この地域でお正月恒例の…無病息災を願い自分たちで切り出してきた竹を燃やす。
去年4月の熊本地震から西原村は相次ぐ試練にさらされてきた。
最大震度7の激震の2日後再び震度7の揺れに見舞われた熊本地震。
村の半数を超す家屋が全半壊し5人が亡くなった。
試練は続いた。
梅雨記録的な豪雨が襲い土砂崩れが相次いだ。
地震に耐えた家までもが巻き込まれた。
奪われた住まいや暮らしを取り戻せる日はくるのか先は見通せていない。
それでも西原村には試練と向き合い続ける人々がいた。
熊本地震からの9か月を見つめた。
阿蘇外輪山の麓人口7,000の熊本県西原村。
5月。
村は地震から時が止まったような静けさだった。
主な産業である農業は大きな被害を受けていた。
至る所で水道が止まり収穫や作付けが見送られていた。
余震が続く中多くの村人たちが避難を続けていた。
村の中で特に大きな被害を受けたのは高齢化が進む山あいの地区だった。
平均年齢75歳の葛目地区もその一つ。
10世帯全ての家が地震で被害を受け7割が全半壊した。
ほとんどの家に倒壊の危険を知らせる赤い紙が貼られていた。
この紙に居住を制限する法的な拘束力はないが緊急の警告だ。
しかし赤い紙が貼られたこの家…。
あ〜どっちだろう。
頑張れ〜稀勢の里。
はい頑張れ頑張れ!あ〜!押せ押せ押せ!あ〜!あ〜頑張れ!押せ押せ!あ〜負けた。
惜しかった〜。
園田繁継さんとミエ子さん夫婦。
2人は地震から3週間で避難所から自宅に戻ってきた。
この日園田さんの家を友人が訪ねてきた。
飲み水を持ってきてくれた。
葛目地区は水道が止まったままだった。
洗濯やトイレは川の水と雨水。
風呂は親戚の家や近くの入浴施設に通っていた。
水のお礼は自分で育てた作物。
タマネギに米そして干しシイタケを袋いっぱい詰めた。
急場はしのいでいたものの水道の復旧の見通しは立っていなかった。
日課の散歩に出るというミエ子さんが思わぬ事を語り出した。
地震が起きる9か月前ミエ子さんは胆のうがんと診断された。
末期だった。
自宅から通院しながら抗がん剤治療を受けていた。
4月までして。
今は飲む抗がん剤。
(取材者)今もですか?はい。
夫婦2人住み慣れたこの場所で過ごしたかった。
うちはそこです。
一番上の。
園田さん夫婦が結婚したのは57年前。
米農家の長男だった繁継さんに隣町からミエ子さんが嫁いできた。
ミエ子さんは山に田畑に季節を感じる暮らしが気に入った。
農業一筋の繁継さんを支え3人の子供を育て上げた。
山あいの土地での農業は楽ではなかった。
田が狭く米の収量は村の中でも少ない。
それでも毎年親戚たちに米を送り続けてきた2人。
大阪や長崎に暮らす孫から「葛目の米はおいしい」と言われるのがうれしかった。
庭先に雨水をためる装置があった。
繁継さんがミエ子さんのために作ったものだ。
がんが見つかってからミエ子さんは田畑に出られなくなった。
それからは特に庭の草花を大切に育ててきた。
地震で割れた鉢植えも植え替えて花を咲かせた。
6月下旬。
記録的な豪雨が西原村を襲った。
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梅雨明けまでのおよそひと月雨は断続的に降り続けた。
園田繁継さんは村の避難所にいた。
葛目地区に避難勧告が出たからだ。
葛目地区を離れミエ子さんが体調を崩していた。
(取材者)葛目のお食事が…。
ここに来て既に1週間以上。
家の裏山が崩れてこないか心配だった。
ミエ子さんは葛目の家で育てたナデシコの花を避難所に持ってきていた。
(取材者)3年咲かんかったけど今年咲いた?この5日後ミエ子さんは入院する事になった。
恐れていた事が起きた。
繁継さんの家ではなかった。
だが同じ葛目地区だ。
家の裏山が崩れていた。
土砂は家の全ての部屋を貫いていた。
この家に一人で住む…土砂崩れが起きた時は息子の家に避難していたため難を逃れた。
ここまでべ〜っと。
ここまで。
すごいですねあの水は。
すごかった。
びっくりした。
こんなにひどく来るかなと思って。
この家は地震では倒壊しなかった。
修繕してまた住むつもりでいたところに土砂崩れが起きた。
楽しみにしてたんですけど。
もうやられてしまいました。
しかたないです。
もう諦めて息子の言うなりになっとかんとしょうがなかですね。
2週間後。
久美子さんの家は畳や床板が外され土砂が片づけられていた。
しかしもう取り壊すしかなかった。
久美子さんは農家の一人娘としてこの家で育った。
結婚してからも農作業のかたわらゴルフ場や総菜の加工場などで働いた。
父親がその手で造ってくれたこの家を守ろうとしてきた。
長男同然で家を守ってきました。
もうね!大事にした廊下が見てごらんもう。
なんねこれ。
トイレもきれいにしとったってもう!トイレも行かれんくなっちゃって。
あ〜あもう。
もう私はここで住もうと思ってしっかり我慢しとったんですよここでね。
もう我慢できんくなった。
なくなった。
どうしましょう。
どうしていいか分からない。
西原村に仮設住宅およそ300戸が完成した。
久美子さんはそこに入居する事になった。
ここ。
はいはい…鍵鍵。
私が一番に開けにゃんとかい?開いた。
開きました。
開きました。
どうなってるの?ピンポンもついてました。
(玄関チャイム)お邪魔します!久美子さんにとって葛目地区以外に住むのは初めての経験だ。
(久美子)まあいいさ。
まあいいさ。
まあいいさ。
まあ寝れればいいけんね。
暑かろな。
狭いね。
狭いけん余計ね。
あんまり開けっ放しもできんし隣も見えるし。
いいわ。
昼はいないから。
帰ります!
(取材者)えっどこに?昼は帰る。
(取材者)どこにですか?葛目に。
(取材者)帰りますか?お昼は。
昼は。
7月の終わり。
大勢のボランティアが久美子さんの家にやって来た。
お世話になります。
ありがとうございます。
いずれは取り壊す事になる自宅。
それなのに久美子さんは家の裏の土砂が片づかない事をボランティアに相談していた。
山が迫る家の裏は狭く重機や機械が入れられない。
人の手で少しずつ土砂をかき出していく。
久美子さんが土砂を捨てた場所をしきりに踏み固めていた。
そうそう。
やっぱりねここに住みたいっていう気持ちが強いんだな。
どうしてもここはね。
修理してなんとか家を守りたいっていう気持ちが。
やっぱりね田舎がいいんですよ。
仮設にいても風が暖かいし。
(取材者)風?うん。
なまぬる〜い風がい〜っぱいあってね。
ここだとスーッと風が通るでしょ。
涼しい風がね。
木や葉っぱや草の隙間を通ってくる風!それはすごい力があります。
だから毎日ここに来るの。
毎日よ。
もう住む事はできない家に久美子さんはこのあとも通い続けた。
園田繁継さんは一人避難所から自宅に戻っていた。
妻のミエ子さんの入院は続いていた。
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繁継さんにはミエ子さんから頼まれた事があった。
ミエ子さんが夏休みに遊びに来る孫たちのために植えたスイカの花の授粉だ。
繁継さんは毎日病院に通いスイカの写真をミエ子さんに見せてあげていた。
(シャッター音)病室のミエ子さんはスイカの成長を一番の楽しみにしていた。
(シャッター音)お盆が来ればスイカは食べ頃になる。
西原村の各地区の人々は難しい選択を迫られていた。
もといたところに住み続けるのかそれとも離れた場所に移転して生活を立て直すのか。
地区ごとに絆を保ってきた人々はバラバラになるかもしれなかった。
葛目地区の隣にある古閑地区では祭りが開かれた。
仮設住宅や避難先から大勢の住民が集まっていた。
この祭りは食べ物や飲み物が全て無料。
住民たちが廃品回収でためたお金で賄い23年間続けてきた。
(歌声)しかし祭りで盛り上がる古閑地区でも地震は暗い影を落としていた。
古閑地区は家々の8割が全半壊。
家の下敷きになり1人が亡くなった。
更に道や宅地が地盤もろとも崩れ落ちた。
家を再建しようにも多くの費用と時間がかかる状況だった。
少しでも不安をですね私たちの不安を解消できたらというふうに思いますので本日はよろしくお願いします。
これから古閑地区をどうしていきたいか。
住民たちは話し合いを重ねてきた。
住民たちの気持ちは揺れていた。
話し合いに参加した…地震の直後本さんは潰れた家から2人を助け出した。
ちょうどあっち側のところから壁つっ剥がして。
(取材者)よくすぐに動けましたね。
自分の事で精一杯にならなかったですか?いや〜やっぱり無意識にっていうところあったんでしょうかね。
まだ余震が強かった中でですねそういう危険を冒してもやっぱり助けんとって思いよったですね。
本さんは古閑地区で生まれ育った。
幼い頃からずっと地区の人々に囲まれてきた。
高校卒業後東京の大学に進学したが5年前県立高校の教員になり実家に戻ってきた。
本さんが両親と暮らす自宅は大きな亀裂に貫かれていた。
玄関先の土地が崩れ落ちていた。
全壊と判定された本さんの自宅。
新しく家を建てれば300万円の支援金が支給される。
しかし宅地から造成し直すのには多額の自己負担が必要なのは明らかだった。
(取材者)もしかしたら古閑を出るかもしれないというのは…。
そうですねやっぱり現状としてはそれも視野に含めてやっぱり動いていかないと。
ここだけにこだわっててもですね…。
でもここで残られてる方とかそういったところを思うとっていうのは正直あります。
やっぱりいろんな方に育ててきて頂いたので。
そういう恩返しの意味でもやっぱりこの村に貢献したいなっていう思いもありますよ。
果たしてここに家を建てて誰か嫁に入ってくれるのか。
そういうところはやっぱ思いますね。
ほんとに。
難しいですね。
自分だけじゃないもんですから。
本さんは古閑地区の姿を記録に残すため地震の2日後から写真を撮り始めた。
(シャッター音)自分を育んだふるさとはこの先どうなるのか見通せない状況だった。
撮影した写真は8月で5,000枚に達していた。
古閑地区に残る事を決めた人たちもいた。
協力して家の解体を始めていた。
中心にいたのは…生まれも育ちも古閑地区だ。
やっしゃんは全壊した家を自分の手で直し始めていた。
その家は土地が15cmほど下がり建物の一部が傾いていた。
全壊した家を補修する場合支援金は200万円。
多額のローンを組まなければ土地そのものから直すのは難しい。
しかしやっしゃんは古閑地区に家を建てる事にこだわっていた。
55年前の新聞記事。
古閑地区のやっしゃんの家で土砂崩れがあった事を報じている。
大雨で裏山が崩れ家が倒壊。
家族7人が下敷きになった。
やっしゃんが古閑地区にこだわるわけが記事に書かれていた。
やっしゃんはリサイクルショップで買ったジャッキで家を持ち上げる事にした。
古閑地区の人たちやボランティアが協力してくれる事になった。
皆さん10回いくよ。
よ〜い…。
56789…。
どんなですか?もうちっと上がらにゃいかんね。
もうちょっといく?もう1cmくらい上がると水平だ。
はい5回いきま〜す。
せ〜の!古閑地区から人が去っていく事は止めようがない。
それでも住み続ける人がいれば古閑地区に人が戻ってくるかもしれない。
その思いがやっしゃんを動かしていた。
12345…。
これでええ。
OK。
OK。
OK。
ありがとうございました。
動くようになったべ。
全然動かなかった…。
転がんないですね。
転がらなんな。
材料代が…道具代が10万円20万円…。
皆さんの協力のおかげで。
ありがとうございました。
葛目地区の園田繁継さん。
妻のミエ子さんが植えたスイカが実っていた。
しかしミエ子さんの入院は長引いていた。
食事が喉を通らない状況が続いていた。
いまだ水道が止まったままの葛目地区。
ついに住民たちが立ち上がった。
自分たちで水道を復旧させようというのだ。
お盆になり地区を離れた元住民たちも手伝うめどが立ち復旧作業が始まった。
農業用の水源から地区の全世帯に水道管を張り巡らせていく。
もともと葛目地区では自分たちで組合を作り水道を管理してきた。
補修などは全て自分たちで行ってきた。
今ある水道も30年ほど前に繁継さんたちの代が作ったものだ。
どこを直せばいいか繁継さんは分かっていた。
終わり。
とりあえずこのまま…。
はい。
次はどこ?上。
2日かけて地区の水道管が整備できた。
あとは自分の家の水道管を自分で直す。
業者に頼む事もできた。
だが地震以降依頼が殺到し順番待ちの状態が続いていた。
繁継さんにはそれを待つ時間はなかった。
がんを患ってからミエ子さんは体重が落ち痩せてしまった。
温泉など人目の多い風呂には足が向かなくなった。
ゆっくり入れたのはこの家の風呂だけだった。
(取材者)長かったですね。
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ミエ子さんが家に戻れるのは短い時間が精一杯。
医者からはそう言われていた。
地震から半年。
古閑地区の将来は厳しい状況になっていた。
住民の意向調査で3/3が地区から出ていく考えを示していたのだ。
やっしゃんはある計画を本さんに持ちかけた。
本さんが撮り続けてきた写真を記録誌としてまとめ地区を去る人も含めみんなに配ろうというのだ。
やっしゃんは記録誌を作る資金を得るために動き出していた。
家を解体した時に出た金属を売りその金を制作費に充てようというのだ。
親戚や友達も力を貸してくれた。
この日は金属およそ500kg。
これまでに50万円ほどの資金を稼ぎ出した。
うん。
やっしゃんに後押しされ写真撮影を続ける本さん。
この日は解体が進んだ自宅の撮影に来ていた。
見て下さいこれ。
小学校の時の。
ハハハハッ。
(取材者)写真ですか?写真ですはい。
地震直後から撮り続けてきた写真は7,000枚を超えた。
その中に本さんは大切に残すべきものを見つける事ができた。
(シャッター音)本さんはもう一度ここに家を建てる事に前向きになり始めていた。
古閑地区で新しいイベントが若手の提案で始まった。
古閑の悪ころでっちです。
よろしくお願いします…。
ついた。
イエーイついた!人が去り明かりが減った古閑地区に手作りの竹灯籠をともす。
春に地震が起きて以来試練は繰り返された。
2度目の震度7大雨阿蘇の噴火そして地域のつながりの危機。
その度にできる事を見つけ立ち上がろうとしてきた。
人々はたとえ住む場所がバラバラになっても地区のつながりだけは残そうとしていた。
試練の年が暮れていく時古閑地区にたくさんの明かりがともった。
葛目地区の園田繁継さん。
枯れた花を燃やしていた。
妻のミエ子さんが大切にしていた花だった。
この2か月前ミエ子さんは入院先の病院で亡くなった。
風呂に入れてやりたいという繁継さんの願いはかなわなかった。
ミエ子さんが亡くなったあとも繁継さんは変わらずに山に通っていた。
この山にはミエ子さんとゼンマイやワラビを採りによく通った。
家を建てるために植えた杉の木。
その下で繁継さんは原木シイタケの栽培をしてきた。
しかしこの冬は収穫が危ぶまれた。
およそ5,000本の原木。
息を吹き返していた。
ミエ子さんと歩んできた日常を一つ一つ取り戻してきた。
今年で80歳。
地震以降体重は9kg減った。
それでも体力の続くかぎりはこの山に通い続けるつもりだ。
仮設住宅のそばにある総菜の加工場。
葛目地区の家を土砂崩れで失った…地震に遭うまで続けていたここでの仕事を再開させていた。
葛目地区の家の取り壊しはいまだ決断できずにいた。
時間ができればもとの家に帰っていた。
しかし仮設住宅でも楽しみを見つけた。
見通しのいい近所の畑を散歩する事だった。
脱いでいいかしら。
(取材者)もちろん。
ハハハッ!暑くなった。
(取材者)今日ぬくかですもんね。
(久美子)暖かいですね。
何かここに来るとね心が広くなったような感じがするの。
みんな見えてね畑も広いしね狭くなった心が広〜くなったような感じがする。
(久美子)だから楽しいんですよここ歩くのがね。
(取材者)葛目には戻るんですか?もう戻れないでしょ。
土砂崩れのあれしたのが家の中入ったのが心にあるからね怖くてねあそこにねどんな修理しても寝られないんですよ。
思い出してね。
安心して寝ておれないから。
また新しい新天地を探してこれからまた新しい人生を歩かにゃいかんなと。
まあなんとかやれるでしょ。
なんとかやらなきゃしかたがないけんね。
あ〜胸いっぱいだけど頑張ります。
やります。
ここきれいでしょほら見てごらんあそこ。
久美子さんが立ち止まった。
見つめる先には葛目があった。
やらなきゃいかんなぁって思うですけどね。
まあみんな頑張りなはるけんね私もなんとか頑張ればできるかもしれないと思って。
熊本県西原村。
人々はふるさとを守りながら前を向き歩んでいた。
2017/02/25(土) 00:00〜01:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「熊本地震 試練の村〜西原村の9か月〜」[字][再]
熊本地震で半数以上の家屋が全半壊した西原村。それでもこの地にこだわり続ける人々がいる。思い出の家、地域のつながり。村人が大切にしているものを9か月間見つめた。
詳細情報
番組内容
去年4月の熊本地震で震度7を記録した、人口7千西原村。自然豊かな農村を活断層が貫き、家屋の半数以上が全半壊した。地震で生じた地盤の緩みによって土砂災害も起きた。それでもこの村にこだわり、暮らし続ける人たちがいる。思い出の詰まった家で命を全うしようとする老夫婦。集落に吹く風や土から力をもらう女性。地域の中で守ってきたつながりを大切にしたいという熱血漢。地震によって試練に立たされた村、9か月間の物語。