爽やかな風が朝から吹いた」。
「『あと5日すると敬老の日だね。
いろいろ行事があるようだ。
今朝の新聞に出ていた』。
『去年の敬老の日はどうだったのかしら?』。
『さあ覚えていないね』。
『去年の夏はカボチャをよく煮たわね』。
『そう言われるとそんな気もする』。
『しばらく煮ないから今日辺りどうですか?カボチャはあなたの体にいいのよ』。
遠慮がちに家内が言いだした」。
「家内は板の間の向こうの隅の鏡台の方へ行った。
『こんな頭じゃあまりひどいから直しますわ』。
髪を直している家内にカボチャの値段を聞いた。
ちょっと考えている様子だったが私の方を向き『そうねえ230円ぐらいかしら』と言った。
はっきり数字を言った事が心強く感じられた。
『カボチャだけだよ。
カボチャ以外のものは買わないでくれ』と言った」。
「家内が八百屋や魚屋などで買ったものを忘れるようになったのは去年の春辺りからで初めのうちは忘れたのを認めようとせず『八百屋の奥さんがほかのお客と話していて私に渡すのを忘れたのよ』とか『魚屋の奥さんが包むのを忘れたんだわ』などと言い急いで取りに行った。
そんな家内の後ろ姿は痩せしぼんで映った」。
「だが鍋を真っ黒くされるのには困った。
魚を焼いた場合と違い鍋の外側は何ともないのに内側は真っ黒でその黒さが異様な感じだ。
煮たものも真っ黒く跡形もない。
黒さは洗っても落ちない。
落とす薬はあるに違いないと思うが家内は新品を買ってくる。
それが度重なるうちいつか4つとも同じ形の鍋になってしまった」。
「『ただいま』。
40分ばかりして門の扉が開く音がした。
急いで出ていき玄関のドアを開けた。
家内は笑って立っている」。
「蛇口から出る水の音やカボチャを切っているらしい音などが台所の方から聞こえてくる。
私は期待を持ってそれらの音を聞いた。
門の扉の方で突然大きな音がした。
何の事だろうと思ったら家内が玄関から駆け上がり台所へ行ったと思ったら蛇口からほとばしり出るジャージャーいう音がし水をかけるらしいザーザーいう音がした。
急いで台所に行くと家内がポリ容器に入れた水を辺りの棚や板壁にかけている。
私も慌ててそこらにあったもので水をかけた。
かすかな煙が開いた窓からゆらゆら流れ出ている。
危うく火事になるところであった。
『消えてよかったですね』。
いつの間にか60年配の女性が玄関の上がり端の辺りに立っていた。
『民生委員のYさんですわ』。
家内が常と変わらぬ調子で言った」。
あの〜ここでね…私背が低いもんですからここへ上がらないとベルが押せないもんですからこう上がる訳なんですねここへ。
でこうベルを押しますといてらっしゃるのでこうやって見てんですよ。
いらっしゃるかどうかの。
そしたら火の手が上がったんです。
それで奥様が出てらしてねそれで「火が出てますよ」って言ったら慌てて戻られてそれで消えたんですけどまた火が出たんです。
で「またもう一回出ましたよ」って申し上げたんです。
それでもう私がこうやってお伺いするとこう開けて下さいますねご主人様が。
そうするともう喜んでね「どうぞお上がり下さい。
お上がり下さい」って言ってね出ておしまいになるんで困っちゃって。
それでもういつも少し開けただけでねそれでここは閉めてもうここで待ってるようにするんです。
(取材者)あっ奥さんがじゃあ外に行かれる訳ですか?もう外へ出てしまわれておうちへ戻れない状態なんですね。
耕さんは17歳の時画家を志して上京。
27歳の時同い年のヨシさんと結婚しました。
結婚以来2人の相談相手は耕さんの絵の先生中川一政さんでした。
耕さんが出した詩集の裏表紙には中川さんのもとで絵の修業をしていた頃のスケッチが使われています。
それで僕のうちにはねそのほかに書生さんが3人ぐらいいたの。
どうしてそんなにいるのかっていうとね僕のね相撲の相手なの。
毎日毎日相撲取ってたからね。
だからね強いやつがいるの。
でそういうのの後へ耕さんが入ってきて耕さんは一番相撲取れないんだねあれ。
知らないくらいだね相撲の事。
で僕たちは相撲の相手を…土俵作ってやってね庭に。
それでもうまわし締めてちゃんとね相撲取ってたの。
だって相撲取らなきゃ絵描きになれない。
だから耕さんっていうのはちっとも嫌なとこがなかったね。
汚いところだの。
そういうところがなかったね。
かえってね…こう…この人をお守りするとかえって向こうの方が汚かったかもしれないね。
小便したりなんかするからね赤ん坊っていうのは。
こっちの方が親しいんだよ。
あの〜ちっちゃい時にねやっぱり全然それはもう赤ん坊でしたからね知りませんでしたけども後から父や母に「あんたは耕さんにお世話になったんだ」って随分言われました。
それでお漏らしなんか全部耕さんの背中の中にしちゃってね。
耕さんはすごくへきえきしてね「桃ちゃんは人生至る所に便所ありだな〜」ってね嘆いたんですって。

 

 

 

 

 

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宮崎県木城町新しき村。
大正7年白樺派の作家武者小路実篤がこの地に理想郷の建設を始めます。
一人一人が自給自足をしながら幸福で芸術的な生活を目指す。
この精神の下に今も5人の村人が暮らしています。
今から65年前当時16歳だった耕さんは新しき村の運動に共鳴し故郷熊本からたった一人でこの村を訪ねました。
しかしまだ年齢が若い事を理由に村で暮らす事は許可されませんでした。
その後東京に出た耕さんは中川一政さんの門をたたき白樺派の作家の一員となったのです。
(取材者)今から65年前ですけれども耕さんもですね耕治人さんもこの村に住みたいと思って訪ねられたんですけれどもそういう若い方っていうのはたくさんいらっしゃいましたか?あ〜そりゃ多かったんだから。
そんな耕治人なんか一人の事なんかね記憶にもないし何にもないよ。
大勢…大勢来てたから。
あっちこっちからね。
(取材者)皆さんどういう気持ちで…。
そんな知りゃしないよ人の気持ちなんか。
こっちが聞きたいぐらいだ。
暑いね。
耕さんと妻のヨシさんは東京の婦人雑誌社で共に編集の仕事をしていました。
毎日の仕事は忙しく小説を書く時間がないと思った耕さんは結婚後は会社を辞めヨシさんが全面的に家計を支える事になりました。
2人の間に子どもはできませんでした。
「私は家内より2年後れ家内が勤めていた雑誌社に入ったが4年働いたあと胸を悪くし病院へ入院した。
その時家内が見舞いに来た。
この時初めて個人的な話をしたが私は彼女を訪ね『結婚してくれ』と言った。
早急に盲目的に追い求めた。
彼女は『生涯独身で通すつもりだ』と言った。
しかし私は諦めなかった。
とうとう彼女は折れた」。
「闇の中に遠い昔の婦人雑誌社の3階にあった編集室が浮かんだ。
その雑誌は当時60万出ていた。
都会はもちろん農村でも広く読まれた。
料理や編み物などの特集が毎月あり別冊付録もついた。
何人かの婦人記者が料理の記事を担当したが家内もそのうちの一人だった。
6年勤め辞めたあと家内はある大学の聴講生になり勉強するはずだった。
私と結婚してから『どんな勉強をするつもりだったのか』と尋ねたら笑って答えなかった」。
耕さんが最初に出した小説はまさに奥さんとの出会いをテーマにしたものでした。
「『愛情』。
一つの愛情が自分の心を訪れた。
それから曇った日が輝かしくなり草や木や花が優しく自分に笑いかけた。
愛情はいつも自分と一緒にいるので人々を懐かしく思いその日その日が楽しく愉快だ」。
その後出版社を辞めたヨシさんはお茶お花俳画などを教えながら家計を支えてきました。
中でも身の回りの草花などを題材にした俳画はぼけの症状がひどくなるまで続けられました。
だからこういう…アジサイなんかでも筆にいっぱいこうつけといてチャッチャッチャッチャッて速くこうやって筆を立ててこうやって置いていくんです。
ともう花が出来る訳なんです。
(取材者)なるほど。
これがアジサイの花。
(取材者)これもいいお福さんですね。
かわいいですねええ。
この鬼がねすごくおどけててかわいらしいの。
「もうそれは殊に耕はとても神経質なのでちょっとでも電話が鳴ったりガタガタ音がさせたりしたらとっても嫌がるから物が書けなくなるから静かにして暮らしてる」って言ってらっしゃるのよ。
だから邪魔しないように。
「じゃ先生夜なんかどうしてらっしゃるんですか?」って言ったら「私はベッドの上に座ってねこう何か…紙なんかこうやってめくる時でもね音しないようにそ〜っとこうやってめくってる」って言うの。
夜教えにいらっしゃる時でも夜のものも全部作ってそしてすぐ食べられるようにして出てらっしゃるって言ってました。
「先生そんなになさらなくてもご主人にやっておもらいになったら?」って言ったら「いえ主人は何にもできませんから私が全部やって。
ガスの火のつけ方も分かんないんです」って言ってらした。
「私の郷里は有明海に沿った小室町で墓はその町の寺にある。
父母と2人の兄と姉と妹はその町で私一人を残して死んでしまった。
5年前体はよどみ腐ってゆくように感じた。
その時74だったが医者にかかってもよくならない事は自分でよく知っていた。
家内に説明しても分かるはずはないからなんとか体が動くうち墓に参りたいと家内に言ったのであった。
家内は何にも言わず私が請求した旅費の倍近い金を渡してくれ私の靴をそろえ門の扉の外まで送ってきて『無事に帰って下さるまで待っています』と思い詰めた顔で言った」。
「私はこれまで家内をぼけ老人を受け入れる施設へ入れる事を考えた事がある。
そのための金は今持ち合わせないが必要ならどんな事をしても作らねばならない。
実は私は17年ばかり前の事だが頭がおかしくなり昼間から雨戸を閉めロウソクをつけ何日も過ごした事がある。
家内はそんな私に少しも動ぜず介護してくれた。
精神病院から退院後私はかつて武者小路実篤氏が創設された宮崎県の新しき村の事を思い出した。
新しき村は私が16歳の時暮らしたくなり訪ねた村である。
心を病んだ私は50年ぶりに再び新しき村の土地を踏んだのである」。
死に場所を求めて旅に出た耕さんが再び訪れた新しき村。
この村には耕さんと同じような思いを抱いて村を訪ねるお年寄りが今も後を絶たないといいます。
ええええ。
あの〜よくありますね。
あの〜宮崎の市役所へ勤めてた方がねあの〜やはり何か悩んでおうちの人には「『村へ行く』って言ってね行ったんですけど来てませんか?」っていうおうちの人の電話だったんですね。
確かにねいらしたんですね。
それが1週間ぐらいたってからの電話だったんですけどね。
そこのダムにね入水してしまったんですね。
飛び込んで亡くなったんですよね。
そういう方もいましたよ。
そういう亡くなる方はまあごくまれでしょうけども最終的に村で住めるんじゃないかしらと思って訪ねてみえる方は…結果的には考えてみたらあの方そうだったのかなと思う方ありますねそういえばそういう方もええ。
「考えてみると私は家内と一緒になって50年何一つ亭主らしい事をしていなかった。
死に場所を求め何度となく旅に出たが考えてみれば私らしい体のよい口実で自分と家内の老いから逃げたかったのかもしれないのだ。
3日3晩さまよった間に体のよどみはいつか消え腐ったような臭いも消えていった。
旅に出るまでは胸に刺すような痛みを時折感じたものだがそれも消えていた。
そんな私をどう受け止めてよいか分からずむなしく帰ってきた。
その私が家内に代わって買い物に行き時には買い物に行く家内にお金を渡しているのだ」。
奥さんのぼけの症状は次第に重くなり長年続けてきた俳画の教室もやめなければならなくなりました。
それまで手本にはほとんど草花ばかり描いてきた奥さんが最後に描いた絵は穏やかな観音様の姿でした。
ガスコンロがうまく使えなくなった奥さんのためにガス漏れ警報器が取り付けられました。
「ある夜の事だがベッドでうとうとしていたら大きな声を聞いた気がした。
体を起こし枕元の電灯をつけると家内は私を見ずベッドを下りた。
家内の表情には異様なものがあった。
辺りには異様な臭いが漂っている。
急いでシャツとズボンに着替え家内の寝巻きと襦袢腰巻きを脱がせた。
このあと抱きかかえ便所へ連れていった。
それから台所へ走り湯沸かし器で湯を沸かした。
『次はおむつだ』。
大きな声を出し物置のタンスの下の方の引き出しを開けた。
傷んだ浴衣やシーツ着古したTシャツなどをいくつにも切ったのが風呂敷に包んである。
それはもう何年も前家内がこしらえたものだ。
『起きなさい。
今体を拭いてあげるからね』。
気力を奮い立たせ抱き上げようとしたらすっぽり抜け私の足元にうずくまった。
起こすのを諦め台所に行き湯沸かし器に点火し沸くとポリ容器に移した。
すると家内は起き上がりベッドの縁に腰掛けた。
しめたと思い容器の湯を取り替え手拭いを絞り家内の腰から足のつま先まで拭き始めた。
家内はその私を見ていたが『どんなご縁であなたにこんな事を』とつぶやいた。
私ははっとした」。
「天井の赤い小さな灯を見上げるとついたり消えたりして鳴っている。
家内は『何か音がしているみたいね。
玄関のベルかしら?』と見当違いの方を見てゆっくり言った。
『警報器だよ。
上をご覧』。
家内は鈍い視線を警報器へ向けた。
『あら鳴ってるわ』。
ようやく言った。
その夜ベッドに入ってからも低い音は耳の奥から響いてきた。
その音はリンリンという勇ましい音でもなくガーガーがなり立てる音でもない。
それほど高くないが助けを求めるような悲しげな音に聞こえた」。
(警報器)ピッピッピッ…。
「父54歳往生。
母39歳往生。
長兄25歳往生。
姉1歳往生。
次兄21歳往生。
妹20歳往生。
私80歳往生。
家内80歳往生。
私80歳往生。
家内80歳往生」。
この四畳半の部屋でたった一つ目につくものはこの茶釜です。

 

 

 

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奥さんがぼけられてから耕さんは明け方一人で茶をたてて飲むのが習慣になりました。
自動販売機で切符が買えない。
洗濯機が一人で使えない。
何もかも奥さん任せの耕さんがある時を境に煮炊き洗濯買い物家事一切何もかも自分でやらなければならない苦労は大変なもんだったろうと思います。
そうした中で明け方のたった一人のお茶会はどんなにか心安らぐひとときだった事でしょう。
ところが昨年の夏から耕さんは突然舌に激しい痛みを覚えるようになりました。
舌の痛みは舌の裏に出来たがんによるものですぐ入院の手続きがとられました。
一方奥さんは老人ホームに入居する事になり耕さん夫妻は結婚以来初めて別々に暮らす事になりました。
「入院した頃は上の入れ歯と下の入れ歯をかみ合わせると飛び上がるほど痛かった。
それで痛み止めの薬をもらい食事の30分前のんだ。
食事は三度とも流動食だ。
ごはんは汁のようなおかゆだ。
担当のS先生は『だんだんかたくしてゆく。
おかずもかたいものに替えてゆくから』と言われたが体は衰えてゆくばかりのように思われた。
そんなある日S先生から『手術の代わりに放射線治療を受ける事になった』と告げられた。
手術には6時間か7時間かかるが副作用の心配があるからとの事だった。
私は81歳になり体力も衰えているから手術はやめてもらいたかったのだ。
私は急に心細くなった。
老人ホームにいる家内がふいに浮かんだ」。
(警報機の音)それこそもう何て言うんですかこう物につかれたようにね…ちょっと書いちゃもう突っ伏すっていう何て言うんですか仰臥するような感じでドタ〜ッてこう横になったり。
あと机にこういうふうな感じで体を休めながら書き続けてました。
私も何回かは書いてる場面にちょうどあの…洗濯物持っていく時に何回かその場面にぶち当たったんですけども。
入っていくのがためらわれましてね。
いつも廊下で様子をうかがってそれで疲れて横になってしばらくしてから入っていくようにしてました。
耕さんが入院してふたつき目。
ようやく奥さんと面会できる機会が訪れました。
老人ホームの寮母さんがヨシさんを連れてやって来たのです。
「9月30日。
家内がやって来た時私は時計を見たが午後の3時40分。
看護婦さんが車椅子に掛けた家内の前に立ち『お客さんです』と部屋の入り口の辺りで言った。
脇に着物を着た眼鏡をかけた50年配のご婦人が付き添っていられた。
家内に付き添ったご婦人は車椅子の脇にしゃがむと『奥さんは私と一番よく話します。
奥さんご主人ですよ』。
ベッドに腰掛けた私を指さし言った。
家内は血色もよくよそ行きの着物を着ていた。
家内はニコニコし何かしゃべっている。
入れ歯がないせいもあって何を言っているのか分からない。
私は家内の手を握っていたが冷たい。
やはり涙は止まらない。
鼻水を拭くため細長いテーブルに載っていたティッシュペーパーを箱から引っ張り出そうとしたがうまく出てこない。
それを見て家内が懐に手を入れ紙を探している様子だ。
この間にご婦人が何度か『この人は誰ですか?』とか『この方がご主人ですよ』など言われたが返事をしなかった。
何度目かに『ご主人ですよ』と言われた時『そうかもしれない』と低いがはっきりした声で言った。
私は打たれたように黙った」。
入院してからおおよそ半年。
今年の1月舌の裏に出来たがんがもとで耕さんは亡くなりました。
これは耕さんが病室でつづった最後のノートです。
「真夜中の3時ごろから息苦しい。
ベッドの上で座ったりうずくまったりしている。
たんが切れないのだ。
我慢できずブザーを押す。
舌がんという言葉が何度も浮かんだ事を思い出す。
次の作が書けるかどうか不安である。
書けなくてもしかたがない気がする。
あと12日で正月。
82歳になる事を考える。
老人ホームの家内も82歳になる」。
それで物も食べられないししゃべるのだってうまくいかないと。
そういう…そういう時になっても小説書いたんだね。
最後の…。
それには僕は感心したね。
僕なんかは書けるかなと思った。
そんなになって…そんな死にそうな状態になっててね。
小説なんかが書けるかしら。
やっぱり命を張ってたんだと思うよ。
そういうふうな強さっていうものはやっぱり耕さんにはあったんだね。
僕なんかだったら何にも書かないでワーワー言ってるだけだったなきっと。
それからね私がこのあとどんな気持ちでね…。
「奥様寝ていたらどうぞ…」。
「『愛情』。
一つの愛情が自分の心を訪れた。
それから曇った日が輝かしくなり草や木や花が優しく自分に笑いかけた。
愛情はいつも自分と一緒にいるので人々を懐かしく思いその日その日が楽しく愉快だ」。
1988年放送の「NHK特集どんなご縁で」をご覧頂きました。
いろいろ考えさせるところのある番組だったかと思いますけれども。
そうですね。
やはりまずは何か夫との暮らしをすごく思い出すシーンがとても多くて何だか…。
その時は本当に大変だなと思ったりねまあ火事が起きたりいろんな事ありましたよね。
すごくその時はもうつらかったり大変だったりっていう事もあるんですけど客観的に自分を振り返ってみますとね「ああ…みんなおんなじような日々を送っていたんだな」というところで何だか逆に私はそういう日々が今懐かしいような気もしたり決して悪い事だけではなかったという事は確実に言えますね。
まさに全く何もこうどんどんどんどんできなくなっていく中で本当にパッと一瞬目と目で分かる瞬間があるんですね。
だからそういう時にすごく「あっうれしい」って幸せを感じる部分っていうものもねこれは忘れちゃいけない部分だなと。
悲しいだけの日々ではなかったというふうに思ってますけれどね。
結婚してから50年。
全面的に支えられてる一方で亭主としては何一つそれらしい事をしなかったという事をね耕さんおっしゃってましたけれどもね。
何て言うんですかね一般的なよい夫よい妻であるという事をお互いに求めた訳でなくまず同志であるというところですごく強くつながってたような気がするんですね。
ですから「夫としては何かができなかったかもしれない」ってあの言葉はとても優しさが詰まってると思うんですけれどもでもそういう自分の極みっていうか高みをず〜っとこう極めていくそういう人が好きだった訳であって奥様は。
だからそういう意味ではなにもこう家事をしてくれてとかそういう事ではなくそれよりもやはり何かすばらしい作品を書くっていうその人が一番好きだったんですからそれで奥様は非常に幸せだったんじゃないかというふうに私はそう思いますね。
奥さんの介護も推測するしかありませんけれどもどんな思いでされていたと…?一番最初のあの詩が…。
上からの音に旦那様気付く訳ですよね。
異変を。
ものすごく静かに夫に気を遣わせないように過ごされていた奥様の物音の異変に旦那様一番最初に気付いたというところが何かこうとても不思議なものを感じましたね。
ですから今までの立場がグラッと逆転するっていうところで人生学びがあるんだなと。
私もそうですね。

 

 

 

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夫に全て仕事の事を任せっきりでいろんな難しい事をやってもらってましたけれども夫ができなくなってからは歌うだけでなくいわゆるプロデュース業社長業みたいな事も自分でやらなきゃいけない。
全くやった事がなかったんですよ。
その事でやっぱり私は学ばせてもらえてやっぱり人生こういうふうにプラスマイナスきちっと中庸といいましょうかねそういうものがとれるんだなと。
ヨシさんの「どんなご縁であなたにこんな事を」っていう一瞬ご自身が分かってつらい思いと同時にやっぱり夫婦じゃなきゃ出てこない言葉ですよね。
その中にもうご主人は深くそこにものすごく心に感じた訳ですよね。
ですから奥様がいろんな事表現できなくなったり少しずつ変わっていかれる中でも奥様の感性で発した言葉を旦那様はきちっとそこに愛を感じる事ができたっていう事は何て言うんですか幸せみたいなものをね現状としては大変であってもそういうものを私自身は「ああ…」というふうにちょっと思いましたね。
では続いてもう一本番組をご紹介しましょう。
映画監督の新藤兼人さんと妻で女優の乙羽信子さんの最後の日々を見つめた番組です。
一部抜粋ですがご覧下さい。
乙羽信子さんと新藤兼人さんが出会ったのは45年前でした。
監督と女優そして夫と妻。
二人三脚で歩んできた2人に転機が訪れたのは2年前の春の事です。
舞台公演の途中乙羽さんは体重が急に落ち始め体の不調を感じるようになりました。
以前から慢性肝炎を患っていたため点滴をうって様子を見ながら舞台をつとめ上げました。
その後精密検査を受けた結果乙羽さんの肝臓に無数の影が見つかりました。
末期の肝臓がんでした。
すぐに手術が行われました。
手術のあと乙羽さんに残された命がおよそ1年である事が夫の新藤さんに伝えられました。
乙羽さんの余命を知らされた新藤さんは本人には最後まで告知しない事を決めました。
深刻な病状を自分の胸の奥にしまい込み乙羽さんには残りの人生をこれまでどおり歩んでほしいと考えたからです。
2年前の8月乙羽さんは退院し自宅に戻りました。
自宅では三味線の稽古を日課としその様子が録音されていました。

(歌声と三味線)稽古を繰り返しながら仕事への意欲を見せる妻乙羽さん。
夫の新藤さんは女優として最後の花道を飾ってあげたいと考えました。
例えば1か月ぐらい要するにそのために命が縮まってもですね仕事をした方がいいと思いましたね。
うん…。
仕事はそのためにもし1か月ぐらい命が縮まるような事があってもやっぱり何か自分のやりたい仕事をやった方がいいんだというふうに思いました。
最後の仕事を一つどんなふうに要するにやってもらおうかという事をですね同志としてですね非常に懸命に考えましたですよ。
ええ…。
新藤さんは100ページ以上に及ぶシナリオを書き上げ乙羽さん最後の映画の実現に向けて動き始めました。
手術から半年後新藤さんから乙羽さんに映画の台本が手渡されました。
乙羽さんが尊敬する杉村春子さんとの共演の夢も実現しました。
乙羽さんは台本を何度も下読みし役作りに専念していました。
しかしこの時乙羽さんはこれが最後の映画になるかもしれないと気付いていました。
乙羽さんは夫の新藤さんには黙っていましたが自分の病気を知っていました。
「私肝臓がんだったのよ」って。
いや「肝臓がんなんよ」って言ったんですね私に。
それで「どうしてそんな事分かったの?」って言ったら「はっきり出たから」って…。
手術から1年近くたった去年の5月。
長野県の蓼科高原で映画の撮影が始まりました。
映画「午後の遺言状」は老人たちが人生の最後をどう生きるかを描いた作品です。
撮影の間乙羽さんの病状に気付く人はいませんでした。
私は全然知らない。
先生の態度も何も知ってらした方がやってるような態度じゃなかった。
やっぱり仕事の場は厳しいから。
疲れてるのをいたわるような顔も別になさらないから。
おなかの中じゃどう思ってらしたか知らない。
私は全然気が付かなかった。
びっくりしたんですその時…。
新藤さんがつづった5か月にわたる撮影の日記です。
厳しい製作態度の陰で乙羽さんの健康を気遣う思いが記されていました。
「撮影が始まって2日目の5月18日快晴。
精力的に撮る。
杉村乙羽がどのくらいの撮影スピードに堪えられるかと思ったが案外やれそうだ。
5月21日夜9時河野医師夫妻見える。
乙羽君に週1度特殊な注射をして頂いているのでお願いして来てもらった次第」。
乙羽さんの体力を心配する新藤監督。
しかし乙羽さんはスケジュールを着実に消化していきました。
去年の9月でした。
撮影はクライマックス。
乙羽さん最後の出番です。
「9月3日乙羽君は今朝の電話では38度を超していると言っていたが今は平熱。
ほっとする。
あともう少しだから頑張ってもらいたい」。
最後の撮影は新潟の海岸でした。
乙羽さんは薬で高熱を抑えて臨みました。
この日の新潟は気温が30度を超え現場の砂浜は焼け付くような熱さでした。
この撮影が女優乙羽信子さんのラストシーンとなりました。
「9月5日杉村乙羽倍賞すべてのカットが終わる。
乙羽君帰郷。
よかった。
無事終わってよかった」。
僕よりか乙羽さんの方がよほどですねそういう要するに覚悟に徹してたんじゃないかっていうふうに今になっては考えられますね。
(取材者)覚悟…?ええ。
そういう覚悟にね。
そういう仕事をするというのはそういう事だしそれから仕事をやってきたという事はそういう事なんだと。
その結末つけるんだというような事ではですねやっぱりそんなに要するに乙羽さんは理屈を言う人じゃないんだけれどそういうつまり思いに要するに達していた人じゃないかというふうに思いますね。
映画「午後の遺言状」は二人三脚で歩んできた2人の44本目の作品でした。
しかし映画の完成後乙羽さんの病状は急激に悪化していきました。
去年の12月12日乙羽さんは立ち上がる事もできなくなりついに入院する事になりました。
この時新藤さんは主治医に苦しみを伴う延命治療を行わないでほしいと頼みました。
呼吸を楽にする肺の治療だけが行われ痛みを抑えるためにモルヒネが使われました。
新藤さんは仕事を減らして毎日病室を訪れできるだけ長く2人で過ごす事にしました。
何かこう手こうしたりとかほっぺをこういう感じでやったりっていうのもありましたね。
自分なりに本当こう…ぶきっちょながらもやってらっしゃる姿っていうか。
何かすごく…。
今まではね本当てれてあんまりそういう表現をした事なかった方なのに何かすごい本当優しいっていうか「ああいいご夫婦だな〜」って。
12月22日午前9時23分乙羽さんは息を引き取りました。
70歳でした。
乙羽さんが亡くなって新藤さんの日課が1つ増えました。
乙羽さんがかわいがっていた野良猫に餌を与える事です。
おばちゃんいないよ。
乙羽さんは…。
うん?乙羽さんが亡くなった事についてこう死に要するに直面する事になってそれのこう何かお手伝いをする事はまあ全て…私なりにできたという感じがありますからその点では悔いはないですよね。
ですけどまあ今度は一人になったという事もまた現実なんですね。
現実にこう一人になってるしね。
だからその…いろいろ一人になったというこう何か現実感もですねまあ…これから味わう事になりますね。
ええ…。
夫新藤兼人さんは妻乙羽信子さんの最後の日々をしっかりと見届けました。
先ほど新藤監督の言葉にありましたけれども例えば寿命が1か月縮んだとしても絶対いいものを撮って女優さんとしてね完結させてあげたいと。
自分は映画の監督であるというところのお二人の世界はやはりきちんと最後に美しく花を咲かせるという事に力を注いだというすばらしいご関係だなと思いましたね。
イルカさんも介護をしながらやはりご主人との間にはそういう思いというのは常にあったんですか?うちはまたちょっと立場が逆になりますけれども夫が具合悪くなったらやはり妻ですからやはり私はじゃ仕事を辞めて家にいて全て付きっきりで介護した方がいいんじゃないかと自分でもいろいろ悩んだ末そういうふうに夫に打ち明けた事があるんですね。
すごく怒ったんですよ夫がね。
「何を言ってるんだ」と。
多分だからそばにいて介護してほしい気持ちは夫としてはあったと思うんですよもちろん。
だけれどもそんな事より今までイルカとして歌ってきた事その事を何よりもこれから先ももっとすばらしい歌を作って歌って歌い続けていくっていう事が自分にとっては一番のそれが幸せだって事が分からないのかっていうような事を言われたので。
いつも手を握っていたいというような思いはね強かったかもしれませんけれどもじゃあ一体相手にとって何が一番してほしい事なんだろうって事を考えるとそれは必ずしもそうじゃない…?こういろいろ考える日々の中で結局はやっぱり私がいい歌を歌って作ってそして皆さんに喜んで頂くって事が彼の一番の幸せなんだと。
それによって彼は本当にやっぱり元気にもなりましたしね。
つながりましたしね。
やはり同志としてのそういうつながりをやはり大切にするという時間はやっぱり私たちもとても大切にしようと思いましたね。
最後避けて通れないのが本当の別れですね。
はい。
そこをどう乗り越えていくのか…?人間悲しい時はある時期までやはり心静かに相手に寄り添う気持ちで悲しみに沈むという事もいいと思います。
でもやはりそのままずっと一生を終えてしまうのはやはりもったいないというふうに思いますし夫が今ここには現実にはいないんですけれどでも何か夫の意思というものをすごく感じる事が多いんですね。
だからそう思うとどこにいても一緒なんだし守られてるんだという思いが…。
何かのきっかけでそこに気付いて言う事ができたらねやはり今までよりもちょっと強く生きていけるかもしれないと私自身は非常に自分の体験からはそう思ってます。
今日一緒に2組のご夫婦の最後の日々をご覧頂きましたけれども改めて夫婦って…?夫婦ってね不思議なものですね。
他人からはもう決して分からない世界ですよね。
だから2人の間だけで分かってる事があればいいんじゃないかなっていう事をますます強く感じましたね。
その事が何かとってもうれしい事のような気がしてそれぞれの在り方というのがご夫婦のたくさんある多様性のある在り方だなというふうに思いましたね。
イルカさん今日は本当にどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
2017/02/19(日) 13:50〜15:00
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「夫婦 最後もふたりで」[字]

二人だけで人生の終末を迎える夫婦が増えている。最後の日々を最愛の人とどう過ごすのか?夫婦の最後を見つめた2本の番組から、老いと死を前にした夫婦のカタチを考える。

詳細情報
番組内容
年老いた夫婦が二人きりで人生の最後に向き合うケースが増えている。65歳以上の高齢者がいるおよそ2372万世帯のうち、夫婦だけの世帯はおよそ747万世帯と20年前の2倍以上。各地の“終活”イベントに、参加する夫婦も多い。最後の日々を最愛の人とどう過ごすのか?認知症の妻の介護に人生の最後を捧げた老作家、死に行く妻の女優人生を飾るためあえて過酷な映画作りに挑んだ映画監督、二組の姿から夫婦とは何か考える。
出演者
【出演】シンガーソングライター…イルカ,【キャスター】森田美由紀