「でも去年の4月とは違って見える」。
はいはいはい!だから…81歳。
ドラマや舞台などこれまでに1,000本以上の作品を手がけてきました。
電気がない!?代表作「北の国から」。
北海道の大自然の中で生きる親子の姿が感動を呼びました。
さあ今夜のゲストは倉本聰さんです。
どうぞ!よろしくお願いいたします。
「はじめまして」ですけども…。
いつも僕は拝見してます。
いえいえ。
僕ももう倉本さんのドラマで育ったようなもんですからね。
いえいえとんでもないです。
実はあの…すごいスタッフにプレッシャーがかかってまして…。
そうですか。
倉本さんにお見せする「ファミリーヒストリー」と言ってますから。
冷や冷やもんでございますけども。
今日はよろしくお願いします。
倉本さんは自らのルーツで特に気になっている事があります。
それは母方の浅井家について。
もともと浅井家があったのは新潟佐渡。
それが明治になって京都に移ったと聞かされています。
浅井家のルーツを探るため新潟の佐渡に向かいました。
現在佐渡に交流のある親戚はいません。
今から200年ほど前の佐渡奉行所の記録が残されています。
浅井家の先祖についての記述がありました。
これが「佐渡國略記」です。
こちら…。
浅井快甫は倉本さんの4代前の高祖父。
奉行所への出入りを許された高い地位の医師でした。
かつて浅井家が暮らしていた家。
明治24年に建てられ外観はほぼ当時のままだといいます。
幕末の万延元年に生まれたのが次男の貞吉。
後の倉本さんの祖父です。
貞吉もまた父や兄と同じ医師を目指します。
貞吉の孫で倉本さんの弟暁さんです。
貞吉の若い頃の写真はなく晩年のものが1枚だけ残されています。
明治14年貞吉は佐渡から…この「別課」とは…。
卒業後貞吉はふるさと佐渡へ戻ります。
予備役の軍医だった兄仁庵と共に医療設備が整った病院を始める事にしました。
明治24年5月浅井病院が開業します。
当時の「新潟新聞」です。
「私立病院を設立せんとの計画ありてようやくこのほどに至り自宅において開院する事となり」。
そして開業記念として盛大に花火を打ち上げる事にしました。
それは兄仁庵の42歳の祝いも兼ねていました。
迎えた当日。
打ち上げ場所は地元の…神社の氏子総代…
(花火を打ち上げる音)夜空に打ち上げられた花火は100発以上。
当時人気だった「しだれ柳」という花火でした。
ところが…。
「午後11時ごろ神殿に飛び火。
たちまち拝殿に延焼した」。
貞吉は落ち込みます。
「とんでもない火事を起こしてしまった」幸い神社は地域の人たちの寄付で無事再建されました。
浅井家も兄仁庵の名前で多額の寄付を行っています。
そして開業した浅井病院。
火事を起こしたにもかかわらず大勢の患者でにぎわいました。
更に貞吉と兄仁庵は地元で流行していた病気の研究にも力を注ぎました。
当時の論文が見つかりました。
お兄さんの浅井仁庵と浅井貞吉さんが論文を発表してます。
「肺臓ジストマ症」とは肺に寄生虫が入り込み呼吸困難になる病気。
その対処法を紹介しています。
論文発表から2年後の明治27年日清戦争が勃発。
激しい戦闘で多くの日本兵が負傷。
軍医が不足します。
しかし予備役の軍医だった兄仁庵は体を壊し出征する事ができませんでした。
そこで貞吉が兄に代わって戦地に行く事を決意します。
当時の記録が残されていました。
こちらが日清戦争の時の明治27年〜28年の救護員の報告書です。
こちらのように浅井貞吉さんの署名があるという感じですね。
中国から日本へ戻る兵士たちを船内で治療する任務でした。
貞吉の的確な処置によって多くの兵士の命が救われました。
しかし日清戦争が終わった直後。
12歳年上の兄仁庵が亡くなります。
それからしばらくたったある日。
京都で医師をしていた東大時代の友人から手紙が届きます。
「京都では医師が不足している。
助けてほしい」。
京都の医学史に詳しい…友人の誘いに迷う貞吉。
ふるさと佐渡の事が気がかりでした。
すると地元の後輩医師臼杵伊之吉が病院をそのまま引き継いでくれる事になりました。
明治28年当時35歳の貞吉はふるさと佐渡を離れたのです。
貞吉は手紙をくれた東大時代の友人森祐晴のもとを訪ねます。
森祐晴は貞吉の1歳下で京都で病院を開業していました。
森祐晴の子孫が見つかりました。
森が貞吉に手紙を送った当時京都では目の病気結膜炎が流行していました。
そこで森は新たに眼科医院を立ち上げ自分の病院を貞吉に任せる事にしたのです。
京都に移り住んだ貞吉がすぐに始めた事があります。
それは佐渡から京都にやって来た若者を下宿させたり仕事を紹介する事でした。
佐渡出身で後に作家となる中川杏果の手記。
「僕は麦僊に連れられて京都へ行き新穂出身の浅井貞吉という医師の家にやっかいになった。
浅井先生は佐渡から京都に出た者は常に世話してやった」。
この「麦僊」とは…後に日本を代表する画家となる…こうしたいきさつで浅井家は佐渡から京都に移り住んだのです。
いやいかがでしたか?いや僕…あっ違いますか。
そうですね〜…。
倉本さんの父方のルーツ山谷家。
山谷家もまた医学と関わりのある家でした。
代々山谷家が暮らしていたのは…160年前に建てられた門が残る山谷家の本家です。
(一同)おはようございます。
家を守る…倉本さんとは高祖父が兄弟にあたります。
江戸時代庄屋をしていた山谷家。
(取材者)すごい量ですね!山谷家本家の隣にあった分家。
幕末の慶応2年に生まれたのが徳治郎。
後の倉本聰さんの祖父です。
幕末から明治にかけある病気が流行していました。
ここに…ここに「ころり」と書いてありますけれど。
ころっと死ぬからですね「コレラ」の事を「ころり」だと。
岡山1日に20人30人ぐらい亡くなってると。
コレラの流行が徳治郎の進路に大きな影響を与えたと言います。
明治15年徳治郎は…これが岡山大学医学部の百年史…。
明治19年徳治郎は更に最新医学を学ぶため東京帝国大学医学部に進学します。
卒業後徳治郎はふるさと岡山に戻ります。
そして病院を開業しました。
当時としては珍しく入院施設も備えていました。
明治29年結婚した徳治郎。
その3年後長男太郎が生まれます。
後の倉本さんの父です。
設備の整った病院にはたくさんの患者がやって来ました。
しかし…。
地域の開業医たちから「患者を奪われた」と抗議を受けます。
岡山大学の同窓会誌に当時のいきさつが書かれていました。
徳治郎はその後恩師の病院を手伝い後に製薬会社に入社します。
そして2年後最新の医学を学ぶためドイツへ留学します。
そこで目の当たりにしたのは現役の医師たちが働きながら最新医学を学ぶ姿でした。
そこで徳治郎は日本の医師たちが最新の知識を得られるように医学専門雑誌の発行を決意します。
明治44年東京神田に日新医学社という出版社を立ち上げました。
各専門の第一人者に原稿を依頼しました。
更に徳治郎は岡山で母校のためにも精力的に活動します。
そして大正9年母校に医学専門の図書館を設立したのです。
更にある世界的な学者に講演を依頼しています。
その学者とは野口英世。
当時アメリカで細菌学者として活躍していました。
徳治郎が野口に送った手紙が順天堂大学に残されています。
徳治郎は医学ジャーナリストという新しいジャンルを切り開き日本の医学界に多大な貢献をしていたのです。
すごいですね!いかがですか?うんなるほどね。
でもあんなふうにこう…あれはねなるほどなと思いましたね。
医学ジャーナリストのパイオニア。
その息子で後に倉本さんの父となる太郎も波乱に富んだ人生を送っています。
太郎は岡山で生まれた後父と共に東京で暮らしましたが高校はふるさとに戻ります。
大正6年旧制第六高等学校に入学。
太郎は柔道部に所属します。
柔道場の一角には今も太郎の名札が残されています。
六高柔道部は大正から昭和にかけ全国8連覇を成し遂げた柔道の名門。
柔道部のある後輩が後年書いた手記。
上下関係が厳しい中で太郎は違ったといいます。
井上靖の小説「北の海」には太郎がモデルとされる人物が登場します。
「六高の山根」が山谷太郎だと言われています。
「今年の高専大会で一番いい柔道を見せたのは六高の山根だ」。
「体の動きはリズミカルで敏捷でしかも大胆だった」。
現在も続く六高柔道部の同窓会…現役の弁護士です。
柔道部の歴史の中でも伝説の一戦があると言います。
あの〜…新聞記事を出しておりますけれども…。
大正9年警視庁を破った対抗戦です。
こういう記録ですね。
25対25で行う勝ち抜き戦。
太郎は15番目に登場。
2人を破りました。
その後太郎は東京帝国大学工学部に進学。
そこで酵母菌の研究に打ち込みました。
食料が乏しかった時代将来は食品の研究職に就きたいと考えていました。
ところが大学3年の時病に倒れます。
体がむくみ動けなくなりすぐに入院しました。
生死の境をさまよう深刻な状態でした。
2年後ようやく退院できたものの柔道はできなくなり気がふさぐ日々。
すると太郎はおじが牧師をしていた信濃町教会でキリスト教に入信します。
倉本さんの兄です。
大正14年2年遅れて東京帝大を卒業した太郎は…そして酵母菌の研究に取りかかりました。
しかし病気の再発を恐れ思うように働けませんでした。
就職した翌年志津子と結婚。
2人の子供に恵まれます。
ところが入社3年目。
父徳治郎が日本脳炎で倒れます。
やむなく太郎は日清製粉を退社。
父が経営する医学専門の出版社を引き継ぐ事になったのです。
太郎は医学について詳しくもなければ経営に関しても素人。
そのため反発する社員もいましたが真摯に向き合いました。
後年牧師だったおじが手記の中で当時の太郎の様子を振り返っています。
しかし出版社に移って2年目。
妻志津子が30歳の若さで急死します。
2歳と1歳の幼い子供が残されました。
それから3年後。
太郎は再婚します。
当時京都の教会にいたおじが医者をしていたあの浅井家の娘綾子を紹介しました。
綾子もまたキリスト教徒でした。
その翌年男の子が生まれます。
子供に恵まれる一方太郎は出版社の経営に神経をすり減らしていました。
そんな太郎にとって心休まるひとときがありました。
それは野鳥の観察です。
太郎は「野鳥歳時記」という本を執筆。
鳥にまつわる俳句や季語に使う鳥の生態を紹介しています。
当時太郎は設立されたばかりの日本野鳥の会にも加わりました。
昭和16年太平洋戦争が始まり戦意高揚が叫ばれます。
これがあの…「月報」です。
(取材者)はぁ〜…!昭和17年3月太郎が教会の機関誌に書いた文章が問題になります。
この記事が政府を批判したと見なされ太郎は特高警察の取り調べを受けます。
倉本聰さんの妹聰子さん。
「おおっ」と思って…。
幸い教会の関係者が掛け合い太郎は数日後無事自宅に帰る事ができました。
しかしその後警察から監視されるようになり仕事にも影響しました。
辞めていく社員それに出征する社員で経営もままならなくなりました。
このころの太郎の気持ちが日記につづられています。
昭和19年太郎はついに出版社の経営を他人に譲る事にしました。
失意の中太郎は家族を連れふるさと岡山に疎開します。
そして子供たちを連れてよく山に出かけました。
戦後東京に戻った山谷家。
太郎は新たに出版社を立ち上げますが結局うまくいきませんでした。
そして昭和27年太郎は大学時代に患った腎炎が再発。
52歳の若さで亡くなったのです。
夫を失った綾子。
茶道の教室を開き何とか家計を支えます。
父の死から3年後馨は祖父父と同じ東京大学に入学。
卒業後ニッポン放送に入社。
会社にないしょで脚本を書き続けました。
4年後退社すると次々と話題作を手がけます。
徳川300年ただ太平の島国の中で目に蓋をして眠りこけてる!そして昭和49年NHK大河ドラマ「勝海舟」の脚本を担当します。
先生!先生!綾子は馨の活躍を喜びました。
ところが大河ドラマが始まって僅か3か月後母綾子は69歳で亡くなります。
それから間もなくの事でした。
倉本さんは大河ドラマのスタッフと対立します。
そしてけんか別れした形で札幌に向かいました。
思わぬきっかけで移り住んだ北海道の地。
その7年後あの名作が生まれたのです。
いやぁ…ハハ。
ほんとですか?え〜!上に上に上の方にカッと行く…。
でもVTRにもありましたがそうなんですね。
大河ドラマのスタッフともめられて…。
ここNHKだからその話あんまりしたくないです。
(笑い声)ほんとにそうですよね。
今日もよく来て頂きました。
僕ほんとにここでつるし上げ食らって西口出たところから意識がないですから。
気が付いたら札幌にいたという感じですから。
だからここの建物嫌なんですよ。
ほんとに嫌なんです。
昭和52年北海道札幌で暮らしていた倉本さんは富良野へと移り住みます。
自ら土地を開拓し自宅を建てました。
そしてこの富良野で書いたのがあの大ヒット作。
都会で暮らしていた親子が父のふるさと北海道で生きる姿を描きました。
倉本さんはこのドラマに自らの戦争中の疎開体験を投影させました。
倉本さんに大きな影響を与えた父太郎さん。
昭和27年に亡くなった時の葬儀。
六高時代の親友豊島武治さんが読んだ弔辞が同窓会誌に収められていました。
現在倉本さんは自らが脚本・演出を手がける舞台稽古の真っ最中。
若い人たちにこれまでの経験を伝え続けています。
倉本聰さんの「ファミリーヒストリー」。
そこには激動の時代を懸命に生き抜いた家族の姿がありました。
う〜ん…。
大丈夫でしたか?いや大丈夫…。
これに対抗する「ファミリーヒストリー」をこれから死ぬまでに作ってやりたいという気がしましたね。
所さんお鍋がおいしい季節になりましたよね。
2016/12/08(木) 19:30〜20:15
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「倉本聰〜父からの贈り物 125年前の火事〜」[字]
脚本家・倉本聰さん。母方の浅井家には謎があった。佐渡で医師をしていたが、125年前、ある火事が起こり、京都に移り住んだという。一体、何があったのか。真相に迫る。
詳細情報
番組内容
脚本家・倉本聰さんは、自らのルーツに謎がある。母の実家・浅井家は、佐渡で医師をしていたが125年前、ある火事が起こった後、なぜか京都に移り住んだという。一体、何があったのか。次々に見つかる新たな事実に、倉本さんは驚きを隠せなかった。そして、明らかになる父の生涯。ドラマ「北の国から」は、父の影響が色濃く出ているという。父は伝説の柔道家で小説にも描かれた人物。手記や日記から激動の日々が浮かびあがる。
出演者
【ゲスト】倉本聰,【司会】今田耕司,三輪秀香,【語り】余貴美子