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書き起こし 先人たちの底力 知恵泉「ゼロ戦開発の光と影〜世界に通用する技術を生むには〜」 2016.12.06

今から75年前の12月8日。
日本軍はハワイ真珠湾を攻撃。
太平洋戦争が始まります。
この戦いで日本海軍の航空隊は戦艦を撃沈するなどアメリカ軍に大きな被害を与えました。
そこで活躍したのが…圧倒的なスピード長大な航続距離そして抜群の運動性能。
ゼロ戦はあらゆる面で当時の欧米の戦闘機を凌駕していました。
その脅威の性能にアメリカ軍上層部が出した命令は…。
もともと欧米から何十年も遅れて始まった日本の航空機開発。
世界に少しでも追いつこうと技術者たちが奮闘する中海軍はとんでもない要求を突きつけます。
それはスピード航続距離運動性能その全てにおいて世界トップレベルの戦闘機を開発しろというものでした。
およそ実現不可能とも思えるこの要求を一体どうすれば実現できるのか技術者たちは頭をひねります。
そしてたどりついたのがみかん1個分の重さ75グラム。
この僅かな重量へのこだわりが海軍の要求を満たし更にはアメリカ軍をも恐れさせるゼロ戦の性能を生んだのです。
一方アメリカも黙ってはいません。
真珠湾攻撃の7か月後には新型機を投入するとこれまで連戦連勝を続けていたゼロ戦の立場は逆転。
撃墜され始めます。
この事態に海軍がとった方策はゼロ戦の更なる性能の向上。
技術者たちは改造に次ぐ改造に翻弄されていきました。
しかし圧倒的な物量を誇るアメリカ軍の前に結局ゼロ戦はかつての栄光を取り戻す事なく終戦を迎えます。
一時は世界を凌駕する技術を生み出した日本はなぜその技術を維持する事ができなかったのでしょうか。
今回はゼロ戦開発の光と影から世界に通用する技術を生み出す知恵について考えます。
はなさんはゼロ戦にはどんなイメージをお持ちですか。
そうですね。
映像では見た事があるんですけれども実際どういう特徴があったのか具体的には分からないですね。
当時の話では必ずよく聞く言葉ではありますけれどもね。
その辺りを今日詳しく聞いてみたいと思いましてお客様をお招きしました。
ノンフィクション作家の前間孝則さんです。
よろしくお願いします。

 

 

 

 


今日いろいろと詳しく伺っていこうと思うんですけれどもゼロ戦から見ていくテーマは今日はこちらです。
…という事なんですが当時の世界的に見てゼロ戦に使われた技術っていうのはどういうものだったんでしょうか。
実戦に登場したのは昭和15年〜16年ぐらいですけど日中戦争の最中だったわけですね。
その時にいわゆる現地にアメリカの軍事顧問の技術将校がいたわけです。
で中国軍の空軍を応援してたわけですけれどもその人間がゼロ戦についてこんなすごい飛行機が登場してきたという事で本国にリポートを送るんですけども本国の方の軍は一切それを信用しない。
それはドイツ軍機か何かを輸入したんじゃないかというそういう評価だったわけですね。
例えばその航空機開発ってひと言で言ってもあれですけど車とかと比べると段違いなんですか。
絶えず敵相手がいるわけですね。
それよりも技術的に上回らなきゃいけない。
そうすると絶えずいわゆるその時代の先端と言われるまだ未知な技術的に開発が成功するかどうか分からないような技術を次々に取り入れていかなきゃいけない。
という事は失敗と背中合わせなわけですね。
その中で登場した世に出てきたのがゼロ戦という機体だったわけですね。
いらっしゃいませ。
こんばんは。
お待ちしておりました。
お二人ご紹介しましょう。
齊藤元章さんです。
どうぞ。
失礼します。
スーパーコンピューター聞いた事ありますでしょう。
その開発を手掛けていらっしゃるんです。
今回知恵を読み解くのはスーパーコンピューターを開発する…スーパーコンピューターとは気象予測や天文学など複雑なシミュレーションを要する計算をとてつもない速さで行う超高速コンピューターです。
しかし難点はその巨大さ。
例えばスーパーコンピューター「京」では計算機だけでテニスコート分の広さが必要。
発電と冷却用の施設として別の建物が造られているほど。
齊藤さんはそのスーパーコンピューターをなんと2メートル四方に収める事に成功。
しかもその性能は同じプロセッサ数で比べると「京」の演算能力の128倍を実現するなどスーパーコンピューターの技術に革命をもたらし世界に衝撃を与えました。
特に人々を驚かせたのは…それまでコンピューターにとって大敵とされていた液体にあえてハードウエア全体を丸ごと入れて冷やすというアイデアを打ち出します。
劇的な小型化に成功しスーパーコンピューターの可能性を広げました。
今世界の技術者たちの注目を集めるベンチャー企業のCEO齊藤元章さんとともに日本の技術開発の知恵をひもときます。
スーパーコンピューターって結構耳にはしますけれども…。
あれ何かすごい事をしているっていうのは印象としては受けるんですけれども。
何をしてくれてるんでしょうね。
そうそう。
そうそう。
例えば薬の開発は昔は人の勘とか実験に頼っていたんですが最近はスーパーコンピューターでシミュレーションをやらないと新しい薬を画期的な薬を開発する事ができなかったりします。
シミュレーションというと?いろんな薬がどんな病気に対してどういうふうに効くのかというのを実験ではなくてスーパーコンピューターの中でいろんな設定を変えながら莫大な数のトライ&エラーを行ってその中から一番有効だろうというものを抽出とり出していくという事ですね。
そういう事をやったりします。
今じゃあ実際にそのスーパーコンピューターの研究を経て世に出ているお薬っていうのもあるんですか。
もちろん。
今新しく開発されている薬の大半半分以上2/3とかそれ以上のものはスーパーコンピューターなしでは開発できなかった薬になってきてますね。
ここ最近全くそういう事になっていますね。
民間レベルでそのスーパーコンピューターのレベルっていうのは?我々日本において一民間ベンチャー企業として開発をさせて頂いているんですけれど消費電力性能では非常にすぐれているという評価を頂いています。
省エネ性能ですね。
そうですね。
1ワットの電力でどれぐらいの計算ができますかというのは今スーパーコンピューターを新しくつくるところは大変重要な要素になってきていまして維持費が安くなる。
それから小さくつくれる。
地球温暖化に対して悪影響をもたらさないようなスーパーコンピューターをつくるという意味において実は私ども世界で1位のスーパーコンピューターを半年ごとですけれども3回連続でとらせて頂いております。
ただ一方で中国のスーパーコンピューターの消費電力性能もそんなに低くないんですね。
我々が今1位2位をとったところ中国は6月の時点ではもう3位に入っていますので。
いやぁほんと激しいんですねぇ。
真珠湾攻撃のおよそ4年前にあたる…この日海軍は横須賀の航空隊本部に当時の日本の代表的な航空機メーカー中島飛行機と三菱重工業の技術者を集め次期戦闘機の開発を依頼します。
そこで提示された海軍の要求に技術者たちは目を疑いました。
ゼロ戦を開発した技術者が残したノートにその要求が記録されています。
最大速度…それまでの日本最速の戦闘機を100kmも上回る速度です。
航続時間6時間以上距離にして2,000km以上。
これはアメリカの戦闘機を300km近く上回る長さ。
しかも上昇力や旋回力など運動性能は現在の戦闘機以上にするなどレベルの高い要求ばかりが並びます。
そして最大の問題はそれぞれの要求が互いに相いれない要素を含んでいる事でした。
まず…しかしエンジンを大きくしても航続距離を伸ばすために大容量の燃料タンクを装備すると機体が重くなりせっかく速くなった速度は帳消しになってしまいます。
しかも運動性能を向上させるには機体を軽くしなければなりません。
大きなエンジンやタンクを積んだ状態では小回りが利かず運動性能は低下します。
速度航続距離運動性能その全てを同時に満たす事など常識ではありえない事だったのです。
あまりに常識外れな要求に中島飛行機は「実現不可能」と試作機製造から撤退。
残った三菱重工が海軍に対しせめて性能の優先順位を決めてほしいと訴えると一人の少佐が口を開きました。
攻撃力や運動性能を重視するというこの発言。
ところが別の少佐が反論。
「もはや格闘戦の時代ではない」。
互いに一歩も譲らず結局優先順位は決まりませんでした。
常識では考えられない矛盾だらけの海軍の要求を全て満たす方法はあるのか?三菱重工の開発チームのリーダーに抜擢されたのは35歳の堀越二郎です。
海軍の考えられない要求にどのように答えを導き出したのか後にこう記しています。
常識的に考えて不可能な要求に応えるためにはその常識を疑うところから始めるしかないと考えたのです。
そこで堀越が注目したのが…当時のアメリカの主力戦闘機は重量およそ2,500kg。
これは戦闘機として標準でこれ以上軽くする事はできないと考えられていました。
堀越はこの常識を疑い造り上げたのが驚くほど重量の軽い戦闘機「ゼロ戦」です。
ここに太平洋戦争末期に造られたゼロ戦が復元されています。
この機体からも堀越が施した軽量化の工夫を見る事ができます。
それは飛行機を覆う…こちらがゼロ戦の外板であります。
高速すなわち500キロ以上で飛ぶような飛行機の最低でも肉厚というのは1.5mmぐらいは必要だというのが当時の航空機工学でしたけれども重量を軽くするがゆえに1mmとかあるいは0.5mmとかいうのを綿密な強度計算をやって部分的な厚さというものを変えていた。
それまでの戦闘機では外板の厚さはどこもほぼ一定でした。
しかし堀越は外板といえども場所によって必要な強度が異なる事から薄くできる所は通常の1/3の0.5ミリにし軽量化したのです。
堀越の軽量化への取り組みはすさまじく3,000枚を超える図面を細部にわたるまでチェック。
部品の一点一点を調べ必要な強度を計算します。
そして更なる軽量化のために部品に施したのがこちら。
「肉抜き穴」です。
強度に影響がない部分に穴を開け部品を軽くするための工夫です。
徹底して軽量化を追求した堀越。
その厳しさを伝えるエピソードがあります。
ある技師が翼につける金具の図面を堀越に見せたところ堀越はその形状にOKを出した後こう命じます。
理由を尋ねると「そうすれば…」。
75gは大体小さなみかん1個分です。
2トン近い戦闘機でみかん1個分の重さにもこだわった堀越はついにゼロ戦の重量を1,754kgにまで落とします。
これはほぼ同じ大きさのアメリカの戦闘機と比べて1トン近くも軽いものでした。
常識を覆すほどの軽量化に成功した事で本来エンジンを大きくするしかないと思われていたスピードアップを実現。
海軍の要求した時速500kmを突破する事ができたのです。
更にこの軽量化はもう一つの要求である運動性能の問題も解決します。
機体を大きくしなかった事で旋回能力や上昇力などの性能を落とさずに済んだのです。
こうして矛盾した2つの要求をクリアした堀越。
残るは航続距離の延長です。
この問題の鍵はいかに機体の重量を増やさずに燃料を多く積むかにあります。
搭載する燃料を増やすためには既存の燃料タンクを大きくするか機体内部のどこかに補助タンクを増設するしかないと考えられていました。
しかしいずれにせよそれでは機体が重くなり動きも悪くなります。
そこで堀越が考えついたのがこちら。
機体の下に取り付けられた…航続距離が重要となる移動の時にはこの予備タンクの燃料を使い空中戦の前に切り離せば身軽になって運動能力を最大限発揮できる。
これまで誰も考えつかなかった画期的なアイデアです。
外付けされたタンクには330リットルが入りこれによって飛行距離をおよそ1,000km延ばす事ができました。
こうして実現不可能と思われた3つの矛盾は全て解決。
海軍が提示した全ての要求を満たす究極の戦闘機ゼロ戦が誕生したのです。
初めて実戦配備されたゼロ戦13機が中国・重慶に向け飛び立ちました。
ゼロ戦は圧倒的な戦闘能力を発揮し敵機27機を撃墜。
ゼロ戦は1機も落とされる事なく帰還します。
ゼロ戦の性能の高さが実証されると翌1941年12月8日の真珠湾攻撃では爆撃機などとともに120機以上のゼロ戦が出撃。
アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または航行不能にするなど大きな被害を与えました。
圧倒的な性能を誇るゼロ戦を前にアメリカ軍はついにパイロットにこんな命令を出します。
しかしこれほどまでにアメリカ軍を恐れさせたゼロ戦の栄光も長くは続きませんでした。
アメリカ軍もまさか日本がこれだけ高性能の戦闘機を開発しているとは思ってもいませんでしたよね。
まさにそうだったと思います。
日米開戦になってこれが登場してきて意表を突かれたと。
それの対策を何もとっていなかったという事です。
だから一方的にゼロ戦が非常に優位に立ったという事が言えると思いますね。
齊藤さんは開発までの経緯をどうご覧になりました?時代も全然違いますしそれから片や航空機しかも戦闘機ですよね。
私どもはスーパーコンピューター等の開発をやっているわけですが悩みは結構似てるんだなぁと。
どんな悩みが。
我々のスーパーコンピューターはまず圧倒的な性能を持ってないといけない事に加えて小さくて安いもの。
そして燃費がいい。
スーパーコンピューターの場合は電気をできるだけ使わないという事です。
この3つを全部成立させないと商品価値製品価値が出てこないので日夜それと闘っているわけですけれどもゼロ戦の時代の技術者の方々も同じように悩ませていたんだなあというふうに感じましたね。
海軍からのまた要求が今で言うとむちゃぶりにも思えますけれども。
これは海軍の計画要求書の値を決める時の時期というのはちょうどいわゆる日中戦争が始まった時期なんですね。
明治末から日本は航空機に取り組んでいるんだけども本格的な航空戦をやったというのはその時が初めてなんです。
だけども中国との戦闘をやると中国はかなり広いですからそうすると航続距離は相当長くしなきゃいけないという事でどうも日中戦争の前に予定してたよりもかなり延ばしたんですね。
もう一つは航空機メーカーに対してまた技術屋に対してより高い目標を設定して要求すると技術屋さんは発奮するだろうと。
まあかなりこれもいいかげんなというか意図的なところがあったわけですね。
1つの会社は退いてしまいましたよね。
三菱重工だけが残って。
その中の開発者がこれはもしかしたらできるかもしれないという希望だけで残ったんですか?とにかくやってみようという事でスタートしたわけですけれども。
ただまあ堀越としては堀越二郎の性格というのはもう非常にもう徹底的に細かい事にもこだわる。
そして綿密で…。
そういう性格の主務設計者だったが故にこれだけいわゆる軽量化して無理難題のですね連立方程式を解くようなですねそういうゼロ戦を造り上げたと。
だから多分三菱重工と2大航空機メーカーだった中島もいわゆる優秀な設計者いっぱいいたわけですけどそういう人たちも諦めるものも堀越は諦めないで追求したという事なんですね。
無理な要求に応える開発者たちの知恵が常識と思われる事を疑えというものでしたけれどもどういうふうにその知恵についてはご覧になりました?そうですね。
あの〜常識を疑う事から始めないとベンチャー企業は成り立たないんですね。
大手の企業様は開発のリソースを人も物もお金もふんだんに潤沢に持ってらっしゃいますので常識を追っていってやっぱりそれでもいい物をつくってくるすばらしい物がつくれるんですがベンチャー企業は…それが…あの水に冷やすんでしたっけ?ええ。
実は水ではないんですが。
水じゃないんですか?はい。
水ですと電気を通した瞬間にスーパーコンピューターは壊れてしまいますねショートして。
ですから電気を一切通さない液体水ではない液体を使うと。
そんなものがあるんですか?ええ。
実はあるんですね。
で我々が今使ってるのは「フッ化炭素」という50年前にアメリカの企業が開発をしたものなんですが…。
ただコンピューターを冷やすという方向性には我々がやったような方式では使われてこなかったのでそこの部分を再発明させて頂いて我々は液体に全部つけてしまうという。
その常識破りな事をちょっと今回やらせて頂きました。
こういう切り取り方はよくないのかもしれないですがでもそのゼロ戦もコンピューターもそうですけれどもどうしても常識にとらわれがちなのかなというような印象があるんですけれども…。
実はたくさん常識にとらわれない考え方をする人もいらっしゃると思います。
現実に私もたくさん知っていたりしますけれども。
多分そういう方々が大企業に入ってしまいますと個人の意見としてはあってもなかなかそれを全体の意見として採用してもらえなかったり根回しが必要だったり稟議をたくさん通さないと物事が前に進まないというところで1年前はものすごく斬新で進歩性があったにもかかわらず他と比べても陳腐化しちゃってるみたいな事が結構起こっているんじゃないかと思いますね。
それを聞くとまた堀越さんは大企業の社員でもあり自分がもう技術者でもあったんですごいいろんな知識もある中また新たな発想でゼロ戦を造らなければいけなかったんですよね。
そのころのそれより数年前ごろの三菱重工っていうのは機体の開発もエンジンの開発もなかなかうまくいかなくて先ほどの中島飛行機なんかのちょっと後塵を拝してたんです。
だから三菱のいわゆる上の方は堀越さんにかなり権限を任せて自由な発想でですねいろいろやらせるというそういう環境を作ったと同時に30人ぐらいのチームで…ある面では少数精鋭のですねそれでいわゆる徹底的に極めていくという…。
根本からいわゆる常識を疑うというそういう事をやはり会社自身も後押ししたと。
ゼロ戦開発ともう本当に現代につながる部分もたくさん見えてきましたね。
高い性能を持った実現させたゼロ戦ですけれども取り巻く状況が変わってくるんです。
それをご覧頂きます。
開戦当初圧倒的な性能で敵を恐れさせたゼロ戦。
ところが1942年7月ゼロ戦の運命を一変させる出来事が起こります。
戦いのさなかアリューシャン列島のアクタン島にゼロ戦が不時着。
パイロットは死亡しましたがそこが湿地帯だったためゼロ戦の機体はほとんど無傷のまま。
これをアメリカ軍が発見し手に入れたのです。
これは捕獲したゼロ戦にアメリカ軍が塗装を施しテスト飛行を行う映像です。
構造から部品の一つ一つまであらゆる角度から徹底的な調査が行われゼロ戦の強さの秘密が暴かれていきました。
そしてついにゼロ戦に2つの弱点がある事を発見します。
1つは急降下速度。
そして2つ目が操縦席や燃料タンクに防弾装備が一切ない事。
アメリカの戦闘機はパイロットを守るために操縦席の後ろに弾よけの鉄板をつけたりタンクを撃たれても燃料が漏れないようゴムで覆ったり消火装置や防弾装備などが施されていました。
当初防弾装置がついてなかったのはなぜかというと要するに海軍の運用者の要求で……という事で相手に戦うために強い機体を造ってくれればその重量軽減のために防弾装置はいらないと。
アメリカは防御を重視し撃たれても落ちない戦闘機を造り日本側は「攻撃こそ最大の防御」と敵よりも身軽に動き攻撃する事が結果としてパイロットを守る事につながると考えた。
両国の戦闘機はその設計思想が全く違ったのです。
ゼロ戦の空戦能力を分析したアメリカはゼロ戦の急降下速度を大幅に上回る時速760キロで急降下できる新型戦闘機F6Fヘルキャットを開発。
ゼロ戦の上空から一気に急降下し攻撃を仕掛けてその場を去っていく「一撃離脱」の戦法を採用。
これは550キロ以上で急降下できないゼロ戦の弱点を見事についたものでした。
真珠湾攻撃から4か月後ゼロ戦の実戦での戦果を高く評価した海軍はゼロ戦の決定版を造るべく更なる性能の向上を目指した改造を行います。
こちらが一号ゼロ戦の改造型である…その特徴は翼の先が四角い形をしている事。
一号ゼロ戦では丸型だったのを量産化のため造りやすい角型に変更しました。
更にこの改造の一番のポイントは大型エンジンの搭載です。
エンジンパワーを2割上げた1,100馬力のエンジンを採用する事でスピードを上げ急降下速度の弱点を補おうとしたのです。
ところがこの改造は思わぬ弊害をもたらします。
それは1942年8月に行われた南太平洋ガダルカナルの戦い。
日本軍はラバウルからおよそ1,000キロ離れたガダルカナル島のアメリカ軍基地を攻撃し戻ってくるという作戦を立案します。
ところが作戦実施を前に問題が発覚します。
二号ゼロ戦の飛行テストをしたところなんとこの新型機ではガダルカナルの往復ができない事が分かったのです。
原因は改造で大きくなったエンジンにより燃料タンクが圧縮され搭載できる燃料が半分以下に減った事。
その上翼が角型に変わった事も空気抵抗を増やし燃費を悪化させていました。
この事態に海軍がとった方策はゼロ戦の更なる改造です。
燃費の悪化につながった角型の主翼を丸型に戻し燃料タンクを新たに翼の中に増設。
これにより航続距離は二号ゼロ戦より300km延びました。
ところが今度は翼にタンクを増設した事で弾が当たって簡単に火を噴く確率が高くなり撃墜されるゼロ戦が増加します。
これを受けまたも改造が話し合われます。
以後ゼロ戦の改造は主翼の長さを短くしたり戦闘能力を高めるために重たい機銃を追加したりそれも駄目だと分かると防弾の装備を施したりと迷走を始めます。
改造に次ぐ改造で終戦までの間に造られたゼロ戦は実に15種類。
技術者たちは次々と命じられる改造要求に応えるのが精いっぱいで新たな戦闘機の開発にまでなかなか手が回りません。
ゼロ戦の改造は最優先事項として扱われたのです。
それはもう何を言ってもゼロ戦がデビューした段階での戦果というのが大きいですし軍としてその世界を凌駕した戦闘機といういわゆるブランドがついてしまいますのでねそれを維持してこうという力というのは結構大きいものがあったんだと思います。
そうしている間にもゼロ戦は次々と撃墜され…アメリカ軍が対ゼロ戦用に開発したF6Fヘルキャットの現場投入が本格的になるともはやゼロ戦に勝ち目はなくなっていきます。
1944年6月日本は形勢を一気に逆転しようとマリアナ沖でアメリカ軍に挑みます。
最新の改造を施したゼロ戦五二型を中心に持てる航空戦力のほぼ全てを投入。
既に熟練パイロットの多くを失っていた日本は実戦経験の乏しい若いパイロットが中心でした。
ゼロ戦は敵の圧倒的な戦力の前に次々と撃墜されていきました。
全機のおよそ9割にあたる200機以上の犠牲を出し日本の航空戦力は事実上壊滅したのです。
その4か月後の…神風特別攻撃隊が出撃しました。
最初の特攻機として選ばれたのはゼロ戦でした。
250キロの爆弾を積み敵艦に体当たりをする特攻は終戦まで続きゼロ戦を含む2,400機以上が使用されました。
日本はポツダム宣言を受け入れ戦争は終わります。
ゼロ戦の運命を見てきましたがはなさんどうでしたか。
あれだけ恐れられていたゼロ戦がまさか特攻という形で使われていくのはすごく胸が痛みますよね。
実際映像を見て若者たちがあれに乗り込む姿を見てもすごく切なくなります。
開発を担当していた技術者の方々は本当にまあ国のためによかれと思って開発をしていたと思うんですね。
ですからよもやこれが日本人の命を賭して特攻のような形に使われるっていうふうには夢にだに思ってなかったと思うんですね。
堀越二郎の右腕と言われる曾根さんにインタビューした時にもう晩年の頃ですけれどもこんなにですねいわゆる大勢の人が亡くなっていくのは本当にもう情けないと。
そしてこんなふうになるならばもう造らなきゃよかったと。
また設計しなきゃよかったというふうなそういう思いが込み上げてきたというふうにその時の心境を語ってましたですね。
今回の知恵が「栄光にしがみつくな」という知恵だったんですが結果的に栄光にしがみついてしまったとも読み取れるんですけれども。
まああのゼロ戦があれだけ世界の水準を抜くような名機が出来たと。
だからそれにしがみつきたくなるまたは固執するというのは分からんでもないという気がするわけですね。
ただあの時代の航空機の発展の大きな流れを見ていくと普通戦闘機は3年で古くなると言われるんですよ。
ところがゼロ戦は15年に開発されて20年まで使われたわけですから5年ですね。
本当はもう18年ぐらいの段階で退役してなきゃいけなかったわけです。
アメリカの場合には先ほど出たF6Fヘルキャットとかですね日本のいわゆる爆撃に有効なB−29とかですね。
重点的にいわゆる開発を集中するという事で戦略的な思考というのは日本のいわゆる上層部においては欠けてたという事は多分にあると思いますね。
齊藤さんは栄光にまあ今で言うと成功にしがみついてしまったあるいはしがみつかないで今につながるといった経験ってありますか?科学者ないしは技術者開発者でちょっと陥りやすいかなと思うところはですね自分で思いついた非常に画期的な革命的な…世の中の役に立つんだというふうに思いこみがちなところはあると思うんですね。
私の過去の経験では常に我々は変化し続けていないといけないので立ち止まる事もできなければ一時の瞬間的な成功や栄光とかというものがあったとしてもそれに酔いしれるような事の余裕がまあベンチャー企業である事もあって全くない状況ですね。
しがみつかずに前だったり周りを見ないといけない状況にあるという。
そうですね。
必要なタイミングに本当に必要とされているものをつくる事のやっぱり重要性はあるかなと思いますね。
はなさんその過去の栄光過去の成功というのにしがみつくなというお話はどういうふうに受け止められました?自分が例えば築いた栄光を一回壊さなきゃいけない作業というのはものすごいエネルギーが必要なんじゃないかなと思います。
あの過去の栄光にしがみつかないというところに関してはもしかしたら技術者実際の開発を担当してる人たちはそこの理解はあったのかもしれませんですよね。
ただそれを束ねる上に立つ意思決定をする人たちがむしろ栄光にしがみついてしまってたのかもしれない。
本当はもの作りの場合は使う側と作る側のコミュニケーションがあってそして本当に両方ともいいまたはマーケットに受け入れられる。
これはもう今のもの作りでは当然なわけですけど戦前・戦中の場合はですねどちらかと言えばいわゆる使う側の方が絶対的な力を権限を持っててそれをメーカーに押しつけるというか高い要求を突きつける。
そういう形のこういわゆる姿勢だったわけですね。
だからそれはやはり戦後になって反省されてやはり日本はそこからまた再出発してこれだけ技術大国になってきたという事もあるかと思いますね。
今回この番組でゼロ戦を扱う事に若干抵抗というのがあって。
やっぱりそこに関わる人たちで多くの命が実際に失われているわけですけれども。
技術という側面で見ていくとその今につながるさまざまな要素があるんだというのが改めて皆さんのお話を聞く中で分かってきました。
齊藤さんは今スーパーコンピューターの開発に関わっていて今後スーパーコンピューターが発展していくとどんな未来が実現できるんですか?分かりやすいところの例をいくつか挙げさせて頂くとまず食料ですね。
今日現在まだ10億人ぐらいの人が食べるものに困っているような状況があります。
一つ植物工場というのが最近結構話題になると思います。
政府も植物工場の普及にこれは力を入れてるところなんですが。
ここにスーパーコンピューターの能力を使ってくるとですねこれ最近分かった事なんですが光の当て方とそれ以外の温度環境湿度環境等をスーパーコンピューターを使っていろいろ最適化していきますと稲作も1年間に12回とか人によっては24回収穫できるというような事をおっしゃる方もいらっしゃいますね。
毎月何しろ2週間に1回お米がとれちゃうような世界ですね。
お米に限らないですね。
穀物野菜果物全体をそういうふうに収穫できるようになれば食料問題の解決になっていきます。
飢餓貧困の問題の解決にもつながりますし。
最終的には人間の衣食住がですね心配要らなくなる。
もう広がりすぎてちょっともう抱えきれないですけれども次回も技術から読み解く知恵を味わっていこうと思います。
今度は戦後に登場したある技術から未来を見ていきます。
今夜は本当にご来店皆さんありがとうございました。
2016/12/06(火) 22:00〜22:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉「ゼロ戦開発の光と影〜世界に通用する技術を生むには〜」[解][字]

太平洋戦争開戦直後、ゼロ戦は当時の欧米の戦闘機を圧倒する性能を持っていた。しかし戦争が進むにつれ、その優位性は失われていくことに…。技術開発のあり方を考える。

詳細情報
番組内容
海軍が開発を命じた新型戦闘機の性能は、当時の常識ではありえない矛盾に満ちたものだった。不可能を可能にするために設計技師・堀越二郎が注目したこととは…? 緒戦で戦果を挙げたゼロ戦だったが、米軍が新型機を投入し始めると、その優位性は次第に失われていく。劣勢を挽回するために、海軍が力を入れたこととは…?当時の技術開発のあり方から、世界に通用する技術を生むために大切なことを考える。
出演者
【出演】PEZY Computing社長…齊藤元章,モデル…はな,作家…前間孝則,【司会】近田雄一