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書き起こし ミュージック・ポートレイト「設楽統×森山直太朗 第1夜」 2016.12.08

(設楽)あらあら直太朗君。
音楽とお笑い。
それぞれの世界で活躍する2人が大切な音楽を持ち寄り語り合います。
大丈夫かな?俺。
おじさんみたい?
(森山)いやそんな…そこまでおじさんぽくないっすよ。
やる直前にマネージャーが「おじさんみたい」って言うから。
年相応っていう感じ?あっ本当マジで?あれ?おかしいな。
ちょっと着替えてきていいかな。
何?落ち着いて。
お前と小泉今日子の間に子どもなんかいる訳…お前頭わいてんのかよ。
何でだよ!バナナマン設楽統43歳。
2012年の…今最も売れている芸人です。
我々を番号で呼ぶな〜!そうだ〜!なんとそんな彼にはテレビを敬遠し出ない時期がおよそ10年ありました。
・「冬のリヴィエラ人生って奴は」・「思い通りにならないものさ」何かカッコつけてるというかプライドというか。
120万枚を超える大ヒットを記録します。
しかしその背景には壮絶な下積みの日々がありました。
絶対大番狂わせを起こしてやるぞって。
同世代の2人は実は誕生日が一緒。
プライベートでも仲のいい2人だからこそ本音が語られます。
恐怖は常にある訳?私は何を歌うんだ?「ミュージック・ポートレイト」。
心に残る音楽を通して2人の人生を見つめていきます。
オイルショックで日本中が混乱した1973年。
3人きょうだいの末っ子。
父親は鉄道会社に勤めるサラリーマンでした。
自然に囲まれた秩父。
虫捕りや川遊びに夢中になったのかと思いきや…。
俺の友達とかは魚釣りとか要は荒川があるから魚釣りとかカブトムシを朝早く起きて捕りに行くとかさみんな超はまってやる訳。
俺でもそういうのやってないの。
何で?ちょっと冷めてるっていう。
冷めてるっちゃ冷めてる。
関心がなかったんですか?朝早く起きて捕りに行く意味が分かんなかった。
冷え切っていた設楽少年の心をときめかせたのが当時振り付けが大流行したこの曲。
・「UFO」やっちゃうんですよねどうしても。
・「手をあわせてみつめるだけで」・「愛しあえる話も出来る」俺子どもの時に…って思ってた記憶があるんだ。
どういう事で?ごめんなさい。
ちょっと詳しく聞かして…。
どういう事ですか?寝る時にそんな事ある訳ないし子どもの本当超ちっちゃい時。
幼稚園とかいっても小学校低学年。
物心付いてないぐらい。
だけど記憶でピンク・レディーが窓から入ってこないかなって寝るまでに思った記憶があるのね。
俺多分だからテレビとかこういうラジオとか分かんないけど外からの音楽とかを初めて認識してその人への憧れじゃないけどそういうのを一番最初に思ったのがピンク・レディーだったんじゃないかなって自分で思うの。
多分その2人の風貌とかそういうのも絶対大きいですよね。
いやもちろん踊りとか。
そうキレイなお姉さんっていうイメージが多分。
だから言い方あれだけどちょっとませてる感じで。
部屋にピンク・レディー2人入ってこないかなっていう事ですもんね。
いや俺は…もう限定ですね。
ケイさんを指名したいと。
多分。
俺は一人だったもん。
窓からガラガラって入ってこないかなっていう記憶があるの。
結局入ってこない訳じゃない。
入ってこない。
ハハハハハッ!子どもだから。
まあね。
俺でもね後にね若い時にネタ作る時もピンク・レディーの曲って多分子どもの時もそうやって思ったようにつかみがすごいあって最初にドンって。
…でグワ〜ッて盛り上がってそれで最後ブワ〜ッて終わるの。
俺それをネタ最初に作る時もピンク・レディーの曲とかをあっピンク・レディーみたいな曲のネタを作ればいいんだって思った時あったもん。
すごい話ですねこれ。
1曲目から。
そうだね。
設楽が生まれた日からちょうど3年後。
森山直太朗は東京都渋谷区の閑静な住宅街に生まれます。
・「ざわわざわわざわわ」母親は歌手森山良子。
数多くのヒットで知られるフォークの女王です。
母のいとこはかまやつひろし。
祖父母も音楽家。
歌があふれている環境で育ちました。
俺前ねごはん…おうちに何回か行かしてもらった事あんだけど…普通にパーティーに歌があるの。
直太朗君も別にさ歌うじゃん。
俺は外国の家みたいだなと思った。
もうちょっと俺の育ってきた所ではそんなのないから。
何か普通にちょっといい感じになると歌があるじゃん。
歌いましたね。
だからもうそういう環境だったんだ。
集まれば歌なんだよ。
すごいよね。
しかしフォークソングの女王の息子直太朗に突き刺さったのは意外な曲。
「セックスヘタでもいいだろう?」って言った時に僕小学校4年ぐらいになる頃。
あ〜衝撃だよね。
セッ…まあちょっとのっけからあれですけど。
そういう言葉っていうものに対してまだ自分の想像とか…。
そっか分かんないか。
うん。
…だし音楽の中でこういう事を歌っているっていうのが…僕は例えば母の影響…母も歌を歌ってましたからやっぱり音楽っていうのもすごい…どこかであったからそれを聴いた時はすごい「いいの?」っていうドキドキした思い出があったんです。
確かにブルーハーツとか聴いてるイメージないもんね。
そうなんですよ。
割と僕「さくら」っていう歌あるじゃないですか。
知ってるよ。
いろんな人に認識して頂いたんですけどあれとかも僕の中ではすごく…そうなの?すげえハートフルな。
でも何か自分の中ではメロディーのラインとかって多分すっごいここでこんな事言うの…すっごい影響を受けている。
「ズッタンズッタンバンサクダッタンダダダンダン今、咲き誇るズクタンズクタン…」みたいな結構このメロディーは割とシンプルでコード進行もシンプルでみたいな。
何かちょっとそれを…中学高校時代の設楽は人を笑わせるのが大好きで…俺中学校は…あらやだ。
修学旅行の班決めとかあるじゃん。
「一緒になろうよ」ってすげえ言われる訳。
俺すっげえうれしかったもん。
そのクラスの中での何かバスの座り位置とか修学旅行の泊まる部屋とか「一緒になろうなろう」ってすげえ言われたりとか。
それが快感だったのかもね。
何で面白いって言われる訳?統ちゃんは。
そうだねえ。
俺何だったんだろう?もう本当に「おさむちゃん」をやるんですか。
違う違う。
それは違う。
俺設楽統だから統ちゃんで…。
おさむ師匠のやつをやる訳じゃないんだよね。
クラスの人気者設楽はテレビの中で活躍する売れっ子タレントに憧れます。
設楽のヒーローは…「オールナイトフジ」の最終回か何かを俺まだそれってすごいちっちゃかったと思う。
でも中学校ぐらいだったかな。
見たんだけどその最終回とんねるずさんが何曲か歌ってたんだ。
「一気!」とか多分「青年の主張」と。
俺それを見た時にすっごい楽しそうに画面の中でみんながワ〜ッてやってたのを見た時に…一番最初に思ったきっかけというか。
やっぱ憧れたしとんねるずさんに。
なおかつ歌でもカッコよくて何かすごかったんだよね。
要するにテレビなんですねやっぱり設楽さんが…。
俺の情報はもう…。
音楽情報源もそうだし。
俺の情報はもうテレビ。
だって走って帰ったよテレビ見たくて。
学校から?うん。
5時?5時。
「夕やけニャンニャン」。
僕もそう僕もそう。
田舎だと音楽鳴るからさ。
・「青年よ青年よ」・「思うままにいざ進め!」テレビへの憧れに胸を熱くしながらも高校卒業後の進路に迷っていました。
夢より現実を取るべきじゃないのか。
俺ね2人に声かけてたの。
高校を出る時「お笑い一緒にやらない?」って。
マジですか。
俺それをもう記憶の中から消してたんだと思うんだけど後に後で言われて2人に言ってんだよね。
お笑いってすごいやってみたいって思ったけど俺なんか無理だろうなと思って。
もっとなる人ってすごい全国でも超面白い人が集まってきてテレビ出たりするんだろうなと思って。
…で一回もう諦めて。
芸人を諦めなんと駅員に。
入社のアンケートに書いた目標は「楽しく毎日を過ごす」。
しかし勤務先の西武池袋線小手指駅で来る日も来る日もプラットホームに立つ日々。
すぐに息苦しさを感じます。
就職してからも俺そこで多分「これ一生やんのかな」みたいな。
もうだからそのぐらいの時期って本当に一回熱くなるというか「俺の人生」みたいな「マジで考えなきゃいけない」というか。
「あれこのままなの?」みたいな「一生これ?」みたいな時がやって来て。
文字どおり…そうそれ考えた。
それは物理的な問題ですよね。
西武池袋線だったから。
このままで本当にいいのか?迷う設楽の背中を押してくれる歌がありました。
やっぱ1819で何かちょっと熱くなるというか。

 

 

 

 


ブルーハーツの曲とかがガンガン来る訳ですよ。
アップかましてくるんです。
未来は…。
そうもうもう。
「いいのかこれで」みたいな。
俺ちょっと意外です。
設楽さんがそういう…。
ご自分でも言ってたけどすごく熱い…。
数少ないそういう熱い時期。
でもさみんなそれぞれ何歳か何歳かのポイントポイントで来てない?ちょっとだけでも。
あると思う。
これマジで考えないとだっていうポイントって。
ブルーハーツに背中を押された設楽。
僅か半年で仕事を辞めます。
そして…。
19歳設楽の人生が走り始めた瞬間でした。
中学高校と思春期を迎えた直太朗。
音楽が生活の一部になっていた家庭環境に次第に嫌気がさし逃げるようにサッカーに熱中します。
家に帰るでしょ。
ミュージシャンの人たちがよくうちにたむろされてるんですよ。
玉置さんが今日中野サンプラザであったと。
うちの母親はNHKホールであったとかなると大体ライブの日って決まってるから。
そうすると「打ち上げどこでやる?」っつって「森山家でやろう」って言っていろんなミュージシャンがもう一つの誰か一人のコンサートじゃなくてもういろんなとこからちょうどよかったのかな集まる場所として。
良子ママが呼ぶ訳だ。
良子ママが呼んで。
僕が高校とかの時代はバ〜ッて下下りていくともう多分当時で言う50歳前後の大人たちが…ハッハッハッハッ!すげえな。
でもさすがにそこは僕は姉と2人で…ずっと見てました。
すごいなっていう。
みんなでそれでそうすると「直太朗ちょっと」っつって…そういう事をさせられるんですよ。
つらいじゃないですかだって。
本物の人たちの前で本気で歌うって。
やっぱ絶対に避けて通りたいしそこは。
すごい。
だからちょっと英才教育というかスパルタ教育というか。
そうなんですよ。
ちょっとそこで始まってたんだね。
…と同時にトラウマでもあるんです。
あ〜それが?音楽に強い抵抗を感じるようになった直太朗。
しかしふだんから家に来ていたある人物の歌をテレビで見た時その気持ちは打ち砕かれます。
もうガツンと頭をね…ガ〜ンと何かひっぱたかれたような感じ。
「音楽ってこんなにもう言葉とかそういうんじゃなくてもう放心…何もない無。
こんな感じになるんだ」みたいな。
高校の時にガツンと来たの?これ高校でした。
なるほど。
だからもう受け止めるちょっと土壌が出来上がってたのかな。
そう。
だから僕にとってはもうすごく安直な表現するんですけど…ずっとヒーロー。
音楽を拒絶しながらも音楽の力に打ちのめされた直太朗。
・「愛の日の永遠を」・「誓ったあのとき」運命は彼を更に音楽の道へ導いていきます。
サッカー部の後輩だった御徒町凧が「一緒に曲を作ろう」と誘ってきました。
デビュー後も作詞家として曲を共作する事になる御徒町との出会い。
大学生となった直太朗の運命の歯車が動き出します。
御徒町が文化祭でのど自慢大会みたいなので歌いたいと。
でもみんなJ−POPそのころで言うドリカムさんだったりチャゲアスさんみたいなのを歌う中で「僕は自作の歌でいきたいんだよね」って言われて「直太朗一緒に作んない?」って言われて。
その作業が楽しかったから。
あ〜なるほどね。
どういう歌作ったの?それは。
「君色スイートピー」随分ポップな。
すげえダセえ曲なんですけど。
曲作りの魅力に気付いた直太朗。
そんな時ある歌に強烈な啓示を受けます。
友部正人の「こわれてしまった一日」。
詩人としても活躍するフォークシンガーの言葉の強さに憧れたのです。
この曲を聴いた時にちょっとパニックが起こって。
要するに歌唱力とかシンガーっていう音楽の概念だったものがライティングっていうところにこの音楽としての機微を感じてまたその歌詞の面。
その時同じくして御徒町ことばの人間と出会えたっていうのはここが僕の割とそういう意味ではターニングポイントだったのかなって今考えると思いますね。
「自分も人の心を動かす言葉を音楽で伝えたい」。
「俺は歌手になる」。
そう決意しストリートミュージシャンとして歌を届け始めます。
19歳直太朗の人生も走り始めたのです。
僅か半年で仕事を辞め笑いの道へ進む事を決意した設楽。
しかし現実は過酷でした。
カラオケや配達業などアルバイトで食いつなぐ日々。
そんな時救ってくれたのが渡辺正行。
当時付き人を探していて設楽に声をかけたのです。
リーダーって若手がやる場所がないからって言って司会やってそういう場を提供してて若手育成とかすごい本当はやってる人なんだけどただねすごい…じゃ駄目じゃん。
この話は何ですか?これ。
何ですか?僕どうしたらいいんですかね。
でも本当にそういう意味では渡辺正行さんには感謝してて。
芸能界の端っこに加えてもらった設楽。
付き人をしながら相方を探します。
そして二十歳の時運命の出会いが待っていました。
芸人仲間に紹介され出会います。
設楽はすぐに日村の才能にほれ込みコンビ結成を持ち掛けました。
本当の最初に最初まねごとみたいな本当数行のネタみたいなものをちょっと書いていった事があったのね。
何かの時にちょっと出して読んでもらったんだけどそしたら…その読んでくれただけなのに。
ぶっちゃけその感じがこの人すげえなって思ったのがガチッとなった感じはあった。
運命の出会いがそこで。
でも本当そんな感じかも今思えば。
俺と日村さん最初に出会った日日村さん実家だったから俺1人暮らししてたから俺んちに泊まりに来たの。
「もう寝よう」っつって電気パシッて消してしたらパチンって日村さんがつけてこうやってムクッて立ってたの。
もう寝ようとしてたのに。
日村さんが…パチンって電気消したの。
ダセえ。
すごい俺そういうのが超嫌いだったの。
熱い…何かそういうのが。
俺もうすごい冷めてたから当時。
運命に導かれ出会った2人。
バナナマンの誕生です。
当時の記憶を呼び覚ますのは初ライブのオープニングで使ったこの曲。
自分たちの中で一番かっこいいし自分たちが一番行くぞっていう時に使いたかったんだと思うんだけど。
あ〜それじゃあ今から出発すっか!あ〜よろしく!結成から1年後初めてのライブにもかかわらず客は満員。
バナナマンは順調なスタートを切ります。
更に同じ年憧れだったテレビにも初めて出演。
それじゃああとどのぐらいの命なんですか?まあはっきりした事は言えませんけども…。
2年ですか?2か月?いやこの幅ぐらいです。
基準が分かんないんですけど。
かなり短いって事ですね。
それでは最後に言い残して下さい。
え〜メロンパン!はい行ってらっしゃい!うわ〜っ!そこで出来たネタでテレビも最初出るしだから「あれ?何?結構ちょろいじゃん」みたいな感じはあったのちょっと。
ネタをやりだして1年目にライブやるんだけどその1年間っていうのは結構ライブ出てもワ〜ッてなったし。
すごいっすね。
そこから割と調子いいんだよねザ〜ッと。
日村さんはやっぱ先輩1個上だしちょっともうやってたから引っ張ってこうっていう気持ちがすごい強かったんだと思うんだけど。
何か俺は俺ででも全く根拠もないし何にもないのに自信だけはあって。
そこのマウントの取り合いみたいな。
そこはすごいあったと思う。
俺は俺であったし日村さんは日村さんであったし。
日村さんもやっぱプライドも高いし。
そういうやり合いはあったんだけど。
音楽の道を志した直太朗はストリートで歌い始めます。
公園や商店街などで歌いデビューを目指していました。
当時の活動名は直太朗。
森山の姓は封印し音楽そのもので勝負したいととがった若さがあふれていました。
僕実は自分の中で多分当時はすごくとがっていたというか人間関係もうまくいかない部分もあったし何かえたいの知れない自信のようなものみたいなのがあったから。
ハハハハッメチャクチャじゃん。
それでも徐々に名が知られていき2002年ついにデビューのチャンスをつかみます。
・「闇夜の帳あなたに捧げる」華々しいデビューを飾ろうと5年分の思いを込めて発表したデビュー曲。
しかし売り上げは僅か600枚でした。
こんなに…。
メジャーデビューってもっと華々しいものだと思ってた。
もっともっと夢のあるものだと思ってたっていうのが第一印象でしたね。
もう先がもう見えないっていう。
厳しい現実に打ちのめされた時同じギタースタイルのあのカリスマの曲が心にしみこみます。
自分の曲をやりながらもさそのころに井上陽水さんをどういう気持ちで聴いてるの?そういう時って。
憧れですよねもうね。
そういうふうになってくって感じなんだ。
陽水さんはもちろん言葉であり歌唱力でありでも何て言うんですかたたずまいっていう。
全くそういう土臭さとかそういうものからその当時はすごくかけ離れた人だったからそのギャップ間があればあるほど強く憧れてたんじゃないですかねきっとね。
だからその時期もうしこたまもうこの曲もそうですし聴いてましたね。
「九段」っていうアルバムなんですけど。
・「長い坂の絵のフレーム」我々を番号で呼ぶな〜!そうだ〜!デビュー後バナナマンがこだわったのは作り込まれたコントでした。
「死」をテーマにしたバイオレンス物もありました。
「警察は駄目」。
待って!無責任!お前無責任!待ってごめんねって!待って!
(通話が切れる音)おめえ家いんじゃねえかよ!待って!待って!待って!
(銃声)
(笑い)バナナマンのコントはクオリティーの高さで評価を受けます。
自信を深めた設楽。
しかし壁が立ちはだかります。
憧れていたテレビ。
それは「ボキャブラ天国」の大ブームが原因でした。
はい生まれた!えっどっち?男の子ですか!いいな〜!ハハハハハッ。
ドコモですか?こっちか!30点!コントにこだわっていたバナナマン。
「ショートネタなんて邪道だ!」。
とがった気持ちで抵抗し「ボキャブラ天国」には出ませんでした。
しかし爆笑問題やネプチューンなど世代の近い芸人が次々とブレークしていきます。
もう先輩とか世代的にはちょっと上の先輩たちがみんなこう出てってライブなんかでいわゆる感覚としてはずっとみんなで横に座ってた人がどんどん呼ばれて行っちゃうみたいな。
…でもう本当当時「ボキャブラ」出てなかったら芸人じゃないみたいな感じで普通の細かいライブとかだとネタやっててももうお客さんが…。
反応がもう。
反応がもう全然違うの。
もう俺らの時になると一番前の目の前の女の子とかがジュースとかこうやって舞台に置いてもう見てないの俺らの。
話しながら。
だから「もうそんなところでできないよ」みたいになって。
そういうとこはあったかもしれない。
卑屈な部分というか「もうあのライブ無理だな」みたいな。
単独ライブみたいな自分たちのソロでやってるものはお客さんが満杯だったの。
そこら辺から。
「俺らテレビに出たくてこういうのをやり始めてんのにテレビじゃないじゃん」じゃないけど何かカッコつけてるというかプライドというか。
ブームから置いていかれた2人が心のよりどころにしたのはコント。
コントによる全国ツアーも行いました。
苦しかった当時を呼び覚ますのはライブでかけていたこの曲。
・「冬のリヴィエラ男って奴は」・「港を出てゆく船のようだね」・「哀しければ哀しいほど」・「黙りこむもんだね」車で回ってその道中も爆音でかけてたの。
へえ〜!「冬のリヴィエラ」を。
だからすっごい思い出深い。
これ聴くとあのころの事すっごい思い出す。
俺らみたいな芸風って大阪で受け入れられないって昔からよく言われてて。
そこでも大阪は飛ばす訳。
えっ大阪しなかったんですか?大阪やんなかった。
もうだから東北地方はやって東京もやるんだけど名古屋までやってそのあと広島行って九州やるみたいな。
あからさまですね。
あからさま。
だって受けないって言われてたしもうどうせ受け入れられないだろうなと思って。
コントへの自信にすがりながらテレビに出られない不安にさいなまれる日々。
設楽は何がしたかったのか分からなくなっていました。
・「よろしく伝えてくれよ」・「今ならホテルで寝ているはずさ」・「泣いたら」・「窓辺のラジオをつけて」・「陽気な唄でも」・「聞かせてやれよ」・「アメリカの貨物船が桟橋で待ってるよ」
(2人)オ〜ッ!頑張って下さい。
デビューはしたものの全く振るわずどん底に陥った直太朗。
遅咲きの26歳でのデビュー。
「もう後がない!次で勝負を懸けよう」と心に決めます。
直太朗はギター1本持って日本中営業しに回ろうと思い立ちます。
みたいなものをもう流しですよだからそこは。
かけてくれっていうので行くって事?皆さんがフロアで編成局みたいなところに行って「すいませんお仕事中…」。
「私森山直太朗と申しましてかくかくしかじか」っつって「今度こういう曲を出すので是非もし何か隙間がありましたら入れて下さい」っつって「さくら」を歌って。
それを桜前線よりもちょっと先に各地方のコミュニティーFMとか。
へえ〜そんなのやってたの。
やって。
その時って必ず「さくら」をかけてくれるんですけどもそれだけで一回だけじゃないですかかけるのは。
だから弾き語りでも歌わせてもらうんですよ。
2回。
2回。
その作戦をずっととってたんです僕。
とにかくもうこすろうと思って。
「さくら」を。
そう。
自分でこすってやれと思って。
プライドも見えも捨てた直太朗。
桜前線に合わせて九州から北海道まで北上しながら各地を地道に回ります。
すると「さくら」のストレートなメッセージは徐々に人々の心を捉え始めます。
そして奇跡が起きました。
「さくら」は発売から2か月かけてついにチャート1位を獲得。
そして直太朗は「紅白歌合戦」にも初めて出場します。

(拍手)直太朗の執念は「さくら」で大輪の花を咲かせたのです。
次回直太朗はどん底をはいずり回ります。
一方売れっ子芸人となった設楽に襲いかかる恐怖。
2人を待ち受ける運命とは?2016/12/08(木) 22:00〜22:45
NHKEテレ1大阪
ミュージック・ポートレイト「設楽統×森山直太朗 第1夜」[字]

バナナマン設楽統と森山直太朗が、それぞれ人生の節目で心に響いた「大切な音楽10曲」をテーマに語り合う。誕生日が一緒で同世代。仲の良い二人の本音が語られる。

詳細情報
番組内容
バナナマン設楽統と森山直太朗が、それぞれ人生の節目で心に響いた「大切な音楽10曲」をテーマに語り合う。▽デビュー後、「テレビ向きではない」と言われ続けた苦闘の日々。設楽を鼓舞した歌とは?▽代表曲「さくら」大ヒットの裏にあった知られざる苦悩の物語とは?▽誕生日が一緒で同世代。プライベートでも仲の良い二人だからこそ「本音」が語られる。
出演者
【出演】設楽統,森山直太朗,【語り】ヒロ寺平