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字幕書き起こし ファミリーヒストリー「柄本明〜華がないと言われて 母の形見の帽子〜」 2017.03.02

ダ〜メだな日本の田舎は!俳優柄本明さん68歳。
独特の存在感で映画舞台テレビに欠かす事のできない俳優です。
何で俺はひとりなんだ〜!芸能一家としても知られ妻は女優の角替和枝さん。
そして息子の佑さんと時生さんも俳優。
家族全員その演技力には定評があります。
…しゃ〜っ!うお〜!うお〜!そんな柄本家の知られざるルーツに迫ります。
さあ今夜のゲストは柄本明さんです。
どうぞ!よろしくお願いいたします。
(拍手)よろしくお願いします。
ご家族というかもう一族の皆さんがもう何かしらに出られてますけども…。
まあ…ありがたい事ですね。
へへ。
さあこれから「ファミリーヒストリー」ご覧頂きますけども…。
なんか……というのもねあるんですよ。
父方柄本家の歴史についてはほとんど知りません。
どうぞ。
あれ?まだ残ってたのかな。
あれまだ残ってたんだ。
(取材者)柄本…。
(佳子)染工場ってなっているんですね。
柄本家はかつて染め物工場を営んでいたと伝わっています。
栃木がルーツとは聞いていますが現在交流のある親戚はいません。
そんな柄本家の戸籍を遡ると明の曽祖父國五郎が暮らしていたのは栃木県足利市。
渡良瀬川沿いにあり古くから染め物や織物など繊維業が盛んです。
この辺りだと思うんです。
ああなるほどね。
柄本家はかつてここで染め物工場を営んでいました。
足利市内に今も親戚がいる事が分かりました。
明さんの祖父の弟のひ孫にあたります。
2人とも公務員をしています。
古いアルバムが残されていました。
このおじさんっていうのがだから長治さんになるんですよね。
明の祖父長治の晩年の写真です。
長治は明治25年跡取りがいなかった柄本家に養子に入ります。
ところがその後柄本家に次々と子供が生まれました。
長治は養子である事から複雑な立場になります。
大正2年。
25歳になった長治は近隣の農家の娘津布久ミツと結婚。
養子だった長治は独立し織物業に乗り出します。
ミツにつながる親戚が見つかりました。
柄本家の貴重な写真を保管していました。
はぁ〜!でかいな!すると第1次世界大戦による好景気で工場の経営は軌道に乗ります。
(取材者)あ!柄本織物工場かな?
(篤)そうね。
そして長治の工場は数十人もの従業員を抱えるまでに成長しました。
「エモト」と書かれたそろいのはんてんも作りました。
足利織物伝承館に当時の資料が残されています。
こちらですね。
大正8年足利に700以上あった織物業者の納税額による番付表。
ここですかね。
(取材者)柄本長治さん。
お〜っお金持ちだったんだ。
ほんとだ。
織物工場の経営は順調。
長治の生活は次第に派手になります。
あれ?大丈夫ですか?大丈夫かね…。
当時の事を聞いています。
裕福な暮らしぶりだった柄本家。
そんな家に生まれたのが精治郎後の明の父です。
幼い頃から美しい織物に囲まれ育ちました。
いつしか絵心が芽生え将来は絵描きになりたいと思うようになります。
しかし大正12年関東大震災が発生すると日本中が不況となり足利の織物業も打撃を受けました。
柄本織物工場は僅か10年で倒産に追い込まれたのです。
一家は足利を離れるしかありませんでした。
長治が新天地に選んだのは…歌舞伎座の裏に小さな借家を見つけました。
そこで長治は手先の器用さを生かしてはんこ屋を始めます。
しかし売り上げは少なくぎりぎりの生活でした。

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  子供の頃その店を訪ねた事があります。
引っ越した当時10歳だった精治郎。
一変した暮らしに戸惑っていました。
精治郎が転校したのは泰明小学校。
仲のいい友達ができます。
後に俳優として活躍する殿山泰司です。
同級生なんですよね。
あそうなんですか。
殿山泰司の自伝に精治郎の事が書かれています。
精治郎は「判コ屋なんかやりたかない絵描きになりたいけど両親が許さないだろうとか自分とこの家庭の事情ではとても中学へは上がれないなんてことをボソボソとまじめに語るんだ」。
そんな精治郎にとって楽しみだったのは映画を見に行く事でした。
しかし精治郎は10代半ばで結核にかかります。
病状は重く片方の肺を切除しました。
間もなく日中戦争が始まります。
病弱だった精治郎は二十歳を過ぎても出征する事はありませんでした。
失礼しま〜す。
こんにちは。
現在も銀座で活版印刷所を営む中村明久さん。
父親が精治郎の友人でした。
その父國次郎は出征する時精治郎から寄せ書きをもらっていました。
ここに…。
そんな柄本家に悲しみが襲います。
父長治が脳溢血で倒れ52歳で亡くなったのです。
足利で立ち上げた織物工場が成功を収めながらも倒産。
その後銀座ではんこ屋になった波乱の生涯でした。
当時24歳だった精治郎ははんこ屋を継がず結核の療養をしながら印刷関係の仕事を始めます。
しかし太平洋戦争になりやがて東京に本格的な空襲が始まります。
この日の空襲でついに歌舞伎座が燃えました。
精治郎たちが暮らす借家にも火の手が迫ります。
銀座一帯は火の海。
ところが火災を免れた家がありました。
精治郎は母ミツを連れその家に身を寄せます。
そこは知り合いが営む印刷所。
建物が当時のまま残っています。
どうもこんにちは〜。
亡くなった夫からこの時の事を聞いています。
戦後結核が快方に向かった精治郎。
橋本家に間借りしながら印刷の営業を手伝いました。
31歳になった精治郎は母の友人の紹介で見合いをします。
その相手こそ後に明の母となる竹内治子22歳でした。
いや〜なんか…。
なんかやっぱりでもすごいですねぇこういう事が…。
う〜ん。
妹さんでしたね。
そうですそうです。
ファッションとして。
へぇ〜!えっ?あのはんてんをですか?そう。
はんてんを。
柄本明さんと言えば志村けんさんと演じる芸者のコントでもおなじみ。
実は母方竹内家は芸者と深い関わりがありました。
竹内家が暮らしていたのは…明治35年竹内家の次男として生まれたのが金太郎。
後の明の祖父です。
竹内家はかつて博打打ちの家だったと言います。
しかし金太郎は父や兄のように博打打ちにはなりませんでした。
就いた仕事は「箱屋」。
芸者に付き添い三味線の入った箱を担いで料亭へ送り届ける仕事でした。
大正から昭和40年ごろまで新井薬師には料亭が立ち並び100人を超える芸者がいたといいます。
金太郎の事を覚えている人が見つかりました。
(2人)おはようございます。
どうも。
芸名は…新井薬師きっての人気芸者でした。
初めてお座敷に出た日料亭への挨拶回りに付き添ってくれたのが金太郎でした。
そんな金太郎がある日向かった場所があります。
それは栃木にある女子刑務所。
かつて世話した芸者が出所する事になりました。
一人で帰すのはかわいそうだとわざわざ東京から迎えに行ったのです。
そして刑務所の近所に暮らしていた親戚を訪ねました。
当時理髪店だった久松家に金太郎が出所した芸者を連れてきた事を芳江さんは覚えています。
帰り際金太郎はお礼だと言って三味線を置いていきました。
そんな金太郎の長女が治子。
後の明の母です。
治子は尋常小学校を卒業すると巣鴨女子商業学校に進学。
珠算や簿記などを学びました。
はいこちらにありました。
竹内治子さんですね。
当時の成績表が残っていました。
珠算でしょうかね。
94点97点96点という事ですので優秀だったと思いますね。
そのころの治子の楽しみは休みの日に映画館に行く事でした。
映画好きだった治子が戦後集めたポスターが残されています。
大ファンだったのがハリウッドのミュージカルスターフレッド・アステア。
「アステアには華がある」。
それが治子の口癖でした。
(歓声)治子が学校を卒業した昭和16年太平洋戦争が始まると戦時色が強まります。
治子は当時こんな事を話していました。

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  しばらくして治子は新聞の求人広告に目が留まります。
通称「女子通信隊」の募集広告でした。
陸軍は通信の仕事の一端を担う初の女性部隊の結成を決めます。
迷う事なく応募した治子は数十倍の難関を突破。
400人ほどの隊員の1人に選ばれました。
職場は皇居近くにあった東部軍司令部。
治子は中野の自宅から通いました。
当時の女子通信隊の貴重な映像が残されています。
敬礼!
(一同)12345678!治子たちの任務は各地から伝えられる敵機の数や進行方向を正確に機械に入力する事でした。
9番六本木33分。
その情報が陸軍参謀のいる作戦室の地図盤に表示され空襲警報などが発令されます。
払暁時における帝都上空の警戒を厳にすべし。
女子通信隊の任務は命懸けでした。
どんなに空襲が激しくても司令部に駆けつけなければなりませんでした。
女子通信隊で治子と仲の良かった人が熊本で見つかりました。
失礼します。
入院中でしたが家族の許可を得て撮影させてもらいました。
治子と写真館で撮った写真を今も大切に持っています。
あ〜…これ。
ああこれ。
ああこれが治子さん。
女性たちの多くがもんぺ姿だった時代。
帽子にジャケットという制服は周囲から羨望のまなざしを向けられました。
当時女子通信隊の給与は陸軍軍曹の2倍に近い月57円。
更にこんな特別待遇もありました。
更にもう一人同僚が見つかりました。
(取材者)思い出しますか?治子さん。
(取材者)バルさん?未明。
その日治子は勤務を終え司令部で仮眠をとっていました。
すると急に騒然となります。
この空襲で司令部に向かっていた同僚も命を落としました。
重苦しい雰囲気戦局はますます悪化。
そして5月25日の大空襲。
(空襲警報)治子は空襲警報が鳴り響く中家を飛び出し司令部に向かいました。
治子は無事に到着したものの仲が良かった加納さんは焼夷弾によって全身に大やけどを負ったのです。
加納さんの大やけどを知った治子。
ぼう然としたまま自宅のある中野に戻りました。
目の前に広がる一面の焼け野原。
家族は無事だったものの自宅は全焼していました。
間もなく終戦。
戦争中懸命に任務に当たった治子。
むなしくてなりませんでした。
いやいや。
いやあすごいですねなんか。
本当にいつ命失ってもおかしくないようなお仕事やったんですよね。
そうですね。
なんかすごいですね。
お母さんと。
こうやって会うじゃないですか。
(笑い声)ほんとに!昭和だなぁ…。
終戦後家族と共にバラックで暮らしていた治子。
2年後の昭和22年見合い話が舞い込みます。
治子のおばが友人の息子を紹介してくれたのです。
その相手こそ銀座で暮らしていた柄本精治郎でした。
治子と精治郎は映画の話で盛り上がります。
気が合った2人は結婚。
間借りしていた銀座の印刷屋の2階で新生活を始めます。
何となく覚えがあるんですよ。
へぇ〜!間もなく男の子が生まれます。
それが明です。
いい男でしょ!少しでも家族にいい暮らしをさせたい。
精治郎は独立して印刷の仲介業を始めます。
注文をとり印刷所で刷ってもらい届ける仕事でした。
「明」の…上に付けて。
「精」は精治郎さんの「精」。
ゆくゆくは明と一緒に商売を大きくしたい。
そんな夢を描いていました。
しかし精治郎は再び体を壊し仕事ができなくなります。
更に間借りしていた家も出ていかなければならなくなりました。
昭和29年移り住んだのは…うわぁ〜懐かしい!ハハハハハ…。
四畳半二間風呂なし共同トイレの古いアパートでした。
体を壊して働けなくなった精治郎に代わり家計を支えたのは治子でした。
珠算の腕を生かして医薬品会社の経理として働きます。
実はこのころ治子にはある集まりが控えていました。
すごいニュース。
(三輪)ニュースになるんですね。

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  しかし治子はあえて出席しませんでした。
あの時代を思い出すのがつらすぎて。
なんかおふくろらしい。
苦しい生活の中で治子が子供たちと楽しみにしていた事があります。
それは手ごろな値段で見られる映画館に通う事でした。
食卓ではいつも映画の話で盛り上がりました。
そんな両親の影響もあって明は将来映画関係の仕事に就きたいと思います。
しかし家計を支えるため高校卒業後精密機械を扱う商社に就職します。
就職されたんだ。
2年間。
ところが働き始めて2年目。
先輩に誘われてある芝居を見に行った時の事です。
明の役者になりたいという決断を両親は黙って受け入れました。
かつて絵描きになる夢を諦めた父精治郎。
そして明は28歳の時劇団東京乾電池を結成。
やがてその独特の舞台が人気となります。
・間もなく明はテレビや映画にも出演するようになります。
昨日の講義は臨時休講になりましたが教授会に出席なさらないので…。
しかし芝居に目が肥えていた治子は厳しい目で明を見ていました。
治子は「明は演技が下手だ」と言いながらも夫婦でうれしそうに息子の芝居を見ていました。
う〜んいかがですか?いやいや。
やっぱり厳しいですね。
はぁ〜っ…。
ほんとに映画がお好きやったんですね。
(笑い声)改めましてご自身の「ファミリーヒストリー」…。
ええ。
いやぁ〜…何だろう。
平成2年。
足利で生まれその後銀座で育った父精治郎さんが亡くなります。
73年の人生でした。
おのずから天下は動かせるものと…。
父が亡くなった翌年明さんは大河ドラマ「太平記」に出演します。
引くな〜!セットが建てられたロケ地が偶然にも栃木足利市でした。
明さんは柄本家のルーツの地である事も知らずに足利に通っていたのです。
こんにちは〜。
は〜い。
いらっしゃいませ。
あっどうも〜いらっしゃいませ〜。
大河ドラマ撮影中スタッフがよく訪れた食堂。
えっ!母治子さんは79歳の時ある番組で息子の事をこう語っています。
まあ俗に言う…華はないっていうのはないね。
失礼だな!厳しいな〜。
お母さん…。
そう言いながらも息子が役者となって以来治子さんが欠かさなかった事があります。
この辺はもうほんとに…。
明さんの記事を切り抜いてはうれしそうに眺めていたといいます。
そして平成18年。
治子さんは波乱の人生の幕を閉じます。
81歳でした。
今回の取材で治子さんの遺品を整理しているとあるものが見つかりました。
それは戦争中に所属していた女子通信隊の帽子。
俳優柄本明さんの「ファミリーヒストリー」。
そこには激動の日々を力強く生きた家族の歳月がありました。
2017/03/02(木) 19:30〜20:15
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「柄本明〜華がないと言われて 母の形見の帽子〜」[字]

俳優・柄本明さん。銀座生まれの柄本さんの父方のルーツは栃木で織物工場を営んでいたことが明らかになる。母方は芸者と深い関わりが。芸能一家の柄本家のルーツに迫る。

詳細情報
番組内容
俳優・柄本明さんは、銀座生まれ。親戚も分からずルーツをほとんど知らないという。父方の祖父は栃木足利で織物工場を経営をしていたことが判明。しかし、関東大震災で倒産。新天地に選んだのが銀座だった。一方、母方は中野区新井薬師で暮らした。祖父はハコ屋という芸者の三味線を届ける仕事をしていた。そして母は、戦時中、敵機の襲来を伝える「女子通信隊」に入隊。今回、同僚が見つかり、過酷な日々が明らかになる。
出演者
【ゲスト】柄本明,【司会】今田耕司,三輪秀香,【語り】余貴美子