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書き起こし 日本放送文化大賞準グランプリ WATCH〜被爆米兵〜 2016.12.28

 

 

落とすときはお湯でスルンと簡単オフすることができちゃうの。
新しくなったデジャビュの塗るつけまつげは…。
今日のmonoモノはここまで!
(3人)Seeyou!
広島の被爆者が描いた1枚の絵
柱に両手をくくられて座り込む鼻の高い男の姿
原爆で焼け野原になった広島
連行される2人の男がいます
アメリカの兵士です
見せしめの磔
死体の描写
広島で被爆した兵士たちを広島の被爆者が書き残しました

 

 

 

 


(久保崎さん)あっこらになるんじゃろ。
ドームのすぐそばじゃ。
記憶は今も鮮やかです
(久保崎さん)若い兵隊。
それこそ二十歳前後かなほとんど全裸よ。
ほいで髪はまぁ金髪じゃったけど…。
ものすごここらも被爆で…。
サイダー瓶じゃろう白かったけぇね。
投げたねぇ。
狙いは顔を狙うわいね。
人間じゃけぇね。
悪ぃことしたよの。
年間30万人を超す外国人が訪れる原爆資料館
被爆者の記述
その中のたった一行
知られざる被爆米兵の最期を追いました
初めて広島にやって来たアメリカ人の…
向かったのは平和公園にある追悼平和祈念館
1万8000人の原爆犠牲者の遺影が納められています
原爆で死んだ伯父…
なぜ伯父はあの日広島にいたのか
太平洋戦争末期アメリカは広島小倉新潟長崎のいずれかに原爆を投下する命令を下します
第1目標に選ばれたのは広島
唯一連合国軍の捕虜収容所がなく捕虜もいないと思われたからです
しかしその決定の直前米軍は広島の隣の軍港呉を標的にしていました
何十機ものBー24
日本海軍は激しい空襲の直撃を受けながら必死に応戦しました
5機の米軍機に命中します
機体は各地に墜落
搭乗員はパラシュートで脱出し捕虜となって広島市内へ連行されました
こうしているはずのなかった捕虜が広島に集められたのです
捕虜はいったん軍の施設へ収容されました
墜落の時のケガか重傷を負った者も…
目撃した人は無邪気な学生のように見えたといいます
そして…
1発の原子爆弾に焦土と化した広島
米兵捕虜12人も閃光を浴びました
ほぼ全員が即死でした
ノーマン・ブリセットさん
あの一瞬を生き延びました
死亡したのは13日後です
伯父の最期をたどる旅
スーザンさんを迎えたのが被爆者の森重昭さんです
当時通っていた小学校の近くでアメリカ兵が死んだことを知り調査を続けています
アメリカにいる遺族を捜し出し手紙で連絡
被爆死した米兵の遺族はどの人もね日本人同様の悲しみを持っていた。
だからそれだけでも僕はよかったの。
そして初めてアメリカから広島にやって来た遺族
案内したのは捕虜が収容された場所です
ここが中国憲兵隊司令部の跡…。
慰霊の銘板は1998年に森さんが作りました
日本人の犠牲者と同じように弔いたいとの思いからです
(カメラのシャッター音)
広島への旅に同行したのが…
遺族や関係者の証言を集めてドキュメンタリーを作ろうとしています
一行は原爆資料館へ
そこで一枚の絵を目にします
被爆者が記憶を基に書いた絵
連行されるアメリカ兵です
被爆した2人
このうちの1人が…
2人を待ち受けていた運命
松本恵美乃さんです
これが一番最近…。
父親は広島憲兵隊の少尉だった福井信一さん
信一さんは大学時代をアメリカで過ごしました
その父親から聞いたこと
(松本さん)どこからか…。
でそん時に…。
…っつって。
被爆したノーマンさんと原爆投下後に捕虜となったアメリカ兵との面会
それを許可したのも福井少尉でした
ノーマンさんが連行された先は陸軍病院
ここで治療を受けます
放射能の影響か嘔吐を繰り返し「殺してくれ」と頼んだといいます
英語で書かれた…
原爆投下から13日後の8月19日にノーマンさんは亡くなりました
その死を遺族はどう受け止めたのか
私たちはアメリカへ向かいました
マサチューセッツ州郊外の老人ホームです
(ディレクター)Hi.Nicetomeetyou.
コニーさん82歳
ノーマンさんの妹です
部屋には兄の写真がありました
あの頃のままです
5人きょうだいでした
新聞配達のアルバイト代を小遣いにくれる面倒見のいい長男でした
海軍に憧れていたノーマンさん
徴兵を待たずに志願しました
…を受けます
それから間もなく兄の死を知りました
原爆投下の後に広島で捕虜になり瀕死の兄と面会した兵士が自宅まで伝えに来てくれました
「いっそすぐに死ねたなら…」
誰よりも兄を慕った妹の言葉です
(スーザンさん)Hello.
(ディレクター)Hi,hello.
広島を訪れたスーザンさんです
Look.
(ディレクター)ハハッThankyou.
ノーマンさんのお墓に案内してくれました
両親と共に眠っています
ふるさとに戻ってきた遺骨
そして…もう1つの墓標
色あせた写真が伝えます
「米軍兵士之墓」
原爆で死んだ伯父の最期を知りたい
スーザンさんが訪ねたかった場所がありました
(森さん)競輪場の前辺りだからこの辺り。
あそこに植木がありますけどもあの辺りじゃないかと思います。
森さんから初めて知らされた事実
1945年9月広島の憲兵が撮影した墓標の写真です
陸軍病院に収容されていたノーマンさんともう1人の捕虜
同じ日に亡くなったとされています
広島の憲兵は混乱のさなか2人を荼毘に付し十字架の墓標を立てていました
日本人でも原爆が落ちた後火葬をしてもらう人は少なかったのに高橋太郎という宇品憲兵隊の隊長がこの2人を火葬にしてそしてこのお墓を建てるようにという命令を下しました。
2人の米兵は大変苦しみました13日間でも生き延びてそして亡くなったんですが彼らの遺骨はそれぞれの人の所に送り返されております。
遺族の元に遺骨が返ったということは良しとすべきかなと。
まぁ…姪のスーザンさんにすれば大変悲しい事実ですけれども日本人の良心はそこで生きていたということを言いたいと思います。
♪〜
ノーマンさんのふるさとにも碑が建てられていました
広島のキノコ雲
原爆で命を落としたノーマンさんをたたえる碑です
戦争で亡くなった軍人を追悼する日
ノーマンさんの妹と姪も参列しました
姪のスーザンさんはこれまで多くを教えられることはありませんでした
肉親の記憶をどう受け継ぐのか
藤があったといいます
家にあったのは新聞記事2枚だけ
スーザンさんは夫と共に海軍へ情報の開示を求め資料を集めました
子や孫に伝えていこうとまとめた冊子
それが思わぬ広がりを見せました
3年前たまたまその冊子を目にしたのがバリー・フレシェットさんです
バリーさんの大伯父エドワードさんは原爆で死んだノーマンさんの親友でした
記録を残す必要を感じたといいます
2人は10歳からの親友で同じ海軍に入隊しました
原爆投下の2カ月前沖縄に配備された空母で互いの無事を誓ったのが最後でした
原爆によって死んだ親友
つらい思い出をかみしめるように語りました
ノーマンさんを知る世代の思いをどう受け止めるのか
伝え残すバトンはバリーさんに託されました
広島の焼け野原に立つ2つの墓標
もう1人のアメリカ兵のことを知りたい
私たちはその甥を見つけました
バリーさんと共に取材に向かいます
ケンタッキー州
牧師のラルフさんと会うことができました
(ディレクター)I’mSachikofromHiroshima.
(ラルフさん)Nicetomeetyou.We’resogladforyouhere.
原爆で亡くなったのは父親の兄
その思いを受け継いでほしいと…
伯父は陸軍の兵士でした
乗り込んだ爆撃機は…
「孤独な貴婦人」です
この機と運命を共にします
搭乗員の1人が病気になりラルフさんは代わりを志願しました
役割は射撃手
しかしロンサムレディー号は撃墜されます
ラルフさんは…
家族には情報がほとんどもたらされませんでした
バリーさんが見せたもの…
原爆で死んだ伯父の最期が伝えられます
バリーさんは広島で見たことそして集めた資料のことを伝えます
ラルフさんにとっては初めて聞くことばかりです
そしてあの墓標の事実
バリーさんのドキュメンタリーは広がりを見せていきます
調べて事実を確認しそして真実に迫る
その積み重ねです
23歳で命を絶たれたラルフさん
その原因が原爆だったことを政府から知らされるまでには相当な時間を要しました
原爆投下から40年後の1985年に当時のレーガン大統領の名で記された文書が残っていました
原爆で死亡したアメリカ兵たちの名前
そして…
しかし遺族が向き合ってきた歳月は1つの文章で完結するほど簡単なものではありませんでした
(通訳)それについてのコメントはないです。
(ディレクター)難しいですか?その意見っていうのは。
時は止まったままです
カメラの前でもうこれ以上心の内を語ることはありませんでした
ドキュメンタリーの編集が始まっていました
バリーさんは広告会社に勤めるサラリーマンです
オフィスの一角を借りて編集を進めます
初めてのドキュメンタリー制作です
バリーさんが再び広島にやって来ました
今度は遺族のラルフさんが一緒です
会いたかった人がいます
87歳の近藤武由さん
近藤さんは戦艦「榛名」で高角砲の弾を込める任務に就いていました
呉湾の榛名を標的にしたロンサムレディー号
しかしその榛名から砲弾を浴び…
撃ち落とした者と撃ち落とされた者の遺族
向き合うまでに70年を要しました
(通訳)戦争は本当に恐ろしいことです。
(近藤さん)はい戦争はいかんですね。
あの…日本には昔から「昨日の敵は今日の友」ということで個人的な憎しみは要は全然ないんです。
ラルフさんはこう語りかけます
(近藤さん)そうですな。
Yes.Myfriend.
ロンサムレディー号が墜落した場所を訪ねます
(拍手)
平和の碑
平和を願う住民の思いです
墜落現場へ案内されました
そこは林になっていました
(男性)あの辺がちょうど機体の中心ぐらいじゃったように記憶しとるのです。
静かな集落は大騒ぎになりました
機体の残骸は金属の山
貴重なものでした
鍋や農具にして使ったといいます
当時の生々しい話に耳を傾けます
伯父はこの地で何を感じていたのか
初めて目にする風景に重なるものがあります
(児童)ハローウェルカムトゥー伊陸。
地元の歴史を勉強してきた小学生です
思いがけないプレゼントです
(拍手)
(ディレクター)何をあげたんですか?
(通訳)あぁこれが部品なの?
歴史を学んだ子どもからの贈り物
またひとつ伯父が近くなりました
70年目の平和記念式典です
アメリカ兵の遺族として初めて参列します
(鐘の音)・黙とう・
(平和の鐘の音)
鎮魂と祈りと願いが折り重なるヒロシマです
ヒロシマを知るたびに膨らむ思いがあります
死者の霊を鎮めるヒロシマの祈り
ラルフさんも思いをつづります
捕虜になり原爆に焼かれた23歳の伯父
それをどう伝えどう語り継ぐか…
3年をかけて進めてきたドキュメンタリーの制作
完成披露の日がやって来ました
タイトルは『灯籠流し』
ドキュメンタリー『灯籠流し』のお披露目の日
上映会には200人以上が集まりました
(拍手)
(スクリーン:松井市長)1945年8月6日午前8時15分その全てが一発の原子爆弾で破壊されました。

(スクリーン)
ヒロシマそこに流れた70年の歳月
初めての出会いがありました
70年前何があったのかその記憶に耳を傾けます
向き合えば重なる思いがありました
(スクリーン:ラルフさん)Thankyou.
ドキュメンタリー『灯籠流し』が描くヒロシマとアメリカです
(拍手と歓声)
(拍手)
(拍手と歓声)
(拍手)
1発の原子爆弾がもたらしたもの
キノコ雲の下にいた人間のこと
そしてバリーさんが伝えたいこと
平和公園を訪れた主要7カ国の外交トップ
アメリカ国務長官は初めての訪問です

碑に納められている名簿に記載された原爆死没者は去年29万人を超えました
名簿には原爆に焼かれて亡くなったアメリカ兵12人の名前もあります
原爆を落とした国と落とされた国
そのはざまで非業の最期を遂げた若き兵士たちがいました
その死を悼み灯籠を川に流します
ラルフさんが灯籠に書いたのはアメリカ兵12人の名前
70年を経てようやく知った真実を語り継いでいく
忘れてはならない記憶がここにあります
2016/12/28(水) 10:30〜11:25
読売テレビ1
日本放送文化大賞準グランプリ WATCH〜被爆米兵〜[字]

原爆で亡くなった12人の米兵。遺族の思いは?日本人被爆者の思いは?被爆米兵のドキュメンタリー映画を作る米国人の思いは?知られざる被爆米兵の真実を探る。

詳細情報
出演者
【ナレーター】
湯浅真由美
【出演】
森重昭
バリー・フレシェット
番組内容
2016年2月、アメリカで被爆米兵のドキュメンタリー映画が上映された。制作したのは会社員のバリーさん。3年がかりで遺族や関係者の証言を集めた。自国の兵器の犠牲になった米兵の最期とは…。そして焼け野原に建てられた被爆米兵の墓標に驚く遺族。広島で被爆米兵を調べてきた被爆者の涙。アメリカ政府が38年間公式に認めなかった被爆米兵の事実を、アメリカ国民はどう受け止めるのか。
おしらせ
※広島テレビ、2016年5月1日放送分です。