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字幕書き起こし 登山家 田部井淳子さんをしのんで〜100年インタビュースペシャル〜 2016.11.12

先月20日登山家の田部井淳子さんがお亡くなりになりました。
77歳でした。
田部井さんは女性として世界で初めてエベレストの登頂に成功しました。
「BSプレミアム100年インタビュー」ではおととしの秋田部井さんにお話を伺っております。
今日は当時のインタビューを再構成して振り返り田部井さんの人生を見つめ直したいと思います。
聞き手は首藤奈知子アナウンサーです。

 

 

 


目が見えてるうちに富士山登りたい。
今ここで75歳を迎えてまだ今でも好きな山に登れるってやっぱり生きててよかったっていうかやりたい事をずっとやれて今ここまで来ました。
福島県猪苗代町に来ています。
首藤奈知子です。
今日の「100年インタビュー」は登山家の田部井淳子さんです。
田部井さんご本人が経営されている山小屋でお話伺います。
田部井さん。
あ〜どうも〜。
よろしくお願いします。
こんにちは。
ようこそ。
ありがとうございます。
すてきな所ですねこちら。
空気がいいですよね。
思わず深呼吸したくなるような。
今日はいろいろお話聞かせて下さい。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
私は家が印刷業をやっていて7人きょうだいの7番目で。
末っ子でいらっしゃって。
はい。
ほんとになんていうんでしょうか体は小さくて弱くてですね毎月のように扁桃腺を腫らしては40度の熱を出して学校を休んでるという結構弱い子供だったんですね。
で体育はほんと不得手できょうだいもみんな体育は駄目だったんですけれども。
全員が?全員駄目だったですね。
ですからとび箱とか逆上がりとかああいうのも全然できなかったし運動会は嫌いだし「よーいドン」と白線の前で走っていくのも大嫌いな子供で。
意外です。
じゃあ山とはいつ最初の出会いが訪れるんでしょうか。
小学校4年生の時だったんですが10歳だったんですが担任の先生がすごい山好きの先生でその先生は3年間4年5年6年担任して下さったんですが4年生の時の夏休みに先生の全く個人的な山登り学校の行事とか何にもなくて「自分は夏休みに山に行くけれども行きたい人は連れて行くぞ」って言って下さってあ先生行く私は…あのころは汽車ですけれども汽車に乗って行くっていうそれがすごくドキドキうれしくて私も行きたいと思ったら親が先生と一緒ならっていうので許してくれて初めてそこで登山というのをしたのが小学校4年生だったんです。
そこで魅力に気付かれるんですか?まだ?その時にすごくびっくりしたのは先生が連れて行ってくれたのが栃木県の那須山系の中で茶臼岳という山と朝日岳という1,900mの山だったんですね。
結構高いですよね。
高いですよね。
火山の山だったんですね。
ですから緑も全くなくて砂とか岩とかでできていて。
「えっこんな所があるの!?」というのがまず驚きだったですね。
見た事もない風景を見たという。
そういう学校の黒板とか教科書を通して習ったものではないほんとにこの自分の足で歩いていって自分の目で見て自分の肌で感じたその体験が強烈でいやぁこういう所があるっていうそれがすごく印象的でああ私はまだまだ知らない所があるんじゃないかなって思った原点だと思いますし体が弱かったし運動は嫌いだったんですが山っていうのは「よーいドン」で登るんじゃないっていう。
先生が「ゆっくりでいいんだよ」って言ってくれて競争じゃないっていうのもなんか私には心地よかったんですね。
それと一歩一歩登っていかないかぎり絶対頂上には着けない。
それとどんなにつらくとも誰も選手交代というのはない。
自分が行かなければ着かないというそれが私にとっては心地よかったんですね。
やっぱり東京に行った時にね今まですごく憧れていたはずなのに。
分かります。
私も愛媛から出たので東京への憧れはすごいありました。
ですよねぇ。
ものすごいバラ色の日々が待ってると思っていたんですけれどもやっぱり福島から行ったっていうのが…。
あの当時は自分の中に福島貧しいとかね勉強できないとかねなんかそういうイメージを自分の中に作っていて。
ずうずう弁だったし今でも直ってないんですけれど方言が。
で東京の人が話している話し方がすっごいスマートでもうビックリして。
でだんだんだんだん人と話すという事がすごくコンプレックスになって。
しかも福島から来たっていうのが分かんないようにしようみたいなところもあったんですね。
ですからあんまり人としゃべらない。
でごはんも食べれない。
ですからどんどんどんどん具合悪くなって寮の先生がびっくりしてこのままではっていうので親を呼んでですね。
親が来たらあまりに痩せてしまって表情もなくてこれは駄目だっていうので3か月ぐらいは休学しましたね。
そのころの日記をとってらっしゃいますよね田部井さん。
それでもうすごくびっくりして。
恥ずかしい。
よくそんなの…。
これ。
私もとってたもんですね。
いやほんとに。
で中ちょっと先ほど見せて頂いたんですけど。
え〜恥ずかしい。
すみません。
縦書きでものすごい量の文章書かれていて。
例えばですね「自分は実に軽蔑すべき人間になった。
なぜこんなに冷たく卑怯に八方美人になったのであろうか。
自分のゴールは曲がりつつある。
自分は駄目である。
私は学校へ行くのが嫌で嫌でたまらないのです。
どうしてでしょうか。
授業そのものがそうさせるのではないのです。
私の周りの人と話すのが耐え難い事です。
なぜか自分がひどい罪を犯しているような気にとらわれる。
なんというこの重苦しさ何をしても面白くない。
死んでもいい」と。
当時はどんどんどんどんマイナス思考というか。
そうですね。
とにかく人と話す事がすごく苦痛でそう思う自分がなんでこんなに人と話すのが嫌なのかその人が嫌いなわけでもないのにこう思う事が自分が悪いんだっていうふうに自分を責めていたんですね。
でお父様がお迎えに来られて。
ええ。
で近くにある温泉場でしばらく湯治をしていてその時いろんな本読んだりしてたんですけれども一人で本ばっかり読んでたのでまただんだんめいってきてみんなが勉強してるんだなあそこにいるんだなと思うとこれじゃ何にも解決できないなって思ってやっぱり戻るかっていうふうに決心してまた東京に戻ったんですね。
戻ってからは?同じクラスのお友達が「戻ってきたねよかったね。
なんか具合悪かったんだって」なんて話しかけてくれてじゃあ歓迎をしようっていうので奥多摩にハイキングに行かないかって誘って下さったんですね。
私も奥多摩ってどこにあるのかも分かんなかったんですけれども御岳山に行ったんですね。
そしたら東京だって聞いてたのになに!?こんな田舎があるの!?みたいに。
緑に囲まれた場所が。
そう。
あって農家があってリヤカーを引いてるおばちゃんがほっかぶりしててで家の前にくわが置いてあったりしてなんだ全然うちの方と変わんない風景だなっていうなんかそれがちょっとホッとして。
それから自分で計画を立ててここだったら行けそうだなとか計画をして実際に行ってみてでもう試行錯誤。
自分が計画した山をちゃんと登って帰ってきたっていうその事がすごく満たされて今までのコンプレックスがだんだん剥がれていったなって思うんです。
山に登った事で何が一番変わったんですかね?自分の存在を否定するものがないっていうか生きてるっていう事をあ私ここにいるここで自分の足で歩いてるっていうそれがすごい満足感になっていったんですね。
体中の細胞が生き生きしてきてですねなんか力がわいてきて本来東京では眠ってたというか出せなかった細胞とか力が山に行くと「解放!」みたいな感じで。
歩いてるだけで風景は変わるし今まで見た事ない風景は見れるし人としゃべるのも抵抗はないしほんとルンルンっていう感じで登ってる時結構つらい坂だななんて思ってもやっぱり1歩ごとに風景が変わっていく。
その事がたまらない魅力だったです。
自分でお金を稼いでそれで山に行くっていう一つの手段だと割り切ってましたので。
最大の目的はいかに楽しく山に行くかっていうところに向かってたんですね。
そうですね。
お給料のほとんどは山の用具。
あのころ大学卒業してすぐですから靴とかそういうものもなかったのでまずは靴を買ってザックを買ってと少しずつお給料から道具をそろえて。
それと同時に社会人の山岳会に入ったものですから。
そこがまた先鋭的な岩登りをする男性ばっかりのクラブだったので初めて私を岩登りに連れて行ってくれたクラブだったんですが。
でも岩登りだと筋肉もすごく必要でしょうしトレーニングも日常でされるんですか?それでどんどん自分の腕力をつけていきたいと思って。
始発の電車って人がほとんど乗ってないんですね。
そういう時にはつり革につかまって懸垂したりですね。
移動しながら。
人がいない時でないとできないですけど。
それから手袋したままでもロープを結んだりしないと…冬山では素手でできないですよね。
だから常に毛糸の手袋を持っていてあとロープの切れ端みたいなのを持っていてバッグにいつも入れといてそれでも電車の中で結び方を練習するとかそういう事もやったりしていました。
たまたま谷川岳の一ノ倉沢っていう所の南陵っていうルートがあるんですがそこに5月のまだ残雪がいっぱいある時だったんですが行ったら私たちの前を登っているパーティーがいて登攀終わって雪の所に雪原の所に着いて休んでたんですね。
その後私たちが終わって行ったら政伸がですね。
後にご主人様。
はい。
先に登っていて「どうぞ」って私たちに出してくれたのが…コッヘルっていうお鍋ありますよね山で使う。
残雪ですからまだ雪がいっぱい残っていたのをきれいな雪を取ってきてそこに小豆の缶詰をのっけてかき氷みたいにして食べてたんですね。
天然の氷を使って。
もうそれ私すごいびっくりして。
私は山登る時男性と一緒ですからすごく緊張してトイレも行かないようにしていましたし節水していって少しでも軽くしようと思って紙一枚でも軽くしていこうと思っているのになにこの人は小豆のこんな大きな缶詰持ってきているんだというのがちょっとびっくりだったですね。
それがでも政伸さんとの出会いで。
そうですね。
そこでえ〜!って思って驚いてまたそのかき氷がおいしかったんですね。
それも印象的で。
それからお話しするようになって。
いよいよエベレストへと向かう時にでもその時お子さん既にいらっしゃったんですよね。
そうですね。
政伸と結婚したあとで女だけでヒマラヤに行こうじゃないかという事であのころ組織を作らないと海外の許可が取れなかったんですね。
で女だけで行こうという事で女子登攀クラブというクラブを作ったのが69年で。
政伸が一人で留守番するよりも子供を産んでいけという事で娘が生まれてエベレストの許可が来たのが72年ですから。
あの時は1シーズンに1チームしかエベレスト許可にならない時代だったんですね。
でもう72年も73年も予約でいっぱいだと。
74年は7か国から競合していて75年だったら許可しますという事だったので。
72年に許可が来た時娘は生後5か月だったんですが。
でもほんとにかわいらしい時期ですよね。
そうですね。
でも実際に登るのは3年後ですからこの子は3歳になっているというのは分かっていましたし夫の方もそれ承知のうえですので。
私もこういうチャンスはめったにないしという事でエベレストに行くっていう事はあんまり抵抗はなかったですね。
子供を置いていくっていう事も。
いやぁなかなかいらっしゃらないご主人だと思うんですけれども。
旅立つ前にもし自分の身に何か起こったらっていうような事は考えられなかったですか?万が一の時があっても夫はちゃんと育ててくれるという事ですかね信頼しているという事。
もうそれしかないですね。
絶対帰れるという保証もないですけれども私はちょっと自分のやりたい事もやりたいでもあんたはあんたよ私は私よっていうそういう気持ちは思っていました。
ただあんたがいたから私は好きな事ができなかったのよっていうそういう事は嫌だなっていうふうには思ってました。
ここが資料がある所なんですけれど。
う〜んいろいろな山の写真があったり思い出の品がいっぱい詰まってる場所ですね。
はい。
田部井さん黄色いのは?これがですねあの当時エベレストの時に使った酸素ボンベなんです。
これを担いで!?一つ重さどれくらいですか?1本7.5キロあるんですよ。
1本7.5キロ。
それを私頂上行く時に2本背負って行ったので。
えっ!?それが酸素なんですよね。
最初ずーんというものすごい腹に響くような音がして「あっ雪崩だ」って思ってぐっと寝袋から起きようとした瞬間にもうガーッていう何とも言えないものすごい力で押し潰されて。
氷と氷とがグッと締まるんですね止まった時。
でもうグッと押し潰されて全然動けなくなったんですね。
その時に3つの子供がままごとしてる姿が浮かんできてここで私が死んだらどうなるって思ったんですけれども千分の一秒までも頑張んなきゃって思いましたが目の前がオレンジ色になったり紫になったりして意識がなくなりましたね。
シェルパの方たちがすぐに靴も履かずに飛び出して4人引っ張り出した時には私の足首の上だけであと全部雪の中に埋まっていてそれをシェルパの方がすごい力で足首を引っ張り出したらスポッと出てきたって聞かされて。
その場で氷の上に寝かされて。
私が「みんな生きてる!?」って聞いたら私日本語で言ったんですけどシェルパの方が「Allmemberssafe」って。
伝わったんですね。
そう。
ああみんな生きてるって思ったんですね。
すぐに駆けつけてちゃんと人数を確認してみんな生きてるって。
で「田部井さんが一番重傷だから」って。
私も立てなかったんですね。
足首だけ引っ張られたもんですから足と胴とのジョイントの部分が伸びきっちゃったみたいでもう一時立てなかったんですね。
どうしちゃったのって自分で思うぐらい立てなくて。
もう寝かされたまんまだったんですけど。
でもそのあと田部井さんは歩き始めるんですよね。
そこまで立ち上がれないぐらい重傷だったのに。
でも打撲だし引っ張られたんだっていう状態も自分で分かったのでこれで私が一番重傷なら他の人もっと若いんだしもっと軽傷だしじゃあ下りる事はないって思って。
いよいよシェルパのアン・ツェリンさんと本当に2人で頂上に向かわれるんですよね。
その時はどういう気持ちで?あんまりいろんな感情とかそういうのってなかった。
ほんと「無」っていう感じでしたね。
南方っていう8,700mの所がここだとするとやっと人間が2人並んで立てるぐらいの幅があるんですね。
でも狭いですよね。
狭いですね。
でもうほんとここが南方だとすると一度ガクンと下りるんですね。
でここが頂上になってるんですけどこの下りる所がですねほんとにナイフの刃のようでとてもこの上なんか歩けない。
アン・ツェリンが「行くよ」って言ってナイフの刃のような所を手でつかんでピッケルもとても使えないです。
ですから手でナイフの所を押さえてこっちがネパール側でこっちが中国側なんですがネパール側の方の雪の壁を…アイゼンっていうのがあるんですが前に出っ張りが出てるのがあるんですがそれを2本ガッガッと突き刺してそれで体重を支えて手でその稜線を持って下っていくんですね。
とにかく一歩一歩安全に安全でもうほんとに緊張の瞬間でその時もうほんと夢中だったんですけどこういう前に登った人たちってすごい人たちだなって思いましたね。
でもこれが一生やってるんじゃないんだ必ずこの一歩が終わる時が来るんだだから今この一歩を頑張んなきゃっていうふうに思って自分で「ほら行けほら行け」っていうような感じで。
風がたなびくぐらいです。
白と黒のコントラストの山が非常にきれいです。
とってもきれいです!
(歓声)もう一歩一歩行ってやっとだんだん周りが風景が広がってきてやっと反対のチベットの氷河が見えてきたら私の数歩前にいたアン・ツェリンが「田部井さん頂上だよ」って日本語で言ったんですね。
で私が34歩遅れて立ったらもう目の前にわーっとロンブク氷河が広がっていてあぁ頂上だって分かった時はこれ以上登んなくていいんだって思いました。
どんな景色でしたか?そうですね。
ネパール側は氷と雪とほんとにすごい山々の風景がもうずーっとつながっているんですがエベレストを境にしてチベット側というのはそういう山々が全くなくてほんとにチベット高原茶色と白の山ひだがずっと広がっていて全く対称的だったんですね。
あぁこれがチベットって。
頂上に立たないとチベットが見えなかったものですから今まで写真でしか見た事ないチベットこれかっていう。
それがなんかすごい感激しましたね。
だんだん大きくなってくると今まで言う事聞いてた息子たちがだんだんと反抗を覚えてきまして。
どうしても反抗期ありますよね。
そうですよね。
娘も「私は小学校行かない」とかですね。
小学校の時ですか?娘さん行かないと。
やっぱり近所の方たちが新聞なんか持ってきて「お前のおふくろだろ」って見せるわけですよ。
「ほら見て見てあれ田部井さんとこのお子さんだよ」とかね。
こうひそひそ言ってるのが分かるとですね息子がですね「俺はもう田部井なんて名前が…」あんまりないじゃないですか名前として。
「俺は名前を変えたい」とか言って息子の方が反発は長かったですね。
いつぐらいから?もう中学高学年から高校にかけては。
私立に行ったんですけれども夕方かかってくる電話が全部学校からの電話で呼び出しで。
どんな事が起きたんですか?タバコを吸ったとかですね学校さぼって来ないとかそういう事の呼び出しではあるんですけれども。
それで私も一緒にお説教を聞いて帰ってくるわけですけれどもやっぱり先生方の中でもいい先生ももちろんいるし「お前は田部井の息子なんだからしっかりしろ」って頭ごなしに言われたりするとそれに対して反発もあってこんな事やってられるかって感じで学校辞めちゃったんですよ高校。
勝手に俺から辞めてきたからって言われてえ〜って私もびっくりしましたけれども。
その時はどうしようかと。
私自身も逃げてはいけないというので私が山行ってるからこうなるのかっていうふうには思わなかったですね。
私が山行かなかったらこの子ちゃんとなるのかとそういう問題ではないと。
これもずっと続くわけじゃないなっていうのがどこかに私あったのでこういう事もあるんですね子育て中はって思わないとその事にばっかり頭がいってしまうとやっぱり見失っちゃうんですね自分を。
だから私は私のやる事をやっていて子供の反抗は反抗であるけれどもそれなりの対応をしつつも自分はちゃんと進むみたいなところはありました。
ここ最近の見つけたものがありましてインターネット上に進也さんが文章を載せてらっしゃいまして。
「メディアの取材では質問は大体いつも同じ。
『小さい頃家にいなくて寂しくなかったですか』。
共働きの家庭も同じだよね。
生まれた時からいないから特別に寂しいと感じた事はない。
ちょっとアクティブな両親だっただけ。
自分がアウトドアに接した仕事をするようになり両親の偉大さを痛感するようになった。
その記録を超す事はできない。
その記録を大事にしていきたい。
世界最高峰の山を女性で初めて登ったのが日本人で福島のおばちゃんという事を」というふうに。
あらそうですか。
私こんなの読んだ事ない。
言われた事もない。
こういうふうに思ってるならもうちょっと親切にしなさいよと言葉で言いたいですね私は。
どうですか?やっぱりでもいつかは分かるっていうかね言葉で私が説明するものではないと。
分かんなかったら分かんなくてもいいけれども私はブレないでいるよという事が分かってくれたのかなって思いました。
目が見えてるうちに富士山登りたい。
でも見えるんだよまだ。
田部井さんがんになられて最初余命3か月と宣告受けたんですよね。
病院行った時が3月で「大変深刻です」って言われて「それってどのぐらいですか?」って聞いたら「6月」っていうような言葉を聞いたので「じゃあ3か月?」って思ったんですけれども。
あらそうなんだきちゃったんだ私にもって気持ちだったんですね。
だから夫の方がびっくりしたかもしれませんけれども。
きちゃったものを返すわけにいかないんだからだったら一番いい方法をやればいいんだというふうに思って。
むしろ雪崩で駄目かなと思った瞬間の時の方が怖かったんですけれども。
あれから考えたら最新医学を信じてあとは受けてやるほかないというふうに思いました。
で抗がん剤治療が始まりますよね。
毎週毎週点滴でこういう副作用も出ますよっていう事はちゃんと説明して頂いたんですけどやっぱり3回目ぐらいからだんだん倦怠感というか体がだるくなったりいろんな症状が出てきたんですが先生が「できるだけ普通の生活を続けながら治療に来て下さいね」と言われて普通の生活をして下さいって事は山に行ってもいいんだなと。
私にとっては普通の生活山に行く事ですから。
これはいいなと思って。
抗がん剤と抗がん剤の間の1週間の間に行ける山は行ってまた抗がん剤のために帰ってくる。
しんどいからといって寝てるっていうのはもっと私にとってはしんどいんですね。
もう天井見てるだけ風景変わらない風も感じないこういうのって耐えられない。
それだったら多少体はしんどくても緑の中を歩いてた方が私はここにまた来れたっていう思いが強かったです。
ゆっくりゆっくり。
頑張ろう頑張ろう。
ここまで来たじゃん。
うわ〜!・もうすぐだよ。
やったね。
やったね。
イエーイ!泣かないで。
大丈夫大丈夫。
なんとか次の世代の人たちも元気にしたいという思いがすごく強くて被災した東北の高校生を日本一の富士山に登って元気になってもらいたいという事で一歩一歩苦しいけれども登っていけば必ず頂上には着けるという事を体で覚えてもらいたかったという事とただ単に諦めない事とかねやっぱり書物とか教科書で教わる事よりも私自身が山に行ってものすごく印象を受けたのと同じように自分の体でそれを体験してほしいっていう思いからこれも続けていきたい1,000人登らせるまでは続けたいと思っています。
1,000人ですか。
逆にその子たちの行動する姿を見て田部井さんも励みになる事も多いと思うんですけれど。
そうですね。
やっぱり高校生の作文なんか感想文を見るとですね大震災のあと自分に目標もなくてイライラしててどうしていいか分からなかったけれども自分が富士山に登ってあんな高い所に自分の足で行けたっていう事がものすごく励みになって目標も自分にできたし諦めないっていう事も自分の体で感じられたと。
ほんとに一歩一歩行く事がいかに大事かという事が分かったというそういう文を読むと私が言葉で言わなくともこうやって自分の体を使って登る事で感じてくれる事がいかに大きいかという事が私も分かって励みになってこれは続けたいなと思っています。
まだまだ夢はいっぱいあると思うんですけれどこれまでの75年間を振り返って今どんな事を思われますか?私もいろんな事あったけれどもここまで乗り越えてきて今病気もあったし雪崩もあったし子供の反抗もあったしいろいろありました。
でもそれは生きてるからこそ感じられた事ばっかりで今ここで75歳を迎えてまだ今でも好きな山に登れるってやっぱり生きててよかったっていうかやりたい事をずっとやれて今ここまで来ましたっていうそういう振り返りができるっていうのはよかったと思います。
生きてるってすごい事だなっていうか楽しい事だなって思います。
「歩く事は生きる事」と語り闘病生活の中でも山歩きをしていた田部井さん。
最近では東日本大震災で被災した高校生たちを元気づけるために企画した富士登山にも力を入れていました。
今年7月には登頂こそされなかったものの登山道で参加者たちを励まし続けました。
最後まで山と共に生きた田部井さん。
ご冥福をお祈りしながら田部井さんから頂いた100年後へのメッセージに耳を傾けたいと思います。
どんなに科学が発達してハイテクな時代になっても自然は私は変わらないと信じています。
特に日本の美しい自然は残っていると信じています。
自分の体でその自然を体感する。
体験する。
その事はとっても大事な事なので是非自分の足で山に登り川を渡りという事を体験して頂きたいと思っています。
2016/11/12(土) 16:40〜17:30
NHK総合1・神戸
登山家 田部井淳子さんをしのんで〜100年インタビュースペシャル〜[字]

10月20日に亡くなった、登山家・田部井淳子さん。女性として世界で初めてエベレスト登頂に成功した。おととし収録したインタビューを再構成し、田部井さんをしのぶ。

詳細情報
番組内容
10月20日に77歳で亡くなった、登山家・田部井淳子さん。1975年、女性として世界で初めてエベレスト登頂に成功した。その後、女性で初めて七大陸最高峰登頂という偉業も成し遂げた。「歩くのは生きること」と語る田部井さん。なぜ山に登るのか。山に登ることで何をつかんできたのか。番組では、おととし収録したインタビューを再構成し、田部井さんをしのぶ。きき手は、首藤奈知子アナウンサー。
出演者
【ゲスト】登山家…田部井淳子,【きき手】首藤奈知子,【アナウンサー】渡邊あゆみ